第4話 能力はホンモノ?
あさきは、静かになった部屋を見渡す。散らかり放題の部屋を見て、いろははあからさまに引いていた。一度は熱のこもった手つきであさきを腕に抱いてくれたが、その後はロマンチックな雰囲気にそぐわないあさきの長話に辟易したのか、紅茶の二杯目を注ぐこともなく帰ってしまった。あさきはそれを寂しく思う一方、どこか安心してもいた。いろはに嫌われたいとまでは言わないが、あまり愛着が湧くのも嫌だった。あさきはまだ人に背中を預ける気はなかった。
あさきから見て、いろはは不思議な存在だった。隣の席になっただけで突然自分に絡んでくるようになったかと思えば、「友だち」でダメなら「恋人」になってまで自分に触れていたいと言う。その割にあさきにベタ惚れとかゾッコンというわけでもなさそうだ。彼女は一体自分の何を見ているのか。あさきにはわからなかった。ただ、いろはの無遠慮で反応の機敏で豊かなのはあさきにとって好ましく思えた。あさきは誰かに気を遣われて、相手の心境がこれっぽっちもわからないのが苦手だ。いろはは——突然の行動について疑問は残るものの——その時々でどう感じているのかは、顔を見れば明らかなタイプだった。
ティーカップを片付けて、漠然とした思考のまま寝っ転がって時間を潰していると、いろはからスマートフォンにメッセージが送られてきた。
『無事家に着きました。今日は楽しかった! また遊ぼうね』
何の変哲もない文言に、あさきは返信もせず簡易的なリアクションだけを残す。すると、
『お家にお邪魔させてくれてありがとう。次はうちに来てね。それから、あさきちゃんのおすすめの本があったら教えて』
あさきは胸の中にじんわりと温かさが満ちていくのを感じた。それ自体はいろはへの好意というポジティブな心の動きであったのにも関わらず、その現象自体にはネガティブな感覚があった。いろはは本当に自分の気持ちや思惑をわかっていて、今日のような「ハグ」だけなんかではすまない「その後」のことまで考えてくれているのだろうか。もし彼女がそんなこと思いもしていないのなら、自分も思いたくない。けれど、このままだとあさきの想像力はいろはとのその後を理想的なビジュアルとして、あさきの脳裏に映し出そうとしてしまうかもしれない。あさきはただそれが恐ろしかった。これが男女の恋愛に置き換わればどれだけ楽だったか。女同士の関係性に「恋愛」という文脈がもたれづらい社会で、あさきはいつも不安を抱えていた。
『いろは、次に遊ぶときは食べ物で釣らないでほしいのだけど』
『あれ、釣られた自覚はあったんだね』
『つまらない映画なんか見なくても、私、誘いにくらい乗るから』
あさきはじっと返信を待った。いろはが自分の真意をわかってくれるのかは自信がなかった。
『そっか。確かに映画はつまんなかったね笑 今度はどこに行こうか。考えておくね』
いろはがおそらくそうなのと同じようにまたあさきも言葉の裏をかくのは得意ではなかったので、結局どの程度いろはに真意が伝わったのかはわからずじまいだった。
あさきはのそのそと体を起こす。ここのところ、かったるくて何もする気が起きなかった。しかし、そのあさきが積み重なった本のひとつを手にとって、本棚にしまい始めた。部屋が汚いことでいろはが引き下がるのならそれはそれで日々の平穏を保つのに貢献できると思っていた。だけれども、あさきは心のどこかではすでに「次回」いろはを部屋に招くことを期待してしまって、それが結果として未来の自分を傷つけるとしても止められなかった。理由はわからなくても、人に好かれればそれだけで嬉しいものだ。そういう人間として自然な感情に逆らうことはできない。あさきは自分が傷つくことを避けようと消極的な動きをするようなことがよくあったが、逆に言えば積極的に誰かを遠ざけてまでそうしようとは思えなかった。
八月の頭頃、あさきはいろはに誘われて海辺の公園に来ていた。静かな場所ではなかったが、羽目を外しそうな若者のグループなどは少なく、子連れを中心とした朗らかな場所だった。
「暑いわね」
あさきはブラウスの胸元を摘んで仰ぐ。早速日差しに耐えられずだるくなっているあさきに対し、いろはは溌剌と笑っているばかりだった。
「なんか、冷たいものでも買おうよ。かき氷とか」
「そうね。でも、かき氷は嫌。頭が痛くなるでしょ」
「んー、じゃあ、ソーダくらいにする?」
「ううん。炭酸は苦手」
あさきのリアクションに、いろはは不服そうだった。
「わがままだなぁ」
いろはは呆れたため息をつく。あさきは「わがまま」と言われて不思議と嬉しかった。自分のために誰かを困らせたり、手を焼かせたりするのは面白い。また、いくら自分勝手なことを言おうがいろはが簡単に要求を呑んでしまうので調子に乗っている面もあった。結局二人はコーヒーフロートを頼んで、海の家で日差しを避けながらのんびりと時の流れを味わっていた。海の家は水着姿の人が大半で、木製のベンチがやや湿っていた。
「泳ぎたくならない? やっぱり水着で来れば良かったよね」
「私は嫌。水着なんて」
「ふーん」
なぜかと聞いてこないあたりいろはも成長したのだろうか。あさきはその中身と同様、外見についてもあまり探られたくはなかった。顔の美醜ならば良い方向に言及されることにもある程度慣れてはいたが、自分ではあまり自分の身体に満足していなかった。昨今の流行りである低体重に憧れたりはしないが、本来ならば、たとえばいろはのような健康的な肢体を手に入れるよう努めなくてはならないであろうことは自覚していたからだ。しかし、物心ついてからずっと標準的な発育を表す曲線と自分の発育を表す曲線とが交わったのを見たことがないあさきには、そうする方法が分からなかった。今のいろはの前でなら、まあいいか。と、あさきはアイスコーヒーに浮かぶバニラアイスを口に運んだ。
「そういえば」
彼女なりの配慮として、あさきは話題を提供した。
「あんた、コーヒー好きって言ってたわりに、外だとあんまり飲まないわね。私、あんたがコーヒー飲んでるの見るの初めて」
「あれ、そうだっけ? たまたま他に美味しそうな飲み物があっただけかな〜」
いろはは何でもないように微笑んだ。そして、アイスコーヒーをかき混ぜながら言う。
「家だとよくブラック飲むんだけどね」
「ふーん」
そういうこともあるか、とあさきは特に気にも留めなかった。
「あさきちゃんはコーヒー飲める?」
「飲めるけど、紅茶の方が好きよ」
「ああ、前お家で出してくれたもんね」
「……次は床では出さないから」
あさきがそう言うと、いろはは目を細める。
「へぇ、また呼んでくれるの?」
その笑顔にどこか後ろめたさを感じて、あさきは目線を逸らした。いろはを部屋に招きたくなる心境を悟られたくなかった。
「あんたが不満そうな顔するのやめたらね」
「え〜」
他愛のない会話でさえ、あさきは罪悪感と葛藤なしに交わすことさえできなかった。高校生にもなって、いろはが何も知らない純粋無垢だなんていうのは思い過ごしかもしれないが、女性同士である自分たちの関係を「友だち」と表現した(それ自体は間違いではないのだろうが)いろはだからこそ、あさきの心にいずれ渦巻くであろう衝動を理解していないのではと思わざるを得なかった。
帰り道、二人は電車に揺られながらまだ明るい空をぼんやり眺めていた。
「夏休みが終わったら、毎日会えるの楽しみだなぁ」
「見飽きないといいけど」
いろはが返事をしないので、あさきはめんどくさいことを言ってしまったのだなと反省した。しかし、横を見ると、いろははスマホをあさきの方へと向けている。
「なにっ」
「かわいいから撮った」
写真を撮られるのは嫌いだったが、いろはがあまりにも素直なので悪い気はしなかった。こちらをじっと見つめて笑いかけてくるいろはに何を言ったらいいのかわからなくて、顔が熱くなるのを誤魔化すように車内のスクリーンに流れる文字を追った。
ふと、「【速報】〇〇線で脱線事故 付近の建物に衝突」というアナウンスが目に入った。〇〇線はよく利用する路線だ。大きな事故のようなので、スマホでニュースを確認してみる。あさきは肝が冷えるのを感じた。事故を起こしたのは自分たちがさっき乗り換えてきた電車だったからだ。それに気がつくと同時に、あさきは隣にいる人物に問いただす。
「あんた、気づいてたの」
「何?」
無邪気に笑っていたいろはは、ニュースを読むとみるみる青ざめていった。
「これ、さっきまで乗ってた……」
「だから、あんた、気がつかなかったの」
いろはは首を横に振る。あさきは不気味さと不快さが歯の隙間に染みてくるのを感じた。一瞬でも「死臭」を信じた自分がアホなのか、それとも何らかの理由でいろははそれに気がつけなかったのか。どちらにせよ、自分が得体の知れないものに弄ばれているような感覚があった。
「なんで、どうしてだろう……強すぎる……から?」
隣でいろはが何やらつぶやく。不安げな顔で考え込むいろはをとりあえず自分の見知ったものに戻すため、当たり障りのない言葉を探す。
「ま、まぁ、まだ死者が出たと決まったわけじゃないし……むしろ、奇跡的にみんな無事だったのかもしれないわ」
「そうだといいけど……」
いろはの目はどこかを見ているようで、どこも見ていなかった。彼女のアイデンティティに何か重大な変革が、いやまだそこまでではなくとも、それを将来的に引き起こしかねないようなヒビが入ってしまったのをあさきは目撃した。
以前会った際にはやたらと別れを惜しんでハグを繰り返してきたいろはだったが、気分が悪かったのか今日はこちらに顔を向けないままそそくさと帰ってしまった。あさきは侘しさが心に満ちていくのを感じていた。自分のせいではないのに、生まれもったものや変えられない物事のせいでまた関係が途絶えてしまうのかもしれないと思うと、どっと疲れが押し寄せてきた。もう諦めてしまいたいのに、いろはの存在のせいで中途半端な希望が目の前にちらつき始めたところだった。過度な期待をした自分はいくら愚かなのだろうと、あさきは苦笑するよりもむしろ単に悲しまざるを得なかった。
しかし、あさきのそんな気持ちとは裏腹に、いろははあさきとの連絡を途絶えさせることはなかった。そして、彼女のもつ死臭を感じる能力について、もっと一緒に考察してほしいのだという。あさきは嬉しかったが、やはりトラウマは消えないのか精神がより不安定になってしまった。いろはからの連絡に一喜一憂し、ろくに眠れない夜を過ごすうち、あさきはいろはのことが半分恨めしくなった。わけもなく流れてくる涙に対処するのもめんどうくさく、いろはのために片付けた本の表紙がぼやけて見えていた。
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