第3話 はじめてのトラブル

 その約一週間後、二人は再び一緒に出かけてることになった。誘ったのはいろはで、会話をすることなく静かにじっくりと死臭が楽しめると思って、映画館を選んだ。いろはの選んだありきたりな青春映画にあさきは難色を見せたが、ポップコーンのバターが倍になるキャンペーン中であることを伝えると、しぶしぶ了承したのだった。いろはは久しぶりのあさきの死臭を待ちきれない一方、今まで恋人もなかったために、いわゆる「デート」というものにどんな服装で、どんな態度で臨めば良いのかわからなかった。それでも、やはりデートならばおめかしをするものだという認識くらいはあって、ボブの髪をしっかり巻いて、紺のミニスカートに厚底のサンダル、白いオフショルダーを着て現地に向かった。途中、駅のトイレでメイクが変でないか何度も確認したが、正解がわかっているわけでもなかった。

 時間通りに待ち合わせ場所に着くと、あさきはすでに待っていた。

「ごめん、遅くなって」

イヤホンをしていたあさきは振り向く。学校に行くときと同じおさげとは対照的に、薄い水色のプリーツのついたロングワンピースを着ているのは非常のことと見えて、いろはは何だかドキドキした。

「あさきちゃん、かわいいね」

「……そう」

あさきは照れと戸惑いでうまく答えられないようだった。気の利いた人はここで相手を褒め返すものだが、あさきにそれができなくても無理もないといろはは思った。

「じゃ、行こう」

二人は並んで歩き出した。まだ、互いに手を繋ごうという気は起こしていなかった。

 例の青春映画はというと恐ろしくつまらなかった。さらに言えば、自分たちの関係性や立場というものを顧みず、安易に男女の恋愛を描いた映画を選んだことであさきを傷つけてはいないかといろはは気を揉むことになった。暗闇の中であさきの匂いを楽しむ時間は至福以外の何者でもなかったが、一度見終わってしまうと、気まずい空気の中また行き先を探さなくてはならなかった。

「とりあえず、ご飯にしよ。あさきちゃんは何が食べたい?」

あさきは迷っているようだった。特に何か思いついているわけではないのに、何でも良いと答えてはいけない独特の圧力に、あさきも大衆と同じように苦労するらしい。

「どのくらいお腹空いてる? ガッツリ食べたい感じ? それともカフェとかで済ませたいか」

いろははあさきが答えやすいよう付け加えた。

「……まあまあ空いてる」

「そっか。じゃああの辺のレストラン街で探す?」

「うん」

ショッピングモールは騒がしくて落ち着かなかったが、沈黙を緩和してくれる分だけありがたかった。ひとつレストランを見つけると、いろははあさきにここはどうかと尋ねた。あさきは曖昧に答える。いろはがレストラン街を一周して、ようやくあさきにうんと言わせたのはチェーンのハンバーグ店だった。結構お腹空いてたんじゃん、と思うといろははまたもあさきがかわいらしく思えてきた。二人は同じハンバーグセットを頼み、あさきだけが食後のデザートを頼んだ。鉄板に乗ったアツアツのそれが届くと、なるほど食欲をそそられられる。肉汁の溢れるふっくらした噛み心地を味わった時、いろははあさきを喜ばせられるものを選べて良かったと思った。

「おいしい?」

「うん」

あさきは控えめに答える。それでも、その使い慣れないフォークの進みを見れば、彼女が満足していることは明らかだった。

「あさきちゃん、かわいい」

いろはは再び言った。

「……どこが」

調子づいてきたのか、あさきは大胆にも尋ねてきた。

「んー、いっぱい食べるとこ」

いろははその場の思いつきで答える。あのめんどくさそうなオーラをまとっているあさきが今日食べ物に釣られて来たという事実だけでも、いろはには面白く、かわいらしく思えたのは事実だった。しかし、

「……あんた、ほんとデリカシーないわね」

とあさきは不満気だ。

「私が気にしてるってことくらいわかるでしょ」

「何を?」

いろはは純粋な疑問を口にする。

「……言わなくてもわかるでしょ」

「ううん」

「だから、その、私、太ってるから……もう十分デブなのにこれ以上食うのかよって思われたくないわけ」

いろははあさきの意外にも繊細な面のあることに驚いた。

「太ってるとは思わなかった」

率直に答えると、あさきは何か言いたいことを我慢するようであった。いろはは、あさきがガリガリに痩せた子でなくてよかったと思った。死臭のする人は近いうちに死ぬという事実を忘れたわけではない。あさきが折れてしまいそうな貧相な体をしていたら、きっとその心配は今より何倍も強く感じられたであろう。

「さっき言ったでしょ、かわいいって。あさきちゃんが気にしてても、私は気にならないよ」

「……そう」

あさきはひとまず「いろはから見た自分の姿はかわいい」という事実については認めてくれたようだ。互いの心うちを完全に理解しあうことは難しいが、表面的な意図だけでも汲み取ってもらえることはいろはにとっては嬉しかった。

 その後、二人はショッピングモールをぶらぶらと歩いた。というよりも、いろはがあさきに連れ回されていたという方が正しい。あさきの本屋で立ち読みする時間の長いことはいろはには苦痛だったが、雑貨屋でアロマオイルのサンプルをひとつひとつ嗅ぎ始めたのよりはマシだった。これはどうかと聞かれても、いろはにはあさきの死臭しか感じられないのだから、適当に答えるよりほかなかった。そんな調子であさきに散々歩かされたいろはは、疲れ果てて提案する。

「ねぇ、どっか店入らない? 足だるいわ」

「……私まだお腹いっぱい」

渋い顔をするあさきを見て、いろははなんとわがままな女なんだと思った。しかし、死臭を嗅ぎ続けたいという本能がいろはに当たり障りのない返答をさせる。

「あさきちゃんさっきデザートも食べてたもんね……少しだけ座りたいからベンチとか探そう」

「それもいいけれど……」

あさきは上方に目を泳がせつつ提案する。

「私の家に帰る? ここからすぐなのだけど」

「えっ、いいの?」

「うん」

自分の縄張りに他人を入れることを極端に嫌いそうなあさきがそんな提案をしたのは意外だった。それと同時に、人目を気にせず、歩き回ることもなくあさきの匂いを堪能できることは、いろはにとってメリットでしかなかった。

「じゃあ、お邪魔しよっかな」

「そう。五分くらいで着くわ」

あさきはそう言うと、さっさとショッピングモールの出口に向かって歩き始めた。いろはは慌ててついていく。不思議な好奇心が湧き上がっていた。


 あさきの家は、古びたマンションの三階だった。一軒家暮らしのいろはは、やや気を遣いながらも部屋に上がった。玄関やリビングはよく整頓されていて、あさきの家族がきちんとしているであろうことをうかがわせた。

「ここ、私の部屋」

あさきは奥の方にある一室のドアを開ける。そこでいろはは衝撃を受けた。先ほどまでの小綺麗な部屋とは打って変わって、空気の恐ろしく澱んだ、ゴミ屋敷と言っても過言ではないほどの汚らしい部屋だった。

「なんか、ずいぶんと……」

呆れてものも言えないいろはの様子を察してか、あさきは気まずそうだった。

「悪かったわね。汚くて」

「いや、いいけど、まあ……」

幸い、いろはは潔癖症ではなかったし、あさき自身の匂いのせいでたとい悪臭がしていたとしてもいろはにはそれがわからなかった。そうは言っても、頭では「よくこの部屋に人を招こうと思ったな」とあさきを責める文言すら浮かんでいた。

 物に埋もれることを免れたわずかなスペースに座らされたいろはは、「お茶を淹れてくる」と出ていったあさきが戻ってくるまで、その巣窟を観察した。大きな家具は、ベッドに勉強机。特徴的なのは、壁の四方に立ち塞ぐ大きな本棚だった。しかし、その中身はぎっしりと詰め込まれているわけではなく、抜き出したであろう本が床にある種のアートのように積み上げられている。紙魚の温床になっていそうな、気色の悪い雰囲気がした。ベッドの小物置き場やテーブルには食べ物か何かの包装紙が放置されている。申し訳程度に置かれた空気清浄機には、脱ぎ散らかされた服がそのままかかっていた。あさきがその場を離れたことで、埃っぽい臭いがやや気になる。しかし、お盆を運ぶあさきが戻ってくると、全く気にならなくて済んだ。

「ストレートがいい?」

「ああ、うん。何でもいい」

狭い床にお盆を直接置いて、西洋風の美しいティーポットから人形遊びの道具のようなティーカップに真っ赤な茶を注ぐ様子は、とてもちぐはぐに見えた。いろはは一方のカップを手に取り、お茶を頂く。ダージリンの風味を帯びた温かい空気が口腔を満たすと、アールグレイの苦手ないろははほっとした。

「ごめんね、急にお邪魔しちゃって」

いろはは忘れていた社交辞令を口にする。

「私が誘ったのよ」

あさきは当然という口調で言った。会話は弾まない。いろはは気まずさに耐えかねて、自分の思考の中に籠る。いろははもうあさきという女自体には幻滅しかかっていたが、人目を気にせず、あさきの好意につけ込む形でその死臭を堪能してもいいという状況に放り込まれたことで、理性は力を失い、原初的な欲望に飲み込まれかかっていた。目の前のあさきを見る。いや、見てなどいない。ただその匂いに踊らされているだけだ。腹の底から湧き出る欲求に従って、いろはは行動した。

「ちょっと」

いろはは乱雑にあさきのからだを抱き込む。その鼻息の荒いのを、あさきは情欲と絡んだものと捉えたらしい。

「本気だったの」

「そうだよ」

いろはの脳は彼女を喜ばせようと自動で言葉を選ぶ。芳醇な甘い香りが鼻を衝いて、いろははむせかえりそうになる。あさきの首筋に鼻をグッと押しつけて息をすると、からだ中に麻薬が染み渡るような快感だった。あさきはいろはの様子に戸惑いつつも、弱々しくいろはを抱き返してくる。いろはは初めてあさきに対し明らかに性的な感情を抱いた。匂いに乗せられていたことは大きいが、あさきの態度に妙な好感を覚えたのも確かだ。それなりに容姿も良く頭も良さそうな女の子が自分の手中に収まっていくのは、孤独を味わうことの多かったいろはにとって、歪な自信に繋がってしまうようなところがあった。

「……なんで」

あさきは問う。

「なんで急に私なんかと付き合いたいなんて思ったの」

「そりゃあ、かわいいし、他の人とは似ても似つかない性格で、毒舌だしわがままだけど言うことを聞きたくなるような感じで……それに、私に弱みを見せてくれた」

「……ふーん」

いろはにはあさきの動揺が伝わってきた。それを隠すためか、あさきはいろはから手を離す。その拍子に肘が当たり、本の山をひとつ崩してしまった。

「あっ」

その音で目が覚めたかのように、二人はからだを引き剥がす。いろはは崩れた本を直そうと、その一冊を手に取る。

「ん、『死刑制度と自由に関する論』か……あさきちゃん、難しそうな本を読むんだね」

古びた表紙の「死」のその字を見て、いろはは妙な気分になった。目の前のあさきが死んだらどうしよう。この部屋なら、大きめの地震でも来たら埋もれて死んでしまうのではなかろうか。しかし、そんないろはの心配を感知することのできないあさきは、本の内容について話し始めた。

「言葉は難しいけど、考え方は面白いのよ。その本は死刑制度に賛成する内容なんだけど、同時に『国家が個人の自由を奪うことは不可能である』とも述べているの。簡単に言うと、死刑になるほどの罪を犯すということは、自分が死刑に処されるリスクを受け入れたとみなされるわけ。しかしそれと同時に、死刑になることに同意したものが殺人などの重罪を犯すことを止めるのは不可能であり、そこには法を超越する個人の自由の存在を認めざるを得ない、と」

突然流暢に話し出したあさきにいろはは戸惑った。

「で、でも、殺人っていけないことでしょ? 止めないと」

「けれど、誰かが『自分は死んでも構わないからアイツを殺す』と言い始めたら止める方法はないのよ」

「ふーん。実行する前に拘束しちゃえば?」

「それはね、とてもデリケートな問題なの。『内心の自由』との兼ね合いね。もちろん、実際にさっきみたいなことを発言したなら、殺害予告になって逮捕できるかもしれないけど」

あさきの目は潤っていた。いろはは難しい話に嫌気がさしたが、本の話をしていれば簡単にあさきの気が引けるだろうとわかったことで、いずれ向き合うべき問題をひとまず保留できたかのような安心感と罪悪感を得た。

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