第5話 信頼って難しい
あの脱線事故の一件から、いろはは自分の能力に疑問を持つようになっていた。自分は人々の死を予見できるのではなかったのだろうか。結局、あの事故では先頭車両と二車両目にいた何十人もの人が死亡することとなってしまった。それなのに、その大量の死臭に気がつけなかったのはなぜなのか。もしかすると、いろはが死臭だと思っていたものは何か別のものを表しているのではないかという考えが浮かんできた。しかし、最近でいえば電車に飛び込んだ女性、担任、昔から数えれば姉・ういや祖母、盲腸で入院した時の、あの院内全域に満ちた強烈な匂い……。それらすべての結果を、いろはは死という形で捉えることになった。これらはすべて偶然で片付けられることなのかと言われると、そうとは思えない。自分が他人とは違う匂いを検知しているということは事実なのだ。それなら……それなら自分は姉が死んだ時からおかしくなってしまったのかと、いろははにわかに思った。
お盆の時期なので、いろはは家族とともに墓参りに来ていた。空はカーンと冴え渡り、静かな墓場に黒い日傘をさすいろはは不思議な心持ちがした。なんとなく、ここでは落ち着いて眠れないだろうなと、不謹慎な考えを頭に巡らせてすらいた。
「久しぶり」
声をかけて、墓石を清める。いろははそうしながらも墓石など眼中になく、自分の足元にぽっかりと空いているはずの大穴のことばかり考えていた。姉と同じ墓に入れぬなら、自分は嫁になど行きたくないなと思った。いろはの母は萎れてクズになった花を捨てて、新しい花と入れ替える。この墓の中に眠る全員のことを知るわけではなかったが、いろはからすれば姉に似合う花は一輪もなかった。
帰りの車の中で両親がひそひそと話す。二人ではよく姉の話をするようだが、いろはとはあまりしない。子どもの繊細な心を気遣ってのことではないと、いろはは薄々感じていた。きっと、姉の亡くなったころまだ幼かった自分は、姉との思い出を語る上での仲間として認識されていないのだろう、と。
「よっす」
「よす」
夏休みもだんだんと終わりの見えてきたころ、いろははあさきを家に招いた。夏休みに会えたのは結局三、四回だったが、二人の仲は自然と深まっていた。いろははあさきの匂いを求めてもどかしく辛い日々を送ることもあったが、一時期よりはその依存症も落ち着いていた。一方、あさきの方はむしろ精神的な面でいろはに依存し始めたような面があった。用がなくてもメッセージのやりとりを求め、時にはネガティブな発言をしていろはに慰めの言葉を乞うこともあった。いろははそれを嫌だと思うわけではなかったが、めんどうくさいという気持ちが拭えるわけではなかった。
「大した部屋じゃないけど、上がって」
いろはは誰もいないリビングにあさきを案内すると、早速紅茶を入れる。いくら手間がかかるとは思っても、打算的な彼女はあさきの匂いを楽しめる機会を増やすためならなんでもした。
「気を遣わなくていいから」
と、あさきは彼女なりに気を遣ってか呟いた。いろははダイニングテーブルの椅子を引いてあさきを座らせると、沸かしたてのお湯で紅茶を入れた。ベリー系のフレーバーティーと外箱には書いてある。あさきの死臭が充満した部屋では、いろははもうその香りを確かめることはできなかった。
いろははティーカップをそっとテーブルに置く。
「ありがと」
あさきは一口それに口をつけると、持参したカバンを漁り始めた。
「頼まれてたもの……一応持ってきたつもり」
そう言うと、あさきは七、八冊の本をテーブルに積み上げた。
「わぁ、重かったでしょう? 大変だったね、ありがとう」
「……別に」
あさきは照れたように俯く。簡単なお礼を言っただけなのにそんな風にされるとむしろ調子が狂うなといろはは思った。本は厚みも大きさもさまざまだった。
「近くの図書館にあったものだけだけど……工夫して探したつもりよ。死期を予見する民族の伝承、死臭を題材にしたホラー小説、あ、あとがきには一応フィールドワークをしたって書いてあったの。病院に勤める人の体験談、それから一応あんたの言ってる匂いが科学的に説明のつくものである可能性も考慮して、医学、法医学の本も……」
「……ありがとう」
いろはは向かいのあさきの手を優しく撫でた。恥ずかしかったのか、すぐに引っ込められてしまったが。
「とにかく、あんたの『死臭』の謎を探らなくちゃね」
「うん。お姉ちゃんと何の関係があるのかもはっきりさせたいし……」
いろはは視線を落とす。あさきはその真剣さを受け取ってくれているようだった。
「お姉さんに何があったのか、聞いてもいいのかしら」
あさきは落ち着いた口調で言った。普段はわがままでこちらのことに興味がなさそうだったが、今はいろはが混乱しないよう冷静でいてくれるようだ。
「……うん」
いろはも覚悟をもって唾を飲み、口を開いた。
「お姉ちゃんはね、十年前にバイクの事故で死んだの。運転してたお姉ちゃんの彼氏も死んだんだって。冬の夜で——すごく暗かったの。もちろん両親は心配して出かけるのを止めようとしたらしいんだけど、その時お姉ちゃんは両親と喧嘩してたらしくて、何も言わずに飛び出しちゃったんだって」
「不慮の事故ってことね」
あさきは神妙な面持ちで頷いた。
「私は、この話、両親に聞いただけで……中学生になるまで知らなかった。だから、お姉ちゃんにそんな不良みたいなイメージもなかったし、両親との仲が気まずかったのも意外だった。だって、お姉ちゃんは私にはいつも優しくて、かわいがってくれて……むしろ、今の両親は私のことをなんだか家族と思っていないような気がして、私よりもお姉ちゃんの方がよっぽど大切なのかなって、思ったから。お姉ちゃんがどんな思いで出かけて行ったのか、今もわからない……」
いろははぎゅっと拳を握った。話が本筋から逸れはじめていることは分かりつつも、堰き止められない言葉が溢れてきた。
「お姉ちゃんがいなくなる一週間くらい前から、ずっと良い匂いがしてた。それが、初めて嗅ぐ匂いだった。それから、何度かまたその匂いに気がつくことがあって、だんだんそれが死臭なんだとわかってきた」
あさきは深く頷いた。いろはに同情的な視線を送りながらも、その表情は冷静だ。
「なるほどね。一応、聞いた感じだと、死臭に科学的な根拠はなさそうね。そもそもお姉さんは事故死……他の人の死因もさまざま。病気なら、犬や虫なら匂いで見分けてしまうこともあるようだから、あるいは……と思ったのだけれど」
いろはは気持ちを落ち着かせつつ答えた。
「うん。それに、私以外の人には一切わからないみたいだし……。私だけが感じられる幻覚——幻臭? そんなものなのかも」
「そうね。他の人と比較して、特に嗅覚が優れているということもないでしょう?」
「うん、むしろ、死臭がする時は他の匂いは全くわからなくなっちゃうし——」
言ってから、いろはは慌てて口を噤んだ。そんなことを伝えたら、匂いがわからない自分の違和感にあさきが気がついたしまうかもしれない。そうなったら、あさきから死臭がしていることを本人に自覚させてしまうからだ。
「そう。あれ、死臭ってどんな匂いなんだったっけ」
「え、えっと、十年前の当時は『甘くてドキドキするいい匂い』って思ってた。今の言葉で表すなら、『芳醇な甘い香り』かな」
「ふーん、それ前も言ってたわね」
あさきは顎に指を添えながら答えた。何か引っ掛かっているようだ。
「どうかした?」
「大したことではないのだけど、どの本に載っている伝承でも、死臭は比較的悪い臭いとして書かれているの。たとえば、酸っぱい臭いや、アンモニア臭……これらの臭いだと、病気と関連付けて考えられるわね。だから、いろはの感じているものとはやっぱり別物なんでしょう」
「そうか、お姉ちゃん、病気にはなってなかったと思うな……」
二人はしばらく黙っていた。解決の糸口はなかなか見えてこない。いろははあさきが持ってきた本の一冊に手を伸ばす。
「このページ」
「あ、ありがと」
伸ばされたあさきの手に従いページをめくる。しかし、めぼしい情報はなかった。
他の本も調べたが同じことだった。なぜなら、それらに載っていた情報はどれもいろはの感じる死臭とは異なるものだったからだ。
気まずい沈黙が訪れる前に、いろはは声をかけた。
「あ〜、えっと、お茶を淹れなおそうか」
「それもいいけど……いろは」
あさきは真剣な眼差しでこちらを見た。
「脱線事故のことは、あなたが故意に黙っていたわけじゃないのよね」
いろはは突然の問いかけに面食らいつつも、答えた。
「うん……わざとじゃない。本当に何も感じなかったの」
あさきはじっくりと頷いた。
「そう。じゃあ、あなたの能力はあくまでも『偶発的な事故』に関連していそうね」
「そうだね」
一瞬だけ、あさきの目がいろはを責めるかのように感じられた。まだ彼女からの完全な信頼は得られていないのだろうと、いろはは少し落胆するともに、自分でもこの能力が信用できない不気味で気持ち悪いものに感じられた。それは、姉や脱線事故で亡くなった人への罪悪感から生じるものでもあったかもしれない。
「じゃあ、今日調べられることはこんなところかしら。今までの調査は、ちょっと『匂い』にこだわりすぎたかもしれないわね。そうしたら、今度は事故の予知能力なんかについて調べた方が、情報が得られるかもしれない」
「そうだね。私も調べておくよ」
あさきはかすかに微笑んだ。欲しいけれど手に入らないものから目を逸らすように、いろはのことが眩しいかのように目線を外していた。そして、これまたかすかな声でにわかに呟いた。
「私……次も裏切られたら、耐えられないから」
「えっ、私、なんか裏切るようなことしたっけ!」
あさきの発言にいろはは慌てた。しかし、あさきはただ笑っている。
「あんたじゃないわ。こっちの話。ところで、お茶、やっぱり淹れてもらえる?」
「はぁ……」
いろははまだあさきのわがままでめちゃくちゃなところには慣れなかった。しかし、今も漂い続ける芳醇な甘い香りと引き換えならば、少しもつらいことはなかった。
いろはの家からの帰り道、あさきは日傘を差してぼーっと歩いていた。
「あれぇ、あさきじゃん」
背後から声がかかったのに気がつき、慌てて振り向く。すると、すらりとした体躯にさっぱりとした肩くらいの黒髪を揺らす、人形のように可憐な顔立ちの少女が立っていた。
「ら、蘭……」
その人は、常名蘭。中学生時代にあさきを振った、かつての親友だった。
「ねぇ、どこ行ってたの? そんなにおめかししちゃってさ、誰かに会いに行ったのかな」
最後に会ってから半年以上経っているのに、かつてと変わらない馴れ馴れしさで話しかけてくる蘭にあさきはやや怖気付いた。
「……別に、どこにも行ってない」
「そんなわけないでしょ? それより、せっかく久しぶりに会ったんだからどこかでお茶でもしない? 来るでしょ」
「いや、私は——」
「何かやましいことでもあるなら別だけどね」
そう言われると、あさきは断れなかった。実際、いろはという恋人がいながら黙って他の女性と二人になるのは気が引けたが、それを蘭に説明するのも悟られるのも嫌だった。
「……わかったわ」
「それならいいの! ほら、あそこのドーナツ屋さんとかどう?」
蘭に手を引かれると、あさきは悍ましい気分になった。かつて彼女を好きだった自分との感情の変化に驚きつつも、自分の手汗の滲むのがいつもに増して気持ち悪く感じられた。
席について蘭の目の前にいると、余計な緊張感があった。あっさりしているはずのストレートティーも喉に入っていかない。
「最近、学校どんな感じ? 友達できた?」
「……一応」
「そっかー、私もね、何人か友だちができたんだよ。一番仲がいいのはね、あさきみたいに、いつもおさげにしてる子」
そう言われて、あさきは今すぐ髪を解きたくなった。蘭は常に満面の笑みだ。
「あさきの友だち、見てみたいなー。写真とかないの?」
「……ない」
「えー、一枚も? 高校ってスマホ使えるよね、見せて見せてよ〜」
あさきは耳を塞ぎたい気持ちになりつつ、いろはとのツーショット写真を表示したスマホを机に置いた。
「わ〜、お友だちかわいいね。恋人とかいるのかな?」
「知らない」
「なんであさきが不貞腐れるの?」
蘭は目を細めたまま問いかけてくる。
「素直になりなよぉ」
あさきは矢継ぎ早に言葉を放った。
「あんたに迷惑かけたことは悪いと思ってる。だけど、あんたに嫌がらせされる筋合いもないわ。頼むからもう私に関わらないでちょうだい」
肩を上下させるあさきの前で、蘭は一呼吸置いてから話し始めた。
「……嫌がらせ?」
「『信頼していた人に裏切られた』って、周りの人に言いふらして……わ、私には蘭しかいなかったのに、私を孤立させて……これが嫌がらせじゃなくてなんだって言うの」
蘭は目をぱっと見開いた。口は笑ったまま。
「え? ごめん、よくわかんない」
「……え」
「私、あさきのこと友だちだと思ってたのに、勝手にそうじゃない気持ちをぶつけられても、受け入れられないんだよ。それは、たとえ相手が男の子でも同じこと。私は混乱しちゃったから、別の友だちに頼っただけだよ。それもダメなの?」
あさきは自分自身にも気持ち悪さを感じて叫びたくなった。
「じゃあ、なおさら私に関わらないで」
「それはずるいよ、あさき。私は友だちをやめないんだから」
あさきは鞄を持って立ち上がった。もう蘭の話に付き合う気はなかった。
「新しい『友だち』と仲良くね〜! あ、私も友だちなんだから、隠し事はなしだよ〜」
後ろは振り向かなかった。
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