第8話 二つの死臭

 あさきはいろはの問いに、ゆっくりと答えた。

「自分でも……よくわからない。でも、いろはがそう言うならそうなんでしょうね。私、ずっと自分のことが嫌いで……どうしてこんな汚らわしい人間に生まれてしまったんだろうって、よく考えるの」

あさきはそう言い切ってしまうと、少しホッとしたようだった。

「汚らわしい? どうしてそんな風に思うの」

いろははまた質問する。

「だって……あの人に振られてから、もう下心をもって人に触れ合うのはやめにしようと決めたのに、結局またいろはに自分の欲求を押し付けてしまってる。自分の欲をコントロールできないの。だから、私、太ってるし、部屋も汚い……」

あさきは嘲笑するように言った。いろはの涙があさきの顔の上に落ちる。

「それなら、私だって汚らわしい人間だよ。ずっと、あさきちゃんに触れたいと思ってるし。それって悪いことなの」

いろはは必死だった。あさきの考えを変えたい一心だった。

「——悪くない」

「それなら、あさきちゃんだって悪くない。ね?」

あさきは納得いかない様子だった。

「でも……私はあんたみたいに綺麗で純粋な奴じゃないから」

いろははそれを否定する。

「ううん、私だって純粋じゃない。実を言うと、私もあさきちゃんに興味をもったきっかけは、ただ死臭のいい匂いを嗅ぎたいっていうことだったの。酷いでしょう? それに比べたら、あさきちゃんはずっと綺麗だよ」

「そう、なの……」

あさきは潤んだ目でいろはを見上げた。いろははあさきの前髪を巡ってすべすべしたおでこを撫でた。

「そうだよ」

いろはは強く答えた。

「……私から死臭がしなくなっても、私のことが好き?」

「もちろん」

いろははあさきを安心させるように答えた。あさきはゆっくりと瞬きをしている。

「裸の私が好き?」

いろはは少し面食らったが、すかさず答える。

「……好き、だよ」

いろはがそう言ってもあさきはしばらく黙っているので、あさきは不安になった。

「ただ、そういう目的だけで好いてるわけじゃないよ、もちろん。どうしてそんなこと聞くの?」

あさきは消え入りそうな声で言った。

「……私とエッチするの嫌だったら、かわいそうだなと思って」

いろはは慌ててフォローする。

「そんなわけないじゃん。嬉しいよ、あさきちゃんのこと喜ばせられるの……」

あさきは少し元気を取り戻したらしかった。

「いろは、最初から同性愛者じゃなさそうだったから。それに、私の体型とか、好みじゃないかもしれないし……でも、あんなにいっぱいしたんだものね。さすがに、あんたも嫌がってなかったのね」

いろはは顔が熱くなるのを抑えられなくなってきた。

「それと、いろははいつも私の匂い嗅いでたけど、あれは死臭を嗅いでたの?」

「バレてたんだ……」

「バレるわよ。いつも私の首のところで深呼吸して……」

いろはは内心で叫んでいた。自分の卑しい行いは結局見抜かれていたのである。あさきはそんないろはの様子を見てわずかに微笑んだ。

「体臭を嗅がれてるかと思って、緊張した」

「体臭……早くあさきちゃんの死臭を治して、本当のあさきちゃんの匂いを嗅いでみたい」

「……ちょっと気持ち悪いわ」

「えっ」

二人は笑い合った。しかし、いろはの鼻はあさきの強い死臭を捉え続けていた。

「もう死にたいって思うの、やめてくれる?」

「……わかんない。けど、いろはがいれば大丈夫」

あさきは安らかな笑みを浮かべていた。いろはは少し照れくさいような気持ちになった。

「ほんと?」

「うん。いろはが私のこと好きでいてくれるなら」

いろははいよいよ恥ずかしくなって、しかし勇気を振り絞って言ってみた。

「私は、あさきちゃんのこと……その、愛してるよ」

キスをすると、あさきはすぐ眠ってしまった。


 それからしばらく経ったある日、いろはは参考書を買いにあの本屋に行った。他の本屋でもよかったのだが、たまたま場所の都合がよかったのだ。あの店員以外の店員もいるだろうという予想もあった。

 パラパラと数冊の参考書を眺めていると、後ろから店員に話しかけられた。

「何かお探しですか?」

「あ、蘭ちゃん……」

黒髪の美少女は微笑んでいた。いろはは一瞬怯んだが、あさきがいるわけではないので努めて普通に接した。

「ああ、英語の資格をとりたくて……あの、この前おすすめしてくれた本、面白かったよ」

「それはよかった」

気まずい時間が流れていた。いろはは逃げたくて手元の参考書に目を落とす。

「渡したいものがあって」

唐突に蘭は言った。

「はい」

「え、ああ、ありがと……」

それは白い封筒だった。いろはは何となく気味が悪くなって、参考書を閉じて足早に立ち去った。

 家に帰ってから、いろはは封筒を開けてみた。入っていたのは一枚のメモと写真だった。


 あさきと私は十一月二十七日にセックスしました

 あさきは私の指で何度もイッてました

 これがその証拠写真です

 あさきとお幸せに


写真には、裸で見知らぬベッドに横たわるあさきが写っていた。画角からして蘭が盗撮したものであるのは明らかだった。いろはは頭に血が昇って沸騰しそうになるのを感じ、すぐさま今度は逆に全身の血の気がサーッと引いていくのを感じた。

「な、何これ……」

いろはの手は激しく痙攣していた。蘭からこれを渡された事実を、あさきに伝えるべきか。あさきは自分を裏切ったのだろうか。あまりの喪失感にクラクラして、いろははその場にしゃがみ込む。どうすれば良いかなどわからなかった。いろははひとまず、この問題には目を瞑ることにして、記憶から必死に今見たものを消去しようとした。しかしその試みは上手くいかず、いろはは悶々としたまま一夜を明かした。


 翌朝いろはが駅に着くと、そこにはいつもと変わらぬ様子のあさきがいた。

「おはよ」

その顔を見て耐えきれず、いろはは切り出した。

「……蘭ちゃんと、会ったの」

いろはがそう言うと、あさきは青白い顔になって聞き返す。

「最近は会ってないけど。どうして……?」

いろははどうにかこうにか言葉を続けた。

「昨日、本屋に行ってたまたま蘭ちゃんと会ったの。そしてらこれを渡された」

いろははあのメモと写真をあさきに手渡す。あさきは慌ててそれを受け取ると、それを凝視し始めた。そして、

「う、嘘でしょ、こんなもの……」

あさきは急いで口元に手を当てる。そして、あさきはその場に嘔吐してしまった。倒れ込むあさきを見て、いろはは無性に怒りが込み上げてきた。裏切ったのはそちらなのに、なぜそのような反応をするのか。いろはには理解できなかったのだ。

「これ、ほんとうなの、あさきちゃん。答えて」

あさきは肩を震わせて呆然としていた。そのうちにわらわらと人が集まってきて、騒ぎを聞きつけた駅員があさきを救護室に連れて行った。いろはは激烈な怒りに拳を握りながらも、それについていった。すぐにでもあさきから真実を聞き出したかった。

 付き添いと言って救護室に二人にしてもらったあと、いろははあさきにもう一度尋ねた。

「あれ、何なの。本物なの」

あさきは衰弱した様子で弱々しく答えた。

「……言いたくない」

「言いたくないって、そんなの通用するわけないじゃん」

いろはは低く怒鳴る。あさきは萎縮していた。

「言いたくない言いたくない、だって、無理やりだったの。私だって嫌で嫌で仕方なくて……何度も心の中でいろはに助けを求めて……もう思い出したくない、許して」

いろははそれでも怒りを鎮めることはできなかった。

「無理やりなら、なんで相談してくれるなかったの。隠しておくなんて、やましいことがあるに決まってる」

「そんなこと……」

「言い訳しないで」

いろはの怒りはドス黒い怒りだった。自分の所有範囲に入ったと思ったあさきが勝手に自分の目を離れたのが許せない。愛するものに裏切られたことよりも、あさきが自分のものでなくなった悔しさや嫉妬が喉元を突き破って溢れ出しそうだった。

「本当は私より蘭ちゃんが好きなんでしょ」

「そ、そんなわけ」

「あるよね。蘭ちゃん、美人だしスタイルもいいし、明るいし、好きになるのもわかるよ。私は蘭ちゃんの代わりなんでしょ。髪型も背丈も同じくらいだし……蘭ちゃんが手に入らないから、もっと不細工で太ってる私で我慢してるんでしょ!」

あさきは黙っていた。いろははその顔を思わずはたきそうになって、直前で思い止まる。

「なんでそんなこと、言われなきゃならないのよ……私は本当に、いろはのことが好き——」

「好きなら、他の人とセックスなんてしないでしょ」

あさきはぷるぷる震えていた。いろはに怯えているようだった。そして、部屋にはむせ返るほど濃い死臭がどろりと充満し、いろはの肺を何十倍も重くしている。

「こんなことで死にたいと思うの? 私の方がよっぽど死にたいと思ってる! あさきちゃんのバカ! もうずっと蘭ちゃんと一緒にいればいいじゃん!」

いろははその場に座り込んだ。その時、微かに甘い香りを嗅ぎとった。いろはの身体から、薄く、しかし着実に死臭がしていた。十年前、姉が感じていたのと同じことだ。姉も、こんな風に恋人を信頼できなかったのかもしれない。ひとりぼっちだったのかもしれない。いろははますます悔しい気持ちになった。

「なら、死にましょうよ」

あさきは呟いた。

「私はずっと消えたかった。いろはも同じ気持ちになったなら、二人で死にたい」

あさきはベッドから起き上がり、しゃがみ込んでいるいろはの肩に手を置く。

「ごめんね、でも私にはそれしか思いつかない」

いろはは突然振り返り、あさきに抱きつく。いや、抱きつくというより締め殺そうというほどキツくあさきに腕を巻き付けた。

「もう私以外の人と関わらないで」

いろはは言った。

「苦しい」

「誓うまで離さない」

「……わかった。誓わせて」

そのまま二人は、よろよろと救護室を出て行った。


 駅のホームは人がまばらになっていた。二人は手をぎゅっと繋いだまま、電光掲示板を眺める。

「あと十分で急行が来るよ。そしたら死のう」

いろはは呟いた。あさきは静かに頷いた。

 十分間、二人はベンチに座って待っていた。そして、電車がやってきた。

「行くよ」

いろははあさきの手を引いて立ち上がる。そのままホームの端まで歩いて行った。ブォンと物凄い汽笛の音がして、二人は思わず後ずさってしまった。

「……失敗したね」

そう言っていろははあさきの方を見る。あさきは顔を青くして震えていたが、いろははあさきを許そうというつもりにはなれなかった。二人はその後も何度か電車に近づいては、勇気が出ず見送った。一時間以上が経過したころ、どちらともなく今回の挑戦を諦め、駅を出て行った。

「学校サボっちゃったね」

あさきは言った。

「そんなのもうどうでもいいよ」

いろははぶっきらぼうに言うと、近くにあったカラオケボックスにあさきを連れ込んだ。


「あさきちゃん、制服脱いで」

「なんで」

「いいから」

あさきは言われるがまま下着姿になった。いろははそのままあさきに抱きつく。あさきは困惑している様子だった。いろはの鼻を死臭がくすぐり、肺を焼く。いろははあさきの身体を首元から順番に撫でていった。肩、胸、腹、腰と彼女の全貌を捉えていく。初めてあさきの裸を見た時の感覚を、いろはは思い出していた。今でも決して綺麗だとは思えない身体。あさきが普段から気にしているように、贅肉がまとわりついていて、腹は出ている。隙間のない太ももを撫でると、何か犯罪をしているような気分になった。あさきの呼吸は徐々に浅くなる。いろはは、あさきのかわいらしいおさげの髪を少しだけ引っ張った。あさきは苦痛に顔を歪める。サディストの気分だった。

「あさきちゃん、あさきちゃん……どうやって死のうか」

あさきの表情は怯えていた。

「いっそ殺してあげようか」

「怖い、怖い……やっぱり死ぬのなんて無理よ、いろは」

あさきは抵抗した。いろははゆっくりとあさきにキスをした。

「そうだね。でも私、安心できないよ。あさきちゃんがまた、他の人と浮気するんじゃないかって」

「もうしない、もうしないから」

いろははあさきのショーツの中に手を突っ込む。そして蜜壺を探り出すと指をゆっくりと中に入れた。

「ちょっと、こんなところで」

「あさきちゃん、私のこと好き?」

「好きだけどっ……んっ、動かさないで」

いろはは執拗にあさきの中を擦り上げる。緊張して閉じていたあさきの脚がだらしなく開いてくる。あさきの内臓はいろはの指を締め上げ、もっと奥へ奥へと求めてくる。

「気持ちいい?」

あさきは返事をしない。その代わり、あさきの纏っていた死臭がより一層強くなった。

「私とのセックスは死ぬほど嫌なんだ」

いろはは聞こえるか聞こえないかの音量で呟いた。あさきは快感に耐えるのに必死でそのことには気が付かなかったようだった。

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人の死期がわかる私はもうすぐ死にそうな女とつかのまの百合イチャラブを楽しみたい 茅原水脈(かやはらみお) @kayaharamio

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