人の死期がわかる私はもうすぐ死にそうな女とつかのまの百合イチャラブを楽しみたい
茅原水脈(かやはらみお)
第1話 『死臭』がわかる能力
七月某日。爽やかな朝日の差すホームで、電車を待つ。黒髪を肩にかかるくらいに垂らしたの少女、奥山いろはは十六歳だった。ホームには人々がまばらに並んでいた。ふと、芳醇な甘い香りが鼻をくすぐった。さりげなく隣を見ると、三十代くらいの鼻筋の通った綺麗な女性だった。いろははその匂いを心地よく思った。侵入してくる電車の生み出す風に煽られ、その香りはさらに膨らんでいく。
その瞬間、いろはの耳に突き刺すような甲高い悲鳴が届いた。ああ、この人は自殺だったのね。いろははホームと電車の間に引っかかった赤黒い頭皮を見て、そう思った。きっとこの様子では電車はしばらく動かないだろうと判断したいろはは、野次馬を押し除けて颯爽とホームを去っていく。心を躍らせながら。いろはは死臭がわかる。死臭と言っても、腐敗した死体の放つ臭いではない。死期の近い人が発する独特の匂いのことだ。いろははその香りが好きだった。その、芳醇な甘い香りが。
振替輸送を利用したいろはは、どうにか遅刻せずに学校へと辿り着いた。息を切らしつつ教室のドアを開けると、甘い香りが薄く漂っている。昨日まではこんな香りはしていなかった。一体誰が死臭を漂わせているのか、いろはにはわからなかった。いろはの知る限り、特に致命的な病を患っているクラスメイトなどはいないはずだった。
首を傾げつつ支度をしていると、ホームルームが始まった。
「みなさん、今日は席替えをします」
担任の若い女教師が妙なハイテンションで言う。その口調は普段からいろはをイラつかせるものだった。しぶしぶ席を移動しながら、友だちの少ないいろははどうせ今回も気まずい思いをするだろうと落胆していた。話したこともない人と、授業中など話し合いをして顔を突き合わせなくてはならないのは、いろはにとって我慢ならないことだった。
机を運び終わったいろはが項垂れていると、ふと、あの芳醇な甘い香りが強くなった。すぐさまいろはは顔を上げ、匂いのする方向を見る。黒髪をおさげにした色白の少女がそこにいた。
「……何、ジロジロ見て」
「あぁ、いや、ごめん」
まだ話したことのないクラスメイトだった。今までに嗅いだことのないほど強烈な匂いを漂わせる彼女はいろはの隣の席につくと、気だるげに窓の外を眺めていた。
「あの、名前、なんだっけ……」
いろははおずおずと問う。そのクラスメイトは、ちらりとこちらを見る。
「夢見路あさき」
ゆめみじあさき、はて、そんな生徒いただろうか。いろはは必死に記憶を辿るが、今までは彼女が同じ教室にいたことさえ認識していなかったことに気がついた。あさきはそれくらい目立たない生徒だった。
「あんたは」
思案に耽っていたいろはにあさきは聞き返す。
「自分も名乗るのが道理でしょ」
「えっと、奥山いろは、です……」
返事を待ちながらもじもじするいろはの方へ、あさきはにわかに振り返った。その瞬間。いろはは強烈な匂いに全身が包まれるのを感じた。窓からそそぎ、彼女を通過して自分に届く風が、肺を焼くようだった。鼻を通じて脳まで直接、何か官能的な甘さを持ったヴェールに覆われるようだった。
「……なんでそんな驚いた顔してんの」
いろはは心臓が波打つのを感じた。あさきの匂いはこれまでの人生で得たどんな快感よりも心地よい。しかしそれと同時に、どうして平凡な生徒であるはずの彼女が急にここまで強烈な死臭を放つようになったのかわからず、困惑を通り越して恐怖さえ覚えた。
「……私の顔、そんなに変」
様子のおかしないろはに、あさきもやや狼狽えているようだった。
「違うの、その……あさきちゃん、とっても——」
いい匂いだ、と言いかけていろはは慌てて口をつぐんだ。
「とても、何?」
「とっても、かわいいから……」
慌てたいろはの搾り出した精一杯の言葉だった。あさきの顔立ちはよく見れば整っている。容姿を誉めたって違和感はないはずだ。ところが、いろはの思惑とは裏腹に、あさきは眉間に皺を寄せた。
「あんたおかしいんじゃないの」
それ以降、あさきは再び窓の方を向いて、話しかけてくることはなかった。いろはは内心焦っていた。快楽の極致ともいえる匂いを発する彼女をみすみす逃したくはない。しかし、こんなに強い死臭がすれば、彼女は今日にでも死んでしまうかもしれない。どうにかして、彼女の死を食い止めたい。けれど、食い止めたらせっかくの香りは消えてしまうのではないか……。
どこか厭世的な雰囲気を纏うあさきの後ろ姿を見つめる。その肌の白さはいかにも虚弱そうだが、ふくよかな体躯、厚みのあるもっちりしたその肌は、病死や衰弱死とは全く結びつかなかった。ならば、事故死なのか。皆目見当がつかない。それならば、と。いろはは胸いっぱいに大きく深呼吸した。その死を止められないのかもしれないなら、せめて彼女と一緒にいられるうちに、好きなだけその匂いを堪能しておこう。
一時間目は化学基礎の授業だった。今日は塩素を発生させる実験をするらしい。いろははあまり理科が得意ではなかったが、塩素という気体が有毒であることだけはわかっていた。だからこそ、ひょっとしてあさきはこの実験中の事故で死ぬのではないかという不安が脳内を駆け巡っていた。
「はーい、教室と同じ席順で座って〜」
白衣を着たおじいさん先生が楽しそうに呼びかける。周りの生徒も皆わくわくしているようだった。理科室の古びた机を隔てて向かいに座ったあさきは、相変わらず先生の話をきちんと聞いていないようだ。実験には危険がつきものなのだから、もし手順を間違えれば致命的な事故が起こるのではないかと、いろはは憂慮していた。
「じゃ、各々始めてね」
各テーブルからはカチャカチャとガラス器具の音が響く。あさきを見つめていて結局自分も話を聞いていなかったいろはは、慌てて教科書を指でなぞる。字は小さく、用語もいろはには難しすぎてなかなか必要な情報が読み取れない。それでも、せめて黄色い三角の注意マークがついた文章だけはなんとか読み上げた。
「えっと、えっと、風通しの良い場所で行う、色を見る際にはあまり顔を近づけない……」
「そんなの常識でしょ。さっさと手伝ってよ」
いろはが教科書から目線を上げると、呆れ顔のあさきがスムーズな手つきで実験を進めていた。
「ああっ……!」
その迷いのなさが、かえっていろはには不安だった。事故・災害は油断から生まれるという。あさきの手つきはそれを思わせた。
「何ボケっとしてんの。ほら、色変わった」
「へ?」
「よく見なよ」
あさきはピンセットの先の白い紙切れをいろはに見せる。それが漂白されたリトマス試験紙であるといろはが理解するまで四秒かかった。あさきはそんないろはを無視して片付けを始めた。
「みんな、実験は終わったかな? 記録プリントを先生にちょうだいね〜」
無言でプリントを出しに行くあさきを追って、いろはは白紙に近いプリントを提出するしかなかった。
「……ちょっと、刺激臭が残ってる」
顔をしかめるあさきをいろはは呆然と見ていた。いまだに彼女の死臭は強く、その芳醇な甘い香りに圧倒されて、薬品の臭いなど微塵も感じられなかった。
いろはの心配を裏切り、その後一週間経っても二週間経ってもあさきは死ななかった。いろはは毎朝あさきが無事に登校しているのか気が気でなかったが、あさきはいつでも同じ気だるげなポーズをとっているのだった。そして、次第にいろはは彼女の死臭の中毒になっていった。週末など耐えられない。ある時こっそりと丸めた台紙を彼女の背中に擦ってみたが、全くその匂いを移すことはできなかった。ビニール袋に彼女の座っていた部分の空気を集めてみても無駄だ。どうやら死臭というのは、その本人の近くにいるときにしか嗅げないらしい。だから、いろはは積極的にあさきに近づくしかなかった。
あさきの死臭の魅力は、単に密度が濃いことだけではなかった。死臭というのは決まって芳醇な甘い香りをしているのだが、そのニュアンスは各人によって微妙に異なる。例えばついこの間電車に飛び込んだ女性はほのかにフルーティな紅茶に合いそうな匂いがした。一方、あさきの匂いはドロリとした粘つくような甘さの中にもかすかに鋭い苦味があり、まるで熱いカラメルソースを喉に引っかかるほどゴクゴクと飲み干していくような感覚になる。いろははそんな特異的なあさきの死臭に病みつきになってしまったのだ。
偶然隣の席になっただけで馴れ馴れしくなったいろはを、あさきはやや冷めた目で見ていた。いろはがその欲望のあまりあさきに触れると、あさきはさっと身を引いてしまうのだ。それでもいろははやめられなかった。とある日のこと、バレーボールの授業でいろはとあさきのいるチームが勝った時、いろはは盛り上がりに乗じてあさきにハグをした。そしてその際、あさきの匂いを長く味わいすぎてしまったかもしれない。更衣室で制服に着替える途中、あさきは妙なことを言った。
「レズビアンじゃないならやめて」
「……へ?」
「ビアンじゃないならやめてっつってんの。ベタベタするの」
いろはは脈絡のないことを言われてて戸惑いつつも、あさきに問いかけた。
「あ、あさきちゃんはレズビアンなの?」
「そう」
あさきはあっけらかんと言った。答えを迷っているいろはにあさきは鋭い視線を向ける。
「『うわー……そういうつもりじゃなかったのに最悪』って顔してる」
「そ、そんなことない!」
あさきは焦って否定するいろはを尻目に、さっさと片付けを済ませていた。そして、去り際に呟いた。
「じゃあどういうつもりなのよ」
その声色に、いろはは今までとは違う印象を覚えた。いつも冷たく突き放すような言い方をするあさきが、この時だけは弱気な、寂しそうな声を漏らしたような気がしたのだ。
それ以降、いろははあさきと触れ合うのを我慢していた。匂いを嗅ぎたくてしかたないのは変わらないが、体には触れず近くにいるだけで我慢した。あさきの様子に変わったところはなく、いつも通り気だるげだった。そして、相変わらずいろはは不安で押しつぶされそうだったが、あさきは死ぬどころか匂いを増して、その健康的な身体も肉付きが衰えることはなかった。ヒヤリハットに遭遇することもなく、日々は全くの平穏に思える。それなのに、いろはの心の中では大きな焦りと憂鬱が膨らんでいた。今週中にもう夏休みに入ってしまう。そうしたら、一ヶ月以上はあさきと会えないことになる。いろははもはやあさきの匂いなしでは生きられなかった。どうにかしてあさきと夏休みにも会う方法を考えていたのだが、まだ互いを認識してから三週間も経っていない相手とそんな仲になる方法は皆無に等しかった。
「あんた、相変わらず私のこと大好きね」
あさきにはそんな皮肉を言われてしまう始末だ。帰りのホームルームが始まる。
「……やっとあんたから解放されるわ」
あさきはそんなことを呟いたような気がした。いろはは半ば申し訳ない思いで身を縮めるしかなかった。
「今日の帰りの連絡は——」
担任の女教師がつまらない話を始めた時、いろはの鼻先に芳醇な甘い香りが撒かれた。といっても、あさきのものではない。それとは違う、どこか軽い印象の、ミントのような……。視線の先には担任がいる。間違いない。彼女が教室に入ってきた時から、急にあさきの匂いに混じってこの香りが漂い始めた。いろは一か八かではあさきの肩を叩く。
「ねぇ、先生もうすぐ死ぬよ」
いろはには匂いがしてから一体どれくらいで人が死んでしまうのかはわからない。しかし、こう言っておいてもしそれが現実になれば、あさきの興味を惹けるかもしれない。
「は?」
あさきは怪訝そうな顔をしたが、すぐに関心を失ったようだった。
「返事しなきゃよかった」
無口そうに見える割にひと言多い女だった。
大胆に予言してみたものの、いろはは自分の予想が当たるとは思っていなかった。だって現に、あさきは死臭がし始めてから二週間以上も生き残っている。しかし、やはりその能力は本物だったのか、担任は次の日には死んでいた。死因はよくわからない。代理を務める副担任が「不幸な出来事」と言及したのみだった。
「あんた、どうやって当てたの」
あさきは早速尋ねてきた。気持ち悪いなどと言われなくて心底良かったといろはは一息つく。
「私、死臭がわかるの」
「そう……死臭?」
あさきはおさげの先っぽをいじりながら聞き返す。
「うん。死臭っていうか、もうすぐ死ぬ人は独特の匂いがするの。先生からも、その匂いがしたから」
いろはが答えると、今までほとんど目を合わせてこなかったあさきが、真っ直ぐこちらを見て言った。
「わかった。私から死臭がするんだ」
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