第7話 死臭の秘密
それから三ヶ月が過ぎた。
いろははあさきに言われるがままあの本屋に行くのを避け、二人で平穏に暮らしていた。互いの家に入り浸り甘い時間に溺れ、学業は疎かになりがちだった。ときには変態性欲の餌食になり、挑戦的な交わりを楽しむこともあった。いろははあさきに魅力を感じる一方、その死臭の治らないことへの心配は相変わらずだった。
ある日の夕飯時、いろはは母親にこんなことを言われた。
「あんた、恋人ができたのよね。なら、話そうかしら……」
いろはは母親には付き合っているのが女性だということは伏せて、恋人ができたことを伝えておいた。特に干渉もせずその様子を見守っていた母親だったが、何か言いたいことがあるらしかった。
「なに?」
「あのね、あなたのお姉ちゃんのことなんだけど」
いろはの心は一瞬の陰りを見せた。両親が二人で姉のことを話す際には姉のことを「うい」と呼んでいるのに対し、いろはに話すときには必ず「あなたのお姉ちゃん」と呼ぶからだ。いろははそれになんとなく疎外感を感じていた。
「お姉ちゃんがどうかしたの?」
「……あなたのお姉ちゃんは、妊娠してたのよ」
「……えっ」
いろはは咄嗟のことに言葉が出なかった。
「亡くなるほんの少し前のことよ。でも、あなたのお姉ちゃんはそのことをずっと隠してて……亡くなる数日前に相手の親御さんから連絡が来てようやく知ったけど、その時にはお姉ちゃんはもう手がつけられないほど気が立っていて——結局、お腹の子もそのまま……」
「そんな……」
「私ね、お姉ちゃんが妊娠して困ったときに、気軽に相談できないような親だったこと、今でも悔やんでる……だからね、いろは。最初からリスクを避けなさいっていうのはそうなんだけど、それ以上に、彼氏と何かトラブルがあったら真っ先に私たちに相談して欲しいの。彼氏だけじゃない、お友だちとでもそうよ。ただ、何か大変なことがあったときに責任を負うのはいつも女側だってこと。自分の身を守るためには、大人を頼って」
母親は今までとは違う切望するような眼差しをしていた。
「う、うん」
いろはは狼狽えつつも頷く。まだ姉に起こった出来事を飲み込めてはいなかった。
その後、いろははとぼとぼと姉の部屋に向かった。姉の部屋はいろはの部屋よりもかなり広いが、両親がその部屋を片付けていろはに明け渡すことはなかった。姉の部屋はいつも誰も立ち入らず、何週間かに一度掃除をするのみだった。
いろははそっとドアノブに手をかけ、姉の部屋に入った。何度換気しても消えない、独特の張り詰めた空気。いろははその空気の重みを掻き分けるようにして奥へと進み、姉のデスクの引き出しを開けた。
「あった」
そこにあったのは姉の日記だ。姉が生きていた頃、部屋に遊びに行ったときにたまたま見つけたが姉に「絶対に見てはダメ」と言われ、その約束を今までずっと素直に守っていた。しかし、今、いろははその約束を破ることにした。おそるおそる、表紙に手をかける。慎重にページをめくっていき、じっくりとその内容を読み込む。大抵の日記は短く一、二行で、学校についての内容が多かった。いろはは姉の考えていたことや感じていたことを少しでも理解したかった。大好きだった姉。その姉が一体どんな苦悩を抱えていたのか、少しでも知りたかった。
「あっ」
ページをめくっていると、突然びっしりと文字の埋められたページが出てきた。
「まさか……」
——いろはが私のことを「いい匂い」と言い始めた。いろはに知られるなんて、なんだかいろはがかわいそうだ。私が今まで薄々死にたいと思っていたこと、誰も気がつかなかったのに。いろはも私と同じようにわかってしまうなんて、かわいそうだ。いろはに急に希死念慮がわかるようになったのか、私の希死念慮が強くなったのかはわからない。まさか自分から匂いがしているなんて思わなかった。いろはは本当にかわいそうだ。私も、死にたがっている人の匂いなんて、気がつきたくなかった——
いろははずっと、姉からした「いい匂い」は姉がもうすぐ死ぬというサインだったのだと思っていた。しかし、それは違った。死臭とは、もうすぐ死ぬ人に特有の匂いではなく、「死にたい」と強く思っている人に特有の匂いだったのだ。
「そんな、お姉ちゃん……」
涙が込み上げていた。姉は死にたかったのだ。誰にも言えない悩みを抱えて、バレないように必死で、でもそれはいつかは打ち明けるしかない爆弾のようなもので……姉は一人で苦しんだのだ。五歳の妹に、そんな苦しみが伝わらないようにして。自分と同じ呪いを抱えた妹の未来を悲観して。他人の「死にたい」という気持ちにいつでもシンパシーを感じていたら、それは自分だって同じような気がしてしまうこともあるだろう。現にいろはは今、姉の気持ちをそのままに感じて、耐え切れないショックと深い悲しみを負っている。
「……あさきちゃん」
それは、いつも死臭を漂わせている人物のことだった。彼女も、姉と同じような苦しみを抱えているのだろうか。彼女を守り抜こうと決意していたいろはは、ある可能性に希望を見出した。死臭がするからといって、死ぬことが確定するわけではないのだ。心を変えることができれば、死の運命を止めることができる。姉の遺した日記をぎゅっと胸に抱いて、姉の遺した想いを決して無駄にはしまいと、いろははあさきを救うために動き出した。
あさきは散歩がてら近所のカフェに向かっていた。どうにも気持ちは晴れないが、一人でいると少しは落ち着くことができた。
あれから、いろはが約束を守って蘭と会わないでいてくれているので、あまり辛い思いはしないですんでいる。それだけでなく、いつもいろははあさきをかわいがってくれるので、傷の回復にはならないまでも痛みを和らげる効果はあった。
日傘もいらない季節で、風は少し肌寒い。カーディガンの裾を握りながら歩いていると、唐突に声をかけられた。
「あさき」
「ら、蘭……」
振り返りもせずにそのまま立ち去ろうとすると、後ろから両手を握られた。
「なにっ、やめて」
「待ってよ、あさき」
蘭は強くあさきの手首を握る。
「なんのつもり」
「様子を見に来ただけだよ」
「あんたになんの権限があるのよ」
あさきが手を振り払おうとしても蘭は動じず、胴体に腕を回してあさきを逃がさまいとした。
「少し太った? 幸せ太り?」
「やめなさい!」
二人が争っていると、突如あさきの携帯が鳴った。あさきは助けを求めるように携帯電話を取り出すが、すぐに蘭に奪われてしまった。
「今は私の話を聞いてよ」
あさきは必死に抵抗したが、蘭の手からは逃れられなかった。
「やめてほしいの?」
蘭はつぶやく。
「ひとつだけ方法があるよ。お願いがあるの。たった一度でいいから。たった一度だけ、私とエッチしてよ。そしたら、もう金輪際関わらないであげる」
「何言ってるの……! そんなの聞くわけないじゃない」
「なら私はあさきの『友だち』をやめない」
あさきは苦悩していた。この女に従うなんてことは絶対にあり得ない。しかし、それでは一生この女の魔の手から逃れられないかもしれない。いろはにもこれ以上迷惑をかけたくなかった。
「……わかった。ただし、約束は絶対よ」
「もちろん。じゃあ早速私の家に来てよ」
あさきは言われるがまま、蘭の家に入り込んだ。
「ここが私の部屋」
蘭の部屋に通されると、むせかえるほど蘭の匂いが充満していた。そのせいで部屋全体の空気が自分に敵意を向けているようで、あさきにとっては心細かった。緊張したあさきが棒立ちになっていると、蘭は手を取ってあさきをベッドに寝かせた。
「で、こっからどうするの? 私、女の子同士でするの初めて」
「……知らない」
顔を覗き込んでくる蘭からあさきは目を背ける。蘭は舐め回すようにじっくりとあさきを観察していた。
「困ったなぁ」
蘭はそう笑うと、あさきのワンピースの下から手を突っ込み、あさきの太ももを撫でた。あさきがなんの反応も示さないので、蘭は今度は服の上からあさきの胸に触れた。それでもあさきは全く無視していた。すると、
「つまんないなぁ、ちゃんとしてよ。あの『友だち』とする時みたいにさ」
「なんで、そんなこと……っ!」
「あはは、図星なんだ。やっぱりあの子と付き合ってたんだ!」
蘭は狂気に満ちた表情で笑っていた。そしてあさきの下着を脱がすと、股の間に顔を埋める。
「何するのっ」
咄嗟にあさきが抵抗すると、蘭はまたもや笑い続ける。
「だって、エッチするんでしょ。あさきも本当は嬉しいんでしょ。もうこんなに濡れてる」
蘭はあさきの陰部をビロビロと舐める。あさきは全身が悍ましさに震えてしまい、目をギュッと瞑った。
「ヒクヒクしてておもしろ〜い」
あさきは自分の身体の中に異物が挿入される感覚に身悶えた。蘭の指は執拗にあさきを刺激し、気持ちの悪い快感を与えてくる。
「あ、声出しちゃって。ココ、気持ちいいでしょ? 私がいつも男の子にシてもらうときには、ココを触ってもらうの……」
「そんな話聞きたくない」
あさきはかろうじて叫ぶ。自分の体温が上がってしまうのさえ汚らわしく感じる。
「なら、もっと聞かせてあげるよ。私は男の子が大好きなの。あさきと毎日仲良くしてたころも、毎日毎日、男の子とエッチしてたの。代わる代わる、色んな子と。あさきが私を好きだった間もずっと」
「やめて」
「やっと憧れの私とエッチできて嬉しい? あさき」
あさきは必死になってシーツを摘んだ。本当は今すぐにでも蘭を蹴り倒したいが、下半身に力が入らない。
「イッちゃったね、あさき。やっぱり嬉しかったんだ」
「違う、そんなわけ……」
「新しい彼女ができたのに私の指でイッちゃうなんて、最低だね。あさき。あの子にも教えてあげよっか」
あさきはどうにか起き上がると、蘭の顔を一発はたいた。
「帰る」
あさきは蘭を突き飛ばして、早足で部屋を後にした。
何とか帰宅したあさきは、すぐさまトイレに駆け込み吐いた。胃液と涙が一気に込み上げてきて止まらなかった。呼吸が苦しくなり、透明の液体すら出てこなくなるまで吐ききった。あさきは呆然としてその場に倒れ込んでしまった。すると、またもや電話がかかってきた。いろはからだった。あさきは祈るような思いで電話に出た。
「もしもし、あさきちゃん今どうしてる?」
あさきは何も答えられなかった。
「泣いてる? 泣いてるのね」
いろははすぐさまあさきの状況を理解したようだった。
「わかった。今はおうち? すぐそっちにいくからね」
あさきはいまだ涙を流しながら、電話を切った。よろよろと立ち上がり、口をゆすぐ。いろはが来るまでの辛抱だと思いながら、あさきはベッドに倒れ込んだ。
いろはがあさきの家に到着すると、そこには完全に衰弱した様子のあさきがいて、部屋は今までに感じたことのないほど強烈な死臭に包まれていた。
「あさきちゃん」
「いろは……」
あさきは無言でいろはの方に手を伸ばした。いろははすかさずあさきを抱きしめる。
「今まで、あさきちゃんのこと何にも分かってなかった。ごめんね……」
「どうして謝るの」
「死臭の秘密がわかったの。でも、それは長くなるから……先に、何があったのか聞いてもいい?」
あさきは首を振る。
「話したくない」
「そっか」
いろはは自分の不甲斐なさを実感しつつも、あさきのことを堅く抱きしめて離さなかった。すると、しばらくしてあさきはいくらか落ち着いた様子になってきた。
「死臭の秘密って……?」
あさきは不安げに、しかし興味ありげに問いかける。いろはは思い切って告げることにした。
「死臭の正体は、その人の自殺願望だったの。でね、今まで正直に言わなかったけど、あさきちゃんからはずっと死臭がしてたの。だから私、心配になって慌てて電話をかけたんだよ」
「そう……だったの」
あさきは安心したような、全てを諦めたような表情を浮かべていた。いろははそれを見て不安になる。
「あさきちゃん、どうして『死にたい』なんて考えてるの?」
そう問いかけながら、いろはは自分の頬に涙が伝うのを感じていた。
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