第6話 甘い時間と苦い出会い
夏休みが明け、いろはとあさきは一緒に登校し始めた。いろはは、毎朝乗り換えに使う駅のホームであさきに会うのが楽しみだった。芳醇な甘い香りが、生活リズムがまだ建て直せていなくとも遅刻せずに学校へ向かうモチベーションとなっていた。
「おはよう」
「おはよ」
いろはが肩を叩くと、あさきはイヤホンを外して微笑む。かわいらしい仕草だと思った。夏休みの間自分の能力について真摯に向き合ってくれたあさきは、いろはの中で相棒でもあり恋人でもあるパートナーとして認められつつあった。
「今日もかわいいね」
いろはがそんな軽口を叩くと、
「うん」
と言って素直に返すのも好きだった。出会った頃とはあさき自身に対するイメージも少し変わったらしい。いろははあさきのような人に出会うのは初めてだった。性格は明るくない、冷静で無口だけれど、自信もある人。いろはの周りには、感情的な割に自我がまるで無いように振る舞う人が多かった。少なくとも、両親のことはそう捉えていた。
学校内でも、二人はひっついて行動するようになった。もう「ベタベタするな」とは言われない。隣の席でいられるのもそう長くはないからと、授業中にひっそり手を握り合ってみたりもした。そんな生活のせいか、いろははまたあさきの死臭を嗅ぐのに依存し始めた。四六時中嗅いでいないと気が済まない。だから去り際はすごく惜しい。互いの家まで行ったり、乗り換えをする駅で寄り道をして遊ぶことも多かった。あさきはあさきで満更でもなさげだった。その証拠に、夜遅くまでメールのやり取りを強請った。いろははそれに疲労はしたものの、以前より面倒くさく感じることはなかった。それはひとえに、あさきがいろはの能力という悩みに真剣に向き合ってくれたからだろう。
ある日も、いろははあさきの家に邪魔した。あの一件から申し訳なさを感じたのだろうか、あさきの部屋は少しずつ片付いていった。
「いろははコーヒーの方が好きなんでしょ」
「あ、うん。ありがと」
用意してもらったコーヒーも、今はちゃんとテーブルの上に置くことができる。脱ぎ散らかされたものなどは視界に入らない。恋人だからこその恥じらいを覚えたのかもしれない。
二人は理由もなく一緒にいた。コーヒーを飲みながら、互いの手を握って、たわいもない話をした。
「今度、私も本を買ってみようかな。金欠だけど」
「いいわね。今度駅前に小さい本屋ができるみたい。行ってみたら?」
二人は目を合わせて笑っていた。いろはは幸せだった。あさきの漂わせる芳醇な甘い香り、それが死が迫っていることを表すものであることさえ、ほとんど忘れられていた。ただ、あさきの匂いは魅力的で、いろはを覆い尽くし、夢を心地よく見え隠れさせた。
一時間ほど経って話し疲れてくると、あさきはベッドの方に腰掛けた。いろはも追従する。こういうときには、大体タブレットで一緒に映画を見ていた。今日の映画は何にしようか、などと考えていたが、あさきはタブレットを持って来なかった。
「映画の気分じゃないの?」
「うん」
「そっか」
そう言われたが代わりに何をするのか思いつかなかったいろはは、タブレットの画面を分け合う時のように、とりあえずあさきの肩を抱いてみた。すると、あさきも腕を回してくる。
「何しよっか」
「何もしたくない」
「ふーん」
あさきは眠たそうだった。こちらに倒れ込みそうだったので、反対の腕も回して受け止める。
「うーん、こういうときなんて言ったらいいのかわかんない……」
「あさきちゃん?」
「もう、いろは……」
あさきがモニョモニョと呟いていることの意味がいろはには分かりかねた。寝ぼけているのだろうか。しかし、あさきは顔をいろはの胸元に埋めたまま、ぴったりと密着して頭頂部を擦り付けてきた。いろははそこで初めて、ずっと自分の中にあったあさきへと情欲と今まさに受けている柔らかくてしっとりとしたあさきの肉体の与える感覚が結びつくのを感じた。今までは死臭に遮られてそれがわからなかった。今の今まで、自分があさきにむける欲求は死臭ありきのものだと思っていた。
「顔、上げてよ」
あさきはゆっくりと前を向く。いろははその頬に手を添わせた。
「かわいい」
「……かわいいじゃなくて」
あさきはなぜだか怒っていた。いろははそれを揶揄うように笑う。
「じゃあ、なあに?」
それでもあさきは黙っていた。よっぽど自分から口に出すのは嫌らしい。
「キスしてもいい?」
「……うん」
二人は目を閉じて、唇を触れ合わせた。あさきの薄い唇は、不思議な感触がした。そのまま続けて、二回、三回。舌を入れてみると、あさきもためらいがちに舌を絡めてくれた。名残惜しいが離れてみると、あさきの顔は紅潮して泣きそうにも見えた。
「ちゅーしちゃった……」
「ふふ、そうだね。ちゅーしちゃった」
いろははあさきの頭を撫でた。すると、あさきはいきなりいろはの方に寄っかかって体重をかける。その拍子にいろははこてんとベッドの上に倒され、あさきの下敷きになってしまった。ずいぶん積極的だな、なんて呑気に思っていると、あさきはまたキスを仕掛けてきた。
「あさきちゃんのしたいようにしな」
「ええ……あっ」
あさきは何かに気がついたようで、しまったという顔をした。そして、いろはに沿うようにして隣に寝転ぶ。
「あれ、いいの?」
「あの……間違えたの。私、勢い余って、その……」
「ふーん、こっちがよかった?」
いろはは体を起こし、あさきの顔を上から覗き込むようにした。すると、あさきは恥ずかしがって顔を手で隠す。しかし、いろはが制服のシャツのボタンに手をかけても怒らなかった。
「いーこいーこ」
「……そういう扱いしないで」
「ふふ、ごめんごめん」
いろはは浮かれていて、自分が何をしようとしているのかきちんと理解していなかった。しかし、あさきの肌があらわになるにつれて、そんな自分の浅はかさに気がついた。あさきの裸体を目の前にして、今、自分はこの女を奥深くまで知らなくてはならないのだと自覚すると、夢のようでロマンチックな想像上の産物でしかなかった恋人という関係が、急に現実味を帯びて目の前に迫ってくるようだった。同性だから、と思っていたものの、自分以外の裸などじっくり見る機会があったわけではないいろはにとって、あさきの裸体はショッキングですらあった。
「何、怖い顔して。やっぱり嫌になったのかもしれないけど、もう遅いんだからね」
あさきは呟く。いろはに話しかけているんだが何だかわからなかった。腕を体の前面を隠すように組んでいる。それでも、あさきのからだの肉付きのよくふんわりとしているのはよくわかった。
「隠さないで見せてよ」
いろはは勇気を出して言った。自分はこれからあさきのからだと向き合わなくてはならないのだから、彼女も真摯にすべてを曝け出してくれなければ不公平だと思ってのことだった。あさきは無言のままさっと腕を退ける。あさきのからだをじっくり眺めると、決して綺麗なものだとは思えなかった。肌は真っ白いが傷跡も目立つ。乳房は想像していたよりずっと大きかったが、乳輪はいろはのものよりも半径が二倍はあった。いろはは、感覚の俊敏な手指でいきなり目の前のその物体に触るだけの勇気が出せなかった。そのため、あえて全身であさきに抱きつき、その全貌をぼんやりと捉えてみようとした。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。目で見てもわからない魅力が、確かにそこにあった。あさきのからだはひたすらにやわらかかった。ここで、いろははいつもの癖でひと嗅ぎする。最高の眺めが脳裏に見えた。
「あんたも脱ぎなさいよ」
「あ、うん」
いろはは言われるがまま裸になった。あさきよりも毛が濃い気がして恥ずかしかった。
「あさきちゃん……」
いろははあさきの首元に顔を埋めた。そして、彼女を心から愛そうという決意を固めたのだった。
夏休み明けで急に忙しくなったからか、あさきは体調を崩してしまったらしい。一人で退屈で無臭の週末を送っていたいろはは、前に勧められた新しい本屋に行ってみることにした。チェーン店ではなく個人店で、二分もあれば一周できるくらいの狭い店だった。あさきが勧めるにしては、スケールが小さいなと思った。平積みされた本をパラパラとめくっていると、店員に声をかけられた。
「あの〜、何かお探しですか?」
「ああ、特にジャンルが決まっているわけじゃないんですけど……ここ何年も本を読んでない人間が、久しぶりに読書を再開するのにちょうどいい本はないかなぁ、と思って」
「へぇ、それは書店員として腕が鳴るなぁ」
さっぱりとした肩くらいの黒髪の店員は、嬉しそうだ。いろはと年が同じくらいと見え、話しやすそうでもあった。
「仲良くなりたい人が、本好きで。でも、難しい本ばっかり勧められるもんだから……」
「なるほど。その人はどんなジャンルを読まれるんですか?」
「え〜っと、物語とかじゃない、なんか難しそうなやつです」
いろはの曖昧な答えに店員は唸る。そして、新書の並ぶコーナーに立つと、いくつか本を抜き出した。
「これなんてどうでしょ」
出された本は二つ。『ことばってなんだろう』と『表情の歴史』だ。
「どっちも読みやすくて、おすすめですよ。それに、人と仲良くなるのにも役立ちそう」
「へえ」
中をパラパラめくると、字は小さいが読みやすそうなレイアウトだ。厚さもちょうどいい。
「いいですね。とりあえずこの子たち、買っちゃおうかな」
「毎度あり〜」
店員はにっこり笑ってレジを打つ。
「実はね、ここは出来たばっかりで、週末のバイトは私だけなの」
「大変そうですね」
「うん。だから、もしお友だちでバイト探してる人がいたら紹介して。私、常名って言うんだけど」
「わかりました」
気持ちのいい買い物ができていろはは満足していた。帰ったら早速この本を読んでみようと考えつつ、軽い足取りで帰路についた。
その翌週、いろはは元気になったあさきを連れてまたその本屋に訪れた。あさきがどんな風に本を選んでいるのか気になったのだ。
「どうも〜」
「あ、この前の子だね」
奥の方から店員が出てくる。その瞬間、その場の空気が一瞬にして緊張した。
「蘭……」
「あれぇ、あさきじゃん」
隣を見ると、あさきは冷や汗を垂らして店員を見つめている。
「何、知り合い?」
あさきは黙っていた。
「そうだよ」
店員は答えた。
「私、常名蘭。あさきと小学校から友だち。えっと、高校の友だちかな?」
「あ、うん。私は奥山いろはって言います。でも、友だちっていうか——」
いろはの返答を遮るように、あさきは呟いた。
「友だちよ」
いろははそれを聞いて、あさきはまだ差別の蔓延る時代では同性カップルであることを隠したかったのだろうと推察した。そして、それを尊重するために、
「うん、そう。親友」
と自分でも付け足した。蘭はにっこり笑っていた。
「そっか。よろしくね、いろは」
「よろしく、蘭ちゃん」
いろはは蘭とのやりとりに何の違和感も抱いていなかったが、あさきは苦虫を噛み潰したような表情で押し黙っていた。
「あさきちゃん、どうしたの?」
「……早く帰るわよ」
いろはにしか聞こえない小声であさきは呟く。
「えっ、どうして?」
「あとで説明するわ」
いろはは本をゆっくり見たかったし、蘭におすすめしてもらった本の感想を伝えたかったので残念だった。しかし、すっかりあさきのわがままには従う癖がついたいろはは、断ることもできず手を引かれるまま退店した。蘭が不思議そうな顔もせずに、にっこり笑ったまま見送ってきたのが少し疑問だった。
近くにあったベンチに座ると、あさきは話し始めた。
「さっきの店員は、前に話した……私が振られた人なの」
そう言われて、いろはは先ほどの出来事が何となく腑に落ちた。
「ふーん、そうだったんだ。それはちょっと、気まずいね」
「気まずいどころじゃないわ。顔も見たくない」
なぜだか、いろはは罵られているはずの蘭に嫉妬を覚えた。そして、あさきに対してちょっと意地悪な気分になった。
「振られちゃった腹いせ? もう私と付き合えたのに」
「……違うわ。そんなもんじゃない。あいつはね、私がつらそうにするのを楽しんでる」
あさきは深刻な表情をしていた。いろははその背中をさする。
「あさきちゃんがそう思うなら、会わないようにしよう」
あさきはこくりと頷いた。あさきが怯えた様子のせいか、死臭がいつもより濃く立ち込めているかのようだった。
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