第2話 彼女と一緒にいる方法
「わかった。私から死臭がするんだ」
あさきは今までの無関心な様子から打って変わって、純粋な瞳でそう言った。いろははそれをどうにか否定するしかなかった。
「そ、そんなわけないよ。あさきちゃんに死ぬ予定なんてないでしょ?」
これには半ばいろはの願望も含まれていた。いろはが顔色を窺うと、あさきは意外にもすんなり納得してくれたようだった。
「なんだ、違うの」
「うん。あさきちゃんは大丈夫だよ」
いろはは安堵した。あさきはいろはの話にほどよく興味を持ってくれたようだ。これで、彼女と親しくなることができるかもしれない。夏休みまであと二日。どうにか彼女と会う手立てを考えなくてはならない。
その日の夜、いろはは悪夢を見た。十年前に死んだ姉の夢だ。夢の中で姉に頬擦りしていると、場面が突然変わる。姉は棺の中に横たわり、その棺からは強烈な死臭がしている。
いろはの十二歳も歳の離れた姉、奥山ういは、バイクの事故で亡くなった。ういは高校受験をきっかけに両親との仲が険悪になり、高校入学後は不良とつるんでいた。十七歳の時、その時のボーイフレンドのバイクの後ろに乗っていたういは事故に巻き込まれ、ノーヘルメットだったため即死した。ただ、当然まだ小学生にもなっていないいろはに両親がありのままを伝えるはずもなく、いろはが事の経緯を詳らかに知ったのは中学に上がってからのことだった。姉は事故の一週間ほど前から、あの芳醇な甘い香りを漂わせていた。いろはにとって初めて嗅ぐ匂いだった。
「おねーちゃん、いい匂い!」
姉によく懐いていたいろはは、そんな風にういにすり寄っては困らせていた。いろははそれ以降いくつかの出来事を通して、あれが死臭なのだと学んだ。
翌朝、いろははまたもや窓の外を見つめているあさきに、なんとはなしに話しかけた。
「いつも窓の外見てるけど、別に変わり映えしないでしょ。何か面白いものでもあるの?」
すると、あさきは立ち上がって窓際まで向かう。振り返って、
「おいで」
というあさきに珍しさをおぼえつつ、いろはは彼女の隣に並んだ。あさきははたりとカーテンをめくって、二人を中に引き入れる。騒がしい教室から隔離され、さんさんと注ぐ朝日のみの作り出す空間に二人放り込まれたようだった。
「何を見てるわけじゃないんだけど」
あさきは独り言のように呟く。
「……話しかけられたくなくて。かと言って何かする気も湧かないから、『窓を見る』ってことをしているの。何かをしている最中の人に話しかけることはあまりないから」
いろはには納得できなかった。あさきの展開する論は完全なる屁理屈のように聞こえた。
「一人が好きそうだもんね」
いろははかろうじて理解できた箇所を抜き出して同意する。しかし、それでさえあさきは否定してしまった。
「ううん。一人が好きっていうか……人より脳内のキャッシュを消去するための時間がいっぱい必要なの。わかる?」
コンピュータに疎いいろはにはその例えが理解できなかった。
「……キャッシュレス化? 現金はいらないってこと?」
あさきは呆れてため息をつきながら答える。
「あんたにはわかんなかったか。頭の中身を整理するための時間が欲しいってこと」
「なるほど!」
いろははあさきの頭の上にポンと手を乗せる。
「難しいこと考えてるんだー。すごいね!」
「何言ってんのよ」
あさきは頭を下げていろはの手をすり抜けた。
「あっ……」
いろははベタベタするなと言われたことを思い出し、行き場のなくなってしまった手をよろよろと下ろした。気まずく思っているいろはとは対照的に、あさきは意に介していないようだった。
「あんたこそ、そんなに私にかまって、何か面白いものでもあるの?」
「い、いや、違うけど」
「違うって失礼ね」
「えっと、あの、だから……」
いろはは上手い言い訳が思いつかず、唇を舐める。あさきの方はといえば、自分で尋ねておきながら、恥ずかしくなったのか顔を背けてしまった。
「あさきちゃんと、一緒にいたいの」
「そう」
「レズビアンじゃないなら触らないでって言ってたけど、ただの友達じゃダメなの?」
あさきはこちらを向かないまま、しばらく黙っていた。しかし、唐突に
「中学のころ、親友がいた」
と切り出した。
「とても仲が良かったの。そして、私はある時から彼女のことが好きだって気がついた。悩んで悩んで悩んで、思いを伝えてみたけれど……ダメだった。思いっ切り拒絶でもされればまだマシだった。ただ、彼女は私に『今まで私に触ってきたのって、そういう意味だったの』って聞いてきた。……私は何も言えなかった。言えるわけがない。下心が全くないなんて言ったら嘘になる。でも、そんなのとても正直に伝えるわけにはいかないでしょ。彼女は『そういうのは人の自由だけどさ、私はあさきのことただの友達だと思ってるから』って。そのまま疎遠になった」
あさきは手すりをぎゅっと握り込む。
「怖い。また誰かと仲良くして、好きになっちゃったらどうしようって思う」
カーテンが風を泳ぐ。あさきの放つ匂いがいっそう芳しくなるようだった。いろはは自分を恥じた。あさきは、人間なら当たり前の自然な恋情でさえ、罪深いものとして必死に抑え込もうとしている。あさきはそんなにも純粋な人間なのだ。それなのに、自分は彼女の匂いをただ嗅ぎたいなどという下劣極まりない理由で彼女の気を惹こうとしている。しかも、相手にバレないようにコソコソと。あさきの匂いにくるまれれば、性的な情感でさえ刺激される。彼女の同意を得ないまま、自らの汚らわしい欲求の慰めとして、彼女を貶めている。
「たばこ吸いてー」
「え?」
あさきが急に間抜けな声で言い放ったものだから、いろはは戸惑った。
「未成年だよね?」
「冗談だって。こういう時に、たばこ咥えながら喋ってたら、かっこいいんでしょ。漫画とかドラマとか……」
ごにょごにょ、と文末はよく聞き取れない。それが彼女なりの不器用な照れ隠しであると知った時、いろはの心の中に温かい血が流れた。どことなく、あさきを愛おしく思ってしまった。いろははあさきの背中にざばっと覆い被さって、首に手を回した。
「……話聞いてなかったの」
いろはは何も答えず、目を閉じて感じ入る。初めは無機質な性格に見えたあさきだったが、今は彼女の匂いにふさわしい、どろどろして胸を締め付けるような苦味が拡散した、しかし離れ難いような、そんな女なのだとわかった。
「それってさ、私が毎日毎日こうやってしたら、好きになっちゃうってこと?」
「失礼ね」
いろはのふざけた発言をあさきは一蹴する。
「私にだって選ぶ権利はあるんだけど。ほんとうに全員好きになるわけないでしょ。そうじゃなくて、一種のトラウマみたいなもの」
ずっと背中に張り付いていても、あさきは嫌がらなかった。いろはは、あまりの心地よさと安らぎに、逆にぞわぞわと寒気のするような妙な感覚になった。やがて、それは自分の欲望が渦巻いてできたものだと自覚する。いろははなんとしてでもあさきを手に入れたかった。いや、正直なところあさきでなくても全く構わない。この匂いが得られるなら誰でも良かった。ただし強いて言えば、彼女のからだのどこもかしこもやわらかいのは、香りとの相乗効果を生まないこともなかった。
「……あんた、いい加減」
「あさきちゃん」
いろはには言うしかなかった。彼女の過去や今までの葛藤を利用するのは、弁解しようのない悪辣な行為だとわかっていても。
「夏休み、会わない?」
「……なんで」
「私、あさきちゃんに触れていたい」
あさきの表情は見えなかったが、おそらく息を呑んで言葉を詰まらせているようだった。
「……それってどういうことなの。ってか、自分でもわかってんのかしら」
これはさすがにいろはには勇気がいった。見た目や能力に自信があるわけでもなし、あさきが受け入れてくれるかは完全なる賭けでしかなかった。
「ふらないで」
かろうじていろはは言い放った。真っ当なやり方とは正反対の言い方にはなってしまったが、その微妙なニュアンスは困惑に乗じてあさきの判断力を鈍らせる効果もあったのかもしれない。
「……わかった」
あさきはうなずいた。いろははやや拍子抜けしたが、すぐに嬉しさが込み上げてきた。
「やった」
呟くように言って、その想いを噛み締める。あさきの匂いを吸うたび、体が軽くなっていく。吐き出してしまうのが惜しいほど、満たされる。
「……あっ」
チャイムがなったので、二人はおとなしく席についた。あさきは窓の外を見ていなかった。ただ手元を見ながら、頬をほんのりと赤く染めてぼーっとしているのだった。
終業式の日の午後、二人は一緒に遊びに行った。互いに友達も少なかったので遊び方もわからず、ぎこちなかった。いろはは匂いを嗅いでいるとそれだけで満足してしまって、あさき自身のことは意識していないと関心が持てなかった。一方のあさきも別にいろはのことが好きになったわけではないのか、特に楽しそうにすることもなかった。
ランチを食べに入った喫茶店で、あさきはカツサンドとコーヒーゼリー入りのドリンクを頼んだ。
「結構ガッツリ食べるんだね」
「悪い?」
「いえいえまったく」
いろははと言えば、強い死臭のせいで正直言って食欲が湧かなかった。そのせいで、人に知られる程度ではないかもしれないが、体重が落ちたほどだった。そのため、アイスココアとドーナツひとつくらいあれば十分だった。料理を待つ間、いろははあさきと向かい合わせに座らされたことで、初めてちゃんと彼女と向き合わなければいけないような気がしていた。薄いメイクの施された顔は、人形のように均衡の取れ、非の打ち所がない。しかし、目のさほど大きくないからか、印象に残るような顔でもなかった。
「あさきちゃんって、兄弟とかいるの」
あさきが普段学校以外の場所でどう過ごしているのか、いろはは全く知らなかった。ただそれを直接聞くのは憚られたため、関係のありそうなことを聞いてみた。
「ううん、いない」
「そっか。ご両親は共働き?」
「うん」
あさきはめんどうくさそうに答える。いろはは誰もいない自宅で悠々自適に過ごすあさきを想像して、しっくりくると思った。
「あんたは?」
「私? お姉ちゃんがいたんだけど、小さい頃に死んじゃった」
あさきはやや面食らったようだった。
「そう……それは、気の毒だったわね」
いろははあまり姉を失ったこと自体を今でも気に病んでいるわけではなかった。
「あのね、実はお姉ちゃんが死んでから、死臭がわかるようになったの」
「あ、そうそれ。聞きたいと思ってたの……」
あさきは好奇心の籠った目でいろはを見た。これはいろはにとって都合の良いことであった。だからこそ、今自分が質問に答えられる十分な情報を持っていないことが惜しかった。
「あんまり、詳しく覚えてるわけじゃないんだけど……。まだ、五歳くらいだったし。ただ、お姉ちゃんが死ぬ少し前から良い匂いがし始めてたのは覚えてる。それでね、その後から別の人も同じ匂いがすることがあって、小学生くらいの時には、それが死臭なんだって理解してた」
あさきは集中しているのか、いろはの顔をまっすぐ見ていた。
「ふーん、死臭って良い匂いなんだ。どんな匂いなの?」
いろはは予期せぬ質問に多少戸惑いつつ答えた。
「えーと、なんか甘いっていうか、いい香り〜みたいな」
「あんた、もうちょっと頭使いなさいよ」
「そうだな……芳醇な甘い香り、かな」
「ふん、ソムリエぶっちゃって」
「あさきちゃんが言えって!」
あさきはおそらく笑っていた。笑っていたのだが、それが皮肉めいた嘲笑のようにしかいろはには受け取れなかった。
「……あと、その『あんた』ってのもなんか嫌だし」
「脈絡もクソもない言い分ね」
あさきはそうは言ったものの、反省しようという気はあったらしい。
「……わかった。失礼したね。何て呼べばいいの?」
「呼び捨てで」
いろはは特別なあだ名などつけられた経験がなかった。呼び捨てが彼女にとって一番自然な自分の認識であった。
「じゃあそうする、いろは」
いろはは嬉しい一方、あさきとの後戻りできない親交が結ばれていってしまうのを感じた。それは、芳醇な甘い香りとともに彼女を呪縛するであろうことは明らかだった。ほどよく会話の響くカフェの中で、ただ二人だけが緊張した空気を崩せないでいた。
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