剣戟の果てに手を伸ばして

結剣

剣戟の果てに手を伸ばして

 ──第一章 キミと出会う青い空── 


 抜けるような青い空と、白波を立てる青い海。

 そんなどこまでも青い景色の中で、詩島灯眞(しじま とうま)はフェリーのデッキに出ていた。

 涼しい風が吹き抜けるたびに、少し長めの黒髪を揺らし、琥珀色の目が眇められる。

 ふと目に付いた電光掲示板に表示されるのは、東京湾に建設された人工列島、最先端技術列島だ。

 ありとあらゆる科学技術を集め、それを人間社会で運用するにはどうすればいいか、そのフィードバックを得るための島。

 灯眞の父も技術者であり、灯眞が人工列島行きのフェリーに乗っているのは、引っ越しのためだった。

「おっ……」

 一面青かった景色の中に、白い構造物が混ざってくる。

 それは灯眞の新たな生活の地となる、白樹島の港だった。

 灯眞は船内に戻り、両親と共に下船の準備をして待つ。

 それから少ししてアナウンスがあり、灯眞は白樹島、正確に言えば島扱いの大型フロートに降り立った。

「なんか……普通に地面って感じだ」

「ははっ。そりゃそうだ」

 灯眞の間抜けな言葉に父が苦笑する。

「大型フロートって言っても、島は島だからな」

「まぁ、そりゃそうだけど」

 白樹島の港は様々な構造物が白い外装で、その中に薄青のラインが走っているものが多く、そういった統一感や色使いはこの場所の近未来感を加速させているように思える。

 もっとも、乗ってきたフェリーが旧式のため、それを視界に入れると一気に現実に引き戻されるが。

「色々見て回りたいだろうが、今は家に行こうか」

 そんな父の言葉に頷き、母と三人、用意してもらった引っ越し業者のトラックと共に新居へ向かう。

 てっきり島の端から端まで近未来感あふれる島だと思っていた人工島だが、意外にも様々な場所で緑が目立ち、ちょっとした林のような場所もあった。

 そうして車に揺られること数十分。到着したのはいかにも住宅街といった様相の区画だ。

 灯眞たちの家は、何件か立ち並ぶ一軒家の一つであり、外見は白を基調としたシンプルな建物だ。

 だがシンプルさがイコールで質素とは結び付かないようで、ドア一つとっても最新式のオートロックや虹彩、指紋認証装置が取り付けられていて、この場所は最先端技術の集合体であるということを再認識させられる。

 そして最新式と言えば内装もだ。

 特にキッチンや風呂場は様々なものが自動化されていたり、身体的特徴に合わせて可動するようになっていたりと、驚きの連続だった。

「こういうのも、将来一般家庭に普及させるためにここでテストしてるってわけ?」

「そうなるな。実際、この家に採用されている技術はもうほとんどが本土にフィードバックされてるぞ。新築なんかは大体こんな感じだ」

「ふーん」

 頷きながら適当に中を見て回り、荷物が運び込まれるのを待ち、それが終われば荷解きをする。

 趣味が少なく持ってきた物も少ない灯眞は真っ先に荷解きを終え、リビングに降りる。

両親は食器を出している最中だった。

「終わったなら好きにしてていいぞ。部屋で休んででもいいし、外を見て回るのならそれでもいいし」

「手伝わなくていいの?」

「いいわよ別に。家具は備え付けのものがあるから、そこまで大掛かりな作業はしないし」

 おっとりと微笑む母の言葉に、灯眞は僅かに首を傾けて唸ると、「分かった」と首を縦に振る。

「なら少し外に出てくる。近くに何があるのか、見て回りたいし」

「分かったわ。迷子にならないように気を付けるのよ?」

「なるわけないだろ。何歳だと思ってるんだ」

 肩をすくめながらリビングを後にする。そもそも今の時代、スマホがあればなかなか迷子になることもないだろうに。

 そんなことを考えながら外に出て、先ほど通ってきた道とは反対方向に足を向けた。

 マップによるとこの先はひたすらに海岸線が続いているようだが、何か目に付く施設はあるのだろうか。

「大型商業施設は林を挟んだ向こうか。……最新技術列島って言うわりに、田舎みたいだな?」

 白樹島は島の中に大きく二つのエリアがある。

 一つが灯眞のいる住宅街エリア。こちらには民家の他にスーパーやコンビニ、学校などがある。

 もう一つは港も存在している商業エリアで、こちらは一区画が丸ごと最新技術の見本市のようになっているようだ。

 実際、先ほどの港からの道すがら、本土では見られなかったような建物や機械がいくつか目に付いた。

 この人工列島は五つの島で構成されていて、白樹島は五つの中では中間レベル、と父が話していたのを思い出す。

 この中間レベルというのは、最先端技術の生活と既存の生活様式が半々になっているという話だ。

 他の島はより最先端技術を使っているところもあれば、どちらかというと地方にある離島のような生活を送っている場所もあるとか。

 そんなことを考えながら歩いていると、灰色の堤防が目についた。

 一見普通の堤防だが、これも何かしらの最新技術の結晶だったりするのだろうか。

 ふと気が向いて堤防の階段を上り、砂浜とその先に広がる青い海を見ようとして──。

「ハァァァッ!」

 青い海の上、青い空のキャンパスの中。

 そこで翼を広げ、剣を手に飛ぶ少女を見た。

「ハッ!」

「シッ……!」

 よく見れば少女ともう一人、恐らく同年代の男がいた。

 男の背にも羽が生えていて、手には剣が握られている。

 そして二人ともサイクリングジャージのような体に貼りつくタイプの服を纏い、その上からゴテゴテした機械をいくつか装着していた。

 違いがあるとするなら、少女は二刀流。男は一刀流ということ。少女の剣は、男の剣より少し短いこと。

 それと少女の羽は後退翼で、薄青く輝いている。そして男の方は、三対の細長い、例えるならトンボの翅のようなものだった。

「セイヤッ!」

「やらせん!」

 空を飛び交う二人はコマのように反発しあい、激しい剣戟を繰り広げる。

 青空の下を遊弋する刃が駆け、弾き弾かれ火花のようなものを散らした。

 その間も両者の視線は互いに向き合い、相手の一挙手一投足を見逃すまいと鋭く光り、素早く動き、休まることを知らない。

 二人は大きなブーツのようなものを履いていて、そこから甲高い音が鳴っていた。

 何度かの鍔迫り合いの後、男の方が少女を突き飛ばし、態勢を立て直そうと距離を取る。

 しかし少女はそれを見てニヤリと笑うと、体を前傾させながら足を折り畳み、直後、矢のように急加速して距離を詰めた。

 二人は空中で激しく衝突し、お互いに弾かれる。

 しかし追突された男と違い、少女は狙ってぶつかったのだ。

 当然、立ち直りは少女の方が早い。

「取った!」

 再び体を前傾させ、少女が男を猛追する。

 薄青の髪が風に揺られ、気迫のこもった瞳(ひとみ)が鋭く男を見据えていた。

「ッ!」

 男は起き上がりながら横薙ぎを繰り出すも、少女は右手の剣でそれを弾く。

 耳を打つ風切り音。それに気がついた直後には、男の手から弾き飛ばされた剣が灯眞の近くに突き刺さる──ことはなく、僅かに浮遊してやがて落ちた。

「やぁぁぁッ!」

 無手となった男に、気合一閃。

 振りかぶった左腕の剣を、少女は男の頭に叩きつけた。

 バチンッ! と激しい音がする。

 それと同時にブザーのような音が鳴り、空中に浮いている機械が試合終了の文字を表示した。

 今更気がついたが、二人の周囲には赤く光る線が引かれていた。

 どうやら試合場のようで、四隅には線を発生させている装置がある。

「なんだ……これ?」

 見たことのない光景だった。

 空を飛んで、剣戟を繰り広げる。

 文字にすればそんな簡単なことなのに、なぜかとても心惹かれる。

「おーい、キミ、大丈夫?」

 唖然としたまま空を見上げていると、先ほどまで刃を交えていた二人がゆっくりとこちらに下降してきた。

「飛ばしちゃってごめんねー。当たらなかった?」

 そう問いかけてくる少女は、綺麗な薄青の髪を高い位置でサイドテールにしていて、同じく薄青の瞳には勝気な雰囲気を感じさせる光があり、とても可愛らしかった。

 浮いているため灯眞より高い位置にその瞳があるが、身長自体は灯眞より少し低いだろう。体は細く引き締まっているが、痩せ細っているということはなく、健康的な細さだ。

 少女は灯眞の前でふわりと着地し、背中の羽が溶けるように消えた。

 隣に着地した男も同様で、三対の羽がすぅっと消える。

「すまない。怪我はないか?」

「えっ? あ、うん。当たってないから大丈夫です」

「そうか。ならよかった」

 男は安堵の表情を浮かべると、砂浜に突き刺さった剣を抜く。

 近くで見る剣は、パッと見た限り竹刀や木刀と同じ大きさだ。

 違うのは、あまりに近代的な外装であるということ。

 剣の柄はシルバーで、鍔の近くにはスイッチが取り付けられている。

 鍔そのものも変わった形状で、ディスクのように薄いのではなく、厚くなっていた。

 刀身もこれまた特殊な形状で、艶消しの施された銀の刀身には廃熱フィンのようなスリットが入っている。

 こんな刀身では打ち合った際にあっさり壊れてしまいそうだが、先ほど空中であれほど鍔迫り合いをして切り結んだにも関わらず、刀身が破損したような雰囲気はないし、実際目の前の剣に破損は見られない。

「──っ、そ、そうだ! なぁ、さっきの競技は一体何なんだ!?」

 ハッとした様子で聞けば、二人は顔を見合せて口を開いた。

「さっきのは空の剣戟、スカイ・ソード・ファイトだよ。通称SSF」

「SSF……」

 繰り返すと、二人は揃って頷き、少女が苦笑を浮かべて言葉を続ける。

「あんまり競技人口が多くないから、知らないのも無理ないよね。……と言うかキミ、見ない顔だけど、島の外から来たの?」

「えっ、ああ。今日引っ越して来たばっかりなんだ」

「へぇー。じゃあもしかして、DGPを使った競技を生で見るのも初めて?」

 DGPはDefy Gravity Particle (ディファイ・グラビティ・パーティクル)の略称で、反重力粒子と呼ばれることもある。

 これは二十年程前に発見されたもので、現在色々な分野に応用が利かないか研究中だ。そしてその舞台となっているのが、この人工列島である。

 DGPは空飛ぶ車を始めSF作品の中にしか存在しなかった様々な物を生み出せないかと研究されているが、真っ先に実用化され、普及したのはDGPを利用したスカイスポーツだ。

「百メートル飛行や障害物飛行、スカイバレーとかは知ってたし、テレビでみたことあるけど……SSFは初めて知った。あとスカイスポーツを生で見るのは初めて」

「へぇー、そっか。まぁホント、さっきも言ったけど競技人口少ないからねぇ……」

「そうなのか?」

 意外だ、と灯眞は思う。

 あれほど派手で目を惹く競技なのに。

 今まで沢山のスポーツを見てきたし、やってきた。だがそのどれとも違うものを、SSFからは感じた。

 空を駆けるということが、既存の多くのスポーツと違うというのはある。

 だがそれ以上に、心奪われた。

 どこまでも青い、吸い込まれるような青空の下を、粒子の尾を引かせ翼を広げ、剣を交えるその姿に。

 だから競技人口が少ないというのが信じられなかった。あんなに──。

「あんなに楽しそうなのに」

「とっても楽しいのに」

 灯眞と少女の声が重なり、思わず顔を見合わせる。

「──ははっ、そうだよね!」

 少女は顔を輝かせ、ガシッと灯眞の手を掴む。

「楽しそうでしょ? すっごく楽しいよ!」

「お、おう」

 いきなり手を掴まれドキッとしていると、少女は先ほどまで戦っていた男の方に顔を向け、お願いするように頭を下げた。

「さっきので終わりって話だったんですけど、もう少しだけ付き合ってくれませんか!」

「構わない。時間はあるし、せっかくのチャンスを逃す気もない」

 男は頷くと、再び背中に三対の翼を広げて飛び上がる。

「あっと、先に聞かなきゃだった。ねぇ、今からもう何戦かやろうと思うんだけど、時間ある?」

「あ、ああ。あるよ」

 そう答えると、少女は手を放して背中に後退翼のような薄青い翼を広げる。

 視界の中で光るそれは風にはためきこそしないものの、まるでマントのようだった。

「せっかくだから見てて! SSFには魅力がたっぷりあるってこと、教えてあげるからさ!」

 少女は満面の笑みで微笑むと、ものすごい勢いで浮上していく。

 それから互いに向き合う形で剣を構えるとブザーが鳴り、両者は動き始めた。

 まず少女が素早く動き、右へ、左へ動いて揺さぶりをかける。

 男はそれには動じずどっしりと構え、出方を窺っていた。

「ヤッ!」

 少女が動き、右──と見せかけて左へ素早くスライド移動して攻撃。

 男は冷静にそれをかわすと、剣を頭の右手側に寄せた、いわゆる八相の構えから剣を素早く振り上げる。

「おぉぉッ!」

 気合と共に振り下ろされる剣だが、少女は二刀流だ。片方は振り切っていて間に合わないが、もう片方の剣が男の攻撃を迎撃した。

 そのまま鍔迫り合いに移行するかと思ったが、男はバックジャンプで距離を取ると、仕切り直しとばかりに再び八相の構え。

 対して少女はそれを許さないと言うように距離を詰め、再び振りかぶる。

 目にも止まらぬ連続攻撃のたびに、赤い粒子が弾け飛ぶ。

 よく見れば粒子は剣のスリットから放出されているようで、それが刃を交えるたびに、火花のように飛び散っているのだ。

「──すげぇ」

 それは、今まで見てきたスポーツの中でもっとも激しく、もっとも強く灯眞の心を揺さぶった。

 大枠で見れば剣道のように見えなくもない競技だが、剣道はもっと静かだ。

 剣道は正直、地味と言えなくもない競技だ。もちろん一本取ったときの盛り上がりや、鍔迫り合いで競り合う姿は見ごたえがあるし、熱さがある。

 それに剣道はスポーツである以前に武道だ。道を極めるためのものだ。

 伝統と格式に彩られた武道は、派手である必要など別にない。

 だがSSFはそれとは根本的に違う。武道ではないし、やっていることは熱量の押し付け合いだ。

 一刀一刀振るうたびに光が弾け、背中の翼や剣から粒子が放たれ、それが選手の体を強く押す。

 そうして何度も、何度も、打ち込み稽古のようにぶつかり合い、ときに静寂が生まれ、それをまた激しさが打ち消していく。

 だが激しいと言っても粗野であるとか過激であるとか、そういうことではない。

 空を彩る翼に、剣戟のたびに飛び散る粒子。

 それが不思議なことに、綺麗だった。

 いや、綺麗なのはSSFだからというだけではないかもしれない。

 まるであの空が自分の庭であるかのように、自由自在に飛び回る彼女。

 あんな風に空を飛べたら、あんな風に戦えたら──。

「めっちゃくちゃ楽しいだろうな……!」

 ──結局その後、日が暮れるまで二人は勝負を繰り返し、灯眞もまた、それを見ていた。

 二人と別れて家に戻った灯眞は、連絡が付かなかったことについて小言を言われると思ったが、灯眞のそわそわした雰囲気から何か感じ取ったのか、両親は苦笑して肩をすくめるだけだった。

「……スカイ・ソード・ファイトか。知ってはいたぞ」

 夕食を囲んでいるとき、さらりと言ってのけた父の言葉に、灯眞は思わず顔を顰める。

「なんで教えてくれなかったんだよ、あんな楽しそうなスポーツ」

「いや、なんでって言われてもな……」

 二人には、外に出た後灯眞が何をしていたのかを話した。

 それを聞いての父の言葉だった。

「百メートル飛行とかスカイバレーと違って、人工列島の外には浸透してないスカイスポーツだからな。話題に出す機会もなかったんだよ」

「ああ……昼間の二人も同じようなこと言ってたな」

「その子たち、白樹島の子だったの?」

 首を傾げる母に、灯眞はコップのお茶を飲み干してから頷く。

「女子の方は。俺と同じ学年で、白樹高校の生徒だってさ。確か……そう、歌澄真菰」

 歌澄真菰(うたずみ まこも)。別れ際に名乗った、薄青のサイドテールの彼女の名前だ。

「真菰ちゃん。可愛い名前ねぇ」

 そこには特に反応せず、灯眞は話を続ける。

「俺、歌澄から興味があるならSSF部に入らないかって言われてさ」

「へぇ。まぁ止めはしないけど……バスケットボールはいいの?」

 いいの、というのは、続けなくてもいいのか、ということだ。

 灯眞は転校前の学校ではバスケ部に所属していた。

 さらに言うと中学生の頃は水泳部に所属していて、小学生の頃はサッカーのクラブチームにも野球のクラブにも入っていた。

「……いいよ。こっちで続けようか、迷ってたところだから」

 そう言えば、両親は顔を見合わせ、少し考える素振りを見せる。

 だが結局、二人は微笑んで頷き、SSF部に入ることを認めてくれた。

「まぁ、灯眞がやりたいようにやりなさい。あなたは運動神経がいいから、どんなスポーツをやってもすぐ上手くなるものね」

「はは……。うん、そうだね」

 渇いた笑みをこぼし、灯眞は夕飯を食べ終え一足先に自室に戻った。

「上手くなる、か」

 空気に溶かすような呟きと共に、椅子の背もたれに寄りかかる。

 開けている窓からは涼しい風が吹き込み、カーテンを揺らして灯眞の肌を撫でる。

 今はまだ三月だが、あと数日で四月になり新年度が始まる。

 不安はある。新しい土地に新しい学校に、色々と。

 だが今はそんな不安を、SSFへの期待感と、瞼を閉じればすぐにでも蘇る試合の高揚感が掻き消してくれる。

「……っと、そうだった」

 灯眞はスマホを取り出してメッセージアプリを起動し、新しく追加した連絡先へメッセージを送る。

 送り先の名前は、歌澄真菰。

 片付けをすると言って試合相手の男と器具をしまう直前、教えてくれたのだ。

【〈灯眞〉 両親にSSFのこと話した。オッケーだってさ】

 そうメッセージを送ると、意外と早く既読がついた。

【〈真菰〉 よかった! なら細かいことは今度、学校で話す? もしキミの時間に余裕があるなら、学校始まるまでに直接会って教えるよ!】



 引っ越してきた翌日の朝。ジャージ姿の灯眞は昨日と同じ砂浜に訪れていた。

 訪れると言っても、家から徒歩十数分だが。

「あっ、来た来た」

 堤防に上がって砂浜とその先の海を一望していると、よく通る声が聞こえた。

 そちらに顔を向ければ、歌澄が手をブンブンと振っている。

「おーい、灯眞くーん!」

 手を振り返しながら近づくと、歌澄は腰に手を当てて笑みを浮かべた。

「おはよう、灯眞君」

「おはよう、歌澄。こんな時間からありがとな」

「いいっていいって。SSFをやる人が増えるの私も嬉しいし」

 歌澄は笑顔のまま言うと、空に視線を向ける。

 灯眞も続けて空を見ると、今まで気がつかなかったがもう一人の人物がいた。

 てっきり昨日の男かと思ったが、背格好が違うし、背中の翼も形が違う。

「彼は?」

 そう聞けば、歌澄は耳に付けたヘッドセットのマイクを起動し、空にいる人物に声をかける。

「翔、降りてきてくれる?」

 その言葉を受けて、翔と呼ばれた人物がゆっくり砂浜に下降してくる。

「丁度良かった。今マーカーのセットが終わったところだったんだ」

 翼を消して着地した人物はそう言うと、灯眞の方に顔を向けた。

 青い髪をアップバングにした少年だ。背丈は灯眞よりやや低く、体の線も細い。

「紹介するよ。私の弟の翔」

 歌澄が笑顔で言うと、翔はぺこりと頭を下げた。

「初めまして。歌澄翔(うたずみ かける)、です」

 活発な印象のある歌澄とは違い、内向的な雰囲気を感じさせる声と仕草だった。

「初めまして。詩島灯眞だ」

 灯眞も挨拶をすると、翔はそそくさと一歩下がる。

 代わりに歌澄が前へ出て口を開いた。

「翔には空中のライン……試合場や練習場を区切るマーカーの設置を手伝ってもらってたんだ」

「空中に浮いてるあの機械か」

「そう。あれもDGPを利用してて……って、そんな話は後でいいよね」

 歌澄は苦笑すると、堤防の上に置いてあるバッグを取ってきて灯眞の前に置く。

 バッグから覗いているのは、何やら仰々しい機械たちだ。

「あっ……これ、歌澄が付けてる装置か」

「弟とややこしいから真菰でいいよ。弟も翔って呼んであげて?」

 歌澄──真菰はそう言うと、バッグの前にしゃがみ込んで中にがさごそと手を入れる。

「本当はSSFをやるには色々と準備が必要なんだけど、面倒でしょ? だから、私のお古だけど、今は使ってないウィングを持ってきたんだ」

 そんな言葉と共に立ち上がると、手には五角形の機械が握られていた。

 機械は中心に丸いクリアパーツがついていて、その周囲をマリンブルーの外装が囲んでいる。

 外装部分には縦にスリットが入っていて、細かなファンがついていた。

 その形を、今の灯眞は知っている。

「それがウィングのコアパーツか」

「あ、調べた?」

「ちょっと気になって。DGPのこととか、よく知らないし」

 灯眞は昨晩、SSFやDGPについてネットで検索した。

 ウィングというのはDGP発生装置のことで、昨日真菰の背中から伸びていた翼は、このウィングから放出されているDGPを可視化したものらしい。

DGPは本来透明無色だが、空中戦の見栄えをよくするためと、選手の判別を分かりやすくするために可視化したのだとか。

 剣道で選手が背中に着ける、たすきのようなものだろう。

「でも、いきなりで大丈夫なのか? ウィングを使うのに資格とかは必要ないみたいだけど……」

「へーきへーき。限界高度をかなり低く設定するし、いざとなれば私が受け止めるから!」

 ふふんっと腕を上げる真菰が可愛らしくて、思わず苦笑して「わかった」と頷く。

「ジャージのままでいいのか?」

「スカイスーツと違って動きづらいかもしれないけど、さすがにそっちは用意できなかったからね」

 真菰はそう言うと灯眞にコアパーツを手渡してくるので、受け取ってリュックサックを背負う要領で装備し、拘束具を調整して体にがっつり固定する。

 次に真菰が取り出したのは、マリンブルーの大きなブーツだ。

 脛ほどまで長く深いタイプのもので、パッと見た印象はスキーブーツに近い。

 これはウィングの補助装置兼姿勢制御用の機械らしく、SSF選手は主にこれを利用して自由な移動を可能にしているようだ。

「これ、サイズ合うのか?」

「うーん……ちょっと合わなそう。翔の予備で試してみよっか」

 そう言って取り出したのは、真菰のそれよりも大きいネイビーブルーのブーツだ。

 翔も灯眞よりはサイズが小さいように思えたが、調整が効く設計なのか、可動部の幅を緩めることで問題なく履くことができた。

「オッケー。じゃあ次はウィングとブーツを繋いで……」

 そんな言葉と共に慣れた手つきで作業は進み、ウィングとブーツをケーブルが繋ぐ。

 仕上げに前腕にウィング操作用のデバイスを取り付け、首元に思考操作用デバイスを装着すれば、準備は完了だ。

「これで準備完了! 一応聞くけど、思考操作デバイスは使ったことある?」

「何度か。複雑な操作は分からないけど、動かすくらいならできるよ」

 そう言いながら灯眞は首元に手を当て、思考操作デバイスの電源をオンにする。

 真菰が一歩退いたのを確認して、脳内で飛行するイメージを浮かべる。

 するとデバイスを通して思考がウィングに伝わり、微かな機動音と共に粒子が放出されるのを肌で感じた。

 DGPは人間の体を覆うように定着し、その体を重力の楔から解き放つ。

 頭のてっぺんから爪先まで粒子が包んだ、と実感すると同時にふわりと体が宙に浮いた。

「お……おお?」

 地に足が付いていないということに一瞬不安感がよぎるが、すぐにそれは高揚感に上書きされる。

「おぉ……!」

 五メートルほど上昇したところで灯眞は制止し、水平線の向こうへ目を向ける。

 たったこれだけ、たった五メートル浮いただけだというのに、世界がものすごく広がったような気がした。

「すげぇ……!」

 ふと、風が優しく肌を撫でる。

 DGPは体を包んで重力に抗うが、風や物質を通さないわけではない。

 だから、島に吹く涼しい風が心地いい。

「てっきり安定できずに振り回されると思ったけど、落ち着いてるね?」

 下方から声をかけられて下を向くと、真菰が意外そうな表情で灯眞を見ていた。

「結構無理してない?」

「いや、特にそんなことはないよ。むしろ力を抜いてるくらいだ」

 今の灯眞は立っていない。DGPに身を任せ、ふわふわと漂っているようなものだ。

「凄いね灯眞君。ウィング使うの初めてなのに力まないなんて」

 そう微笑むと、真菰は自身のウィングを起動して灯眞の隣に並び浮かぶ。

「初めての人って大体浮いてる感覚に馴染めなくて、変に力んじゃうんだよね。で、足場がないのに力んじゃうと力が逃げちゃって、そのままクルクル回ったりするの」

 真菰は空中で前転するように回って笑う。

「へぇ……。それ、先に教えてくれなかったのは悪戯心?」

 ジト目を向けて聞けば、真菰は目を逸らして頬をかく。

「いやぁ……ごめんね、忘れてた」

「忘れ……いや、まぁ何ともなかったからいいけど」

 灯眞は真菰から再び海へ視線を向け、どこまでも続く水平線を眺めて感嘆の息を漏らす。

 昨日フェリーで見たときはどこまでも代わり映えしないと思った景色が、少し視点を変えただけでとても輝いているようだった。

 それから灯眞は真菰に促されて一度着地し、翔にウィングの限界高度を上げてもらう。

 どうやら翔はSSF選手ではなく、ウィングの調整担当らしい。

「これで練習用のマーカーのところまで飛べるよ。さぁ、付いてきて?」

 真菰は一足先に飛び立つと、陽の光を背に受けて灯眞に微笑みかける。

 灯眞は頷いて瞳を閉じ、再び飛行するイメージを思い浮かべた。

 再びDGPが体を包む感覚がして、足が砂浜を離れて上昇して行く。

 今度は五メートルを超え、灯眞はあっという間にマーカーのある十メートル地点に到達した。

「あははっ、ここまで上昇しても姿勢がブレないなんて、本当に凄いよ、灯眞君。このまま向こうのマーカーまで飛んでみようか」

 真菰が指さしたのは、前方百メートルほどの位置にある機械だ。

 昨日調べた情報によれば、SSFの試合場は一片の長さが百メートルの正方形らしい。

 対戦格闘競技としては中々に広大に思えるが、飛行しながらの試合となると百メートルくらいが丁度いいのかもしれない。

「飛行姿勢は基本的に前傾だよ。体を海面に向けて、でも顔だけは前に。移動するときは背中や足のスラスターからDGPを噴射して、その反動を利用するの」

 そう言うと真菰は軽く体を倒し、五十メートルほど進んだところで振り返る。

 泳ぐような感覚か。

「こんな感じ!」

「分かった。やってみる」

 灯眞は体を前に倒し、ブーツ裏に設置されているスラスターからDGPを噴射する。

「うーん……?」

 灯眞の予想に反し、体は大して前進しない。

「もっと思いっきりー!」

「分かったー!」

 ブンブンと手を振る真菰に応じ、灯眞は再度スラスターを吹かす。

 すると、微かだった駆動音が大きくなり、体がぐんっと強く押された。

 一方向にDGPを噴出すると体のバランスを崩しそうなものだが、全身に定着したDGPが体を支えてくれるお陰でそんなことはなく、思いの外スムーズに体は前進する。

「こんな感じか……」

「そうそう、そんな感じ!」

 速度はゆっくりだったが真菰の隣に到達し、それからもう五十メートル進んでマーカーの手前で停止する。

「いい感じだね。そのまま速度を上げていけば、空を飛ぶのがもっと楽しくなるよ」

 真菰はまるで自分のことのように楽しそうに笑う。

「もっと楽しくか……。よし、今度は次のマーカーまで移動する。見ててくれ」

「いいよ。頑張って!」

 真菰の応援を背に受け、灯眞は前傾姿勢に。

 脳裏によぎるイメージは鳥か、あるいは矢だろうか。 

「──よしっ」

 灯眞はその場でスラスターを吹かすのではなく、体を小さく畳むようにして、不可視の壁を蹴るようにして飛び出した。

 再びぐんっと体が押され、今度はそれだけではなく体に風が吹き付けるような感覚があった。

 先ほどより速度が出ているのだ。

「この感覚だ……!」

 灯眞は内心でガッツポーズをし、さらに加速するようにブーツのスラスターを吹かす。

 これでさらに速度が──。

「んお……っ!?」

 速度は出たが、同時にバランスが崩れそうになり、灯眞は足に力を込める。

 だが、力を入れようとした際に足が不用意に動いてしまい、結果的にはそれがトドメとなって灯眞はバランスを崩してしまった。

「っんの……!」

 バランスを崩したことで天地が逆転し、視界が一瞬にしてひっくり返った。

灯眞はあえて力の流れに逆らわずに半回転し、ブーツの底が海面に向いた瞬間に目いっぱいスラスターを吹かして急制動をかける。

 膝を折りたたんで力を逃がしてやると、反動に振り回されかけた体はなんとか停止してくれた。

「お、自分で止まれた。大丈夫だった?」

「なんとか。ちょっと焦ったけど」

 ゆっくりと近づいてくる真菰の方を向き、灯眞は肩をすくめて応じる。

 先ほど真菰が言っていた、初心者は変に力んでしまって回転してしまうというのを思い出す。

(飛ぶときには自然体でいろってことか……。でも、自然体じゃ高速飛行したときに空気抵抗に押し負けるよな……?)

 自分の体を見下ろしながら心中で呟き、灯眞は顎に手を当てる。

 早い話、力まない程度の力加減で飛行姿勢を維持しろということだろうが、SSFはその上で目の前の対戦相手の挙動を意識し、戦わなくてはならない。

「そりゃ人口増えんわな……」

「ん? どうかした?」

「いや、独り言。もう一回やってみる」

 灯眞は首を振り、再びスラスターを吹かしてマーカーへ。

 全身に風を受けながら上昇し、再び不可視の壁を蹴るように加速。

 今度はバランスを崩さないように背中のスラスターも吹かし、ピンと足を伸ばす。

 今度はバランスを崩すことなく、灯眞はマーカーに辿り着くことができた。

「できた……!」

「おー! 身に着けるのが早いね!」

「そうなのか?」

「うん。普通はみんな、そんなすぐ飛べるようにはならないよ」

「普通は……」

 その言葉に、灯眞の心が微かにささくれ立つ。

 前にも同じことを言われた。でも結局、灯眞はそこどまりだった。

「──なぁ、もっと色々教えてくれ。次は何をすればいい?」

「あははっ、熱心だね。いいよ、沢山教えてあげる!」

 微かな感情の揺らぎを悟られないように問えば、真菰はそれに気付いた様子もなく明るい笑顔で応じてくれる。

 結局この日はお昼を挟み、日が暮れるまで飛び続けた。

「もうこんな時間か……」

 マーカーなどの片づけを手伝い、着地してスマホを見た灯眞は驚き交じりの声色で呟く。

 楽しい物事ほど体感時間は短いものだが、今まさにその感覚に陥っている。

 丸一日中飛んでいたのに、二、三時間しか経っていない気がした。

「いやー。キミ本当に凄いね! まさか一日でこんなに飛べるようになるなんて!」

 灯眞の隣に着地し、翼を消滅させながら真菰が言う。

 灯眞はこの日、ウィングを使用した飛行の基礎は大体できるようになった。

 直線飛行、加速、上昇、下降、カーブ、旋回などなど。

 カーブと旋回に関してはまだスムーズとは言えないが、形にはなっている。

「こうなると、思いの外早くSSFの練習に入れるかも」

 真菰はうーんと考えるように唸ると、可愛らしく首を傾げる。

「ねぇ、明日は時間ある?」

「ああ、あるよ」

「じゃあ……」

 真菰はぴょんと跳ねるような動作で灯眞に近づくと、顔を近づけて上目遣いに灯眞を見てくる。

「私と付き合ってくれない?」

「えっ……?」

 突然の言葉に殴られたような衝撃が体を駆け、飛んでいるときとは違う高揚感や期待感が襲い掛かって来る。

「いや、いきなり何を──」

 真菰の顔が近い。青い瞳が灯眞を見上げ、小さな口は可愛らしく吊り上がっている。

 昨日会ったときにも思ったが、真菰はとても可愛い。

 明るく快活で、元気いっぱいで、愛嬌に溢れているとでも言えばいいか。

 そんな真菰が、こんな至近距離で──。

「明日、ウィングを買いにスポーツ店に!」

 灯眞の言葉を上書きするその発言で、高揚感や期待感は一瞬で消し飛んだ。

 一体何を勘違いしているのか。

「あ、ああ……。うん、いいよ」

 当然だろう。真菰とはまだ出会ったばかりだし、そもそも会話の流れから考えたらSSF関連の話題になるのが自然だ。

 ただちょっと、思わせぶりな言い方と仕草だったというだけで。

「よかった! あっ……でもウィングって結構いい値段するんだよね……。学校が始まれば部費から出せるだろうけど、今すぐってなると……」

「あー……いや、大丈夫。前にバイトで貯めた分と、あとは親に頼んで工面してもらうよ」

「そう? じゃあ決まりだね!」

 真菰は楽しそうに言うと、バッグを取りに堤防の方に歩いていく。

 すると、入れ違いに近寄ってきた翔がおずおずと声をかけてきた。

「なんかすみません。姉さん、ちょっと精神年齢が低いと言うか、そういうところに意識が向かないと言うか……」

 どうやら灯眞の勘違いを見透かされているようだった。

「いや……うん、まぁ、大丈夫。何でもないよ」

 強がって言うが、正直なところを言えばとても恥ずかしかった。



「あ、もう来てる! ごめん、待たせちゃった?」

 白樹島に越してきて三日目。バス停の前でスマホを眺めていた灯眞は、真菰の声に振り返る。

「大丈夫。俺の家の方が近かっただけだから」

「そう? ならよかった」

 安堵したように息を吐く真菰は、昨日一昨日と見てきたスカイスーツとは違い私服だ。

 髪色に似た薄青いオーバーサイズの長袖Tシャツに丈の短いショートパンツ。ウェストポーチを肩掛けにしたその姿は、真菰のイメージ通りといった様相だ。

「姉さんが起きるの遅いからギリギリになっちゃったんでしょ。気を付けなよ」

 真菰の後ろからそんなことを言うのは、こちらはパーカーにスキニーというシンプルな服装の翔だ。

 こうして似たような服装で並んでいるのを見ると、なるほど姉弟だなと実感する。

 もっともシンプルな服装という意味ではTシャツ、スキニー、カーディガンという灯眞も似たようなものだが。

「起きるの遅いって言うけど、そんなこと言うくらいなら起こしてくれてもよかったのに」 

 真菰は頬を膨らませて翔を睨み、翔は溜息を吐いて分かりやすく肩をすくめる。

 内向的な印象を抱かせる翔だが、やはり家族相手では勝手が違うのだろう。かなり砕けた態度をとっている。

「何度も声かけたよ」

「むー……」

「真菰、朝弱いのか? ……いや、もう朝って時間でもないけど」

 スマホの画面に表示される時刻は十時三十分。朝とは言いにくい。

「いやぁ……学校ある日とか大会の日は大丈夫なんだけど、休みの日ってどうしても起きるのが遅くなっちゃうんだよね。ない? そういうの?」

「俺はあんまりないな。平日と同じ時間とは言わないけど、八時くらいには起きるよ」

「早いなぁ。なんか勿体なくない? どうせ休みなんだから沢山寝てたいなーって思うんだけど」

「分からなくもないけど、なんか自然に起きちゃうんだよな」

 そんなことを話していると、静かな駆動音が近づいてきた。

 振り返れば、小さなバスが停車するところだった。

 自動運転のバスに乗り込み、最後尾に三人並んで座る。

 バスの中には他にも数人の乗客がいて、思い思いに過ごしている。

 三人を乗せたバスはもういくつかのバス停を経由し、商業エリアへ向かう。

「ホントは商業エリアまで飛んでいけると楽なんだけどねー」

「商業エリアは飛行禁止区域なんだろ?」

「うん。だから楽なんだけどねって」

「仕方ないでしょ。商業エリアの飛行を解禁したら、絶対空が混雑するんだから」

 翔の溜息交じりの言葉に、灯眞はそう言えばと思い出したことが一つ。

「商業エリアって、人工列島の技術のアピールの場でもあるわけだよな? 混雑はともかく、ウィングを普及させたいなら飛行禁止区域にしなくてもいいと思うけど」

 白を基調にした真新しい建物に交通システム、そして空を飛ぶ人間。この上なく近未来感溢れる絵面だと思うのだが、なぜそうしないのだろう。

 そんな素朴な灯眞の疑問に、翔は首を横に振りながら答えてくれる。

「島ができてすぐは飛行可能だったみたいですけど、空中事故が多発してから禁止になったんです。それに百メートル飛行やスカイバレーを通してウィングそのものの知名度はかなり上がってますから、普及を見据えた飛行解禁もあり得ないでしょう」

「あー……。もうアピールの必要がないってことか」

「はい。飛行解禁して事故が増加したら、結局アピール面でも逆効果ですし」

 確かに翔の言う通りだ。

 ウィングを解禁した結果街中で衝突事故や落下事故が多発すれば、本土の人間はウィングの存在意義を怪訝に思うかもしれない。

 いや、実際思うだろう。

 似たような立場にあったものに電動キックボードがあるが、これは今でこそ法整備が進められて多くの市民の足になっているものの、一時期は事故が多くかなり批判の的にされたようだ。

 そんなことを思いながら車窓に目をやれば、バス停に停止するところだった。

 次第に乗客も増えてきて、そうしてバスは商業エリアに到着する。

「改めて見ると凄いな、ここ」

「あははっ、そうだね」

 バスを降りて呟く灯眞に、真菰が笑みを浮かべる。

 島に来たときにちらりと見ただけの商業エリアは、それはもう驚くほどに近未来的な街だった。

 白やグレーの多い建物は真新しく、ガラス張りの外見は透き通るような印象を見る者に与える。

 街灯は全てLEDで、道路の標識は実物ではなくホログラムを投影したものだ。

 そして驚くことに、歩道には空港のムービングサイドウォークのような動く床がある。

「まるで創作物の中みたいだ……」

 吐息のような呟きは二人には聞こえなかったようで、早く行こうと真菰が急かしてくる。

 灯眞は二人に続いて歩き出し、バス停近くのショッピングモールに足を踏み入れた。

 店内は本土にもあるものと似ているが、案内掲示板のホログラムや店員代わりのAIロボットなど、要所要所で近未来的な要素を感じる。

「あ、ここだよ」

 二人に案内された店は、ショッピングモール内の一角にあるお店だった。

 どうやらスポーツ用品店というよりは、スカイスポーツ専門店らしい。

「あれっ、真菰ちゃん? 翔君も一緒にどうしたんだい?」

 そう声をかけてきたのは、店のロゴの入ったエプロンを着た若い男性店員だった。

「こんにちは。SSFを始める友達のためのウィングを探しに来たんです」

 真菰の言葉を受け、店員の視線が灯眞に向く。

「へぇ。見ない顔だけど、転校生?」

「そうなんです。昨日初めてウィングを使ったんですけど、すっごい飛ぶのが上手だったんですよ!」

「真菰ちゃんが言うからには、よっぽどなんだね。色々あるからゆっくり見ていくと──」

 そんなことを店員が言っていると、店の奥から他の客に呼ばれてしまう。

 店員は苦笑してから翔に顔を向け、「キミがいるなら心配ないね」と言い残し、客の元へ向かった。

 それから三人はウィングの置かれたコーナーに足を向ける。

 ウィングのコーナーには沢山の商品が並んでいて圧巻だったが、SSF用、あるいはSSF使用可能商品となると数は三分の一ほどだった。

「これ、色以外に何か違うところがあるのか?」

 ウィングは大きく分けるとコアパーツとブーツの二つの機械で構成されている。

 棚の中には、それぞれが別個で売られている商品もあった。

「メーカーごとに違いはあるけど、正直どれも似たようなものだよ」

「そうなのか?」

「うん。SFFは三種類のウィングと、例外はあるけど大体三種のソード……あの剣のことだよ。あれの組み合わせでいくつかのプレイスタイルに分かれるんだ」

「へぇ……ん? じゃあウィングにも違いがあるんじゃないのか?」

 灯眞が首を傾げると、真菰は苦笑して首を横に振る。

「まぁ説明だけ聞いたらそう思うよね。でも違うんだ」

 そう言うと真菰は、商品を見ていた翔に視線を送った。

「えっ、僕?」

「うん。私より説明上手でしょ?」

「……はいはい」

 翔は溜息を吐くと、商品の一つを手に取った。

「さっき姉さんは三種類って言いましたけど、それはウィングの調整次第で変わるんです。なのでベースとなる商品はどれも似たような性能なんです」

「調整次第……」

「はい。基本的なノーマルスタイル。スラスター出力を高くするパワースタイル。スラスターの反応を機敏にするアクティブスタイルの三つです」

 ノーマル、パワー、アクティブ。字面から察するに、当然基本はノーマルだろう。

 ではパワー、アクティブは──。

「パワースタイルはサブスラスター出力が高いスタイルです。出力はパワーとイコールなので、鍔迫り合いなどで有利に立ち回れます」

 サブスラスターというのはコアパーツの外周やブーツの側面などにあるスリットのことで、主に姿勢制御や加速に使用するらしい。

 対してコアパーツの中心、ブーツ裏のスラスターをメインスラスターと呼ぶのだとか。

 基本的に飛行する際は水泳のように体をうつ伏せにして飛ぶウィングだが、SSFの試合中にお互い俯せになったままチャンバラをしていてはあまりにも格好がつかない。

 とは言えメインスラスターは背中と足裏であり、無理な姿勢を取らないと前か上にしか進めないのは不便だ。

 そういう経緯があり用意されたのが、この姿勢制御装置(サブスラスター)らしい。

「アクティブスタイルは、サブスラスターの初速に優れ、繊細な挙動とフェイントを交えたトリッキーな戦い方ができるスタイルです。その分、最大出力……パワーでは他二つに劣りますが」

 翔がここまで説明したところで、真菰がぴょんと跳ねて割って入る。

「私のウィングはアクティブスタイルだよ。昨日キミに使ってもらったのは、ノーマルスタイルだけど」

「へぇ。さっきメーカーごとに違いはあるって言ってたけど、おすすめはあるの?」

 ずらりと並んだ商品を見やりながら言うと、二人は顔を見合わせてからそれぞれ商品の箱を指差した。

「僕はミツバが出してるストライカーが無難かと。操作性重視の仕様なので調整の幅は狭いですけど、それでも性能は十分ですから」

翔の言葉に灯眞は「なるほど」と頷く。初心者向けで扱いやすいということなら、確かに無難な選択肢だ。

それにミツバというメーカーも聞き覚えがある。動画サイトやテレビの広告で名前を見かけるメーカーだ。

「私はクイックのラプターがいいと思うな」

 真菰が指差した箱は、翔の示したそれとは明らかに経路の違うものだった。

 ミツバというメーカーの名前には聞き覚えのあった灯眞だが、クイックは完全に初耳だ。

「姉さん、正気? 初心者にクイック……それもラプターなんて」

 信じられないものを見るといった表情で翔が言う辺り、特異な選択肢のようだ。

 とは言え。

「メーカーごとに違いがあるって言っても、どれも同じようなものってさっき真菰は言ってたよな? このラプター……と言うかクイックっていうのもそうじゃないのか?」

 ふと思ったことを問い掛けると、翔は首を横に振る。

「基本的にはそうなんですけど……クイックは海外のメーカーで、奇抜な商品が多いんです。このラプターも、調整の幅は広いんですけど、その分操作性に難があって……」

「ふーん。で、どうして真菰はこれを?」

 箱を眺めながら聞けば、真菰は思いの外真剣な表情で口を開いた。

「確かに翔の言う通り、ラプターは初心者向けとは言いにくいよ。でも灯眞君の才能を考えたら、ストライカーじゃすぐに性能が追いつかなくなると思う」

 真菰は翔から灯眞に視線を移して言葉を続ける。

「せっかく高い買い物をしたのに、すぐに機種変更するんじゃ勿体ないでしょ? だったら調整の幅が広くてスタイルチェンジが容易な方がいいんじゃないかなって」

「それは、確かに一理あるけど……」

 翔は真菰の言葉に納得したようなしないような、何とも言えない表情でラプターの箱を見つめる。

 一理あると認めるからには真菰の言葉にも共感できる要素があるのだろうが、やはりそこは選手と調整担当の意見の相違だろう。

 さてどちらを選ぶか、どちらも選ばず別のメーカーのウィングにするか。

 どうしたものかと二つを見比べる。

 どちらもコアパーツの形状は同じだが、ラプターの方がスリット、つまりサブスラスターが多い。ブーツにしてもそうだ。

 流線形のストライカーはいかにも初心者向けといったシンプルな外装で、逆にラプターは直線を多用した鋭角的な外装になっている。

 ──ラプター。確か意味は、猛禽類。

 なるほど確かに、それらしい外見だ。

「よし、決めた。こっちにする」

 灯眞はそう言い、ラプターの箱を手に取った。

「俺がこいつを使いこなせればいい話だもんな。そのくらい、やってみせるよ」

「おー。自信満々だね」

「灯眞さん自身がいいと言うなら、僕はそれを止めはしませんけど……。何かあったらすぐに言ってくださいね。何とか調整しますから」

「ああ。よろしく頼む」

 それから灯眞は、SSFで使用するソードも購入した。

 ソードは一刀流か二刀流か、通常のサイズか小太刀か、色々あるなかで通常サイズの一刀流を選んだ。

「よーっし、これでもっと本格的な練習ができるようになるね!」

 買い物を終えた後、真菰は嬉しそうに笑って言う。

 学校が始まるまで一週間もない。

 新たな土地、新たな学校、新たな友達。

 いよいよ本格的に、新しい日々が幕を上げようとしているのだ。



「えー。今日から皆さんも二年生です。新しく入学してきた一年生の手本になれるように、また勉強や部活など、やることも増えるでしょうけど、頑張りましょう」

 月が変わり、四月。

 新年度初日の学校で、灯眞はそんな話を廊下から聞いていた。

「それと、座席表に名前が増えていることからみんな察しているとは思いますが、転校生がいます。詩島君、どうぞ」

 その言葉に反応して教室のドアを開けると、教室内の視線が一斉に灯眞に向いた。

 今までは視線を向ける側だった灯眞だが、向けられる側はこんな気持ちなんだな、とそんな感想を抱きながら教卓の隣へ。

「えー……初めまして、詩島灯眞です。こっちに引っ越してきてばっかりで色々と不慣れなんですけど、今日からよろしくお願いします」

 そんな当たり障りのない挨拶をしてぺこりと頭を下げれば、みんな拍手で迎えてくれた。

 教室内を見回すと、一人だけ見知った顔がある。

「じゃあそこの空いている席へ。体育館に移動する前に、連絡事項をいくつか伝えるので」

 そう言って担任教師が黒板代わりの大型モニターを起動し、連絡事項を表示させる。

 さすがに最先端技術の集合場所である人工列島だけあって、教室も本土のそれとはかなり違う。

 黒板代わりのモニターもそうだが、机には携帯端末を接続するためのポートがあり、時間割表や通達も紙を教室の前後に張り出すのではなく、映像を投影する形になっている。

 実は転校前の諸々の手続きで担任とオンラインで面接をしたことがあり、教室を見るのは初めてではない。だがそれはそれとして、改めて見ると凄い場所だ。

 そんな感想を抱いている間に担任の話は終わる。

 体育館に移動するために立ち上がると、真っ先に真菰が隣に歩み寄ってきて笑みを浮かべた。

 白樹高校の女子の学生服はくすんだ水色のセーラー服に、膝上丈の灰色のスカート。真菰の場合はそれにプラスしてクリーム色のカーディガンを纏い、黒いタイツを穿いている。

「同じクラスだったなんてね。びっくりしちゃった」

「俺もだよ。運がよかった」

 灯眞も微笑み返しながら応じれば、周囲のクラスメイトたちは興味深そうに声をかけてくる。

「真菰ちゃん、詩島君と知り合いなの?」

「うん。春休み中に会ったの。学校始まるまでも一緒にSSFの練習したんだー」

「へぇー。じゃあ、詩島君はSSF部に?」 

 こちらに顔を向けた女子生徒の言葉に灯眞は頷く。

「え、でも引っ越してきたばっかりってことは、ウィングとか初めて使ったんでしょ? 大丈夫? SSFってスカイスポーツの中でも結構難しいはずだけど」

 他の女子生徒が灯眞の発言に首を傾げるが、それにはなぜか真菰が自慢げに答えた。

「それが灯眞君、初心者なのにすぐ飛べるようになったの。初めて装着したときも、全然力まないで簡単に浮遊してたんだー」

 その言葉に周囲のクラスメイト達がどよめく。

 どうやらウィングを用いた飛行というのは、灯眞が思っていた以上に難しいことらしい。

「すっげぇ。それじゃあ詩島って才能あるんじゃないか?」

「いや、あるんじゃないかじゃなくて、あるに決まってんだろ」

「いいなー。私、半年以上かかってようやくまともに飛べるようになったのにー」

 みんな口々に灯眞を褒め、羨望と期待と、とにかく色々な感情のこもった視線が向けられる。

 こういう注目のされ方、こういう褒められ方は初めての経験で、なんだかむずかゆくて仕方がない。

「真菰の教え方が上手いからだよ」

 だからついそんなことを言ってしまうし、実際そうなのだろうと思う。

 練習を始めてから知ったことだが、真菰は人工列島でも上位の実力者であり、前回の大会で優勝しているほどだった。

 そんな人物に教えられれば、誰だって上手くなるだろう。

「ほらほら、談笑は後にして移動しろー」

 担任の催促に従う形でその場をやり過ごし、灯眞たちは体育館へ。

 始業式とそれに合わせた親任式が行われた後、体育館から戻る道すがら、真菰が誰かに呼ばれて職員室へ向かった。

 クラスメイトが教えてくれたが、どうやら生徒会顧問の教員らしい。

「真菰って生徒会役員なのか?」

「いや?」

 教えてくれたクラスメイトは灯眞の質問に首を横に振る。

「そっか。じゃあどうしたんだろ」

 こういうことはよくあるのか、それとも稀なのか。転校してきたばかりの灯眞にはよく分からないが、灯眞には関係なさそうだと考えて教室へ。

 だが実は、このとき真菰が呼び出された理由は、灯眞にも深く関わりのあることだった。



「──顧問がいない?」

 転校初日の放課後。真菰から告げられた言葉に、灯眞は怪訝な声色を隠せず首を傾げる。

新年度一日目ということで午前中の授業のみで放課となり、帰り支度をしているところだった。

「そうなの。始業式の後に生徒会顧問の先生から聞いたんだけど、前までSSF部の顧問だった先生が急な病気で休職することになったって……」

「それは……えっ、副顧問の先生とかいないのか?」

「うん。SSF部は元々少人数だったし、部活動は先生にも拒否権があるから……」

 部活動顧問の拒否権。これは何年か前に導入された制度だ。

これは教員に過剰な負担を強いるだけで一銭にもならず、未経験の競技の部を任されることもある顧問制度は問題があると話題になり、それを受けた結果である。

 実際この制度を導入してから行ったアンケート調査によれば、教員の残業時間は減少しているという。

 とは言え、それによって部活動が成り立たなくなった学校もあり、特にマイナーな部活動ほど減少傾向にあるとかないとか。

「あー……。そうだよな。SSFもマイナー競技だもんな……」

 さんざん言われてきた競技人口の少なさというのは、当然それを指導する人間の少なさにも繋がることだ。

「ちなみに顧問がいないと……」

「……廃部だね……」

「そりゃ……」

 予想しなかった展開に思わず口ごもってしまう。

「と言うかそもそもの話、SSF部って俺と真菰と、あと誰がいるんだ?」

「翔だよ。実は今までは三年生の先輩二人と私一人で、ギリギリ部活動として認められる最低人数を満たしてたんだ。で、今年はどうしようかと思ってたところに……」

「俺が現れた、と」

 言葉を継いでやれば、真菰は首を縦に振る。

「灯眞君のおかげでどうにかなると思った矢先にこれだよー……」

 真菰はガクッと肩を落とす。

 するとまだ教室に残っていた他の生徒たちがわらわらと寄ってきて、何事かと問い掛けてくる。

 一日共に、いや半日共に過ごして分かったことだが、どうやら真菰はその持ち前の明るさからクラスの中でも人気者らしく、色々な生徒から声をかけられている。

「実は……」

 先ほど灯眞にしたものと同じ説明をし、真菰はクラスメイトにもどうしたものかと相談した。

「うーん……まぁ指導してもらわなくてもいいなら、誰かに頼んで形式上の顧問をしてもらうのがいいんじゃないかな」

「形式上の?」

 クラスメイトの言葉に首を傾げると、他のクラスメイトが言葉を引き継ぐ。

「大会の申請とか部費の管理とか、他にも対外的な事務処理だけをしてもらうの。それなら競技をやったことない先生でもできるからね。あとは新しくSSF経験者の先生を探すのが無難だけど……」

 クラスメイトは言葉の途中で気まずそうに苦笑を浮かべ、「ねぇ」と言う。

 何がどう「ねぇ」なのかは、明言されずとも理解できる。

「異動してない先生でSSF経験者の人はいなかったはずだから、新任の人に聞くしかなさそうかな。灯眞君、今から職員室行くけど、キミはどうする? 一緒に行く?」

 ちょこんと首を傾げる真菰の言葉に、灯眞は当然とばかりに頷く。

「そっか。ありがと。それじゃあ早速行ってこよう!」

 ──そうして始まった顧問探しだが、思いの外早くSSF経験者の先生は見つかった。

 居たのだ。今から五年前、白樹島ではないが人工列島で高校時代を過ごし、その間文字通りの意味で新興スポーツだったSSFに携わっていた人物が。

 その名も折月梓紗(おりづき あずさ)。今年から白樹高校で教鞭を取る二十三歳の新任教師だ。

 そしてその人物は今──。

「絶対やらないから、顧問なんて。私まだ教員なり立てほやほやだよ? 負担デカすぎるって。しかもSSFって。いやいや、やるわけがない」

 ──灯眞たちの目の前で、心底嫌そうな顔をして首を横に振っていた。

「そこを何とか……!」

 パンと手を合わせて頭を下げる真菰に対し、折月はハイ・ポニーテールにした黒髪を揺らしながら首を振り、きっぱりと拒絶を示す。

「絶対嫌だからね、私。ただでさえ新任で覚えなきゃいけないこと一杯あるっていうのに……部活の顧問なんてやってられるわけないでしょーが!」

「それは分かってるんですけど、私たちも顧問がいないと部が成り立たなくて……!」

「顧問なんてやったら私の生活が成り立たなくなるって!」

 ──それは本当に折月の言う通りではある。

 部活の顧問というのは中々ハードなものだ。だが。

「折月先生。先生の他に頼める人はいないんです。顧問をやってもらえないでしょうか」

 真菰の隣で灯眞も頭を下げ、「お願いします」と二人揃って言う。

 廊下というのは声が反響するものであり、人通りもあるところであり、そんなところでこんなことをしているものだから、何事だと興味関心を寄せる視線が次々と三人に突き刺さる。

「ちょっ……二人揃って頭下げないでよ! 後で私が何言われるか分かったもんじゃないんだから……! 取り敢えず顔を上げて!」

 二人揃って顔を上げると、折月はまず同じ位置に目線がある真菰に顔を向ける。

「あのね、そもそもの話、あなたたち去年はどうしてたの?」

「去年は他の先生が顧問を。ただその方が急な病気でしばらく休職すると聞いて……」

「それは……いえ、それでもよ! 悪いけど他を当たってちょうだい。ああでも、今日はこれから会議があるからそこは留意するように」

 折月はそれを言うとくるりと背を向け、そのまま歩き去ってしまった。

 灯眞がどうしたものかと溜息を吐くと、真菰が肩を落として首を振る。

「今日はダメそうだね……。仕方がないから、また明日出直すことにして、またいつもの場所で練習することにしよっか」



「折月先生」

「はい? なんでしょう?」

 職員会議を終えたところで、梓紗は生徒会顧問の先生に声をかけられて振り返る。

「職員会議の前、歌澄……ああ、青い髪のサイドテールの生徒です。彼女に話しかけられていましたね」

「あー……。はい」

 お小言かと身構えていたところにそんなことを言われ、梓紗はさらに身を固くする。

 何を言われるのか、何となく予想が付いたからだ。

「彼女から話を聞いたかもしれないけど、SSF部の顧問をされていた先生が休職することになってしまってね」

「そのようですね。なので顧問をやってくれと、そう言われました」

「そうですか。……今のご時世、私の立場からこういうことを言うのはパワハラかもしれませんが、どうかお願いできないでしょうか。聞くところによれば、折月先生はSSFの経験者だと……」

 予想通りのその言葉に、折月は内心で溜息を吐く。

「……すみません。私は顧問をやるつもりはありません。SSFも、私には向いてませんでしたから」

「そう、ですか。歌澄は人工列島でも一、二を争う実力者です。大会に参加できなくなるのは残念ですが……。いえ、すみません。こんなことを言うべきではありませんね。忘れてください」

 生徒会顧問はそう言うと、背を向けて歩き去って行く。

「……はぁ」

 溜息を吐いた梓紗は明日からの授業で使う資料を纏め、帰路につく。

 昔は教員の定時などあってないようなものだったが、今は世間の目や声が厳しくなり、部活動や委員会活動を担当していない教員は定時で帰宅することが推奨されている。

 新任教師で受け持ちクラスがなく、教科担当の梓紗も当然、推奨される側の人間だった。

「はぁー……」

 何度目とも知れぬ溜息と共に視線を窓の向こうにやれば、既に空は茜色に染まりつつある。今梓紗がいるのは、島を循環するバスの車内だ。

「SSF、か」

 まさか教員になってすぐ、その言葉を耳にする機会があるとは思わなかった。

 それもまさか、いきなり顧問をやってくれ、なんて。

「無理無理。……向いてないもの」

 空気に溶かすように呟く。

 すると窓の向こうにマーカーが浮いているのが見えた。それも百メートル飛行やスカイバレーではなく、SSFのマーカーだ。

 そしてその近くを、二人の人影が飛行している。

「まさか……」

 人影に心当たりがある梓紗は浜辺の停留所でバスを降り、堤防を越えてマーカーの近くへ向かう。

 するとやはり、飛んでいたのは昼間に会った歌澄真菰と詩島灯眞だ。

「もう一周いってみよー!」

「分かったー!」

 空中で二人は頷き合い、陸上のトラックのように楕円を描くマーカーの近くを飛ぶ。

 内側を行くのが詩島で、外側が歌澄だ。

 詩島のウィングは前進翼のような翼を広げていて、歌澄のウィングは対照的に後退翼、あるいはマントのようにも見える翼だ。

「くっ……っとと」

 緩やかなカーブに差し掛かったところで、詩島の飛行姿勢が僅かにブレた。

 外側に大きく流れそうになったところで、歌澄が体を寄せて圧をかける。

 DGPは厚く纏わせれば反発し合い、薄く纏わせれば吸着し合うという不思議な性質を持つ。だから多くのスカイスポーツにおいて、選手たちの体は見えない鎧に覆われているような状態になる。

 これがSSFでは防具の役割を果たすのだ。

 そして選手たちが持つソードだが、これはDGPを薄く纏わせている。

 でないと鍔迫り合いの度に反発し合い、試合が成立しないからだ。

 そしてDGPを厚く纏わせたものに薄く纏わせたものをぶつけた場合、薄く纏わせた方が弾かれるため、ソードのDGPが薄くても競技は成立する。

「姿勢を崩して外側にズレると歌澄に弾き飛ばされるから、何が何でも飛行姿勢を保ったままカーブしなきゃいけない……。飛ぶことを体で覚えるには、悪くない練習ね」

 ふとそんなことを呟いていると、カーブが終わるところで詩島が飛行姿勢を崩し、外側にズレた。

 バチンッ、と音がして、詩島がトラックの内側に弾き飛ばされる。

 対する歌澄は何てことないようにスラスターを吹かし、同時に体を回して衝撃を逃がす。

 ああいう動作一つとっても、歌澄がSSF上級者であることは見て取れる。

 ウィングには内蔵されているDGPのゲージがあり、それが尽きるとDGP切れで敗北になってしまう。

 だからスラスターを使いすぎないようにすることは、全スカイスポーツに置いて重要な要素の一つだ。

 そしてこの練習はスラスターを使いすぎないようにすること以上に、飛ぶことに慣れるために重要なことだ。

 サッカーにしろ陸上にしろ、地上で行うスポーツはみな歩いたり走ったりすることが必要になる。

 スカイスポーツの場合は、その歩いたり走ったりというのが全て、飛ぶことになる。

 だからSSFのような対戦格闘競技でも、ああやって飛ぶ練習は大事であり、基礎中の基礎だ。

「大丈夫?」

「ああ。ごめん、またぶつかっちゃって」

 二人の会話が風に乗って聞こえてくる。どうやら何度も同じ練習を繰り返しているようだった。

 それからもう何回かやり取りをした後、二人は飛行を再開する。

「……あの、何か?」

 ふとそんな言葉をかけられて顔を向けると、白樹高校のジャージに身を包んだ男子生徒がいることに今更気がついた。

「折月先生、ですよね?」

 歌澄より少し濃い青髪の男子生徒の怪訝そうな問いかけに、梓紗は頷いて首を傾げる。

「あなたは? ごめんね、まだ生徒のこと全然把握できてないの」

「一年の歌澄翔です」

「歌澄……? 歌澄真菰の弟?」

 梓紗の問いかけに、今度は歌澄翔と名乗った男子生徒が頷く番だった。

「そう。……さすがに上手ね、あなたの姉は。飛行姿勢も綺麗だし、弾かれ慣れてる」

 弾かれ慣れというのは文字通りの意味で、DGPの反発により弾かれることへの慣れ、耐性だ。

 人間というのは誰しも想定外の方向から加わった力に弱いもので、飛行中などはそれがより顕著になる。

 地面に足が付いていれば踏ん張りが効かせやすいが、空中ではそうもいかず、スラスターを吹かすことを忘れて体を振り回し、余計に回転してしまったりする。

 だが歌澄姉……真菰はそうではなく、冷静にスラスターを吹かし、体を自分から回転させていた。

 これは空中で自分の身を完全に制御しているからできることだ。

「いつからSSFを?」

「中学に上がったときです」

「そ。じゃあ今年で五年目なんだ」

 なるほどと頷き、その隣に目をやる。

「詩島も悪くないわね。カーブは不慣れみたいだけど、直線飛行は力まず飛べてるし、加速も悪くない。彼はどのくらいSSFを?」

 梓紗の予想では一年といったところだ。

 このトラックを利用した練習は基礎中の基礎であり、飛行姿勢を乱さずカーブを曲がるということは飛ぶ上で当たり前のように必要になるスキルだ。

 そして詩島にはそれができていない。

 とは言えSSF選手の中には、そういう基礎が欠けていても試合でそこそこ動ける選手は存在する。

 カーブが苦手でも飛行や滞空には問題がないとか、勝負どころの勘がいいとか体を鍛えて筋肉でどうにかするとか、そういうタイプだ。

 だからきっと、詩島もそのタイプの選手なのだろ──。

「一週間です」

「……は?」

 梓紗の予想は、歌澄弟……翔の一言で音を立てて崩壊した。

 一週間、だと?

「いやいやいや歌澄……っと、姉と区別するために名前で呼ばせてもらうけど……。翔君? いくらなんでもそれは冗談が過ぎるって。先生をからかうのはよくないよ?」

 はははと笑いながらそんなことを言えば、翔は真面目な表情のまま首を横に振り、再度同じ言葉を口にした。

「一週間ですよ、本当に。SSFどころか、ウィングを使い始めてから」

 そういう翔の目は、とても嘘を吐いている人間のものとは思えなかった。

 では、本当に──。

「一週間であのレベルって、そんなの……」

 梓紗は脳内でかつての自分を思い出す。 

 梓紗がSSFを始めたのは高校に進学したときだ。

 たまたま誘われて始めて、体を動かすのが好きだったから上達も早くて、大会では必ずベスト8に入り、調子が良ければベスト4にギリギリで喰らいつく、そんな選手だった。  

大学進学と共にSSFを引退し、以来一度も飛んでいない梓紗だが、当時の最終戦績はその喰らいついたベスト4入り。

 そんな梓紗でさえ、まともに飛べるようになったのは初飛行から一ヵ月経った頃だったと思う。

「あっ──」

 再び顔を上げた梓紗の先で、詩島がカーブを曲がり切っていた。

 それもまるで速度を落とさず、むしろ加速したまま。

「──才能」

 それは、かつて自身に投げられたことのある言葉だ。

 そして、自分で否定した言葉だ。

 本当の才能は、彼のような人間を指す言葉だ。

 ──なんだろう。胸の内に生まれたこの衝動は。

 嫉妬? いや、違う。そんな醜いものではない。

 憧憬? いや、違う。そんな高尚なものではない。

「──見てみたい」

 好奇心。そうだ。そんな単純なものだ。

 あの才能の行きつく先。あの才能が魅せる試合。それが見たい、それを知りたい。

 そんな好奇心が、自然と梓紗を突き動かしていた。

「──あれっ? 折月先生!」

 とここで、トラックから降りてきた真菰に見つかった。

「どうしたんですか? ──あっ、ここの使用許可はちゃんと取ってますよ! 学校経由で!」

 ハッとした様子で説明する真菰に、梓紗は苦笑して首を横に振る。

「いえ、そうじゃないの。……ああでも、大事なことね。場所のこともそうだし、時間も」

 梓紗は腕時計に目を落とし、それから茜色の空を指差す。

「もうこんな時間だし、こんな空よ。早く片付けないと、完全下校時刻すぎちゃうわよ」

「えっ? あっ、やばっ! 夢中になってて忘れてた……!」

「まったく……。これからは完全下校時刻過ぎそうなときは、顧問に一言伝えなさい? それまでは、私も校舎に残っててあげるから」

 さらっと言うと、真菰だけでなく詩島や翔までぽかんとした表情を浮かべた。

 それが面白くて、思わず口元が緩んでしまう。

「それって、じゃあ……」

 絞り出すような詩島の言葉は途中で止まったが、言いたいことは分かる。

 だから梓紗は頷いてやると、真菰がガッツポーズをし、詩島も安堵の表情を浮かべて息を吐いた。

 翔だけはリアクションが薄かったが、そういう性格だろう。

「ただし!」

 三者三様に喜びをあらわにする三人に、梓紗はビシッと手を突き出して告げる。

「今日は定時であがれたけど、明日からはそうもいかなくなるだろうから、指導は難しいからね! それに、私は引退してかなり経ってるし、今は真菰ちゃんの方が上手だろうし!」

「は、はい! それはもちろん大丈夫です!」

 真菰がきっぱりと頷くので、梓紗はよろしいと頷き返す。

「あの、折月先生」

 ここで詩島が一歩前に出る。

「ありがとうございます。顧問を引き受けてくれて」

 詩島が頭を下げると、それに続いて歌澄姉弟も腰を折る。

「ちょっと、そんなことしなくていいから」

 そう言ってやれば、三人は揃って顔を上げた。

「取り敢えず明日、顧問を引き受けることを他の先生方に伝えるから、そうしたら正式に活動開始よ。真菰ちゃん、詩島君、翔君。これからよろしくね」


 ──第二章 飛翔する空、衝突する刃──


 白樹高校に転校してきて初めての土曜日。

 いつもの場所、と言えば通じるほどになった砂浜で、練習用のスカイスーツ姿の灯眞はソードを手に素振りをしていた。

 素振りと言っても、剣道のように面打ちのように振るのではなく、上下左右に剣を振り、手を動かすものだ。

「おっ、やってるね」

 堤防の方からかけられた声に顔を向けると、先日顧問になることを了承してくれた折月がいて、こちらに歩いてくるところだった。

「おはようございます、先生」

「うん、おはよう。詩島君は一刀流を選んだんだ?」

 折月の目が灯眞のソードに向けられ、灯眞は首を縦に振る。

 真菰と翔は名字が同じため区別するために名前で呼ぶ折月だが、灯眞のことは単に詩島と名字で呼ぶ。

「ええ。お店で二刀を振らせてもらったんですけど、どうにもピンとこなくて」

「そっか。いいと思うよ、それで。最初に一刀流を身に付ければ、あとは大体どうにかなるし。……さすがにクイックのラプターを使ってることには驚いたけどね」

 折月の目がソードから灯眞の足、そして背の方に向く。

 まだ電源を入れていないが、素振りの最中もウィングは装着していた。

 この重さと感覚にいち早く慣れたいからだ。

「真菰の勧めです。翔からはミツバのストライカーを勧められたんですけど、それじゃすぐにマシンの性能が追いつかなくなるって。……そんなこと言われて、ちょっと舞い上がって決めたところはあります」

 そのときのことを思い返し、苦笑しながら灯眞は言う。

 今のところラプターに振り回されがちな灯眞だが、それでも基本の飛行はいい加減慣れてきた。

「あー、そういう。普通はストライカーから初めて一年ちょっと……短くても半年くらいはそのままで問題ないんだけどね。やっぱり才能が違うのかな」

 折月は灯眞の全身を値踏みするように眺め、それから首を傾げる。

「結構鍛えてるみたいだけど、元々スポーツやってたの?」

「ええ、まぁ……。サッカーにバスケに野球、陸上。あとは剣道なんかも少しだけ」

「色々やってたのね。なら納得だわ」

 折月がうんうんと頷いていると、マーカーに問題がないかフィールドを飛行しながら確認していた歌澄姉弟が降りてくる。

「あ、先生! おはようございまーす!」

「おはようございます」

 翼を溶かすように消した真菰が元気に挨拶し、一度ホバリングしてから砂地に着地した翔がぺこりと頭を下げる。

「おはよう、二人とも。もうすぐ時間だし、さっそく練習に入ってもらうわ。サポートはするから、何か必要なことがあったら言ってね」

 白樹島SSF部の顧問である折月だが、どうやら高校を卒業してからはまともに飛んでいないらしく、そもそも現役時代の実力で考えても真菰に敵わないということで、指導は全て真菰に一任されている。

 と言っても、練習メニューなどについては折月の意見も交えたものになっているが、実際に飛んで教えるのは真菰だ。

 そのため折月は、真菰に意見を求められた際のコメントや、カメラを用いたフォーム確認などのサポートをすることになっていた。

「準備運動は済んでるし、早速飛ぼうか。今日は待ちに待ったソードを使った練習だからね。私も楽しみだったんだー」

「お手柔らかに頼む」

 真菰はスカイスーツの両腰にマウントしてあるソードを取り外し、悪い笑顔を浮かべて浮遊する。

 その仕草に思わず上体を退く灯眞だが、すぐに気合を入れ直し、ソードを抜いて翼を広げた。

「灯眞さん」

 フィールドに向かう真菰に続こうとしたところで、足元から声をかけられて空中で静止する。

「なに?」

「打ち込みなどで問題が生じたらすぐに降りてきてください。何度も言ってますけど、ラプターは癖の強いウィングですから」

 翔の言葉に頷いて親指を立て、灯眞はフィールドへ浮上した。

 正方形のフィールドの中心へ行くと、真菰が開始線の近くでソードを示す。

「それじゃあ灯眞君。ソードの電源を入れてみて?」

「分かった」

 灯眞はソードの柄に目を落とし、鍔の近くのカバーを外してスイッチを押す。

 カバーをかけ直すとソードが音を発し、同時に刀身のスリットからDGPが噴出される。

 これでソードもDGPに覆われた形になった。

 ちなみにこの状態で手を離すと、ソードはゆっくりと下降していくらしい。

 どうやらソードに纏わせるDGPの総量では、ソードそのものを浮遊させ続けることはできないようだ。

 だから最初に真菰たちの試合を目撃したとき、男のソードが弾かれて砂浜に落下してきたのだ。

「まずはこの状態でフィールドを一周してみよっか。それで飛行姿勢に違和感がなければ、私が打太刀になるよ」

 打太刀というのは本来剣道の用語であり、練習や型において技を受ける側だ。

 対して技を打つ方を仕太刀という。

「分かった。じゃあ行ってくる」

 灯眞は頷いて前傾姿勢になり、そこからさらにうつ伏せになってスラスターを吹かす。

 ソードを落とさないように握り締めながらの飛行だが、バランスを崩すことなく一周して戻ってくることができた。

「大丈夫そうだね。さすが灯眞君」

「持ち上げるなって」

「本心だよ、本心。さぁ、その調子で次の練習にいってみよー!」

 笑顔の真菰は打って来いと言わんばかりに両腕を広げ、さぁさぁと言う。

「頭……面でいいんだよな?」

 おずおずと聞く灯眞に、真菰は笑顔のまま頷く。

「うん、そうだよ。DGPが防具の代わりになってくれてるから、思いっきりやっちゃって!」

「思いっきりって……」

 簡単に言ってくれるが、一見防具を付けていないように見える人間。それも同級生の女子を叩くなど、なかなかハードルが高い。

 とは言えそれができなくては競技が成り立たないわけで、灯眞は深呼吸して気持ちを切り替えてソードを振りかぶった。

「ハッ!」

 剣道をかじっていたときの癖で「面」と叫びそうになるが、ギリギリで止めて鋭い呼吸と共に一撃を叩き込む。

 するとバシンッと音が鳴り、同時に反動が灯眞を襲い、思わず上半身が弓なりになってしまった。

 だがそれはそれとして真菰が打突部位に装着している感圧センサーが反応し、フィールド外のポイントセンサーが一本であることを知らせる。

「うんうん、いい感じだよ。最初はやっぱりぎこちないけど、ちゃんと力も入ってるし」

「そうか? むしろ力を入れすぎたのか、結構反動が来たんだけど」

 腕を振りながら言う灯眞の言葉に、真菰は首を縦に振る。

「それでいいんだよ。反動が来てるってことは、しっかり打ててるってことだから。大事なのは、その反動を上手く使うこと」

「反動を使う?」

「そう。今回は練習だから避けなかったけど、実際の試合じゃそうもいかない。相手が避けてソードが肩にぶつかったり、相手のソードに弾かれたりするかもしれない。そういうときに、反動を使って次の動作に繋げることが大事なんだ」

 そう言うと真菰はフィールド外に置いていた打ち込み練習用のマーカーを持ってきて、実際に振りかぶる。

「セッ!」

 右手の一刀で放たれた一撃がマーカーに直撃し、そのまま右腕が弾かれる。

 真菰は力を込めて反動を抑えると、一瞬で逆手に持ち替えて胴の辺りを斜めに斬り込む。

「あとは、こういうパターンも」

 真菰は先ほどと似たような挙動で一撃を叩き込むと、今度は反動を抑えずに一回転し、素早く回転斬りを叩き込んだ。

「おー」

 灯眞が素直に感心すると、真菰は嬉しそうに胸を張る。

「反動を活かすか殺すか。その選択で色々な連携に繋げることができるんだ。まぁ連携練習自体はまだやらないけど、こういうことができるようになるために、反動のいなし方は早くから覚えておこっか」

「分かった。意識するよ。……それはそれとして、聞きたいんだけどさ」

 灯眞はそう言いながら真菰に手を示し、打ち込み用マーカーの前を空けてもらう。

 それから灯眞は軽く腕をしならせ、ソードをマーカーに叩き込んだ。

「っ……!」

 するとやはり、相応の力が跳ね返ってきて灯眞を襲う。

「いくら二刀流用のソードは一刀流用より短くて軽いとは言え、ああも簡単に反動を押さえつけるなんてな……」

 しみじみと呟くと、真菰も灯眞の言わんとすることを理解したようで、真菰は苦笑しながら首を振る。

「私の場合は筋肉で無理やり押さえつけてるわけじゃないよ。ほら」

 真菰はソードを腰にマウントしてから腕を突き出してくる。

 ほら、とは?

「私の腕、そんなに太くないでしょ?」

「ああ、そういうこと。……うん、確かに」

 真菰の腕は細く綺麗だ。とは言え細いというのは当然、灯眞や筋肉を使うアスリートたちと比べての評価であり、真菰の腕がヒョロヒョロしているということではない。

 むしろ真菰の腕はしなやかで、例えるなら豹やチーターのような、ああいう筋肉の付き方をしている。

「そんなに気になるなら触っていいよ?」

「へっ?」

 つい真菰の腕を凝視していると、そんなことを言われて灯眞は目を見開いてしまう。

「私は気にしないから、ほら」

 ほら、ではない。

 真菰が気にしなくても灯眞が気にする。

「いや、あのな……」

 空気に溶かすように一人呟き、灯眞は首を横に振る。

「大丈夫。それにほら、今はDGPの影響で弾かれちゃうし」

「あっ、そうだったね。じゃあ地上に降りたときにでも」

「いや大丈夫だから」

 食い気味にツッコミを入れ、それから咳払いをして話を戻す。

 反動を抑えるのに筋肉を使っていないということは、別の方法があるわけだ。

 そして恐らくそれは──。

「飛行姿勢とスラスター?」

「正解。私の場合、体を曲げることで反動を逃がして、その上でサブスラスターを吹かして体を止めるの」

「体を曲げて……。高い所から飛び降りて着地するとき、膝を曲げるような感覚か」

「うん、そうだね。でもまぁ、反動をどうするからはその人の体型や素質によるからね。必ずしも私の真似をする必要はないよ」

 そう言うと真菰は打ち込み用マーカーをどかして、再び打って来いと両手を広げる。

「よしっ……行くぞ!」

 灯眞は足を折り畳み、空気の壁を蹴るようにスラスターを吹かして真菰に飛び込む。

 今度は腕を大振りにするのではなく、柄頭が額に当たる程度に右腕だけを振り上げて剣を振るう。

 剣道の一本というのは、打突部位が正確であることや気合が十分であることが条件として求められるが、この際に竹刀を大振りにする必要はない。

 これは正式名称ではなく通称だが、剣道には「大きい面」と「小さい面」というものがあり、素振りや一部の返し技で使うのが「大きい面」。実際の試合で用いることが多いのは「小さな面」であり、これは手首のスナップを使って相手の面を叩くものだ。

 だから剣道の試合は上級者同士の試合になればなるほど、竹刀の動きが極端に減る。

 そしてきっとこれは、SSFも同じことだろう。

 感圧センサーが反応するギリギリの威力と、それを素早く発生させる挙動。

 これが揃ったとき、初めてSSFの面打ちが成立するのだ。

「シッ!」

 鋭い呼吸音と共にソードを振り下ろし、DGPに弾かれる直前を見計らい手首を振る。

 瞬間、確かな反応が手首に伝わるが、灯眞はこれを腕の力で無理やり抑え込み、弾かれた真菰の目の前でサブスラスターを吹かして停止する。

 フィールド外のポイントセンサーは、今の一撃が一本であることを示していた。

「真菰、今の──」

「小さい振りかぶりでも感圧センサーが反応したし、反動で体が反ることもなかった。いい感じだよ!」

「そっか……! よし、まだ続けてもいいか? 今の感覚、忘れないようにしたいんだ」

「もちろんいいよ。今日の私は打太刀に徹するから、バンバン打ってきて!」

 


「──しっかし詩島君は本当に上達が早いのねー」

 面打ちを終えた後の休憩時間の最中、スポーツドリンクの入った水筒を傾けていると、マーカーのカメラで撮影していた映像を見返している折月が言う。

「一回言われたことはすぐに直すし、そもそも言われるまでもなくできてることもあるし」

「真菰の指導が分かりやすいからですよ」

「えへへ、ありがと。でもやっぱり、キミ自身の素質も大きいよ」

 真菰の言葉に照れ臭そうに頬をかくと、折月がバッグから端末を取り出す。

「この調子で上手くなれば、ゴールデンウィークの練成会でも注目の的かもね」

「……練成会?」

「簡単に言うと、合同稽古です。どこかの団体や企業、あるいは学校が主催になって執り行う。SSFの場合はスカイスポーツ振興連盟が主催で、半年に一回程度の頻度で開催されるんです」

 聞きなれない単語に首を傾げると、ウィングのチェックをしていた翔が顔を上げてそれに応じた。

「あ、でも参加は強制じゃないから、もし予定があったら言ってちょうだい?」

 折月の言葉に、灯眞は逡巡することなく首を振る。

「出ますよ、当然。せっかくの機会ですし。会場はどこなんです?」

「えっとー……、真城島(ましろとう)ね。真城高校の敷地でやるみたいよ」

 真城島。確か人工列島の中で二番目に大きな島だったと記憶している。

「真城高校はうち……白樹高校と違って海に面した学校で、SSFの練習にはもってこいの立地なの」

「へぇ、海に」

 白樹高校は周囲を住宅地や林に囲まれた場所にある。

 そのため砂浜に面している場所がなく、海上で競技や練習を行うSSF部は住宅地近くの砂浜を特例措置で借りているのだ。

 そのためマーカーなどの高価な器具は一々学校の備品入れから持ち出す必要があるし、実は校舎内に正式な部室がない。

 強いて部室と言い張れるのは、堤防の近くにポツリと置かれたプレハブ小屋だけ。

 このプレハブ小屋は、何代か前の先輩がこれまた特例措置として用意してもらったモノらしく、現在は更衣室兼部室という扱いで使用している。

 ただプレハブ小屋とは言うが、実際には電子ロックやホログラム投影装置が用意されていて、さすがに人工列島だなと再認識させられた。

「そうだ。練成会は保護者の方が見学に来てもいいみたいだから、ご両親に話してみたら?」

「分かりました。聞いてみます」



「へぇ、これが。生で見るのは初めてだ」

「あんなに飛び回って、目が回りそうねぇ」

 白樹島に転校して早くも一ヵ月が経ち、ゴールデンウィークの初日。

 真城高校の浜辺、白樹高校に割り振られたテントの下で、灯眞の両親は空を見上げてそれぞれに言う。

「実際、飛行酔いしちゃう人もいるんですよー」

 両親の隣、灯眞を挟んだ場所に立つ真菰が明るい笑顔で補足した。

「SSFは他のスカイスポーツよりも目まぐるしく動く……と言うより、相手を追って激しく動く競技ですから、それで断念しちゃう人が後を絶たなくって」

「人を選ぶ競技なのねぇ。灯眞は大丈夫なの?」

「はい! 灯眞君、すっごい飛ぶの上手なんですよ!」

 灯眞が答えるより先に、真菰が自分のことであるかのように嬉しそうに言う。

 それを聞いて、母は灯眞に微笑みかけた。

「そうなのね」

「そうなの。……で、それはそれとして」

 一歩前に出て振り返り、灯眞は真菰と両親をそれぞれに見る。

「なんでもうそんなに仲がいいんだ? 今さっき、ほんの五分前くらいに顔を合わせたばっかりだろ?」

 そんな疑問を呈すれば、母は微笑みのまま口を開く。

「だって真菰ちゃん、とってもいい子で話しやすいんだもの」

「だからってなぁ……」

 灯眞が困り顔で頭をかく。

 自分の親が同級生、それも可愛らしい女子と親し気に話しているという状況が、何ともむずかゆくて仕方がない。

 とは言えそんな思春期丸出しの感情を口に出すわけにもいかず、灯眞は「まぁいいや」と匙を投げてテントの端で作業をしている翔の隣に腰を下ろした。

「どうかしましたか?」

「いや、特には。ただちょっと、コミュ力おばけに挟まれてるのが嫌で」

「なるほど」

 翔は短く応じると、手にしていた真菰のウィング、フェンサーのブーツにUSBケーブルを差し込み、タブレット端末に目を落とす。

 現在海上では他校がアップをしている最中だが、灯眞たちは早めに来て早めに済ませたため、他校に場所を譲って待機しているのだ。

 そしてその間、翔は灯眞や真菰のウィングのチェックを行っている。

 先ほど灯眞も、自身のラプターを見てもらったばかりだ。

「そう言えば、二人の両親は来ないのか?」

「ええ。都合が合わなくて。それにうちの場合、SSFも練成会も見慣れたものですから」

「ああ、なるほどね。そりゃそうだ」

 具体的な時期は聞いていないが、真菰が高校一年生のときからSSFをしているのは確かなので、一年生の頃の大会や練成会を見ているのだろう。。

「夏の大会は見に来ると思うので、そのときに顔を合わせる機会があると思いますよ」

「そっか。……夏の大会、ね」

 先日の部活の際に折月から聞いたことだが、SSFには春季大会がないようで、直近の大会は夏季大会ということになる。

 つまり大会まで、あと二ヶ月と少し。

「ここにいる連中もみんな、当然夏の大会に出てくるんだよな……」

「ええ。ですから練成会は、他校の選手に探りを入れるいい機会でもあります。目を光らせていると、いいことがあるかもしれませんよ」

 翔はチェックを終えたらしく、ブーツからケーブルを引き抜くとハッチを閉じる。

「姉さん、終わったよ」

「おっ。いつもありがとね、翔」

 真菰は翔に微笑みかけると、ブーツを受け取って装着する。

「コアパーツもスラスターも、特に問題は無いよ」

「分かった。何かあったら声かけるけど、多分今日一日は大丈夫だと思う」

「何もなくても見るよ。何かあってからじゃ遅いから」

 翔がそう応じると、ザザッとノイズが聞こえた。

『まもなく時間になりますので、アップを行っている学校は中断し、運営テント前に集合してください。繰り返します。まもなく──』

「っと、始まるみたいだ」

「うん、行こっか」

 灯眞たちは運営テント前に向かい、並んで待つ。

 開会式でスカイスポーツ振興連盟会長のありがたいご挨拶を聞き、注意事項と諸連絡を受けると、練成会は幕を開ける。

 練習は初心者とそれ以外に分かれて行われるため、灯眞は当然初心者の坐組に混ざって練習を行うことになる。

 だが、しかし。

「キミは……いや、うん。基礎は大事だからね。取り敢えずこっちでやろうか」

 初心者の指導を担当する講師の言葉に、灯眞は苦笑するしかなかった。

 初心者組で行われた練習は、まず基本的な飛行姿勢の維持と、その状態での加減速、上昇降下の繰り返し。

 そしてそれが終わったら、打ち込み用マーカーを使った打突稽古になる。

 灯眞はどちらもあっさりとこなすが、周りの一年生や灯眞のように今年からSSFを始めたという二年生の面々は、かなり苦戦している様子だった。

 ちらりと一瞥した中級者以上の坐組では、ペアを組んでの打ち込みと、静止状態ではなく飛行状態からの攻撃を繰り出す練習をしている。

 正直に言えば向こうの練習に混ざりたいという欲はあったが、講師も言った通り基礎は大事だ。疎かにしてはいけない。

(打った後も姿勢を維持……反動を殺して崩さない……)

 心中で呟きながらソードを構え、灯眞は打ち込みを続ける。

「えー……ああいう感じで、打った後に姿勢を崩さないことが大切です。そのためには肘を曲げて反動を逃がしたり、力を込めて抑えたり──」

(……みんな本当に、一ヵ月だとこのくらいなんだな)

 見本にされていることに微かな羞恥心を感じつつ、そんな感情はおくびにも出さないように打ち込みを続ける。

「きゃっ……!?」

 ふと、思考を遮る声が聞こえて灯眞は声のした方を見る。

 すると一年生の少女が一人、目を見開いてブーツを見下ろしていた。

 釣られて灯眞も目を落とし、次いで同じように目を見開く。

 少女のブーツが片方、完全に停止して光を失っていた。

「えっ、嘘、どうしよ……!?」

 少女があわあわしていると、すぐに近くを飛行していた講師の一人が近づき、優しく声をかけた。

「大丈夫、一カ所止まったくらいで落ちないから。取り敢えず、ゆっくり地上に降りようか。ゆっくりでいいから」

 少女は頷くと、講師と共にゆっくりと下降していく。

 恐らくチェックを怠ったが故の動作不良だろう。

「俺も後で、もう一回翔に礼を言っとこうかな」

 灯眞は自身のブーツを見下ろしながら言い、打ち込みを再開する。

 しばらくそうしていると運営のアナウンスがあり、ニ十分の休憩に入るという指示があった。

 白樹高校のテントに降りれば、両親が笑顔で出迎えてくれる。

「お疲れ、灯眞。上手いじゃないか」

「ええ、ほんとね。一人だけ姿勢が綺麗だったから、すぐ見分けがついたわ」

「翼もあったしな」

 灯眞のウィングから展開される翼は戦闘機の前進翼のようなもので、それは教えてある。。

 こちらは教えていないが、自分で考えて翔に設定してもらったものだったりする。

「お疲れー!」

 詩島一家が話をしているところに、空中から元気な声がした。

 誰かなんて確かめるまでもなく、真菰だ。

「ちらちら見てたけど、良かったよー。あっちの練習じゃ退屈だったりする?」

 後退翼を空気に溶かすように消し、真菰はちょこんと首を傾げる。

「まぁ、ちょっとだけ。でも大事なことだから」

「そっか。いい心がけだね」

 真菰が微笑んでいると、翔がタブレット端末を手に横に立つ。

「二人ともチェックは大丈夫? さっき一人降りてきてたけど」

「うん、私は大丈夫。灯眞君は?」

「俺も大丈夫。ありがとな、翔」

 突然の礼に翔は目をぱちくりさせたが、それからやや間をおいて「僕の仕事ですから」と謙遜する。

「さっきの子、初心者組だったよね。原因はやっぱり砂?」

 真菰は件の少女がいるテントを覗き見るように背伸びし、翔が頷いて応じる。

「うん。ちょっと覗かせてもらったけど、大量の砂を噛んでスラスターのフィンが誤作動を起こしてた。だから緊急停止装置が働いて、電源が落ちたんだ」

 すると話を聞いていた灯眞の母が、灯眞たちのブーツを見て心配そうな表情を浮かべる。

「砂って、それだけで止まっちゃうものなの?」

「みたいだな」

ウィングは精密機械だ。だと言うのにSSFは海上で戦い、ブーツを履いたまま砂浜を移動するため、メンテナンスを怠ると潮風に当てられて壊れたり、砂を巻き込んで不具合を起こしたりすることがあるんだとか。

「でも緊急停止装置が働くほど砂を巻き込むことなんて、滅多にないんですよ。多分あの子、使い始めてからほとんどメンテしてなかったんだと思います」

「ウィングの不調って、外見に現れにくいものですから。パッと見た限りではなんともなくても、一度バラすと中身が悲惨なことになってることが稀にあるんです」

 真菰の言葉を翔が引き継ぐと、母は「そうなのねぇ」と頷く。

「あ、でも安心してください。私たちのウィングは、翔がしっかり見てくれてますから!」

 真菰はそう言うと、翔の肩を叩き、詩島家の両親に自慢するように微笑む。

「なんだよいきなり」

「えへへっ。だって翔、謙遜してばっかりで全然自分のこと喋らないんだもの」

「いいんだよ、僕は裏方なんだから。それより二人とも、今の内にちゃんと休んでおきなよ。後半はよりハードになるし、模擬試合も参加するんでしょ?」

 模擬試合。練成会の最後に行われる、参加自由の試合練習だ。

 当然二人とも参加する。

「そうだねー。じゃあゆっくり座って休んでるよ。灯眞君も、お隣どーぞ」

 真菰はブルーシートの上にぺたんと座り込み、その隣を叩いて示す。

 灯眞がそこに腰を下ろすと、柔らかな風が抜けていき、髪を揺らして消えていく。

 場所のせいもあるだろが、まだ五月も頭だというのに夏のような気配を感じる。

「ねぇ、灯眞君。こうして大勢で練習……と言うか、私以外と練習するのは初めてだけど、どう?」

「まぁ、さっきも言ったけどちょっと退屈かな。でも楽しいっちゃ楽しいよ、やっぱり」

「えへへ、そっか。でも私が聞きたいのは、そういうことだけじゃないんだよねー」

「ん……?」

 真菰の言わんとすることがよく分からず、灯眞は首を傾げる。

 するとそれに合わせるように首を傾けた真菰が、彼女にしては珍しい悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。

 その表情に、仕草に、思わず心臓が跳ねる。

「他のみんなとやって、自分を客観視できた?」

 その言葉に、意味に、思わず虚を突かれたように灯眞は固まる。

 まさか真菰からそんな言葉が出て来るとは思っていなかった。

 だが、しかし。

「あははっ、その表情を見れば分かるよ。ちゃんと自分を理解できたみたいだね」

「……まぁ、な」

「うんうん、よかった。灯眞君、いつも私が褒めても心の底から納得してる様子がなかったからさ」

 見透かされていたのか、と思わず灯眞は驚く。

 普段から明るく元気、快活という言葉がこれ以上ないほど当てはまる真菰からは、少し想像できない観察眼だ。あるいは勘だったりするのだろうか。

「謙遜するのは悪いことじゃないけどね。自分のことはしっかり分かってないとダメだよ。どんなときでも、どんなことでも」

「しっかり分かっておく、か」

「うん。だって自分のことだもん。今の自分がどこまで飛べるのか、どこまで戦えるのか。今の自分がどんな問題を抱えているのか、それとどう向き合うか」

 真菰はなぜか懐かしむような表情と声色でそんなことを言う。

「大事だよ、とっても」

「……分かった。意識するよ」

「うん、よろしい!」

 真菰は輝くような笑顔で言う。

 その笑顔に、またしても灯眞の心臓が跳ねる。

 すると横合いから視線を感じてちらりと見ると、母が何やら意味深な微笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 灯眞と目が合うと、母は何故か笑みを深めて海の方に顔を向けた。

 こっちもこっちでドキドキしているのを見透かれているようで、灯眞は心中で溜息を吐いた。

『まもなく休憩時間は終了になります。選手のみなさんは、ウィングを装着して先ほどの場所へ戻ってください。繰り返します──』

 そんなアナウンスが聞こえ、二人は立ち上がる。

 それからまた二組に分かれて後半の練習へ。

 後半は前半よりも内容が難しくなっているが、それでも初心者組は基礎であり、灯眞にとってはそう難しいことではない。

 だから特に疲れることもなく後半も終わり、あっという間に練成会の終わりが近づいてきていた。

 そしてそんな終わりを飾るのが、件の模擬試合だ。

「相手は自分で探すのか……」

 後半が終わり、地上に降りていく面々を眺めながら灯眞は一人呟く。

 模擬試合のフィールドは四つあり、既に試合が始まっているところもあれば、丁度選手が入っていく場面のフィールドもある。

「キミ、もしかして空いてる?」

 ふとそんな声をかけられて振り向くと、見知らぬ男子生徒が空中に立っている。

 鉄色の髪を短くした、灯眞と同じ体格の生徒だ。

「模擬試合の相手を探してるんだけど、どうかな?」

「えっ……と」

 こういうときに勝手に始めていいのかよく分からずに口ごもってしまうが、周りを見ている限りは特に問題ないだろう。

「分かりました。いいですよ」

「ありがとう。……っと、フィールドが埋まってるな。名前だけ入れて待とうか」

「な、名前?」

 予約のようなものだろうか。

「あれっ。……あ、もしかして練成会は初めて?」

 首を縦に振れば、男子生徒はフィールドの一つを指差し、言葉を続ける。

「ポイントセンサーの内蔵デバイスに名前を入力して、予約表代わりにしてるんだ。試合の番が回ってくると名前と得点が表示されるから、それを目印にしてるんだよ」

「なるほど、そういう使い方を」

 男子生徒の言葉に頷き、フィールドの一つに近づいて名前を入力する。

 他の表示を見るに、番が回ってくるまで十分少々ありそうだ。

「DGPが切れちゃうし、番が来るまで下にいようか」

 灯眞たちはゆっくりと砂浜に着地し、一度それぞれのテントに足を向けた。

 翔たちに模擬試合をする旨を話し、スポーツドリンクを飲んでフィールドの近くに戻ろうとすると、上で真菰が試合を始めるところらしかった。

 SSFは一試合五分のため、予約したフィールドの試合があっさり決着しない限り、見ていく時間はあるだろう。

「灯眞さん。あそこのモニターで観戦マーカーからの映像が見れますよ」

 翔が指差したのは、堤防の近くに設置された大型モニターだ。

 両親と共に近づくと、確かにフィールド外を浮遊している観戦マーカーの映像が表示されていて、真菰が斬りかかっている様子が映っている。

 観戦マーカーは音声までは拾わないため無音の映像だが、それでも真菰が気合の声を発しているのは分かる。

 フィールドから微かに漏れ聞こえてくるから。

「真菰ちゃん、速いな」

 驚いたような父の言葉に、灯眞は声もなく頷く。

 真菰はフィールド内を縦横無尽に飛び回り、相手の選手を翻弄していく。

 アクティブスタイルの面目躍如というものだろう。

「相手の選手はどのスタイルだ……?」

「パワースタイルですね」

「うおっ」

 いつの間にか隣にいた翔の言葉に驚き、それから灯眞はモニターを凝視する。

「判断基準はあるのか?」

「パワースタイルは初速が遅く、小回りが利きません。なので不用意に動くと、その隙をアクティブスタイルに突かれる可能性があります、なので……」

翔は両手の人差し指をピンと伸ばし、左手の人差し指に右手の人差し指をぶつけさせる。

「こう、突っ込んできたところを持ち前のパワーで押し返すのが常套手段なんです」

「なるほど……っと」

 灯眞が頷いていると、真菰が動いた。

 相手選手を囲むように飛行していた真菰が、空中で逆さになり相手の上方から一気に降下し、二振りのソードを振りかぶる。

 相手選手は顔を上げ、迎え撃つ構えを取った。

 両者の刃が空中で衝突する、その直前。

 真菰が半回転して体の上下を逆転させ、相手のソードを足蹴にする。

 真菰の足を側面から叩いたソードは、DGPの反発に弾かれて空を切った。

「上手い……!」

「足払い。打突部位のない足を使った斬り払いです。使った側も弾かれるので見た目より何倍も難しい技ですが……」

 姉さんなら、と小さく呟く翔。

 視界の先、モニターの中の真菰は打たれた反動を殺さず側転。

 再び天地が入れ替わった状態で右手のソードを振るい、姿勢を崩した相手の胴体目掛けて一閃。

 バチンッと大気を震わせる打突音がすると同時に、ポイントセンサーが一本を示して点灯、ブザーを鳴らす。

「あっという間に試合が終わりそうなのは、こっちだったな」

 その後真菰はあっさりと二本目取り、試合は終わった。

 自分たちの予約したフィールドを一瞥すれば、一つ前の試合が始まるところだった。

「ちょっと早いけど、足元まで行って待ってるよ」

「分かりました。姉さんが戻ってきたら、試合をしていると伝えておきます」

「ああ。ありがと」

「頑張ってこい、灯眞」

「気を付けてね」

 両親の言葉に頷き、灯眞はフィールドの足元へ。

 すると相手選手は既に来ていて、素振りをしている最中だった。

 灯眞は軽く会釈をしてから反対側に立ち、上空を見上げる。

 四つのフィールドで断続的に粒子の火花が散る様子は、派手で人目を惹きつける。

(──初陣、か)

 SSFを始めてからの一ヵ月、平日は基礎練習ばかりだが、土日には模擬試合をやったことがある。

 とは言え真菰が手加減をし、灯眞に試合中の打つタイミングを覚えさせるためのものだ。

 だから手加減抜きで自分を倒しに来る相手との戦いは、これが初めて。

 怖い、とは思わない。

 胸の内を占めるのは、ようやくこのときが来たという高揚感だけ。

 昂る感情をソードを握る右手に込め、瞳を閉じて深呼吸。

 同時にバチンッと音が鳴り、目の前のフィールドの試合が終わる。

 灯眞は相手選手と顔を見合わせ頷き合い、ウィングの電源を入れる。

 微かな駆動音と共にDGPが体を包み、開始線の元まで飛行。

 それからソードの電源を入れれば、刀身に淡い光が灯り、それが浸透して消える。

 ポイントセンサーが電子音と共に選手名と現在の得点を表示した。

 当然まだお互いに無得点であり、その上に表示されているのは灯眞の名前と、相手の榎本という名前。

「よろしく、詩島君」

「はい、よろしくお願いします」

 対峙する榎本が開始線の上に静止して言い、灯眞も応じて頭を下げた。

 それから籠手の反対側、腕の内側に備え付けられたデバイスを操作し、準備が完了した旨をポイントセンサーに示す。

 通常なら審判が行うことだが、模擬試合なので審判はいない。

『On Your Mark Set』

 合成音声がポイントセンサーから鳴る。

それを聞き、灯眞は片手でソードを構えた。

 榎本も灯眞と同じく一刀流であるが、構えは灯眞とは違い両手だ。

一拍置いて、試合開始を告げるブザーが鳴った。

「さてどう動こ……っと!」

 呟きを遮るように、眼前の榎本が動いた。

 体を僅かに前傾させ、足を折り曲げて壁を蹴るように加速する。

「セッ!」

 脇構えから繰り出される横薙ぎを、灯眞はブーツ前部のサブスラスターを噴射して回避。

 続けざまに放たれた唐竹割りを、今度は頭上でソードを横向きにして受け止めた。

「いきなりか……!」

「先手必勝だ!」

 受け止めた姿勢から鍔迫り合いに転じ、両者は至近距離から睨み合う。

 鍔迫り合いとは文字通り、刀の鍔と鍔が競り合うほどの至近距離ということだ。

 この状態では近間であり、互いに打突部位は狙いにくい。

 しかし狙う方法や技がないわけではなく、剣道においては引き技がそれに該当する。

(でも、この状況……)

 灯眞は相手を注視しつつ思考する。

 密着状態からの技の引き出しは、SSF初心者の灯眞より榎本の方が多いのは確かだ。

 そして勝負ごとにおいて引き出しの多さは、勝敗に直結する重要なファクター。

 ならば。

「ッ!」

 灯眞は鋭い呼吸と共に腕の力を込め、榎本を押しやろうとする。

 が、しかし。その瞬間、待ってましたとばかりに榎本が口元を吊り上げる。

 その仕草で、灯眞は己のミスを悟る。

 榎本は鍔迫り合いを止めて自分から押され、距離を取った。

 その時点で灯眞は腕を突き出していて、榎本は反対に振り上げている。

「もらった!」

 榎本のソードが直上から襲い掛かる。

 文字通りの意味で肩透かしにあった灯眞の姿勢は乱れていて、咄嗟の回避が間に合わない──はずだった。

「なっ……!?」

 榎本の目が驚愕に見開かれる。

 榎本のソードは確かに灯眞に命中した。しかしそれは灯眞の頭にではなく、首を捻ってかわした肩と首の辺りに。

「ハッ!」

 灯眞は首を左に傾けたままの姿勢で、畳んだ右腕を横に薙ぐ。

 至近距離で振るわれたソードは榎本の頬を叩くも、近間過ぎて一本にはならない。

 SSFのソードは刀身全てに判定があるわけではなく、打突として認められるのは刀身の半分から先だけなのだ。

 ──だが、それでいい。

 近間から叩けば当然、双方DGPの性質により弾かれる。

 そして横薙ぎを放って弾かれた右腕は、直前のモーションを逆再生するように動き、再び左肩に担ぐように畳まれる。

 以前真菰が口にしていた、反動を活かして次の動作に繋げるということ。

 なるほど、実戦で使うと確かにそれが有効であることがよく分かる。

 榎本は今、頬を叩かれて横合いに弾け飛んだところだ。距離としては、ソードの間合いの、まさに丁度いい位置。

 そして頬を叩いた反動を肘で吸収してソードを担ぐ灯眞は、それで打突準備を完了させていた。

「取ったッ!」

 再び畳んだ腕を放ち、一閃。

 榎本の頬をソードが叩き、バチンッと激しい音が鳴る。

 そして直後に、場外のポイントセンサーが一本を示して甲高い音を放つ。

 ホログラム投影される得点は、灯眞の一本を示していた。

「やった……!」

 構えを解いた姿勢で、灯眞は快哉を噛みしめる。

 初陣で、初めて取った一本で、本当はもう少し大袈裟に喜びたいけれど今はまだ試合中だ。

 SSFは剣道と同じく二本先取した方の勝利であり、まだもう一本残っている。

 ──とは言え。

 やはり嬉しいし、胸の内の高揚感がさらに高まっていくのが分かる。

 これが、SSF。今までの練習では味わったことのない心地よさと、それを求める心。

「一本取られたけど……まだまだ!」

 開始線に着くと同時に、榎本が挑戦的に笑って言う。

 だから灯眞も、同じように笑って応じた。

「このままもう一本、取ります!」

 両者が構えると同時に、再開を告げるブザー音。

 それが途切れるより早く、両者は動いた。

 灯眞はやはり右腕一本でソードを構え、榎本は両手で構えて切っ先を灯眞に向けている。

 後がなくなるとさすがに慎重にもなるのか、榎本は灯眞の手足を注視して動かない。

 ならば。

「シッ!」

 灯眞は前傾姿勢で飛び出し、一気に距離を詰めて右腕を突き出す。

 当然榎本は対応し、体を横にスライドさせてソードを体の後ろに向けた。

 灯眞のソードは榎本の真横を通り抜け、対して榎本のソードは灯眞の右側胴を狙って空を駆ける。

 剣道で言うところの返し胴のような状態で、けれど灯眞は恐れも逡巡も抱かない。

「っ……!?」

 榎本が至近距離で目を見開き、息を呑む。

 確実に入るかに思われた榎本のソードを、突き出した状態から力任せに振り下ろした灯眞のソード叩き落としていた。

「やってくれる!」

 振り下ろした右腕を、V字を刻むように跳ね上げる。

 瞠目する榎本の声に、灯眞は言葉ではなく剣で答えた。

 跳ね上がったソードは榎本の顔を下方から叩き上げようとするも、ギリギリで上体を捻られて避けられた。

 が、しかし。

 天を突くように掲げられた右腕は。雲海を貫かんとする右腕は。次の打突への布石であり予備動作。

「このっ……!」

 しかし振り下ろした直後、回避もソードでの反撃も間に合わないと察した榎本がメインスラスターを吹かしてタックルを繰り出し、灯眞の攻撃は近間故の元打ちに終わる。

「ちっ……!」

 タックルによりがら空きになった胴体に、右下から榎本のソードが迫る。

 胴への横薙ぎを叩き落とした灯眞だが、V字の斬撃で予備動作を完了させた灯眞同様、ソードを叩き落とされた榎本もまた、脇構えが完成していたのだ。

「喰らえ!」

「誰がッ!」

 咄嗟に言葉を返すも、今度はソードでの迎撃が間に合いそうにない。近間とはいえ打突の反動は殺したが、タックルのせいで体全体のバランスが崩れ、意図せず後ろに傾いてしまっているからだ。

 ここからではソード自体を接触させることが間に合っても、恐らく叩き落とせず逆に弾き飛ばされ、そのまま胴に一撃喰らってしまうだろう。

(どうす……ッ!)

 瞬間、脳裏でスパークが起こり、それに従い灯眞は上半身を弓なりに曲げ、左足のメインスラスターを全力で噴射。

 同時に右足を動かし、かつてやっていた競技で挑戦し、けれど地上では魅せ技にしかならなかったモーションをなぞる。

 バチンッと、ソードと体の接触する音がした。

 しかし、ポイントセンサーはそれを一本とは認めない。

「しま……ッ!?」

 再び目を見開いたのだろう榎本の驚愕を、天地の入れ替わった視界の中、灯眞は背中で感じ取る。

「おぉぉぉッ!」

 裂帛の叫びを発し、砂時計がひっくり返るような挙動で体を起こした灯眞が、未だ驚きから立ち直れない榎本の胴体に袈裟斬りを放つ。

 それは、まるで吸い込まれるように榎本の胴体を斬り、同時にポイントセンサーがブザーを鳴らした。

 そして続く、試合終了を示す音。

 得点表記は、詩島灯眞が二本。

「勝った……」

 僅かに乱れた息を整えながら呟けば、斬られた胴を見下ろし、なぞるように触れながら榎本が近づいてくる。

 厚く纏わせたDGPは反発し合うが、同じ波長を持つ粒子は反発せず溶け合うため、選手が自分の体に障れないという不便は生じない。

「試合をしてくれてありがとう」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

 互いに頭を下げ、それから顔を上げた榎本は苦笑を浮かべる。

「してやられた。まさかオーバーヘッド……いや、サマーソルトで蹴り払いをされるなんて」

「あれは咄嗟の閃きで……。でも俺も、タックルで姿勢を崩されたときはやられたって思いましたよ。あなたのウィングがノーマルスタイルじゃなくてパワースタイルだったら、完全に姿勢を崩されてました」

 あのときのタックル、喰らってなお仰け反ったくらいで済んだのは、互いのウィングが同じスタイルだったからだ。

 もし榎本がパワースタイルだったら、間違いなく弾き飛ばされて錐揉み状態に陥っていただろう。

「はは。かもな」

 榎本は楽しそうに笑い、それから改めて礼を言って別れた。

「ただい……っ!?」

 テントの前でウィングの電源を落として着地すれば、直後に飛びついてくる影があった。

「わぶっ」

「勝ったね灯眞君! おめでとう!」

 可愛らしい顔で満面の笑みを浮かべるのは、確かめるまでもなく真菰だ。

「タイムアウトじゃなくて二本先取で、しかも一本も取られないなんて、本当に凄いよ!」

「あ、ありがと真菰。ただちょっと離れてくれ、な」

 慣れないリアクションに跳ねる心臓、そして僅かに上擦った声。その両方に気付かれないことを祈りながら言えば、真菰は大人しく離れてくれた。

 が、それによって視界に入った面々の表情を見て、今度は何ともいえない気分になる。

「見てたぞ灯眞。よかったな、勝てて」

「ええ。そうね、よかったわね」

 両親の言葉は灯眞の初勝利に対する祝辞のはずだ。

 だと言うのにそれ以外の意図、特によかったという言葉に込められた意味を勘繰ってしまうのは、この際仕方のないことだろう。

 その隣では翔が呆れた表情を浮かべていて、さらに隣では折月がニヤニヤしている。

 教員でなければデコピンの一発でも見舞ってやりたいところだ。

「ああ、うん。俺も勝てて嬉しいよ」

 平静を装いながら言い、先ほどまで戦っていたフィールドに目をやる。

 そこでは次の選手たちが模擬試合を始めていて、先ほどの試合の残滓なんてものにはどこにもなくて、けれど灯眞はそのフィールドに自分が飛ぶ姿を幻視した。

 そのくらいには、まだ興奮が冷めなかった。と言うより、遅れてやってきた。

 一本目を取ったときには心の内で快哉を上げたが、二本目は実感が追いつかず、また榎本に声をかけられたために大きなリアクションはしなかった。

 けれど今ようやく、仲間や家族に認められてようやく、実感が追いついてきた。

 勝ったのだ。初陣で、経験者を相手に、一本も取られない完全勝利で。

 ──もしかしたら今度こそ、できるかもしれない。

 勝利の実感の中で、灯眞は呟く。

 今まで何をしても届かなかった、何をしても手に入れることのできなかった、何もない空っぽな自分を……埋めることができるかもしれない。


 ──第三章 胎動する翼──


 ゴールデンウィークも明けた五月の上旬。放課後の賑やかな教室で、灯眞は大きく伸びをする。

 転校から一ヵ月と少し経ち、ここでの授業もいい加減慣れてきた。

 そもそも設備が特殊とはいえ、扱う科目や内容は文科省の定めたものと相違ないのだから、授業内容そのものに慣れも何もない。

 では一体何に慣れてきたのかと言えば、やはり相違ある部分の設備についてだ。

 古き良き風習か、それとも唾棄すべき悪習か、本土内でも授業のデジタル化が推進される中で、灯眞がいた高校は黒板と紙のノート、そしてシャーペンを使って授業をしていた。

 そのため単純に、機械化された授業というのに不慣れだったのだ。

「……っと、必要ないんだ」

 授業ともう一つ、慣れてきたことがある。

 転校前の高校では放課後に掃除の時間があったが、白樹高校ではその辺りは自動化されていて、全て清掃ドローンが行うことになっている。

 そのため六限目が終われば、すぐにホームルームになる。

 そんなことを考えていたら教室のドアが開き、担任が姿を見せた。

 ホームルームといっても連絡事項のほとんどは端末にメールが送信されるため、担任が話すことはそう多くない。

 頬杖をついて話を聞いていれば、ものの数分でホームルームは終わり、放課となる。

 ──と、思いきや。

「そうだ。分かってると思うが、中間テストが近いからな。気を抜くんじゃないぞ」

 そんな釘を刺され、放課の解放感に包まれつつあった教室の空気が露骨に下降する。

 それはもちろん、灯眞もそうだ。

「もうあと二週間ちょっとか……」

 中間テストは五月の下旬に差し掛かったところで実施され、一日三科目を三日間かけて行う。

「だねー。テスト前の一週間は部活禁止だし、そもそも一週間前から勉強したんじゃ遅いし、どのみちそろそろちゃんと勉強しないとね」

 灯眞のぼやきに反応するのは、当然真菰だ。

 転校してからの一ヵ月でこのクラスにも馴染んだ灯眞だが、やはり同じ部活に所属していることもあり、真菰と共にいる時間が多い。

 そのことについて一部の男子から嫉妬心めいたものを向けられることが多々あるが、関わると面倒なので知らん顔している。

「だな。あんまり乗り気にはならないけど」

 端末に目を通しながら溜息交じりに言うと、真菰は苦笑して同意を示す。

 普段から底抜けに明るく、何に対しても積極的に取り組む真菰にしては珍しい表情だなと、そんなことを灯眞は思う。

 もっとも、まだ知り合って一月と少し。灯眞が知らないだけで、人並みに勉強を面倒くさがる高校生らしい側面もあるのだろう。

「ただでさえテストってだけでも嫌なのに、こうも部活が楽しいときにってなると、水を差されたみたいで余計嫌になる」

「あ、分かるなー、その気持ち。テスト禁止期間とか、飛べないことが我慢できなくてうずうずしちゃうんだよね。……どこか隠れて飛べるところでも探そうかな?」

「へぇ、例えば?」

「うーん……いつもの場所だと住宅街が近いから……学校裏の切り立った崖のところとか? あそこなら、学校から近いけど見えにくいし、いい具合に死角かも?」

「へぇ、そうなんだ」

 瞳を閉じて考え込む真菰と、それに頷く人物が一人。

「……あのさ、真菰」

「うん? どうかし……」

 目を開けた真菰が笑顔で灯眞を向き、笑顔がそのまま凍り付く。

「気付いたみたいだけど、さっきから頷いてるの、俺じゃないんだ」

「学校裏の崖ね。そういうことなら、他の先生方に伝えておくことにするわ」

 二人の前でニヤリと笑うのは、パンツスーツ姿の折月だった。

「い、いつから……!?」

「飛べないことが我慢できなくてって辺りから。その前は聞き取れなかったけど、タイミング的にテスト期間のことだろうなって想像はできるわ」

 折月はそう言うとニヤリとしたまま、けれど先ほどとは雰囲気が違い、張り付けた仮面のような笑顔で言葉を続ける。

「もし勝手に隠れて飛んだら、部活の顧問降りるわよ」

「じょ、冗談ですよ冗談! ね、灯眞君!」

 あわあわと手と首を振る真菰の言葉に、灯眞は苦笑して肩をすくめる。

「ああ、そうだな」

「ね! と言うわけで顧問を降りるのだけは何卒……!」

「分かってるわよ」

 パシンッと勢いよく手の平を合わせて頭を下げる真菰に、折月も苦笑して灯眞と同じように肩をすくめて言った。

「それこそ冗談よ。こんないきなり止めますなんて、私の評価にも関わるし、それに興味もあるから」

「興味ですか?」

「そう。……自覚はないみたいだから、今は何も言わないけど」

「んん……?」

 言っていることがよく分からないが、話す気がなさそうなものを追求してもしょうがないので、今は流すことにした。

「で、あなたたち勉強はどうなの? ちゃんとやってる? 私は二人の授業を受け持ってないから知らないんだけど。赤点取って補習になると、部活停止処分が出るわよ?」

 折月は現代文の担当で、それもまだ新任ということもあって一年生のみの担当だ。

 そのため翔とは接点があるようだが、灯眞、真菰とは授業での関りはまったくない。

「俺はまぁ、人並みに苦手な科目はありますけど赤点はさすがに……。でも転校後初のテストなんで、ちょっと身構えてはいます」

「そう。まぁ、そんなものよね。真菰ちゃんは?」

 何気なく向けられた折月の視線の先、真菰が笑顔を浮かべている。ただし、若干引きつった笑顔だ。

「……一緒に授業を受けてても、勉強が苦手って印象はなかったけど」

「あはは……」

 首を傾げた問いに、真菰は曖昧に微笑みを返すだけだ。

 もしかして、いやもしかしなくても。

「……真菰、テストヤバい?」

「いやいや! そんなことないよ! 灯眞君も言ってたけど、授業受けてても普通でしょ? 私、勉強苦手って感じしないでしょ?」

「それはうん。特にそういう印象は感じなかったよ」

「ね? だから別に──」

「でもその慌てふためきようは、とてもじゃないけど問題ないようには見えないんだよな」

 被せるような灯眞の言葉に、真菰は肩を揺らす。そんなに分かりやすい反応をするのか。

「……」

「……」

 しばらく灯眞と真菰は無言で見つめ合い、それからスマホを取り出す。

 起動したメッセージアプリで、手早く翔にメッセージを送る。

 すると一分も経たないうちに既読が付き、簡潔な、けれどそれ故に酷薄な返信が送られてきた。

『姉さんは勉強苦手ですよ。壊滅的というほどではないですけど』

「ああ……」

「ちょっと待って! そんな諦めたような声出さないで……!」

「いや、だってな……」

「と言うか、翔でしょ? 翔なんでしょ!? ちょっと見せて!」

 真菰は灯眞の手からスマホをぶんどると、目を見開いて画面を凝視する。

 てっきり長々と自分のダメ出しをする弟のメッセージがあると思ったのだろう。薄青の瞳が上下する。

 しかし翔から送られてきたのは、たかだが二文だけだ。そんなことをせずともすぐに分かる。

「見ての通りだ。まぁ、壊滅的じゃないなら救いようがあるとは思うけど……」

 実際どの程度なのかはよく分からない。そこばかりは、本人に自己申告してもらうのが一番早いわけだが。

「どうなんだ? 部活停止処分になると、色々と面倒くさそうだけど」

「いやー……」

 真菰は半眼になって目を逸らし、それから諦めたように白状する。

「正直、自信ないかな……」

「そっか」

 溜息を吐く真菰に、灯眞は短く応じる。

 何というか少し、意外だった。

 人工列島で一、二を争うほどのSSFの実力者で、持ち前の明るい性格から男女問わないクラスの中心的人物な彼女が。いかにも優等生な彼女が。

「まぁ得意不得意は誰にだってあるものだし、仕方のないことだけど……っと、そうだ。どうせなら親睦を深めるためにも、部内で勉強会でもしたら?」

「勉強会ですか。まぁ、一人でやるよりはモチベーションも上がる……んですかね?」

 真菰を一瞥すれば、うんうんと首を縦に振っている。

 と言うか──。

「真菰、仲のいい女子とそういうことしないのか?」

「あんまりやらないかなー。勉強会やろうって声かけるほどお堅いメンバーじゃないし、集まるとどうしても遊んじゃうから」

「なるほど。想像に難くないな」

「灯眞君は? そういうのやらないの?」

「やらない。男でそういうことやる奴、ほとんどいないんじゃないか?」

 記憶にある男友達や男子のクラスメイトの顔を想像するが、どいつもこいつも勉強なんてほとんどやらないか、灯眞のように一人でやるか、必要ないほど頭がいいかの三択だ。

「そっか……」

 とは言え。

「じゃあ各々頑張ってくれって丸投げするのは悪いよな」

 灯眞の返答にしゅんと肩を落とし、捨てられた子犬のような表情をする真菰を放っておくのは寝覚めが悪い気がした。

「じゃあ……!」

「ああ。俺も苦手な教科は教えようがないけど……やるだけやってみようか、勉強会」



 勉強会をやろうと決めて、それから実行まではすぐだった。

 話が持ち上がった週の土曜日、部活を終えた一行は歌澄家に集合していた。集合と言っても、真菰と翔はただ自宅にいるだけだが。

「あら? あらあら……。あなたが詩島灯眞君?」

 初めて訪れる歌澄家の玄関、インターホンを鳴らそうとしたところでドアが開かれた。

 そして灯眞の元に近寄り微笑んでいる人物は、真菰が大人になったらこんな感じなんだろうなと思わせるほど真菰に似た、けれどショートボブの髪だけが違う女性だった。

「はい。初めまして。詩島灯眞です」

「やっぱりそうなのね。私は歌澄花奈。気付いてると思うけど、真菰と翔のお母さんよ」

 そう言って微笑む姿は、やはり真菰そっくりだ。もっとも、真菰がこうもおしとやかに微笑む姿などなかなか想像できないが。

「二人から聞いてるわ。勉強会をやるんだって?」

「ええ。中間テストが近いので」

「そうなのね。真菰はあんまり勉強が得意じゃないから、色々よろしくね?」

「ちょっとお母さん」

 花奈の言葉に反発する声が聞こえ、その背後を見る。

 するとラフな服装の真菰が仁王立ちしているのが目に入った。

「得意じゃないっていうのは否定しないけど、そういうの、本人がいるところで言わない方がいいんじゃない?」

「ごめんごめん、部屋にいるんだと思ってたんだもの」

「そろそろ来るかなって思って降りてきたの。と言うか、いつまでも立ち話じゃ悪いでしょ。さ、灯眞君。あがってあがって」

 真菰は花奈の横から手を伸ばすと、そのまま手を握って引っ張って来る。

「あ、お邪魔します」

「はいはい。ごゆっくり」

 花奈は先ほどまでと変わらない微笑みを浮かべ、ひらひらと手を振っていた。

「お母さんと真菰、そっくりなんだな」

「あはは、よく言われる。ちなみにお父さんは翔とそっくり……ってほどでもないけど、似てるんだ」

 そんな会話を交わしながら階段を上り、案内された突き当りの部屋。

 ドアを開けると、座布団に座った翔がこちらに振り返って手を挙げた。

「先ほどぶりですね、灯眞さん」

「だな」

「さぁさぁ、座って座って」

 真菰に促され座布団に腰かけ、非礼かとは思いつつ部屋を軽く見回す。

 家屋の設備は人工列島故の最新式のものだが、内装に関しては近未来的なものではなく、本土にもあるような一軒家に寄せることができる。

 そしてこの部屋もそういうデザインになっていて、ベージュがかった白い壁は近未来的な無機質なものではなく壁紙(クロス)だ。

 対して床は、明るい色のフローリングに空色のジャギーラグ。

 壁際には白いL字のディスクがあり、同じく白いベッドがあり、本棚があり、閉じられたクローゼットや姿見があり。

 そんなことを思うのはそれこそ非礼かもしれないが、部屋の主の快活な性格とは結び付かないシンプルさだ。

 もっとこう、沢山の小物や雑誌や、それこそぬいぐるみやクッションとか、そういうもので溢れているのだとばかり思っていた。偏見でしかないが。

「下で話してたみたいだけど、何かあった?」

「私が出るより先に、お母さんが出てた」

「ああ、そういう」

 二人揃って肩をすくめ、それから真菰は部屋の中央に置かれた少し大きめの円卓の前に腰かける。

「さて……じゃあ、さっそくだけど始めようか?」

「だな」

 その言葉に頷き、灯眞は背負っていたバッグから授業でも使っているタブレット端末を取り出す。

「真菰が苦手なのは現代文とか歴史とかだよな」

「うん。灯眞君は数学だったね」

 午前中の部活で聞いたことを思い出しながら言うと、真菰はそれに答えてから翔の方に目を向けた。

「翔は? 中学の頃はそんなに苦手な教科とか無かったと思うけど、高校に入ってからはどう?」

「今のところは付いていけてるよ」

「そっか。もしかして一人で勉強してた方が捗ったりする?」

 気遣うようなその問いに、翔は真面目くさった表情で首を振る。

「かもしれないけど、別にいいよ。折月先生には親睦を深めるのも込みでって言われたし、もしかしたら、何か聞くことがあるかもしれないし」

 灯眞と真菰は同学年のためテスト範囲が同じであり、教え合いというのもやりやすい。

 しかし翔は一年生でテストの内容も当然変わってくるため、教え合いが成立しない。

 とは言え仲間外れにするのは気が引けたし、本人が構わないと言っているので同席することになった。

 そして親睦を深めろと言った折月本人は、テスト前で仕事が立て込んでいるからということでいない。学校ではなく歌澄家で勉強会をすることになったのには、そういう理由もある。

「そっか。何かあったら遠慮なく、お姉ちゃんたちに聞いてね」

「はいはい。でも姉さんは僕に気遣う前に、自分の勉強をどうにかするべきだと思うよ」

 真菰が優しく微笑むと、翔はどこか呆れたような表情で肩をすくめる。

「うぐっ……言ってくれるなぁ」

 微笑みを引っ込めた真菰に苦笑を浮かべ、灯眞はタブレット端末に目を落とした。

 そうして始まった勉強会で、真菰はきょとんと首を傾げて顔を上げた。

「そう言えば、灯眞君はどうして数学が苦手なの?」

 その疑問に、灯眞は軽く顔を上げ、再びタブレット端末に目を落としながら口を開く。

「ん? 別に大した理由じゃないんだけど……小学生の頃の算数で、急につまずいた時期があってさ。そのときテストで酷い点数取って、以来こう……苦手ってイメージがあって集中できないんだよな。授業中とかも、どうにも気合が入らないっていうか」

 ただ何となく苦手意識があるだけ、本当にただそれだけだ。

「ふーん。でも数学って、公式覚えちゃえば何とかなるでしょ?」

「そうだな。でもテストの後半とか、大体応用問題が出題されるだろ? 公式の数字を置き換えるだけじゃ解けないやつ。ああいうのがダメで、テストの点数伸びないんだよ」

 本腰を入れて勉強すれば今よりマシになるかもしれないが、そこまでするやる気があるのかと聞かれれば、首を横に振るしかない。

「そういう真菰は、どうして現代文や歴史……文系科目が苦手なんだ?」

 タブレット端末から顔を上げて問えば、真菰は頬杖をついて考えるように唸り、それから口を開いた。

「さっき公式を覚えれば何とかなるって言ったけど……理系の人間が文系の人間に、数学は公式を覚えれば楽勝って言っても、それを文系の人が理解できないように」

 真菰は一度言葉を区切り、苦笑しながら続けて言う。

「社会が得意な人が、歴史は覚えゲーとか言っても、私にはまったく分からないの。現代文も似たような感じで、漢字や文法はともかく、小説中の人物の感情を読み取れっていうのがどうしてもね……」

 苦笑のまま溜息を吐く真菰に、なるほどと灯眞は内心で頷く。

「まぁ、歴史が覚えゲーってのは……俺は小さい頃に歴史の漫画とか、好き好んで読んでたから、そういう影響は大きいだろうな。現代文も、小さい頃に本を読む習慣があった奴は得意だけど、そうじゃない奴は苦手ってパターンが多いし」

 もし読んでいなかったら、灯眞はきっと今ほど歴史が得意ではなかった。

 現代文も、親の勧めでよく本を読んでいたから苦にならないだけで。

「そういうの、俺が数学を苦手になったのと同じで、結局小さいときに染み付いた習性みたいなものなんだよな」

 しみじみと言えば、ここまで黙っていた翔がそれに応じる。

「小さい頃についた癖って、よっぽどのことが無い限りなかなか治りませんからね。勉強も、苦手意識が付いたものを克服するのは大変でしょう」

「はー……。そこを何とかする方法、ないかなー……」

 翔の言葉に真菰が項垂れ、灯眞は少し考えてから口を開く。

「まぁ、あるにはあるぞ」

「本当!?」

「ああ。──書いて覚える」

 飛びつくように食いついてきた真菰だが、灯眞の短い答えを聞いて、まるで石になってしまったかのように動きを止める。

 求めていた方法とは違うのだろうな、と内心苦笑しながら灯眞は言葉を続けた。

「特に現代文なんか、大体ワークと同じ問題が出るんだ。そんなの、ワークを二周か三周して覚えればいいんだよ。多少設問の内容が変わってても、ワークを周回するうちに対応できるようになってるから」

「えぇ、本当……?」

何てことないように言ってのける灯眞に、真菰は怪訝そうな顔を向けてくる。

そういう表情の真菰が少し新鮮でしばらく眺めていたかったが、そんな好奇心はおくびにも出さず、灯眞は頷いた。

「ホントホント。歴史もそう。ワークや用語集の赤字を何度も書いて覚える。名前や用語を覚えると、そこから連想で意外となんとかなるよ。特に条約とかは」

 灯眞はそこで言葉を区切り、タブレット端末の表示を数学のワークから歴史のワークに切り替え、真菰と翔に見えるように置く。

「例えば……ああ、これは今回のテスト範囲と一切関係ないけど……。何とか宗の開祖は誰かって問題がワークにあるとする。で、テストの設問に誰々は何宗の開祖か、って問題が出る」

 その説明に、真菰は「ふんふん」と相槌を打つ。

「これ、ワークの問題を覚えちゃえば、求められる答えが開祖の名前でも宗教の名前でも、どっちでも対応できるだろ?」

「ああ、確かに……」

「そういうもんだよ、テスト勉強なんて。どうせ次の範囲をやる頃にはきれいさっぱり……ああいや、これは個人差があるかな。俺はそういうタイプってだけだけど……。とにかく、そのときに必要なだけなんだし、こういうやり方でも何だかんだうっすら覚えてるもんだし、いいと思うよ?」

「なるほどねぇ。灯眞君、要領良いんだね」

「俺が? まさか」

 本当に要領のいい人間は、こんな総当たりの丸暗記の周回なんてしなくても、それこそ普段の授業だけでテストが解けてしまうだろう。

 そう言えば、真菰は「それもそっか」と可愛らしく微笑む。

「でもさ、頭が良いのは確かじゃない?」

「ないない。成績は普通だよ、俺は」

 調子が良いと得意科目でも八十点を超すのがせいぜいで、他は平均点前後だ。

「そっか。でもなんか、意外かも。教えたことは何でもすぐできるようになるから、要領いいなぁって思ってたんだよね」

「そうなのか? ……ちなみに真菰は、どのくらいで今みたいに飛べるようになったんだ?」

 明確な単語は出てこなかったが、真菰の言う教えたことが何を指すのか、この場合は一つだろう。

「私はSSFを始めてから五年になるけど、今くらい飛べるようになったのは去年くらいかな」

「五年……中学生になったときってことか」

「うん、そうだね。そのときにSSFに出会って……それからずっと、がむしゃらに飛び続けてきたの」

 真菰は懐かしむように、その記憶を愛おしむように微笑む。

 それからパッと顔を輝かせ、立ち上がった。

「そうだ! そのときの写真とか、アルバムに残ってるんだよねー。見る?」

「姉さん」

 灯眞が答えるより早く、呆れ顔の翔が割り込む。

「勉強会、でしょ」

「うぐっ……はーい」

 不承不承という様子で頷く真菰の姿が可愛らしくて、思わず灯眞は口元を緩める。

 その裏で。

 五年という数字を、灯眞は反芻していた。

 人工列島最強と評される真菰でさえ、五年。より正確に言えば、今のように飛べるようになるまでは四年。

 そんな真菰をして要領が良いと言わしめる灯眞は、果たして。

 ──それから二週間ほど後に行われた中間テスト。結果としては三人とも問題なく突破し、停止処分を免れることができた。



 テストが明けた次の土曜日、久しぶりの部活となる灯眞たちは、飛び慣れた砂浜には居なかった。

 眼前にあるのは抜けるような青空でも、白波を立てる海でもなく、野球ドームより一回り小さいくらいの体育館だった。

「すごいな。さすが私立」

 白樹高校SSF部一行が居るのは、人工列島の中心にして、もっとも技術レベルが進んでいる九重島だ。

 そして眼前にあるのは、この九重島建設にもっとも多額の資金を提供した団体が運営に関わる高校、九重学園だ。

「だろ? ローテもあるからいつでもってわけじゃないけど、屋内飛行場があるおかげで、天候が悪い日でも飛べるんだ」

 そう話すのは、一行の案内を買って出たという鉄色の髪の男子生徒──榎本だ。

 練成会で模擬試合をした後、帰り際に再開して、同学年ということで連絡先を交換してやり取りをしていたのだ。

「それにしても、まさか合同練習の誘いが来るなんて思わなかったなー」

 体育館、もとい屋内飛行場を見上げながら真菰が言う。

 そう、合同練習。

 テストが明けた後、夏の大会に向けて練習を続けるところにもたらされたその誘いは、練成会の模擬試合で灯眞が戦った榎本の所属する九重学園からのものだった。

「俺もこうなるとは思ってなかったよ。なにせ白樹高校SSF部は、部員不足で消滅するかもしれないなんて話が挙がっていたくらいだからな」

 一行の横合いから低い声が聞こえて向くと、赤い髪で長身の男子生徒が一人、こちらに歩み寄って来るところだった。

 その生徒の精悍な顔つきに、灯眞は見覚えがあった。

「真菰と野良試合をしてた……」

「よう、歌澄、翔君。それとキミも。こうして会話をするのは、あの浜辺以来だな」

「高峰さん! おはようございます!」

 どうやら高峰というらしい男に真菰が頭を下げるので、灯眞も翔もそれに続く。

「あれ、部長、詩島と知り合いだったんですか?」

「ん? 知り合いというほどでもなかったが、ちょっとな。歌澄と大会で戦う機会がなくなるかもしれないと聞いて野良試合を挑んだことがあるんだが、そのときに顔を合わせたんだ」

 そう語る高峰の言葉に、なるほどと灯眞は納得する。

 あのとき真菰が他校の生徒と野良試合をしていた理由、特に問い質しこそしなかったが密かに気になっていたその答えが、意外なところから現れた。

 それと同時に、先輩である高峰がそういう選択肢を取るほど、真菰は強いということを再認識する。

「へぇ、そうだったんですね……っと、ここで長話をするわけにはいかないんだった。他の部員も待ってるし」

 思い出したように言う榎本に続き、一行は屋内飛行場の中へ。

 手早く着替えて準備運動を済ませると、両顧問の指示で練習が始まった。

 屋内飛行場で飛ぶのは初めての灯眞だったが、肌を撫でる風の感覚がないこと以外、特別変わることはなかった。

 だから特に戸惑うこともなく、練習は進む。

 九重学園はその設備もあり他校よりスカイスポーツ系の部活に入部する生徒が多いらしく、人工列島内ではもっともSSF部の人数が多い。その数なんと二十人。

 合同練習とは言いつつ人数差のせいで灯眞たちが混ぜてもらっただけのような練習の時間は、あっという間に過ぎていった。

 そんな練習の、一通りメニューを終えた後の休憩時間。

「詩島君、SSF始めて一ヵ月少しって本当なの?」

「本当ですよ先輩。詩島先輩、練成会で俺たちと一緒にいましたから」

「一ヵ月でこれ!? 私、あっという間に追い抜かれちゃいそう……」

「私、まともに飛べるようになるまでもっとかかったよー」

 九重学園SSF部の生徒たちが、灯眞の周りでやいのやいのと話している。

「話題の中心に据えられてるのに、会話に入る余地がないな……」

「ウチの部員、元気だろ?」

 どうしたものかと立ち尽くす灯眞の横で、榎本が笑いながら言う。

 ちらりと目を向ければ、生徒たちの輪の外に真菰と高峰が居て、こちらはこちらで色々と話をしている。

 さらに視線を別の場所に向けると、翔が九重学園のメカニックと何やら話し込んでいた。

 内向的な翔のことを少し心配していた灯眞だが、どうやら完全にお節介だったらしい。

「にしても、俺も初めて聞いたときは驚いたよ。詩島があのとき初心者だったなんて」

「あのときって言うか、今もまだ初心者だけど」

「はは、よく言うよ。俺に二本で勝っておいて」

 笑いながらそんなことを言う榎本に、灯眞は曖昧に微笑んで応じる。

 元々人見知りしない性格というか、積極的に他人とコミュニケーションを取りたがるらしい榎本は、灯眞が初心者と知った後もこうして話しかけてくれる。

 榎本がいつからSSFを始めているのか知らないが、初心者にああいう負け方をしてこういう明るい接し方ができるのは尊敬できると、そうはできない灯眞はこっそり思う。

 ──きっと灯眞がその立場なら、二度と関わるなと距離を置いただろうから。

「何か上達のコツとかあるのか?」

「コツ……って言われてもな。俺はただ、教えられたとおりにやってるだけだから」

「出た出た。天才はそう言うんだよなー。言語化してくれよー」

「そんなこと言われたってな」

 苦笑と共にそう応じるが、実際その言葉と感情は灯眞にも覚えがあるものだった。

 サッカーも、バスケも、野球も何もかも。色々な競技を人並み以上にできる灯眞だが、けれど身の回りには常に上回る連中がいた。

 サッカーも、バスケも、野球も何もかも。灯眞は必ず二番手か三番手で、何をしても一番すごい奴にはなれなかった。

 ──どうしたらそんなことができるんだよ。

 ある時は冗談交じりに、あるときは鬼気迫って聞いたその言葉が、今は自分に向けられている。

「はーい! 休憩終わりだよー!」

 真菰の大声に促され、話を打ち切ってウィングの電源を入れる。

 一通り練習メニューを終えてやることは、練成会のときと同様に模擬試合だ。

 屋内飛行場を四つのフィールドに区切って行うもので、ある程度学年や練度を考慮しつつ、基本的にランダムに割り振られる。

 そんな模擬試合で灯眞が割り振られたフィールドには、見慣れた名前が二つある。榎本と──高峰だ。

「マジか……」

 思わず呟くと、トンボの羽のような細長い翼を展開した高峰が灯眞の近くに飛んで来た。

「同じ組だな。よろしく頼む」

「よろしくお願いします。……さっき真菰と話してたのはこれのことですか?」

 真面目くさった声色で言う高峰だが、それを聞いて灯眞は苦笑を浮かべる。

 すると高峰は、精悍な顔をニヤリと歪めて口を開く。

「見ていたか。悪いが、少し我儘を通させてもらった。夏の大会で当たるかは運次第だし、以降は引退することになるから、練成会で戦う機会もないし、確実に戦う機会があるのは今日だけだろう?」

「それはそうですけど……。ならなおさら、真菰じゃなくていいんですか?」

 野良試合をしてまで挑もうとした相手で、しかもその野良試合で負けた相手だ。リベンジをするチャンスだと灯眞は思ったが、高峰は静かに首を振る。

「俺は野良試合でも負けた。これ以上、非公式な場でリベンジをするつもりはない。今は真菰より、キミと戦ってみたいんだ」

 ──何てことないように発せられた言葉に、けれど灯眞はつい口元が緩みそうになり、意識して表情を維持した。

 天才と評され、要領が良いと言われ、羨望の眼差しを向けられ、コツを問われ、強者に興味を向けられる。

 今まで自分が他人に向けてきたものが、今まで他人が味わってきたものが、今は全て灯眞に向けられている。

 その事実に、その今に、灯眞は不遜にも考える。

 俺は本当に──。



『On Your Mark Set』

 ポイントセンサーが告げる合成音声に、灯眞はソードを構えて応じる。

 フィールドを四つに分けたのに、他の三フィールドでの試合を中断してみんな揃って灯眞と高峰を見上げていた。

 両者の準備が完了したことを認識したポイントセンサーが、試合開始を告げるブザーを鳴らす。

 直後、灯眞と高峰は同時に動いた。

 相対する高峰は以前の野良試合で見かけたときと同じウィングに一刀のソードで、練習中に気がついたことだが、どうやらパワースタイルらしい。

 つまり、練成会の後にアクティブスタイルに変更した灯眞のウィングは鍔迫り合いで不利になる。

「なら……」

 高峰を直接狙うのではなく、その周囲を囲むように多角形を描いて灯眞は飛ぶ。

 練成会のときに見て、その後教えてもらった対パワースタイル向けの戦術だ。

(上手くいくか……?)

 灯眞は内心で呟きつつ体を回し、壁を蹴るように折りたたんだ足で急制動をかける。

 SSFに限らずウィングを用いたスカイスポーツでは、基本的に飛行姿勢で直角に曲がることはできない。

 車や航空機が直角に曲がれないのと同じで、前傾姿勢になっている分縦の長さが長くなり、歩いている人が曲がり角を曲がるような挙動ができないからだ。

 とは言え、それでも多角形戦術が展開可能なのは、ウィングを全身で使った姿勢制御が可能だからだ。

 前傾姿勢から体を前に回し、足と頭の位置を逆転させての急制動や、前転と共に直立、あるいは逆さになってブーツのメインスラスターを吹かし急上昇、急下降。

 そこにアクティブスタイル特有の繊細なサブスラスター操作。

 そんな、体全身を使う動作とサブスラスターの駆使、その組み合わせが多角形戦術のキーになる。

「シッ!」

 灯眞は高峰の背後に回り込むと同時に鋭く息を吐き、ソードを握る右手を振り上げる。

 同時にサブスラスターを全力で吹かし、一気に距離を詰めた。

 その挙動を感じ取ってか、あるいは視界に灯眞が現れないことに反応してか、素早く高峰は時計回りに振り返り、同時に横薙ぎを繰り出してくるのが見えた。

「──セッ!」

 灯眞は振りかぶった姿勢のまま体の前に向いているサブスラスターを吹かし、横薙ぎをやり過ごして再加速。

 真菰が何度も見せてくれて、実際に技を受けて学んだアクティブスタイルの常套手段。

 相手の空振りを誘発し、小回りの利くアクティブスタイルの挙動を活かして攻撃を決める、攻めのカウンター──しかし。

「おぉッ!」

 気合の声を発する高峰が、横薙ぎを振り切ると同時にスラスターを全力で吹かす。

 灯眞が引くことを読んでの加速。対パワースタイルの常套手段である多角形戦術。それに対する常套手段である振り返りながらの接近攻撃、バッククロウス。

 もし灯眞が身を退かなければ近間になって当たらない攻撃だが、退いていれば予備動作で固まっている相手の隙を突ける。

 そこに読み合いが発生し、そこがSSFの面白さの一つだと真菰は言っていた。

 そしてそれを聞いた灯眞は当然、この動作も読んでいた。

 振り返った高峰の目が僅かに見開かれる。

 繰り出した横薙ぎは、正確に灯眞の左胴を切り裂く軌道を辿ったが、けれど当たらず空を切った。

 アクティブスタイルのサブスラスターは初速が早いが、その初速の最大速度、一度に吹かして移動できる距離が小さい。

 バッククロウスはそんなアクティブスタイルの弱点を突くことができる技でもある。

 サブスラスターで移動できる距離が長いパワースタイルは、バッククロウスを読んで距離を空けようとするアクティブスタイルを、無理やり追撃することができるのだ。

 ──だが当然、そんなことは分かっている。

「ほう……」

 高峰が目を眇めるのを、灯眞は床を背にしながら見た。

 背面飛行はウィングを使った飛行姿勢の中で、推奨されることのない飛行姿勢だ。

 と言うのも、ただでさえ飛行という行為自体不慣れな人間で、逆立ちしながら歩くことをしない人間が、地面との距離を測れぬ恐怖を加えた三重苦を同時に味わうことになるからだ。

 けれど灯眞はそれを気にせず、苦とも思わず体を動かす。

「──ッ!」

 歯を食いしばり、仰向けの上半身を弓なりに。同時に下半身をサブスラスターで押し上げ、曲げた膝に力を込めて戻す。

「おぉ!」

 地上から感嘆の声が挙がる。

 榎本との模擬試合で偶然繰り出したサマーソルトは、その後の練習で技の一つとして完全に身に着けていた。

「ぐっ……!」

 右腕一本で横薙ぎを繰り出した高峰が咄嗟に左手を体の前に出し、その左腕を灯眞が蹴り上げる。

 突き上げられて体勢を崩した高峰は、一瞬で冷静さを取り戻したらしく灯眞を見下ろし、右腕を振り戻してきた。

「うおっ……!?」

 まさかすぐに対応してくるとは思っておらず、灯眞は天地がひっくり返った姿勢で横合いから吹っ飛ばされた。

 ギリギリで身をよじって打突部位は避けたが、一瞬でも遅れたら胴を取られていたかもしれない。

「ぐっ……」

 互いに真横に弾き飛ばされ距離が空く。

 ソードを構え直した灯眞を見据え、高峰が楽し気に表情を歪めた。

「榎本との試合は映像で見させてもらったが……。あれから一ヵ月でモノにしてくるとはな。いやはや、驚きだ」

「それはどうも」

 短く応じつつ、灯眞は顔を顰める。

 多角形戦術からのバッククロウスを読んだサマーソルト。先ほどは高峰の横薙ぎが素早かったことで外れたが、タイミングを計ればソードを蹴り飛ばすこともでき、無防備な相手に攻撃を叩きこめるかもしれない連携だ。

 真菰相手に決まったことはないが、とは言え狙えるとお墨付きをもらった一連の攻撃を、こうもあっさりいなされるとは。

「さすがに、真菰とタメはれる先輩だ……」

 野良試合では負けこそしたが、高峰は真菰とまともにやり合える数少ない選手だ。

 真菰相手に決まらない技を避けることは、当然可能だろう。

「今度はこっちから行かせてもらう!」

 三対の羽が武者震いのように震え、直後に凄まじい速度で高峰が距離を詰めてくる。

 さすがにパワースタイル。まるで闘牛のように真っ直ぐ灯眞目掛けて突っ込んできた。

 なるほど確かに、正面から見たパワースタイルの突進はかなり圧が強い。

 不慣れな選手なら竦んでしまうことも、臆してしまうこともあるだろう。

 とは言え、灯眞はこの程度で竦まないし、臆さない。 

 数々の競技で得た経験が、向けられた敵意が、この程度何てことないと灯眞を鼓舞する。

「これなら……」

 灯眞はメインスラスターを吹かして上昇、やりすごす。負けると分かっている力比べに乗ってやるつもりは当然ない。

「甘いぞ!」

「なっ……!?」

 鋭い叫び声と共に高峰が前転。足を突き出した構えを取り、直後に身を翻しつつ再度突進を仕掛けてきた。

「んのッ……!?」

 下方から近づく高峰に対し、振り返り様に蹴りを放つ。が、しかし。

「甘いと言った!」

 体を伸ばした飛行姿勢そのままで、高峰が上へスライド移動した。

 直後、体を起こした高峰の一撃が灯眞の体に直撃する。

 ギリギリで手の平を突き出して防いだが、危なかった。

「パワースタイルじゃなかったのか……!」

 毒づくと、高峰は血を払うようにソードを振るい、ニヤリと笑う。

「パワースタイルだとも」

「……その割に、器用な動きをするんですね」

 驚愕を収め、構えを取る。

「パワースタイルが不器用というのは、勘違いだな。サブスラスターの放出するDGP量が多く、そのせいで動きは常に大振りだ。だからフェイント仕掛けることはできないし、こちらの攻撃には常に隙が生じる」

 そして、それらの不利を力押しで突破するのがパワースタイルだ。

 だが今の高峰の挙動は、こちらの太刀筋を読んだ上での回避は。

「だがな、こちらの攻撃に隙が生じても相手が対処できないタイミングが存在する。それがいわゆる後隙。今のキミの、横薙ぎを繰り出した後の無防備な瞬間がそうだ」

「相手をパワーで突き崩すんじゃなくて、相手が崩れるのを待つ……」

「その認識は半分正解で、半分外れだ。俺のコレは、アクティブスタイルの攻めのカウンターと同じさ。……だがまぁ、この戦術が全く通じないスタイルもいてな。困ったものだ」

 自分の隙を晒さざるを得ないからこそ、タイミングを選ぶ戦い方。

 今回は灯眞の攻撃に合わせて大振りの一撃を叩き込んできた高峰だが、それが通じない相手、スタイル──。

「二刀流ですか」

 その言葉に、高峰は確かに頷く。

「先ほどのように攻撃を避けても、もう一刀が控えているからな。手数の多い選手は相手取るのが難しい」

 やれやれと空中で器用に肩をすくめ、それから一瞬で空気が切り替わり、再び灯眞目掛けて飛び込んできた。

「だが、キミのような一刀流が相手なら!」

「言ってくれますね……っと!」

 ソードを体に引きつけるように構えた高峰を真っ向から捉えるべく構える。

 その様子に、地上の生徒たちがざわめき立つのを肌で感じた。

 DGP噴射総量に差があるパワースタイル相手にぶつかっても弾かれるだけだと、そんなことを言っているのだろう。

 だが灯眞には、ある算段があった。

 アクティブスタイルとパワースタイル、両者の最大出力は後者が圧倒的に有利だ。

 だがパワースタイルは初速が遅く、その遅い初速の時点では、アクティブスタイルの初速よりも遅い。

 そしてSSFにおいて、速度とはパワーだ。

 つまり初速に優れるアクティブスタイルは、加速した直後の、最大速度に達していないパワースタイルとなら一瞬だけ張り合える。

「ぬ……!?」

 交錯する一瞬、高峰が驚愕して呟く。

 灯眞の目論見は成功し、高峰が加速しきるより僅かに早く、一瞬で最大出力に達した灯眞が眼前に迫った。

 とは言え、拮抗するのは一瞬だ。タイムラグなしに最大出力に達したラプターは、すぐに加速を失い失速する。

 だから灯眞は考えた。

 切り結ぶのではなく、弾く。鍔迫り合いには持ち込まない。相手の土俵に付き合ってやる必要などない。

「ハッ!」

 手刀を突き出し、高峰のソードを叩く。

 当然二人は反発し合い、弾け飛ぶ。

 その光景に、地上の選手たちのざわめきが大きくなった。

 当然だろう。本来なら高峰の出力により、灯眞の方が大きく弾かれて姿勢を崩すはずの場面だ。

 だが実際には両者は同じ程度の速度と距離で離れ、むしろ灯眞の姿勢は安定している。

「もらいます!」

 弾かれることを予期していた灯眞は再びスラスターを全力で吹かし、再加速。

 当然それを許す高峰ではなく、追随してくる灯眞目掛けて横薙ぎを繰り出す。

 ──以前にも見た動きだ。

 砂浜の野良試合、真菰と高峰のあのときと同じ挙動。吹き飛ばされたときの横薙ぎは、癖だろう。

 声高に咆える一方、頭の片隅でそんな冷静な思考を巡らせ灯眞は急制動。

 前傾姿勢から体を引き起こし、足を突き出してメインスラスターを噴射すれば、伸ばした足の上をソードが風切り音と共に抜けていく。

 そうして完全に空振ったところを逃すわけもなく──。

 直後、ポイントセンサーがブザーを鳴らす。

 得点は──。



「今の惜しい!」

「もうちょっとだったねー!」

 ポイントセンサーがブザー音を鳴らした直後、頭上を見上げる生徒たちがわいわいと声を出し、その中で真菰は目を輝かせて彼を見ていた。

 得点表示は、高峰に一本。

 フィールドでは灯眞が心底驚いたような顔をして、反対に高峰はニヤリと得意げだ。

 高峰の横薙ぎを避けて袈裟斬りを繰り出した灯眞だが、その攻撃が命中する直前、灯眞から距離を取るように背面飛行をしていた高峰が急減速したのだ。

 当然、高峰の頭を狙った一撃は空振りに終わり、灯眞の胴体に高峰が一撃を叩き込んで今に至る。

 あの一瞬、灯眞は間違いなく一本取ったと思っただろうし、地上から見上げる生徒の大半もそう思っただろう。

「本当に凄いな、灯眞君」

 一本取れなかったし、一本取られた。だが今の灯眞と同じ、SSFを始めてすぐの真菰なら、ああも高峰に肉薄することはできなかっただろう。

 真菰と高峰が初めて戦ったのはお互い中学生の頃で、当時まだ剣道の面影を今より色濃く残していたSSFに、ウィングによるスタイルの違いが生まれたばかりの頃だった。

 あの頃は試合で当たる度にぼろ負けして、まともに戦えるようになったのは高校生になってからだった。

 だというのに、彼はもうその軌跡をなぞっている。

 ──間違いなく、彼は真菰、高峰に比肩する選手になるだろう。

 大好きなSSFに、大好きな空に、また強い選手が現れることになる。

「えへへ……。楽しみだな」

 真菰の小さな呟きは、生徒たちの歓声に呑まれて誰にも聞こえることはなかった。


 ──第四章 突きつける剣、突きつけられる剣──


 どこまでも広がる青空と海が後方へと流れていく。

 そんな車窓を眺めていると、視界に人工島が映り込む。

 真菰が今乗っているのは人工島間を結ぶシャトルバスで、今渡っているのは白樹島と真城島を繋ぐ橋だ。

「ようやくって感じだな」

「だねー」

 隣の座席に座る灯眞の言葉に頷き、真菰は拳を握る。

 春、冬は大会を実施していないため、半年以上ぶりの大会だ。

「真菰の目標は、やっぱり優勝?」

「もちろん! 今年も勝つよ!」

 去年の秋、真菰は決勝戦で高峰と当たり、延長戦の末に辛勝している。

 その後の野良試合や練成会では真菰と高峰で五分、あるいは真菰が優勢という勝率だが、この大一番で、きっちり決めておきたいとは思う。

「私が一番強いんだって……みんなに示したいから」

 大好きなSSFで、一番の頂へ。そのために。

「灯眞君は? 目標、何かある?」

 顔を向ければ、真菰より僅かに高い位置にある琥珀色の目が眇められる。

「俺は……取り敢えず勝てるところまで勝つよ」

「そっか。でもキミなら期待できそうだね。もしかしたら、決勝戦まで勝ち進めるかも?」



 真菰の言葉に灯眞は肩をすくめる。

「決勝までってことは、真菰か高峰さんか……他にも、実力者に勝つ必要があるんだろ?」

 誰とどこで当たるかは分からないが、前回優勝の真菰、準優勝の高峰は間違いなくトーナメントの両端、シードのポジションだろう。

 そうなれば、決勝までに必ずどちらかと当たることになる。

「合同練習のときは高峰さんから一本も取れなかったし、この前真菰と試合したときは一太刀も浴びせられなかったし」

 九重学園との合同練習の後、灯眞は部活の際、一度だけ全力三歩手前の真菰と戦った。

 そのときの灯眞は文字通り手も足も出ず、あっという間に二本取られて負けている。

 試合が始まるまでは、もしかしたらと心のどこかで淡い期待をしていた。

 結果的には高峰から一本も取れなかったが、それから練習を重ね、強くなったと思っていたから。

「改めてまだまだだなって実感したよ。……まぁ、始めたばっかりの俺が、五年もやってる二人に勝てるって一瞬でも思ったことが、思い上がりでしかなかっただけだけど」

 自嘲気味に笑い、真菰のその奥の窓から外を眺める。

 バスは橋を渡り切り、見るのは二度目となる真城島の街並みが流れていた。

「あははっ、かもね」

 真菰は屈託ない笑顔で笑う。

 灯眞の自嘲を肯定する言葉なのに、そんな笑顔で言われると、不思議と悪い気はしなかった。

 自分の思い上がりをそうと言い切ってくれる人は、今まであまり周囲にいなかったから不思議な感覚だ。

「でも──それでも、私は楽しみだよ」

「楽しみ?」

「うん! 決勝戦で高峰先輩に勝ちたい、あの人の最後に、私が一番だって叩きつけたい。けどそれと同じくらい、この大一番でキミと戦えたら、楽しいだろうなって」

 真っ直ぐな目と、純粋な闘志。向けられた期待は重い。けど。

「……なら、頑張らないとな。一試合でも多く勝って、真菰と戦うために」

 灯眞の言葉に真菰が微笑み、それからすぐにバスは真城高校に到着した。

 遅くまで真菰のウィングの調整をしていたということで寝ていた翔を起こし、実は真城島在住で、現地で合流することになっていた折月の元へ向かう。

「おはよう。みんな体調は大丈夫?」

「おはようございます、折月先生! みんないつも通り、大丈夫です!」

「そう。真菰ちゃんはいつもよりも元気そうね。はいこれ、トーナメント表」

 折月が真菰にタブレット端末を渡し、灯眞と翔が左右から覗き込む。

 当然真菰と高峰が両端にいて、中央で二分されたトーナメント表にはA、Bとアルファベットが振られている。

 真菰はA、高峰はB。そして灯眞は。

「Bか。……順当に行けば、準決勝で高峰さんと当たる。……あ、榎本もBだ」

 三十二人の参加するトーナメントで、灯眞は右から九番目に名前があった。

「みたいだねー。あ、一年生の名前もあるね」

 真菰が指差したBブロックの一カ所、確かに名前の下に漢数字の一が書かれている。

 よく見ればAブロックにも二人ほどいるようだ。

「夏の大会の一年生って、真菰みたいに中学からSSFやってる奴とか、そういうパターンだよな?」

「うん、そうだろうね」

「そっか。じゃあ同級生とかよりよっぽど強い可能性があるわけだ」

「だねー……っと、のんびりするのは後にして、着替えてアップ始めちゃおう? 今はまだ、上も人が少ないし」

 ちらりと真菰が目を向けた先、設営済みのフィールドにはニ、三人の生徒が飛んでいる。

 だが九重学園辺りが来ると一気に場所がなくなるのは分かっているので、頷いて真城高校の校舎へ向かう。

 体育館の更衣室を借りて着替えを終え、アップを済ませ、ウィングのチェックを行っているとあっという間に開会式が始まる。

 砂浜には練成会のとき以上の人が集まっていて、いよいよかという緊張と、ようやくかという期待感の入り混じった不思議な感情を灯眞は抱いていた。

「じゃあ私、Aの一回戦だから、行ってくるね」

「ああ、行ってらっしゃい。下から見てるよ」

「えへへ、ありがと。でも灯眞君はBブロックの試合を見てなよ。これから戦うことになる人たちばっかりなんだから」

 そう笑うと、まったく気負った様子もなく、ただちょっとその辺を歩いてくると言わんばかりの雰囲気で真菰はテントを出て行った。

「さすがに余裕そうだな」

「ええ」

 砂浜を歩いていく背を眺めながら呟けば、パイプ椅子に背を預けていた翔が頷く。

「嫌味でも驕りでもなく、自分が負けるなんて思ってませんから、姉さんは」

「ま、あれだけ強かったらな」

「……強いから、だけではないですよ」

 目を眇めた翔の言葉に問い返そうとすると、会場の何カ所かに設置されたスピーカーが、まもなく試合を開始する旨のアナウンスを流す。

「詩島君、Bブロックも始まるから、することがないなら試合の様子でも見ておきなさい。相手のスタイルとか癖とか、こういうときに見ておくと後が楽よ」

「分かりました。と言うか、さっき真菰にも同じことを言われましたよ」

 運営テントから戻ってきた折月の言葉に、灯眞は苦笑を浮かべて頷く。

 そして自分がこの後戦う相手について知っておくというのは大事なことで、それは今までの様々な競技の経験から理解している。

 同じ部であり友達であり、それでいて人工列島最強格の真菰の試合も見ておきたいが、どうせ部活で好きなだけ見る、というか相手にさせられるし負ける姿など想像できない。

 だったら二人の言葉を拒否する理由はないだろう。

 だから灯眞はテントを出て、Bブロックの足元まで歩く。

 テントに居てもタブレット端末で映像を見ることができるが、やはり生で見て肌で感じるというのは大事だ。目と鼻の先で試合をしているのだからなおさら。

 もちろん、熱中症などには気を付けるが。

「──強いからだけじゃない、か」

 翔の言葉を反芻し、灯眞は目を細める。

 強いからじゃないなら、あの余裕は、あの自信は何なのだろう。

 嫌味でも驕りでもない、客観的に考えて自分が負けると思えないなら、それは。



「よっし、行くか」

 晴れ渡る青空の下、榎本柊也(えのもと しゅうや)はウィングを起動する。

 遂に幕を開けた夏の大会の、Bブロック二回戦第一試合。試合場へ浮上しつつ呟いた。

 足元では、つい先ほどまで話をしていた詩島灯眞がこちらを見上げている。

 いや、見ているのは柊也ではなく、そのさらに頭上に広がる空だろうか。

「すぐにその目を向けさせてやるさ」

 ニヤリと笑い、フィールドの外周へ。

 この試合に勝てば次は灯眞が二回戦第二試合を行うわけだが、当然勝つだろう。

 そうすれば、三回戦第一試合で柊也と灯眞は刃を交えることになる。

 練成会の後、ちょっとした気まぐれで連絡先を交換し、以来それなりに仲良くやらせてもらっている相手だが、それはそれとして負けっぱなしというのはよろしくない。

 実力差は、正直に言えばある。だが雪辱を晴らす機会を逃す気はないし、その機会があるなら全力で挑みたいとも思う。

 だからこの試合は勝つ。

 例え相手が年下だろうと、全力で叩き潰す。



「──ただいまー……って、どうしたの?」

 自分の試合を終え、見に来てくれたというついこの間卒業した先輩と話をして戻ってきた、そのタイミング。

 テントの日陰の中で折月と翔が首を傾げているので、何かあったかと問い掛ける。

「ああ、真菰ちゃん。えっと、何というか……」

「んん……? 灯眞君は?」

「試合中」

「えっ、じゃあ灯眞君に何かあったとか?」

 短い翔の返答に首を傾げると、二人は揃って首を横に振る。

「何かあったのはその一試合前よ」

「試合に勝った選手、御影島の一年生なんだけど……どうにも、SSFの大会は初参加みたいなんだ」

「初参加……中学からやってるとかじゃないってこと?」

「そう」

 真菰の問いに、翔は短く肯定した。

「びっくりするくらい強くて、ちょっと気になって翔君に調べてもらったの。でもその子、過去の記録に一切名前が無くて」

「姉さんみたいに高校生になってから実力が開花したパターンもあり得るけど、なんかそういう雰囲気でもないみたい」

 二人の言葉で、真菰はその人物に一気に興味が湧いた。

 大会初参加で、もしかしたら初心者で。もしかしたら灯眞のようなパターンかもしれない人物。

「その人、名前は?」

「名前は──」



「柚木蒼空(ゆずき そら)……」

 Bブロック、三回戦第三試合。いわゆる準々決勝の場で、灯眞はフィールド外周に浮遊していた。

 視線の先には、対戦相手の一年生がいる。

 榎本を倒した、御影高校の一年生が。

 恐らく中学時代からSSFをやっている経験者なのだろう。

 榎本との試合は、静かながら終始柚木が優勢だった。

「両選手、開始線へ!」

 ポイントセンサーの隣に立つ運営スタッフの言葉に従い、灯眞はゆっくりとフィールド内へ侵入する。

 それに合わせ、柚木も前へ。

 改めて近くで見る柚木は、灯眞より僅かに背が低い。

 亜麻色の髪は少し長めで、その下から翡翠色の目が覗いている。

 ソードは一刀流で、さらに灯眞と同じ片手で振るうスタイル。

 ウィングは灯眞のラプターと同じクイック社のもので、ブーツは幾層もの円形が渦巻くように積み重なった円筒形のものだ。

 確か名前はテンペストとか。

 なるほど確かに、それは嵐(テンペスト)だろう。

 両者は頷き合い、審判を務める運営スタッフに手振りで合図をする。

『On Your Mark Set』

 ポイントセンサーが告げる合成音声を受け、琥珀と翡翠の瞳が交差する。

 真っ直ぐな瞳だ。榎本の試合の直後も、試合前に地上ですれ違い、会釈をしたときも。その瞳は揺らぐことなく、真っ直ぐ何かを見据えていた。

 直後、ブザーが鳴って両者は動き出す。

 先ほどまでの試合、柚木はまず相手の出方を窺うようにソードを遊弋させていた。

 そしてそれは、今も同じ。

 間合いに近づこうとする灯眞を、切っ先を突きつけるように右前の構えで警戒している。

 ならばと灯眞はメインスラスターの出力を上げ、一気に柚木目掛けて突っ込んだ。

 アクティブスタイルの灯眞のラプターは、待つ戦術に向かない。

 相手を動かして得意の機動戦に持ち込むのが最適解だろう。

「シッ!」

 鋭い呼吸と共に出力を最大に上げ、ぐんと体を押される感覚と共にソードを振るう。

 まずは相手を動かすため、突き出されているソードの横っ腹を狙う。

 目を細めた柚木は右腕を引っ込め、切っ先を自身の左後方へ。

(横薙ぎの予備動作!)

 見て取った灯眞は口角を上げ、バックステップを刻むように後ろに跳ねる。

 初速から全速、かつ失速しやすいアクティブスタイルの特性を活かした挙動に、柚木は──掛からない。

「──セッ!」

 切っ先が左後方に向くよう右腕を体に密着させた状態で、柚木は空気を蹴るように加速した。

 そこから振り切られるソードは、後ろに跳ねた灯眞の右籠手に吸い込まれるように近づき、直前で腕を上げて回避する。

 バチッと静電気が弾けたときのような音がして、同時に切っ先が腹を撫でる。

 数ミリ掠めただけだったから一本にはならなかったが、かなりギリギリだった。

「運が良いやら悪いやら……っと」

 籠手狙いを避けられ、けれど当たると思ったか、柚木が腕を僅かに伸ばしたのを灯眞は見た。

 小さく呟いていると、柚木がメインスラスターを吹かして接近してくる。

 伸ばしたソードの切っ先が僅かに当たらないこの距離は、ノーマルスタイルのスラスターが最大出力に十分達しうるだけの距離だ。

 迎撃は不可能と判断し、灯眞はブーツのメインスラスターを吹かして急上昇。

 対して柚木は、前傾姿勢の体を起こして上昇軌道へ。

 一瞬の出力差が趨勢を決めるSSFだが、かと言って剣道のように常に真正面から睨み合うだけの競技ではない。

 広いフィールの中でメインスラスターを活かした追う、追われるドッグファイトが生まれ、そこから判断一つで状況が一変していくものだ。

 灯眞はそれを、九重学園での合同練習で知った。

 そしてこのドッグファイトは、ウィングのスタイル差が出にくい。

 ウィングの差別化は主にサブスラスターの性能差によるもので、メインスラスターはどのスタイルでもほぼ横ばいの出力だからだ。

「やっぱり同程度になるよな……」

 足元を一瞥すると、柚木とは付かず離れずの距離だった。

 上昇を止めて体を傾ければ、こちらを見上げる柚木が加速する。サブスラスターを全力で吹かしたのだろう。

 上を取った灯眞と下から突き上げる形の柚木。この場面では基本的に打突部位を狙われにくい灯眞が有利だ。

 だから灯眞は目を細め、抜かれないように気を張り巡らせる。

 直接か、それともフェイントで迂回するか。

「──ハッ!」

 柚木は僅かに右肩を傾ける。それに対して灯眞が釣られた振りをすれば、逆方向に体を弾かせた。

 体を使った上手いフェイントだ。

 だが甘い。

 真菰ならもっと上手く惑わせてきた。

「シッ!」

 灯眞の右側を抜けようとした柚木に腕を伸ばし、その鼻っ面を──。

「──ああ、そういう」

 小さな呟きが、風に乗って灯眞の耳を打つ。

 その滑らかな、灯眞より僅かに高い幼さの残る声色。

 それに目を見開いた直後。

「──っ!?」

 灯眞の左側頭を叩く衝撃。

 目を見開き硬直する灯眞に、無慈悲なブザーが得点を知らせる。

 柚木蒼空に一本。

「今の、は……」

 フェイントだったはずだ。

 フェイントを仕掛けたはずだった。

 肩を使った簡単なフェイントに釣られる振りをして左へ傾く素振りを見せ、けれど直後に右へスライド移動。

 タイミングは完璧だったはずだ。

 灯眞が左へ動いた直後、柚木はそれとは逆向きに跳ねた。跳ねると思った。

 だからそれに合わせて灯眞も腕を伸ばし、抜かれないように、あわよくば面を打てるようにした。

 だと言うのに、信じられない速度で柚木は対応してきた。

「詩島選手、開始線へ」

 運営スタッフに促され、灯眞はハッと我に返る。

 柚木はもう、開始線に戻っていた。

「すみません」

 灯眞も開始線に戻り、正面から向かい合う。

 再びぶつかる、琥珀と翡翠の瞳。

 けれど違うのは、その温度。

 ──相変わらず真っ直ぐな瞳だ。真っ直ぐと、敵を見据える冷たい瞳。

 いや、冷たいと思うのは灯眞の感じ方の問題か。

 運営スタッフに手振りをして知らせると、二本目を知らせるブザーが鳴り響く。

 始まりは、一本目の焼き直しだった。

 灯眞が攻め、柚木がカウンター。灯眞が避ければ柚木が追い、ドッグファイト。

 ここまで同じ展開をなぞり、今度は灯眞が動きを変える。

 天地を逆さにする宙返りから逆落としに柚木へ突っ込むと、いつか真菰が見せたように体を縦回転させる。

「へぇ……そういうのもあるんだ」

 またしても耳を打つ声。

 直後、ソードで灯眞を迎撃しようとしていた柚木が動きを変え、僅かなスライド移動で蹴り払いを回避する。

 瞬間、ブーツのスラスターを噴射して鍔迫り合いに移行しようとする灯眞を、真横からの一撃が襲った。

 咄嗟に横倒しにしたソードで受けるも、鍔迫り合いになることはなく、蹴り飛ばされて錐揉み状態に陥ってしまう。

「くっそ……!」

 姿勢を整えて目を向けると、その先に柚木はいない。

「上か!」

 SSFの有利ポジションである上方を見る。

 しかしそこにあるのは、ただ青い空と白い雲だけ。

「なっ……!」

 察して真下を見れば、ソードを突き出した柚木が迫っている。

 咄嗟に身を退いて回避して、瞬間目を見開いた。

(なぜ、俺は避けた……?)

 避けずにぶつかっていれば灯眞は上へ、柚木は下へ弾かれたはずだ。

 そうすれば灯眞は有利な上を抑えたまま、アクティブスタイルの初速を活かして追撃できたはず。

 だというのに避けたのは。

 瞬間の判断を誤ったのは──否、判断することすらできず身を退いたのは。

 その意味を悟ると同時に目で追えば、やり過ごした柚木が縦回転し、体の上下を入れ替えていた。

 上昇の過程で得た推力を、反転してスラスターを吹かすことで殺し、無理やり方向転換するその技法は。

 灯眞がやって見せた足払いへの連携と、真菰が使う多角形戦術の挙動と同じ。

「ふッ!」

 バチンッと弾ける音が鳴り、同時にブザーが終わりを告げる。

 取得本数、二対〇。勝者──柚木蒼空。



「灯眞君!」

 気がつけばフィールドの外にいて、気がつけば砂浜に着地していて、気がつけば真菰の声が近かった。

「大丈夫!? どこか怪我したとか!?」

 DGPが防具の役割を果たすSSFは、あれだけ派手な競技でありながら怪我というのはそう多くない。

 とは言え皆無かと言えばそうでもなく、捻挫や打撲、稀に頭を揺さぶられての脳震盪など、そういう負傷が起こりうるそうだ。

「いや……大丈夫、そういうのじゃない」

 灯眞の肩に触れる真菰に言い、ゆっくりと歩き出す。

 やけに重い。背と足にあるものが。

 疲れ、だろうか。それとも。

「無事ならいいけど……。取り敢えずお疲れ様、灯眞君」

「ありがと、真菰。……なんか、情けないとこ見せちゃったかな」

 どこまで本気かはともかく、勝ち進めるかもしれないと期待を寄せてくれていたのに。

 真菰でも高峰でもなく、あんな伏兵に敗れるなど。

「そんなことないよ。初参加の大会で三回戦まで勝ち進むなんて、それだけで凄いことなんだよ?」

「……だな。ありがとう」

 別におかしなことではない。

 真菰の言う通りだ。

 初参加の、始めたばかりの競技の大会で三回戦まで進んだ。

 そこで年下の、けれどSSF歴は向こうの方が長い相手に負けた。

 よくある話だ。高校生と中学生で試合をしても、必ず高校生が勝つわけじゃない。

 その競技に触れてきた時間が長い人間が勝つ、というのが大抵の競技だ。

 だから、普通のことなのだ。

 ただちょっと、出鼻をくじかれたというか、期待感に水を差されたというか。

 本当に、たったそれだけ──。

「なぁ聞いたか、今の」

 誰かの話し声が聞こえる。

 Bブロックの試合を観戦していた誰かの声が。

「柚木って一年生。SSF初めて半月そこらなんだってよ」



『On Your Mark Set』

 見上げる決勝戦のフィールドで、二人の選手が向かい合っている。

 一方はAブロック勝者、歌澄真菰。

 もう一方はBブロック勝者──柚木蒼空。

「真菰……」

 ブザーが鳴り、試合の始まりを告げる。

 同時に観客たちの歓声が上がり、熱気が砂浜を包み込んだ。

 けれどその熱気の中、冷めた気配を灯眞は纏う。

 アクティブスタイルで二刀流の真菰とノーマルスタイルで一刀流の柚木。

 ソードの数に差こそあれ、試合は概ね灯眞対柚木を彷彿とさせる展開になった。

 真菰が攻め立て、柚木がそれを受けてカウンター。

 違いがあるとしたら、ドッグファイトの攻防が行われていないこと。

 真菰は灯眞の試合を見て、ドッグファイトを避けることを選んだらしい。

 一進一退の展開が続き、動きがあった。

 真菰が突っ込み、反応した柚木が蹴り払い。

 バックステップでそれを避け、柚木を抱き込むように大きく腕を広げた。

「上手い!」

 観客の誰かが叫ぶ。

 同じ高度で両腕を大きく広げた構えはピンチングという技で、相手の進行方向と選択肢を狭め、超至近距離でアクティブスタイル有利のインファイトを展開するための技法だ。

 近づけば近間、遠ざかれば初速を活かした追撃。左右は広げられた腕とソードが阻み、上昇すれば籠手と胴が晒され、下降すれば不利なポジションに追い込まれる。

 どう転んでも相手に不利な選択を強いる、アクティブスタイルが一番強い展開だ。

「──いや」

 端末に映したマーカーからの映像。その中で薄く笑う、形のいい口。

 翡翠色の瞳は、酷く冷たく、まるで機械のようだった。

 真菰の広げた両腕が鋏のように閉じられる直前、柚木が軽やかに上体を反らす。

 それを見た灯眞の目が驚愕と恐怖で見開かれる。

 反応が早い。あの状況、そして──伝え聞いたSSF経験の浅さ。それを加味すれば、あのピンチングから逃れることは不可能のはずだ。

 少なくとも、今の灯眞では無理だ。

 そんな完璧な位置取り、そんな完璧なタイミング。

「──どうしてだ……!」

 絶望に顔を顰め、歯噛みする。

 柚木は体を倒してピンチングを避けるにとどまらず、鋭く真菰を蹴り上げた。

 ピンチングで接触していた二本のソードが弾け飛び、蹴られた衝撃で真菰の両腕が勢いよく跳ね上がる。

 その一瞬を逃さず──サマーソルトを繰り出して逆さのまま、柚木は胴を叩き込んだ。

「どうして……また……!」

 爪が突き刺さるほど拳を握り、歯を食いしばる。

 絶望に怒る瞳は強く揺れ、ふつふつと心の中に黒い感情が沸き上がるのが分かった。

 何度も経験してきた、けれど怒らずにはいられないこの絶望。

 摑めると思ったときに現れ、灯眞の無力を突きつけてくる絶望。

 ──何でもできると思っていた。あるときまでは。

 けれどあるとき気付かされた。何でもできるんじゃなくてその実、何もないのだと。

 SSF夏の大会、優勝者は──柚木蒼空だった。


 ──第四章 折れた翼、折れた剣──


「おーい、時間よー」

 夏の大会も終わり、夏休みに入って二週間ほど経った部活の日。

 快晴の下の砂浜で、けれど白樹島SSF部の雰囲気は曇天のようだ。

「真菰ちゃん、一応聞くけど連絡は?」

「特に何も。一応、こっちから聞いてはいるんですけど……」

「そう」

 折月の前で、歌澄姉弟だけが並んでいる。

 夏の大会以降、灯眞は次第に姿を見せなくなり、今はもう、練習に顔を出すこともなくなった。

 メッセージアプリでは他愛ない雑談には応じるものの、SSFの話題になると反応がなくなる。

 そんなやり取りを真菰は繰り返していた。

「まぁ……確かに衝撃と言えば衝撃だったし、ショックもあるだろうけど……」

 折月は心配しているのだろうが、それでもどこか呆れを隠しきれていない。

 ──きっと分からないのだろう、と真菰は思う。

 彼女は諦めを付けることのできた人間なのだ。嫌味でも侮蔑でもなく、ただ純粋に、自分を客観視できた人間。

 だから才能を突きつけられても、努力を水泡に帰されても、それを淡々と受け入れる。

「取り敢えず今日のところもマーカー相手にお願い。明日は色々考えてくるから」

「分かりました」

 指導は担当しないと当初言っていた折月だが、夏の大会以降はよく部活に顔を出し、練習メニューもあれこれ思案してくれている。

 単純に夏休みに入り時間に余裕ができたというのもあるだろう。

 だがそれ以上に、何か感じることがあったのだろう。

 自分が指導しなかったことの後悔、ではないはずだ。

 彼女自身も言っていたが、正直なところ折月より真菰の方が強い。

 では何を感じ、何を思っての行動か。

 ──きっとそれは、真菰と同じだ。

 柚木蒼空に敗れたが、柚木蒼空に勝てる可能性のある彼。

 その復活を──再起を。



「あれっ、詩島君だ」

 白樹島の港、本土へ向かうフェリーを眺めていると、聞き覚えのある声がした。

 振り返るとそこにはクラスメイトの女子生徒がいて、笑顔でこちらに手を振っている。

「こんなところで何してるの?」

「特に何も。ただちょっと、ボーっとしてただけだよ」

「ふーん。今日部活は?」

「……ちょっとサボり」

「えー意外」

 目をぱちくりとさせるクラスメイトに、そうかなと笑いかける。

 実は灯眞は、それなりにサボる。

 そしてサボった後、大抵の場合──そのまま辞める。

「ねぇねぇ、もし暇してるなら、これから遊ばない? 友達とカラオケ行くところなんだよねー」

「誘いはありがたいけど、今日は止めとくよ。ちょっと考えたいことがあって」

「そうなの? じゃあ今度、また改めて誘うよ」

「ありがと」

「気にしないで。じゃあね!」

 手を振って離れていくクラスメイトは、途中で降り返ってニヤッと笑う。

「真菰ちゃんには黙っておいてあげるよー!」

「……あははっ。うん、そうしてもらえると助かる」

 渇いた笑みを浮かべて見送り、その背が見えなくなって溜息を吐く。

 別に考えたいことなんて、本当はない。

 ここにいるのは考えをまとめたいとか風に当たりたいとか、そういう理由ではなく、ただあてがないだけだ。

 部活に行く気にはならないが、部屋に閉じこもっている気にもなれず、かと言って行くべき場所も行きたい場所もない。

 だから、こうしてただ波風を浴びて佇んでいる。

 ──また、居場所がなくなる。

 瞳を閉じれば脳裏に浮かぶ、これまで繰り返してきた絶望の瞬間。

 最初は何だっただろう。確か、小学校高学年のときのサッカーのクラブチームか。

 友達に誘われて入って、そこで一緒に始めた連中の中で一番上手くて、すぐ上達した。

 だからそれから一年は、期待の新人のような扱いだった。

 すぐに上級生にも追い付けると思っていたし、何人かには追い付いた。

 でも、翌年に新しい子が入ってきて、変わった。

 その子は灯眞より何倍も上手くなるのが早かった。

 ああ、コイツはプロになる奴だ、と幼いながらに確信した絶望を、今でも覚えている。

 それから灯眞は、身を粉にするような努力をした。

 両親に止められても走り、蹴り、ずっと練習に打ち込んだ。

 どうしたらもっと早く走れるだろう。どうしたらもっと強くシュートできるんだろう。どうしたらもっとボールをコントロールできるんだろう。

 色々試して、成功して、失敗して、その繰り返し。

 けれどそれを、天才は苦も無く超えていく。

 そうして灯眞は、初めて自分の居場所を奪われた。

 それからずっと、その繰り返した。

 色々やって、いろいろ上手くできて、上手くなって。けれど必ず、自分よりスタート位置が前にある天才がいて、走った分が無駄になる。

 走った分が無駄になって、一番には辿り着けなくて、必ず誰かの次、永遠の二番手、三番手で。

 どれだけ頑張っても天才に抜き去られて、負けて、崩れて、何も残らない。

 だからずっと、すぐ見切りをつけて別の競技に鞍替えしてきた。

 ずっと、ずっと。

 どうしてこんなことを繰り返すのだろうかと、自分で疑問に思ったことはある。

 だってこんなこと、他の人間は思わない。

 競技を鞍替えしてまで、何になるのかと。

 そんな自問に答えは出ない。

 一番に拘らなければ、こんな思いはしなくていいのに。

 一番を夢見なければ、こんな思いはしなくていいのに。

 でも捨てることは選べなかった。

 あの子はクラスで一番サッカーが上手いとか、あの子は学年一足が速いとか、あの子は学校一字が綺麗とか、絵が上手いとか、カッコイイとか、可愛いとか。

 必ずみんな自分だけの何かを、自分を形作る確固たる何かを持っていて。

 けれど灯眞にはそれが無くて、それを見出す前に居場所を無くしてしまって。

 そんなことを繰り返していたらいつの間にか、もうそれに固執するしか選択肢はなくて。

 どこかのタイミングで、止めればよかった。

 あるいは居場所を無くしてもなお、しがみつけばよかった。

 ──けれどもう遅い。

 居場所を奪われては新たな地を求め続けた放浪者は、どこにも辿り着くことはないのかもしれない。

 自分を形作る確固たる何かを、そんなものがなくても気楽に生きていけばいいと、もっと早く気付けたら。

 きっと楽だったんだろうと、灯眞は一人空を見上げた。

「あっ……」

 意味もなく港を見て回り、ショッピングモールを出歩き、区分けされた住宅街に戻ってきたのは既に夕刻だった。

 青かった空は茜色に染まり、海もまた、それを反射させて仄かに赤い。

 そんな場所で、潮騒だけが耳を打つ場所で、灯眞は真菰と顔を合わせた。

「……」

 部活をサボったこともあって、かなり気まずい。

 何を言えばいいか、何も言わなければいいか。

「灯眞君も散歩?」

 黙りこくる灯眞とは裏腹に、真菰は明るい笑顔で言う。

「そんなとこ。もって言うからには、真菰も?」

「うん、まぁね」

 灯眞と真菰は並んで歩く。

「俺さ」

「私さ」

 二人の言葉が被り、顔を見合わせて笑い合って灯眞が譲る。

「勝つよ。柚木蒼空君に。秋の大会で絶対リベンジする」

「っ……」

 その決意表明に、灯眞は言葉を返せない。

 どうして、こうも前を向けるのだろう。

 灯眞以上にショックは大きいはずだ。なにせ人工列島最強と称され、五年も飛び続けてきて、それなのにSSF歴半月の一年生に敗れ去ったことのショックは。

 なのにどうして立ち上がれる。

 どうして勝つことを目指せる。

 ──簡単だ。真菰が天才だからだ。

 負けを認めて前へ進める、そんな才能を持っているからだ。

 負けて抜かれて、居場所が無くなっていて。何もない空虚な灯眞とは違う天才だから。

「……そっか。頑張れよ」

 頑張ろうぜ、とは言えない。

 頑張ろうぜ、とは言わない。

「俺は──……」

 その先の言葉が続かない。

 今まで何度も紡いできた、背を向けるための言葉を。

 告げる度に自身の無力さを痛感するその言葉を。

 どうしてだろう。

 今まではすっぱり諦めてきたはずなのに。

 天才に居場所を奪われ、中途半端で終わるのが嫌で。

 ここは俺の居ていい場所じゃないって分かっているのに。

 どうして──何も言ってくれないんだ?

「俺、は……」

 結局何も言えないまま、分かれ道で二人は道を違える。

 去って行く背を、見えない翼を。

 自分にもあったはずのものを求めて、灯眞は手を伸ばせなかった。



「──シッ!」

「ふっ!」

 夏の砂浜、その上空で二者の剣が交錯する。

 茹だるような暑さの中、剣戟は止まない。

 その剣戟を見上げていると、不意に堤防を踏む足音がした。

 振り返ると少し長い黒髪と、そこから覗く琥珀色の瞳。

「こんにちは、灯眞さん」

 翔は軽く会釈をして言い、灯眞もまた挨拶を返した。

「折月先生が飛んでるんだな」

「ええ。今は、姉さんしか飛べる部員がいないので」

 灯眞が見上げる空の向こう、剣戟を繰り広げるのは真菰と折月だ。

 灯眞の静かな呟きに、翔は視線を合わせずに端的に呟く。

 その皮肉に反発することもなく、灯眞はただ立ち尽くすだけだった。

 その澄ました顔が、何も感じてないような、けれど瞳の奥に泥の渦巻く表情が、酷く腹立たしくて翔は吐き捨てるように言葉を続けた。

「何の用ですか。それも制服で。もしかして、学校に?」

「ああ。退部届を出そうと思って」

 逆に淡々と言い返されて、翔は僅かに目を見開く。

 対して灯眞は何事もなかったかのようにポケットに手を突っ込み、一つの封筒を取り出した。

「──本気ですか」

「嘘でこんなもの、出すと思うか?」

 そんなわけない。そんな酔狂、何の意味もない。

 けれど、だから余計に腹立たしい。

 本気で捨てるのか。

 あれだけの才覚を見せつけておいて、たった一度の敗北で、全てを投げ捨てていくのか。

 どうしてこの人は、こうも似ているんだろう。

 どうしてこの人は、古い鏡を突きつけるんだろう。

「なんか、どうでもよくなったんだよ」

 聞いたわけでもないのに、灯眞はぼそりと呟いた。

 攻め立てるなら。責めるなら。今しかないと思った。

「……自分が天才じゃなかったことに気がついたから?」

「……ああ。俺、昔っから何やっても中途半端でさ。その上飽きっぽいから、何やっても一番なんて取れなかったし、才能なんて見いだせなかった」

 やっぱり、と空気に溶かすように呟く。

 どうして自分の周りには、こうも欲張りな人間ばかりいるのだろう。

心中で呟いて、羨望と敬意と、やっぱり敵意も入り混じった感情を抱く。

「才能がない人間なんて、世の中にはたくさんいますよ」

 翔もその一人だ。翔はSSFが好きだが、選手にはなれない。

 運動神経が良くないからだ。

 陸のスポーツですら平均以下なのに、その上飛ぶなど不可能だから、勉強してウィングの調整担当というポジションに収まった。

「一番じゃなくなったからって、なんですぐ諦めるんですか? なんで努力して、挑戦しようと思わないんですか?」

 その問いに、答えはない。

「何かに熱中して、何かに本気で挑んで、負けることが怖かったから?」

「……うるさいな。お前に何が分かるんだよ」

 ようやく、彼の本心を聞いた。

 そうと分かっていても、思わず笑ってしまいそうになる。

「あなたは……姉さんと同じだ」

「……なに?」

「姉さん、昔はあなたみたいな人でしたよ。何をやっても中途半端で、何をやってもすぐ諦めて」

 思い出す、幼い日の記憶。

 何をやってもすぐに放り投げて、自分以上にその物事が上手い人間がいるとすぐ不貞腐れて、すぐ逃げ出す。

 そんな姉は弟の翔に優しくて、小さいときから懐いていて。

「姉さんが変わったのは、SSFに出会ってからです」

 空を飛ぶこと、空で戦うこと。その虜になった。

 最初は下手でも、自分より上手い人間が大勢いても、空を飛ぶ快感を真菰は忘れることができなかったようだ。

 だから、変わった。

 そんな姉を応援したくて、一緒に戦いたくて。

だからずっと、姉の翼を守り続けてきた。

 真菰は強い。だから灯眞が自身と同じだと直感的に見抜いている。

 それで気にかけて──家でもずっと、悩んでいる。

 自分と同じように立ち上がってほしいと思うし、同時に逃げ出しても責められないと分かっている。かつての自分がそうだったから。

 そんな真菰の、大事な姉の足を引っ張るのなら、ここで消えてしまえと翔は思う。

 でももし──変われるのなら。

 姉と同じように、自身の空虚を埋めて進むことを選ぶなら、応援したいとも思う。

 だから翔は発破をかける。

 さぁ──。

「……昔の姉さんなら、多分あなたのように挫折してました。でも今は違う。姉さんは飛ぶことに魅入られた。だからもう諦めない。……姉さんは示したいんです。自分を変えてくれたSFFで、一番強いのは自分だって。天才なんかじゃなくてもいい、努力でもなんでもいい、自分が凄い人間なんだって、示したいんです」

 あなたはどうする?



翔の言葉を聞いて、灯眞は思い出す。

 練成会のときに真菰が口にしていた言葉を。

 今の自分がどこまで飛べるか、どのくらい戦えるか。今の自分がどんな問題を抱えているか、それとどう向き合うか。

 真菰はかつて、灯眞と同じような「中途半端」という問題を抱えていた。

 そして、灯眞はそれを向き合わず逃げてきた。でも、真菰は向き合った。

 そして乗り越えた。

「──あのとき」

 夏の大会、初戦に向かう真菰を見て、余裕そうだと評した灯眞。

真菰は自分が負けるとは考えていないと教えてくれた翔に、強いからと言った灯眞。

それに対し、翔は強いからだけではないと言った。

それは、信じているから。信じたいから。

 自分が一番強いんだって、自分が一番、空を自由に飛べるんだって、世界に向かって叫ぶために。

 負けるかもなんて、居場所が無くなる恐怖なんてかなぐり捨てて。

「俺は……」

 できるだろうか。

 真菰のように、恐怖を捨てることが。

 隔絶した才能を見せつけられて、その壁に挑むことが。

 分の悪い賭けに、挑むことが。

「俺は……!」

 視界の先、真菰はまだ剣を振るっていた。

 守りに徹する折月の、その堅実で堅牢な守りを。カウンターを主体とする柚木蒼空を崩す方法を見つけるために、

 その顔は。自身を最強の座から引きずり下ろした相手を想像するその顔は──とても、楽しそうで、嬉しそうで。

 あんな風になれるだろうか。

 敗北を認め、乗り越えることが。

 本気で戦って、自分の全てを賭けて挑んで──それでも届かない可能性を、その悲惨な現実すら、受け入れる覚悟をすることが。

 想像しただけで怖い。

 何もない自分が本気を出して、やっぱり何もないことに気付かされる瞬間が。

 諦めれば、楽だ。今以上に傷つかないから。

 逃げれば、楽だ。同じ熱量で努力してないから、誰かに負けても仕方ないと言い訳できるから。

 でも努力してしまったら。

 自分の限界を突破して、それでも負けたら。

「少し……考えさせてくれ」



「まぁ……そのくらいは、いいですよ」

 歩み去ってゆく背を見て、翔は呟く。

「でもまぁ……やっぱり欲張りだ。あなたほど恵まれた才能を持っていて、まだ折れるだけの感性が残ってるなんて」

 自分が灯眞の立場だったら、絶対に折れないと思う。

 初めて三ヶ月程度であれほど自由に飛べる人間が。それは確かに、始めて半月の人間にぼろ負けしたら驚きはするだろうが。

 それでも折れるほどじゃないとは思う。

 だって三ヶ月であのレベルなんて、それこそ柚木しか並ぶ奴も超える奴もいない。

 甘んじて二番目にいればいいのに。

「欲張りで贅沢で……酷く、不器用な人だ」

 見上げた空。真菰が灯眞の背を見つめているのに、翔は気がついて呟いた。



「あ、来た来た」

「ごめん、待たせたかな」

 翔とのやり取りの翌日。帰宅後、色々考えこんでいたところを誘われた灯眞は、バス停の前で手を振る真菰に曖昧に笑顔を返した。

「そんなことないよ」

 真菰は白い半袖のカットソーにハイウエストの膝丈で黒いフレアスカートという、シンプルながらも可愛らしい服装だった。

「むしろごめんね、私の方こそ無理に呼び出しちゃって」

 灯眞が真菰に、「時間があるなら街に遊びに行こうよ」と誘われたのは昨晩のことだ。

 考えたいことはあったが、それでもこのタイミングで誘ってくれたからには意味があるのだろうと考えて、灯眞はその誘いを受けた。

「昨日の今日だから、特にプランはないんだけど……」

「いいよ別に。向かいがてらに考えよう」

 タイミングよくバスが来て、二人は並んで席に座る。

 夏休みのバスにはまぁまぁ人がいて、他のクラスではあるが同級生の顔もあって、手を振られてその後コソコソと話し始めて。何について話しているのかは考えないことにした。

 バスを降りた先の商業エリアにもやはり人が多く、ちらほらと見慣れた顔がある。

 とは言え聞いたところによれば、白樹島より九重島の商業エリアの方が施設数が多いらしく、そちらはもっと込み合うのだとか。

「ここより大きい商業施設ってことか? でも九重島と白樹島、似たような施設があってもそんなに利益が出ない気がするけど」

 そんな現実的なことを考えていると、真菰は苦笑共に首を振る。

「そうでもないらしいよ。ここはネット通販だと商品がすぐ届かない分、直接買いに行かなきゃいけないものが多いから。お店が多いに越したことはないんだよね」

「あー……。そう言えば、通販サイトで買おうとしたやつ、到着まで結構日があって止めたんだよな」

 結局商業エリアに買いに行って事なきを得たが、なるほど確かにそうだろう。

 この人工列島は所属としては東京都だが、その所在は遥か海の上だ。

「日本の最先端技術の集合体が、こんなところで妙に田舎らしいとはな……」

「あはは……」

 灯眞のぼやきに真菰は曖昧な笑みを返す。

 真菰がいつから白樹島に住んでいるのかは知らないが、何も言い返せないのだろう。

「あっ」

 そんな真菰が不意に声を漏らし、その視線を追うと幾つか並んだマネキンが目に入る。

 ウィンドウショッピングをしている、今の二人のような客を釣るために置かれたそのマネキンは揃って水着姿だった。

「新しく買おうかなー」

 そんな呟きに、今度は灯眞が何も言い返せない。

「海、行くのか?」

 辛うじて絞り出したその言葉は、あまり意味のない質問だった。

「うん。友達に誘われてて」

 真菰はそんなことを言ってから、不意に悪戯っぽく笑う。

「どんなのが似合うかな?」

 やはりその手の質問か、と灯眞は内心で呟いた。

「どんなのでも似合うよ、きっと」

「そうかな? あはは、ありがと」

 嬉しそうに笑う真菰を見て、灯眞も思わず口元を緩める。

 結局水着は買わず、他にも幾つか店を周り、お昼を食べ、それから二人はカラオケに行った。

 どうやら部活をサボった、と言うよりサボっている何日かの間に遭遇したクラスメイトは、結局真菰に話してしまったらしい。

 別に悪意を持ってとかではなく、ただちょっと、通話の最中に口を滑らせただけのようだが。

 そのままカラオケに誘ったことも話したようで、そのことを引き合いに出された結果だ。

 そのことについて多少恨み言を呟きそうになった灯眞だが、そもそも部活をサボってふらふらしていた自分が悪かったので、グッと飲み込んで歌う。

 ──SSFをきっかけに知り合い、SSFを通して仲良くなった二人だけど、こういう関係も悪くないかもしれない。

 SSFが無くても、自分の寄る辺になる何かが無くても。

 誰かと一緒に楽しく日々を過ごして、そうしているだけで。

 でもそんなわけにはいかなくて。

 そんな風にはなりたくなくて。

「あのさ」

 不意に、真菰が口を開く。

「翔から聞いたよ。昔のことを聞いたって」

「ああ。……ごめん、勝手に」

「いいよ。灯眞君が無理やり聞き出したわけでもないし、別に隠そうとしてたことでもないから」

 この島で育った同級生たちはみんな知ってることだからと、真菰は笑う。

「迷ってたんだ。私はキミの苦しさを知ってるから」

「……気付いてたんなら、言ってほしかったな」

「……ごめん」

 その恨み言に、理不尽な非難に、真菰は目を伏せて小さく言う。

「私は空に憧れて、その苦しさを乗り越えた。空を飛ぶことが大好きだから、例え自分が天才じゃなくても……自分以外に天才がいても、そこにしがみつこうって決めたんだ」

 だけど、と真菰は言葉を続けた。

「私ができたことがみんなにもできるなんて思うのは、思い違いだよね」

「……だな」

 一人ができることがみんなにもできるなら、天才なんていない。

「だから何も言えなかった。キミがSSFを……空を飛ぶことを好きじゃないなら、キミを傷付けるだけだから」

 冷房の音だけがするカラオケルームで、真菰は伏せていた目を上げ、琥珀色の目を見る。

「ねぇ灯眞君。私には、キミが空を楽しんでいるように見えてたよ。初めて飛んだときや、初めて勝ったとき。練習もそう。できることが増えていくたびに嬉しそうに笑うキミは、とっても楽しそうだった」

「俺は……」

「灯眞君は? ……キミは、どう? SSFを……」

「俺は……俺も、空を飛びたい」

 絞り出した、その衝動。

 心の奥にある泥をかき分けて掴んだ、確かな気持ち。

「俺は負けた。完膚なきまでに負けて、俺じゃあ届かないって思い知らされた」

 柚木蒼空という才能は、絶対だ。

 努力で超えられない壁というのは存在する。

 今まで何度もそんな壁に阻まれてきた灯眞だから分かる。

 でも、それでも。

 すぐに辞めることを選べなかったのは。今までのように背を向けることができなかったのは。

「俺も好きだから。空を飛ぶこと、空で戦うこと」

 それ以上に、空を自由自在に飛び回る真菰が。

 今、自覚した。

 離れられない理由。

 俺は、俺が好きになったものから逃げたくない。

 俺は、俺が好きになった人に背を向けたくない。

 自分と同じ空虚を抱えて、それを乗り越えた彼女に、続きたい。

 初めての感情だった。

 ずっと、自分を形作るものが欲しくて戦ってきた。

 だからそれができないものは捨ててきた。

 でも空だけは、捨てたくない。

「俺も戦うよ。柚木蒼空に勝ちたい。……自分の力を全て賭けて、努力して、勝ちたい」

 その言葉で、やっと気づけた。居場所が無くても、奪われても、灯眞は灯眞だ。

 最初に居場所を奪われそうになって、それが嫌で必死に努力した。

 それは実らなかったけど、それで終わりじゃないはずだった。

 もしあのときサッカーを続けていれば、いつか追い付けたのかもしれない。

 いつか追い抜けたのかもしれない。

 その道を、可能性を、閉ざしてしまったのは灯眞自身だ。

「諦めないこと。挑み続けようと努力すること……。俺を形作るのは、そんな気持ちだったんだな……」

 競技を鞍替えしてでも一つの物事に、自分の居場所に拘るその執着。いくつも競技を鞍替えしてでも居場所を得ようとする、その意思。

 あの子はサッカーが上手い、あの子は足が速い、あの子は絵が上手い。

 同じことだ、あの子は努力屋。それでよかったのに。

 ──やっと気づいた。

「ごめん、真菰。部活サボって。また俺も、一緒に飛ばせてくれ」

「──いいよ。一緒に頑張ろう」

 優しい、けれど力強い頷きに。

 ようやく辿り着く場所を見つけることができた。



「──すみませんでした」

 真菰と遊んだ翌日の部活。

 昼間は暑いからということで朝早くに始めた、水平線から朝陽が顔を出したばかりのそんな時間。

 いつもの砂浜で、灯眞は三人を前に頭を下げていた。

「まったく……。人を引き込んだ張本人が真っ先にいなくなって、どうしようかって必死に考えてた私がバカみたい」

 折月の言葉に灯眞ははてと首を傾げる。

 誘いはしたが、引き込んだ張本人と呼ばれるいわれはないのだが。

「よく戻ってきましたね」

「ちょっと、翔」

 翔の言葉に真菰が反応するが、今のニュアンスは。

「皮肉じゃないよ、姉さん。僕は本心から言ってるんだ」

「本当ー? ……まぁ、そう言うならいいけど」

 相変わらずの仲の良さで、翔の肩を小突く程度で真菰は済ませた。

「とにかく……お帰り、灯眞君」

「……ただいま」

 白樹島SSF部は、夏休みも後半に差し掛かるころに完全復活を果たした。

 目標は一つ。柚木蒼空を倒すこと。

 天才を超えて、自分たちの手を伸ばすために。



「シッ! おぉッ!」

「ほらほら、甘い甘い。そんなんじゃ柚木君には勝てないよ!」

 憎たらしいほどに晴れ渡った空の下、灯眞は汗を流して剣を振るう。

 それを受けるのは、一時的に復帰した形になる折月。

 折月は五年以上前の現役時代、まだノーマル以外のスタイル、いやそもそもスタイルという概念が存在しない頃の選手だ。

 だから使用しているのはミツバのストライカー。それも現行機ではなく、調整機能のない初期型の。

 だと言うのに。

「この……! セッ!」

 押せない。抜けない。一本が取れない。

 結局その後、一本取って砂浜に降り立ったのは、打ち込みを始めてから十分近く経ってからだ。

「はぁ、はぁ……はぁー……」

 よろよろと砂浜に着地して肩で息をしていると、こちらは早々に一本取った真菰が笑顔でタオルとスポーツドリンクを差し出してきた。

「はい、これ」

「……ありがと、真菰」

 受け取って汗を拭い、冷たい液体を喉に流し込む。

「ぷはっ……。先生、めちゃくちゃ強かったんですね」

「そう思うのは詩島君が二週間もサボってたからよ。あと、一切攻めずに守りに徹したから」

 そう。先ほどの打ち込みの間、折月は一切攻撃しなかった。

 相手の攻撃を避け、防ぎ、一本取られないことに徹した防戦。そこまでしてようやく、現役選手に追い付けると折月は語る。

「そもそも真菰ちゃんは、あっさり一本取ったけど?」

「ぐぐ……」

 何も言い返せず唸る。

「灯眞君、どうして……こういう言い方は先生に失礼だって、分かってて言うんだけど」

 ちらりと一瞥した真菰に、折月はどうぞと手で示す。

「どうして自分よりもよわ……強くない相手に攻めきれなかったか、分かる?」

「言い直しても変わらないよ、姉さん……」

 傍らでタブレット端末を操作していた翔が半眼で言うが、とにかくみんなスルーした。

「それは……手数、だよな」

 その答えに、真菰と折月が頷く。

 勝負ごとにいて手数の多い方が勝つのは常識だ。

 できることが多いというのは、それだけ勝ち筋が多いということだ。

 あまりの攻防に見て盗むことができなかったが、真菰は灯眞の知らない技を使って折月から一本取っていた。

「課題はそこか……」

「うん。でも当然、それだけじゃないよ」

 真菰が視線を送ると、翔がタブレット端末の画面をこちらに示す。

 映っているのは、夏の大会の映像だ。

 フィールドには明るめな琥珀色の前進翼と、嵐を背負ったような翡翠色のギザギザな翼。

 灯眞と柚木だ。

「ここ見て」

 真菰が再生させた映像は、柚木が一本を先取したときの映像だ。

「ここ、肩でフェイントを仕掛けた瞬間はソードを振りかぶる素振りはなかった」

「ああ。上を……有利なポジションを取るためのフェイントだったからな。一本取るための直接的な行動じゃない」

 上を取って、そこから攻め立てるためのフェイント。

 肩で視線と思考を誘導して、反対側を抜き去るための。

「でも灯眞君が釣られたフリをして、進行方向に腕を伸ばして柚木君を弾き飛ばそうとした瞬間……」

 映像の中の柚木が腕を振るう。まるで鉈のように、蛇のように、よくしなった一撃だ。

「進路を塞がれることを嫌って振るった一撃が、たまたま面に当たったように見えなくもない。実際地上じゃ、まぐれ当たりなんて言ってる人もいたよ」

 確かに傍から見れば、そう思えなくもない。 

 だって直前まで、攻撃の気配はなかった。

「でも偶然じゃない。抜けないと悟ったあの瞬間、スイッチが入ったみたいだった」

 思い出す、あの交錯。

 弾けると思った瞬間に薄く笑い、瞳が怜悧な光を帯びた。

「うん。……スローで流すね」

 真菰が表示を切り替え、再び同じ場面が映る。

 灯眞がフェイントに釣られ、柚木が下げた肩とは逆側に重心を傾ける。

 同時に灯眞が腕を動かし、同時かやや早いくらいに柚木が右腕を振るった。

 ──同時かやや早いくらい?

「なぁ、今の」

「うん、分かってるよ」

 再び流れるスロー映像。

 やはり間違いない。灯眞が腕を伸ばすのと同じくらいのタイミングで、柚木が攻撃に移行していた。

「……いや、いやいや。えぇ? 早くないか?」

「うん。灯眞君がフェイントに引っかかるフリをすることが分かってないと不可能なくらいにね」

 フェイントにフェイントを合わせてくることを考慮する。

 それは確かに、高度な読み合いの行きつく先というか、無限ループというか。

「こういう言い方はおかしいかもしれないけど、綺麗なフェイントだったから、抜きに来てるなって思ったよ」

 あのときの柚木のフェイントはお手本のような飛行姿勢だった。

 露骨すぎず、けれど相手が見て気に留める程度。

 だけど灯眞は、真菰のフェイントを見慣れているから看破できた。

 きっとそうじゃなければ、真菰に慣れていなければ、普通に釣られていた。

「読みにしてはあまりにも賭けがすぎるし……灯眞君自身、そうじゃないって分かってるでしょ?」

「……ああ。あのとき柚木は、本気で抜きに来てた。打つことなんて多分、微塵も考えてなかったと思う」

 あの真っ直ぐな、灯眞のその先の空を見据えた翡翠の瞳。

 あれが演技だったというのか。それとも──。

「演技じゃないよ、あれは」

 灯眞の心を読んだように、真菰が言う。

「彼は……見て間に合わせたんだよ」

「見て?」

「うん。灯眞君が腕を伸ばしたのを……ううん、腕を伸ばそうとしたのを見て、合わせたの」

「……いや、いやいやいや」

 あり得るのか、そんなことが。

「いや……あり得るのか、柚木蒼空なら」

 天才なら。

「目が良いんだろうね。それに反射も、ボディコントロールも」

 人間は自分の体でも、実は完全に自在に動かせるわけではない。

 脳が信号を発して指が動くまでにタイムラグはあるし、自分が思い描いた通りに指先や腕が動かないこともある。

 それはそうだ。だって思い描いた通りに体が動くなら、人間が自在なら、不器用なんて言葉は存在しない。

「元の才能か、SSF以外の競技で鍛えたのか、それは分からないけど……。とにかく柚木君は、自分の体を余すことなく自在に動かせるんだと思う」

 目で見た僅かな体の揺らぎ。

 ただの身じろぎかもしれないし、姿勢を整えるために力を込めただけかもしれない。

 でも柚木の目は、灯眞の僅かな体の動きを、自身を遮る壁だと認識した。

「それか目が良いんじゃなくて、勘が鋭いだけかもしれないけど」

「……どっちにしても無茶苦茶だな」

 だが灯眞はそれを超えなくてはならない。

「だから灯眞君が身に付けなきゃいけないのは、とにかく技。相手に未知を押し付けて、相手の未知に対応するための技。そして、相手の目を欺くための技。……まぁ、これは私もだけど」

 それから灯眞は折月と真菰から、既存の技と呼べるものを教えてもらった。

 多角形戦術の派生である円形戦術。

突き技を敢えて弾かせることで反動を生み、それを回転に利用して攻撃するリバースピアー。

 鍔迫り合いで敢えて相手に接触、反発を利用して無理やり姿勢を崩すボディパリィング。

 ドッグファイトで相手を惑わず戦術機動、シザース。

 本来の意味とは違うが、サブスラスターの逆噴射で失速し、相手に抜かせて背後を奪うストールターン。

 あらゆる技を教えてもらい、けれどそれだけでは飽き足らず、新たに技を生み出すことにした。

 何せ既存の技が柚木に通用する場面など、誰にも想像できなかったから。

「技、技……わーざー……?」

 うんうんと唸る真菰が可愛らしくてつい口元が緩んでしまうが、そんなことをしている余裕はない。

「生半可なフェイントは見抜かれるってことだもんな。となると……小細工抜きの技しかないのか」

「簡単に言うけど、なかなか思いつかないよねー」

 戦いというのは常に、相手の一歩先を行くことを考えて進化してきた。

 だから相手を欺くための技が生まれたし、それが現行スポーツには大きく根付いている。

 フェイントかもしれない、と大勢が迷う場面で正確に見抜き、対応してくる存在。

 それをどうにかしようというなら、最初からフェイントなど捨て去るしかないと。

「でも真正面からやりやったところで、抜けるとも思えないんだよな」

 先ほど灯眞は折月に真正面から仕掛け、そのことごとくを防がれた。

 折月にできて柚木にそれができないなど考えられない。

「あの目の良さがなー……。フェイントも真っ向勝負もどっちも潰してくるのがズルすぎるよなー……」

 全てを見通しているかのようなあの瞳。

 あれを欺くことなど果たして人間にできるのだろうか。

「……いや?」

 ふと思いつき、灯眞は呟く。

 けれどこれ一つでは足りない。だからウィングを起動して。

「試したいことが沢山ある。だから、付き合ってくれるか?」

「──当たり前だよ」

 そう笑う真菰と共に空へ向かう。

 そうして夏は、あっという間に過ぎていく。


 ──第五章 励起する翼、キミと飛ぶ空──


 残暑、というには少し暑すぎる気がする秋の真城島、真城学園の砂浜。

「詩島ー!」

「榎も……っ」

 呼ぶ声に振り返ると、直後に額にデコピンを喰らい、思わず灯眞は身じろいだ。

 声の主、そしてデコピンを繰り出したのは見慣れた鉄色の短髪。

「よ、おはようさん」

「あ、ああ。おはよう榎本」

 振り返った先の榎本は、デコピンを放って指を伸ばしたままだった。

「なんだよ、いきなり」

「何ってまぁ、嫉妬?」

「嫉妬?」

 オウム返しに聞けば、榎本はグッと灯眞の体を引き寄せ、肩を組んで口を開く。

 いつもの彼と違う、低く冷たい声。

「あんだけ強いお前が、一回負けたからって降りたことにだよ」

「お前、それどこから……」

「どこからも聞こえてきたよ。そもそも閉会式のときから様子がおかしかっただろ」

 榎本は肩を離して普段通りの声色に戻った。

 真菰が柚木に敗れた直後のことは、正直よく覚えていない。

 呆然としていたから、半ば自動的に体が動いていた気がする。

「その後、ウチの学園は白樹に合同練習を申し込んだんだぜ。三年の……高峰先輩たちが引退して、人も減ってるからって」

「そんなことが……?」

「ああ。でも部員が足りてないから断るって顧問の先生から言われたんだよ。で、気になって練習を覗き見に来たら──」

 灯眞がいなかった、と。

「怪我してたわけじゃないみたいだし、それなら見学くらいはしてるだろうし。そしたら同じ日に、お前が白樹の港に居るのを見たって奴が出てきたし」

 あのときか。

「それで知ったんだよ。お前は自分で思ってる以上に、周りの連中に見られてるんだぜ」

 柚木ほどじゃないけどな、と榎本は笑う。

「なんかごめん。ちょっと、な」

「まぁ事情は深く聞きゃしないけどさ。……柚木に負けて終わりなんだったら、俺や他のお前に負けた奴はどうなるんだよ?」

 その言葉に、思わず灯眞は目を見開いた。

「贅沢なんだよ、お前は。お前が才能無いから辞めるなんてなったら、俺の立つ瀬が無いっての」

 その何気ない言葉で灯眞は理解した。

 今まで気がついていなかった。ずっと奪われる側だと思っていたけれど、そうじゃない。

 居場所が欲しくて競技を鞍替えし続けるその間、灯眞に居場所を奪われた人が確かにいたのだ。最後にはそこから灯眞が消えただけで。

 つい渇いた笑みがこぼれる。

 やっぱり、もっと早く気がつけばよかった。

 奪って奪われて、そんな一喜一憂に努力して。

 そうしていれば、今まで捨てずに済んだものが沢山あるのに。

「いや、違うか」

 怪訝そうな表情を浮かべる榎本に、何でもないと首を振る。

 捨てなければ、それはそれでいい道を歩めていたのかもしれない。

 でも捨てなければ、ここでSSFに出会うことも、真菰に出会うこともなかったかもしれない。

 それは嫌だ。

「巡り逢えた縁に報いるためにも、頑張らないとな」

「縁? ……まぁ、別にいいや。勝算はあるのか?」

「当たり前だろ。無策で挑んで勝てる相手じゃないからな」

 色々と考えはある。通じるか通じないかは、こればかりは出たとこ勝負でしかないが。

「そっか。期待してるぜ。俺ら凡人は、ハナから相手にならなそうだし」

 そうそう、と榎本はスマホを取り出した。

「トナメ表見た?」

「ああ。見たよ」

 秋の大会、新人戦とも呼ばれる一年生が増えたこの大会で、シードは当然柚木と真菰だ。

 柚木がA、真菰がBである。そして今回──灯眞はAブロック。またしても、決勝前のタイミングで柚木と当たる。

 当然、今更柚木以外の相手に後れを取る灯眞ではなく、真菰もまた高峰がいない今止められるのは柚木しかいなく、そしてその柚木とはブロック違いで決勝戦まで当たらず。

 ──だからいざ秋の大会が始まっても特に予想外の事態はなく、ただ淡々と試合は進む。

 新たに参加してきた一年生たちも、柚木のような伏兵はいなかった。

「もしかしたら、一人か二人くらい手強いのが出て来たりなんて思ったけど」

 大会が進み、準決勝で柚木と当たることになってそれに備えている最中、灯眞はテントの日陰で呟いた。

「まぁ中学の頃からやってた選手は夏の大会に出場してたし、新人戦は本当に高校に入ってから始めたばかりの初心者しか増えてないんだよね」

 応じるのは、これまでほぼ全ての試合を開始一分以内に終わらせてきた真菰だ。

 分かっていた話だが、本当に止まらないし、一向に相手を寄せ付けない。

 途中榎本と戦ったようだが、特に一矢報いるとか一太刀浴びせるとか、そういう展開はなかったようだ。

「……そろそろだ」

 立ち上がり、翔からウィングを受け取って背負う。

「ありがと、翔」

「僕の仕事ですから。……頼みますよ」

 頷けば、折月もまたこちらを見ていた。

「詩島君、頑張ってね」

「はい」

 二人に応じ、それから振り向いた先で真菰は何も言わずに目の前に歩いてくる。

「灯眞君」

「ああ」

 呼びかけと共に突き出される拳に、灯眞は自身の拳を合わせる。

「信じてる」

「任せろ」

 短いやり取りを交わし、灯眞はフィールドへ。

 既に柚木は砂浜にいて、一つ前の試合が終わるのを待っていた。

 見上げた先で、二人の選手が刃を交えている。

 やがて試合は終わり、運営スタッフの交代を待ってから灯眞と蒼空はフィールドへ上がった。

 互いに言葉はない。

 運営スタッフの促す手に従い、開始線へ。

『On Your Mark Set』

 合成音声に合わせ、翔が調整してくれたウィングが甲高く鳴る。

 背に広がる前進翼が、力むように微かに震えた。

 瞬間、ブザーの音が鳴り響く。

 ──しかし直後に聞こえるのは、双方のウィングの機動音だけ。

 咆哮が上がるでも、DGPが衝突するでもなく、ただ静かに両者は睨み合っていた。

「……」

「……」

 SSFにおいて最も隙がある試合開始直後。アクティブスタイルであれば特に狙いにいくだろうこの場面で、けれど灯眞は動かない。

 柚木はカウンターを主軸にした戦い方をする選手だ。それは夏の大会でも、これまでの秋の大会でも同じこと。

 だから、まず動かない。

 柚木を相手にした場合、アクティブスタイルは根本的に不利なのだ。

 攻めに特化したトリッキーな戦い方が彼には通じないのだから。

 だから、待つ。パワータイプが相手を誘うように、じっと睨みつけて剣先を向け、ただ浮遊する。アクティブスタイルが苦手な待つ戦法で。

 ──誘いには乗ってこないか。

 判断した灯眞が剣先を揺らした瞬間。

「セッ!」

 間隙を突くように柚木が動く。

 掛からないと踏んで構えを解いたその一瞬、的確に狙い澄ました正確無比な一刀。

 けれど灯眞は身を捻り、同時にスラスターを全て噴射することで無理やり避けて足癖悪く蹴りを放つ。

 相手の姿勢を崩すことではなく、距離を取ることを目的にした一撃だ。いかに目がよくても反射神経に優れていても、避けることができない間合い。

 足による突きを左手で受けた柚木が弾かれ、空中で回転して姿勢を戻した灯眞と再び睨み合う。

 剣先を前にし、来いと誘うその動き。

 お前にできることは俺にもできると示して嗤い、灯眞は拳を強く握る。

「──ハッ!」

 今度は明確に柚木が動いた。

 待ちきれない、という逸りを感じる挙動だ。

 いかな天才、いかに目が良くても、やはり歴が浅い。

 この場合の歴はSSFだけでなくスポーツ全般だ。

 色々な競技に触れてきた灯眞は、逸る気持ちは敗北を招くことをよく知っている。

 だから。

「ふっ!」

 後退しながらの鋭い横薙ぎ。柚木は前傾のまま下降してやり過ごし、ロールと同時に腕を振るった。

 やはり目が良い。ギリギリまで引き付けたというのに、苦も無く躱して隙を狙いにきている。

 そんな柚木を見て、背筋を冷たい感覚が走る。

 やっぱり怖い。こうも自分との違いを見せつけられるのが。

 でも。

 灯眞は無理やり頬を吊り上げ、カッと目を見開いて跳ねる。

 頭を軸にした予備動作無しの縦回転に、通り抜け様に胴を狙った柚木のソードが空を切った。

 えっ、と僅かに聞こえる声。

(お前を倒すためだけの剣を──何本も用意してきたんだよ!)

 声には出さず、けれど心の内で叫んで灯眞は背面蹴りで叩き落とす。

「ぐっ……!?」

 確かに聞こえた驚愕の声に、灯眞はさらに追撃を入れるべく加速した。

「少し遠いか……!」

 錐揉み状態の柚木を狙い、呻きながら距離を詰める。

 ここまでの試合で念のため確認したが、柚木のウィングは相変わらずほぼ初期値のノーマルスタイルだ。

 ある程度の力押しも、ある程度のスピード押しも、なんでもできる万能機。

 けれどそれ故の器用貧乏を、柚木の反則的な目の良さと反射神経でカバーした戦い方は、それ一つを殺すためだけの戦い方に押されている。

 とは言えさすがに対応が早く、海面に叩きつけられる直前、反転した柚木が突っ込んできた。

「シッ!」

「んのっ……!」

 下降していた灯眞の鼻っ面をソードが掠め、避け損ねたところを弾き飛ばして柚木が頭上へ。

「距離が空きすぎたな……」

 顔を顰めて舌打ちを堪え、灯眞は一人呟く。

 相手の姿勢を崩すための背面蹴りが、思いの外勢いづいてしまったことで追撃が間に合わなかった。

 本当は自分の間合い内で上手く翻弄したかったのだが。

(反省は後だ……)

 冷静な思考に切り替え、頭上を仰ぐ。

「仕掛けてはこない、か」

 今の挙動で僅かに乱れた呼吸を整え、高度を合わせた。

 鋭い呼吸音と共に剣を背後に突き出すように構え、コアパーツのサブスラスターを勢いよく吹かす。

 当然それを見て、いや見た瞬間に柚木が次の行動に移っていた。

 やはり早い。が、目の良さが命取りだ。

 柚木の目が冷たく睨むのは、灯眞が突き出したソードの切っ先。

 そちらに気を取られた柚木は、闇雲に前進したとしか思っていないのだろう。

「らッ!」

 だから灯眞の、アクティブスタイルの長所を活かした超至近距離の蹴り上げに反応するのが一瞬、いや刹那遅れた。

 DGPは基本的に目に見えない。ウィングのコアパーツから展開される翼は、選手の識別と競技の見栄えのために加工が施されたものだ。

 ソードから放出される薄赤いDGPも同様で、こちらはソードが稼働状態にあるか一目で判断するための措置であり、装置だ。

 だがそれ以外の、メインやサブのスラスターから放出されるDGPは目で見えず、目で見えないということは情報から除外されているわけで。

 だから灯眞の蹴りは、柚木からすれば意識の慮外からの一撃だった。

「なに……ッ!」

 瞠目した柚木が咄嗟に攻撃を受け、姿勢が崩れた。

 それもただ崩したのではなく、DGPの反発により大きくだ。

 柚木はノーマルスタイルで、灯眞はアクティブスタイル。

 一度姿勢を崩して、先ほどのような対応の隙を与えなければ。

「ハァァァァッ!」

 横蹴りのまま一回転した灯眞の一刀が、吸い込まれるように柚木の側頭へと伸びる。

 直後、バチンッと激しい音が鳴り、ブザーがポイント取得を告げる。

 ──詩島灯眞、一本。

「よし……ッ!」

 小さく快哉を上げると、地上が一気に騒がしくなる。

 夏の大会で驚異的な強さを見せつけた柚木蒼空か、一本取られた。

 それも夏の大会ではあっさり倒した詩島灯眞から。

 その事実に、熱狂の渦が会場を包む。

 その熱狂が震わす空気が、足元まで迫っているようだった。

「……なるほど、そういうことか」

 一方、打たれた柚木は静かな表情のまま呟いていた。

 ──スポンジのようだと、灯眞は思う。次から次へと技術を吸収するスポンジだ。

 これはもう多用できないなと、灯眞は理解して苦笑した。



「予備動作無しの攻撃?」

「ああ」

 試したいことがあると真菰を連れて空へ上がって、灯眞は思いついたことを話した。

「柚木の目の良さは、相手の力みや関節の動きとか、そういうところだろう? だったら外側からは変化が見えないところで騙せばいいって思ったんだ」

 それが、体を一切動かさない状態から繰り出す蹴り。

 アクティブスタイルのサブスラスターは初速に振り切ったタイプで、ラプターはその中でもそれが顕著だ。

 癖が強いと言われるだけあり、初速の最高速度が全アクティブスタイルのウィングの中でも最上位らしい。

 その速さ、と言うより体を押し出す力は、制御できないと勢い余って相手を通り越したり一回転したりしてしまうほどだ。

「この勢いを活かして蹴りを入れれば、間違いなく体勢を崩せる。真菰は今更言うまでもなく理解してるだろうけど、ノーマルスタイル相手に全ステータスをアクティブに寄せたウィングは、初速対決で絶対負けない」

「だから一度崩しちゃえば、姿勢を整えられる前に決めることができる?」

「ああ。……まぁ、夏の大会じゃ柚木が姿勢を崩される場面なんてなかったから、可能性の話だけど」

 仮定の話だが、今はやれることをやるしかない。

 とは言え。

「でもそれ、すっごい難しくない? 力まずにサブスラスターの力に身を任せたら、いくら灯眞君でもバランス崩しちゃうよ?」

 最初の飛行のとき、灯眞は力むことなく宙に浮かび、そのまま飛行することができた。

 だがあのときは、真菰が機種変更する以前に使っていたというウィングと、翔用のマイルドな設定がされているウィングを合わせたものだった。

 さらに浮くだけ、前に飛ぶだけのあのときと違い、蹴りを放つためにラプターの最大出力に身を任せるのだ。

 当然、いかな灯眞と言えど今のままでは宙返りは免れない。

「でも……うん、本気なら当然協力するよ! いっぱい目を回すことになると思うけど……頑張ろうね!」



 ──そして、それは成功した。

 けれど次は警戒される。

 ブザー音が鳴り、二本目が始まった。

 再び待ちの構え。まずは相手を好きなように動かさない。相手のやりたいことをやらせない。

 とは言えこちらも何もせずにいると時間空費の反則を貰いかねないので、適度に動かなければならない。

(コイツは、それも見抜いてくるんだよな……)

 こちらの動きが反則を避けるためのフリか、それとも本気の攻めなのか。

 真菰の言った通り、目だけじゃなくて勘もいいのだろう。

 見て取った動きが次に何に繋がるのか、意味ある行為なのか、それを目で見抜き、あとは勘に従っている。

 絶対的な目と勝負勘。なるほど天才とはこのことだろう。

 睨み合いの末、先に動いたのは柚木だ。

「セァッ!」

 鋭い呼吸と共に袈裟斬りが放たれ、バックステップで回避。

 ソードをやり過ごしたタイミングでサブスラスターを噴射し、切り上げ。

 しかし驚くべきことに、振り切られて下がっていた柚木のソードが、灯眞の攻撃に合わせて跳ね上がる。

「……ッ!?」

 跳ね上がったソードは灯眞のソードの腹を叩き、接触した反動で大きく軌道は逸れる。

 的確なタイミングを突いたつもりだったが、間に合わせて来るか──!

 切り上げを半ばで防がれた灯眞の右腕は弾かれ、胴体ががら空きに。

 そこを逃す柚木でもなく、酷薄な瞳がその隙を狙って鋭く光る。

「チッ……!」

「セッ!」

 舌打ちと共に躊躇を捨て、ソードの軌道に腕を割り込ませる。

 さすがの柚木も振っている最中では大きく軌道を変えることはできないようで、割り込んだ灯眞の左手の平がソードを掴んだ。

「っ……」

 僅かに呻く声。

 SSF選手の体は厚いDGPが包んでいて、ソードは薄くDGPが張られているため触れれば当然弾かれる。

 だがソードを握るための手の平は特殊加工がされていて、しっかりソードを握れるようになっている。でないと競技が成立しないからだ。

 ──そして、それを応用すればこんな芸当は訳ない。

「めちゃくちゃ痛いけどな……!」

「……なら、その手を離してくださいよ」

 初めてまともに交わす柚木との会話。

 両者至近距離で睨み合い、その力を腕に込める。

「嫌だね……ッ!」

「なら……!」

 灯眞がソードを振りかぶるのと、柚木が左手を開くのは同時だった。

「ッ……!」

 灯眞の振り下ろしたソードを、柚木の左手が受け止める。

 まるで意趣返しと言わんばかりのその行動に、思わず嫌な笑いが零れ出る。

 それから示し合わせたように同時に手を放し、一足一刀──空中なので正しい意味ではないが──の間合いで睨み合う。

 再び時が止まったかのような静寂で、風の音にウィングの駆動音が混じる。

 かなりスラスターを酷使しているせいか、前腕のデバイスに表示されるDGPの残量は半分ほど。

 このまま攻めきれなくても、一本取られなければ灯眞の勝ちだ。

 無理をして隙を晒すくらいなら──。

 そんな弱気が、その油断が。

「シッ!」

 反応を遅らせた。

「っ!?」

 間合いを詰めてきた柚木に対し牽制はせず身を退かせる。

 あの目の前では牽制など意味はなく、ソードを振り切ってしまえば隙でしかない。

 だから身を退いた灯眞の体を──いきなり伸びたソードが突く。

 接触の反動でバランスを崩して。

「なっ……!」

 目を見張った先、灯眞を突いたソードの柄を──柚木が握っていなかった。

 投げたのだ。

 SSFにおいて、ソードを手放すことそれ自体は反則にならない。

 だが二刀流を除く選手で投擲という手段を取る人間はまずいない。

 なぜなら、得物を失うからだ。

 ──だと言うのに。

「コイツ!」

 不意を突かれたとは言え灯眞はアクティブスタイルで、だからすぐに乱れた姿勢を整えて迎撃態勢を取る。

 突っ込んでくる柚木が振りかぶるのに合わせるべく、ソードを握る手に力を込めた。

 一本目を取る前、迎撃の横薙ぎを容易く躱されたことを灯眞は忘れていない。

 だから狙うなら、後出しだ。

 この期に及んでも先に動くことがあってはならない。

 徹底した後出し、徹底して相手を先に動かす。

 それができて、ようやく──。

「えっ……?」

 柚木は、ソードを振りかぶらない。

「がッ……!?」

 ソードを構え、けれど後出しにこだわりすぎた。

 だから迎撃が間に合わず、灯眞と柚木は正面衝突する。

 凄まじい衝撃に体を揺られ、気がつけば海面に叩きつけられていた。

 DGPを纏えば水中に落ちることはない。

 さらにDGPが防具の役目を果たすので、空中から床に落ちるような感覚はない。

 ただそれでも、人間と言うのは咄嗟に身構えてしまうもので。

 様々な競技をやってきた灯眞だからこそ、危険なときに受け身をとるという行為が身についてしまっていた訳で。

 その隙を、彼は逃さない。

「貰います!」

 鋭い声と共に耳を打つ風切り音。水柱ごと切り裂くように眼前に迫った柚木のソードが、身を守るために受け身を取り、隙を晒した面を斬った。

 バチンッ、と弾ける音と共に、さらに灯眞は海面へと押し付けられて歯を食いしばる。

 振動が収まって目を開けた先、見下ろしてくる柚木の顔が、得意げに歪められていた。

 柚木蒼空、一点。一対一。

「はぁ、はぁ……はは」

 自嘲気味な渇いた笑みと共に、灯眞は体を起き上がらせる。



「──ふー……」

 心臓の鼓動が早い。肺が足りぬと酸素を貪り、それに合わせて蒼空の肩が上下した。

 こんなに必死になったのは初めてだ。

 こんなに勝ちたいと思ったのは初めてだ。

 引っ越してきてすぐ、たまたま見かけたSSF。

 初めて見るその競技を、蒼空は誘われて始めてみた。

 最初はそれだけだった。

 ただ誘われて、上手いと言われて、人が少ないがために枠が余っているという大会に半ば強引にねじ込まれた。

 別に暇だったし、やりたいことも何もないし、構わなかったけど。

 そうして出会った競技で、そうして優勝した競技で。

 確かに、楽しいとは思った。

 空を飛ぶというのは未知の経験で、肌を撫でる風が心地よかった。

 だけどそれだけだった。

 競技というよりはただの娯楽。それも簡単なゲーム程度。そのくらい簡単なことだった。

 ──けど。

「はは……凄いな」

 夏の大会でも戦った、詩島灯眞という先輩。

 他の選手より動きが良くて、試合中に得るものがいくつかあって、だから覚えていた。

 まさか、たった二ヶ月程度でこうも変わるとは。

「負けられないな」

 短く呟き、蒼空はニヤリと笑う。

 こちらを見上げて笑う彼のように。



「──なんか、楽しそうだね、二人とも」

「うん、そうだね」

「てっきりもっとバチバチにやるかと……いや、今でもバチバチだけど。もっと敵意全開で戦うと思ってた」

 フィールドを見上げる真菰の隣で、同じく見上げる翔が言う。

「それは……。うん、それは違うよ、翔」

 勝ちたいと思うけど、でもそれは。

「相手を貶めたい気持ちで戦う訳じゃないから」

 ただ純粋に、自分の力を示すために。

 自分を変えてくれた空に誇れるように、胸を張れるように。

「……でも本当に、楽しそう」



「シッ!」

「はぁぁッ!」

 鏡合わせの動きで振りかぶり、中間地点で刃が交わる。

 火花のようにDGPが散り、それぞれのウィングが甲高く咆哮を上げた。

「密着状態でも、一度見た技は効きませんよ!」

「──ハッ」

 敢えて力を抜いて押され、同時に逆手に持ち替える。

「勝手に警戒して勝手に摩耗してればいいさ!」

 強く言い返し、同時に横薙ぎ。

 振り切ったところで順手に持ち替え、流れるように袈裟斬りへ繋げる。

 攻撃の終わりと始動が似通った技を繋げる力任せの連撃だが──たかだが二連撃で終わりではない。

 振り切った姿勢から左の裏拳で柚木のソードを弾き、そのまま切り上げて胴を狙う。

 これも対柚木相手に編み出した技の一つで、相手に反撃の暇を与えない単純な作戦ながら、使う側の難易度も使われる側の抜け出す難易度も高い。

 何せアクティブスタイルの高機動を制御し、片手でソードを振り続ける筋力と持久力が使い手には必要であり、抜け出す側は連続攻撃の軌道を読み、嫌らしくタイミングをずらして放たれるソードを防ぎきらなくてはならないのだから。

「おぉぉぉぉッ!」

 咆哮と共に剣戟は激しさを増し、けれど正反対に柚木の瞳が冷えていく。

 ──見切り始めているのだ。被り始めてきた連撃のパターンを。

「シッ!」

 その前提の難易度が高いことはひとまず横に置き、見切ることと速度を合わせることができればこの連撃を止めること自体は可能だ。

 相手の軌道に割り込めばいいのだから。

 だから柚木はそうしたし、それは正しい。

 けれど。

「掛かったなッ!」

 攻撃姿勢の終わりと始動の似ている技を無理やり繋げるこの技は、その縛り故に一周するまでが早い。

 ところどころ変則的な技を入れてなお、その数は十を超えない。

 だから柚木は次に何が来るか読んで、どうソードを割り込ませれば迎撃できるか考えた。

 だがそれは失策だ。なぜならこの連撃を仕掛けている側も──そのくらい想定しているのだから。

「セァッ!」

 だから止められた瞬間に手首を返すことで、鍔迫り合いをキャンセル。

 背後に流れていく柚木のソードを横目に、灯眞は渾身の力で振り切った。

 技を仕掛ける灯眞はもちろん、回避を止めてソードを割り込ませに来た柚木も前進していたこの一瞬、体が接触するほどの至近距離だ。

 当然灯眞の一撃は近間で、一本にはならない。

 だが攻撃を受けるための力を逆に受け流され、さらに面を打たれたことで柚木の姿勢は大きく乱れている。

「──こういうやり方もあるんですね……ッ!」

「お前のためだけに考えたやり方だ! ありがたく受け取れッ!」

 前進翼が激しく光り、最大加速で間合いを詰め──一閃。

 確かな感覚が腕を振るわせ、その直後にブザーが鳴る。

 得点は──詩島灯眞に一本。二対一、よって。

「──っしゃぁぁぁ!」

 全身を喜びが震わせ、達成感が満ち、耐え切れず灯眞は叫ぶ。

 直後に地上からも歓声が上がり、灯眞の体を揺らすようだった。

 するとそんな灯眞に、柚木が近づいてくる。

「負けました。……あんなに本気になったの、初めてです」

 清々しい、試合中の怜悧な瞳が嘘のように澄んだ翡翠の瞳。

 亜麻色の髪を、優しい風が揺らしていた。

「そっか。……俺は、随分久しぶりだった。あんなに本気になったのは」

 久しぶりに、自分が誇らしかった。

「そうですか。……俺、もっと強くなります。強くなって、あなたに勝ちます」

 真っ直ぐぶつけられる強い感情。

 今まで向けられる前に逃げ出して、逃げてばかりだったから、向けることなんてできなかった純粋な闘志。

「──ああ、楽しみにしてる」

 


「──凄い試合だったね、姉さん」

「だね。……見てるだけでわくわくして、うずうずして……。我慢できない」

「迎えに行かなくていいの?」

「うん。だって私、次試合だし、それに信じてたし」

 翔に見てもらったウィングを着装し、テントの外へ。

 ──ああ、ずるいなぁ。

「準決勝の相手には悪いけど……早く退いてもらおうかな」

 Bブロックの会場へ飛びながら、真菰は低く呟いた。

 早く、早く、早く。

 戦いたい──彼と。

 Aブロックの興奮冷めやらぬまま、Bブロックの準決勝は幕を開け、熱狂の渦をさらに過熱させて幕を閉じた。

 試合時間は一分。

 圧倒的で絶対的な力を以てして、歌澄真菰が勝利した。



「──ちょっと気合入りすぎて怖いくらいだな」

 真菰と入れ違いでテントに戻ってきて、少し休もうと思ったらあっという間に準決勝が終わっていて、思わず灯眞は苦笑する。

「その原因を作った張本人の一人が何言ってるんですか」

 柚木との戦闘でかなり酷使したせいで排熱が追いつかなくなっていたウィングを見つつ、翔が言う。

「おかげであっさり試合が終わって、調整作業が詰まっちゃいますよ」

「真菰は俺のと違って、別に大丈夫なんじゃないのか?」

「ダメです。どれだけ稼働時間が短くても、試合の前後で必ずチェックします」

 それだけは譲れないと、冷却が終わったラプターのブーツを戻しながら言う。

「そっか。適当なこと言ってごめん、ありがとな」

「何度も言いますけど、僕の仕事ですから、これが」

 そんな会話を交わしていると、真菰がテントに戻ってきた。

「お疲れ様」

 近くにあったドリンクとタオルを投げ渡してやる。

「ありがと」

 大して疲れてなさそうなその口調に、分かってて言った灯眞は肩をすくめる。

 これから決勝戦で戦う相手だというのに、お互いどうにも緊張感がない。

 そんな軽いやり取りの後、ふと真菰が口を開いた。

「──前にも言ったけどさ」

「ん?」

「私はこの空で一番強いんだって、世界に示したい」

 夏の大会の直前に聞いた夢。

「あのとき、灯眞君は勝てるまで勝つって言ってたよね」

 まだ漠然とした目標しかなかった、SSFを自分の居場所のための競技と考えていた時のことだ。

「それから、今度は柚木君に勝つって目標を決めた。……それを果たして、キミは何を夢見る? 何に向かって手を伸ばすの?」

 ──柚木蒼空には勝った。灯眞の翼を折った相手にリベンジを果たした。

 清々しい気分だった。

 一進一退の攻防の末に勝利して、気持ちよくて、再戦の誓いを立てた。

 達成感は十分にある。目標を達成した──その次は。

「俺は……俺も示したい。この空で一番強いのは俺だって。俺が一番、強く在れるんだってことを」

 一つ叶えて、その先へ。果てなき蒼穹へ手を伸ばすために。

「──よかった。やっぱり、キミは見立て通りの強い人だった」

 真菰が微笑む。優しく、明るく、見る者の目を惹く可愛らしい笑顔。

 けれど──その目は強く、煌々と光を帯びていた。

「そうじゃないと、面白くないもの」

「……俺がお前の夢を邪魔するって真っ向から示したのに、そんな風に思えるんだな」

「──当たり前だよ。私は一人で空を飛びたいわけじゃないから。だって、一人は寂しいでしょ?」

「……だな」

 同じ空虚を抱えていたから分かる、その切なさ。

 始めては辞め、辞めては始め、また辞めて。

 一つのコミュニティに留まることをしなかった灯眞は、長いこと一人だった。

 親友なんて呼べる人はいなく、同じ何かを夢見る友達も仲間もいなかった。

 だから分かる。だから、共感できる。

「私は誰かと一緒に空を飛びたい。だから灯眞君が同じところまで来てくれて嬉しいんだ」

「……そっか」

 それ以上、言葉はいらなかった。

 翔がラプターの調整を終えて、灯眞は一足先にテントを後にする。

 ストレッチをしながら待っていれば、アナウンスはすぐだった。

 合わせて真菰もフィールドの下に歩いてきて、顔を見合わせて同時に翼を展開する。

「どっちも頑張れー!」

「応援してるぞー!」

「真菰ちゃーん!」

「やったれ詩島ー!」

 応援の声を背に受けて、二人は向かい合う形でマーカーへ。

 運営スタッフに従い開始線へと進めば、纏う雰囲気は一変する。

『On Your Mark Set』

 ブザーが鳴り、試合が始まった。

 灯眞が動き、真菰が応戦する形で左手を前にしたファイティングポーズのような構えを取る。左で受けて右で返す二刀流の基本の構えだ。

「シッ」

 まずは様子見、順手のソードを突き出した。

 対する真菰はギリギリまでそれを引き付け、左のソードで外へ弾く。

「ッ!」

 弾かれた状態で逆手に持ち替え、隙の生まれた左側頭目掛けて一閃。

 しかしさすがの反応速度で避けた真菰が、お返しとばかりに右手を振るう。

 灯眞の左籠手を狙った一撃を、逆手で振り切り、体の左手側に伸ばしていた右拳で叩き落として迎撃。

 肌を刺すような気配に身を退けば、左手のソードが紙一重のところまで迫っていた。

 ──やはり柚木とは別ベクトルで強い。

 真菰には柚木のような目はない。けれど柚木にはない手数がある。

 だから互いに繰り返してきた柚木を想定した練習は無意味──。

「じゃ……ない!」

「えっ……!」

 瞠目する真菰の声。

 見開かれる目が、近い。

「退くときの距離は──体が覚えてるんだよッ!」

 真菰は二刀流のリーチの短さをアクティブスタイルの高機動で補う、全SSF選手の中でも特に機動戦を得意とする選手だ。

 とは言えインファイトを継続できない場面というのも存在して、それが今の攻防だ。

 右手のソードを叩いて弾かれ、左手のソードも避けられ、真菰の二刀は共に彼女の右手側、灯眞の左腕の真下にある。

 この状況、最短でソードを振り上げようとすれば必ず灯眞の左腕の内側に阻まれ、大外で振れば致命的な隙になる。

 だから退いたし、退くだろうと思った。

 そして真菰が引くときにどの程度の間合いを意識して距離を取るかは、夏休みや二学期が始まってからの練習で見てきて、受けてきて、叩き込んだ。

「やってくれるね……!」

 そう言いつつもその口元は楽しそうに歪む。

 真菰は自身の右側にあるソードを無理やり振り上げ、灯眞の左腕を叩く。

 DGPの反発で双方弾かれ、立ち上がりはほぼ同じ。

 否、弾かれ慣れしている真菰の方がやや早いか。

「逃がさないよ!」

 素早くスラスターを吹かした真菰の突撃を、灯眞は冷静に見据えて目を眇める。

 タイミングを計れ──柚木と同じ、奇襲が通じるのは一手につき一回だけ!

 下からソードを振り上げた真菰は当然海面側に弾かれていて、だから有利な上を抑えているのは灯眞だ。

 ギリギリのところまで見極めて──真菰は真っ直ぐ、フェイント無しの真っ向勝負。

「……えっ!?」

 来るなら来いと構えた灯眞のブーツと真菰の頭が接触する、その数ミリ手前で真菰がロール。DGPの反発しないギリギリのところを通り過ぎ、あっという間に上を取った。

「タイミングを計ってたのは、キミだけじゃないよ!」

 上を取った真菰が砂時計をひっくり返すように天地を入れ替え、膝を畳む。

 上昇に割かれていた推進力が、反転して彼女の体を逆落としに。

「やッ!」

 青空を背に、それより眩しい青い瞳が輝いた。

 咄嗟の判断でソードを頭上に構え、直後、目を見開く。

 逆落としの真菰の体が、不自然な挙動でスライドする。

 サブスラスターの噴射だ。ギリギリのところで、背中側のスラスターを吹かした。

「んのッ!?」

 構えたソードを引き戻そうとし、けれど間に合うわけがなく。

 身を捻って前後を入れ替えた真菰の顔と、灯眞の顔が至近距離で向き合った。

 直後、胴の両側を衝撃が駆ける。

 バチバチッ、と聞いたことのないような音が鳴り、直後に得点を知らすブザーも鳴った。

 得点は、歌澄真菰に一本。

 ──ニッパー。二刀で挟み込んで打つ、二刀流の技。それを海面へ真っ逆さまに下降しながら、すれ違いざまの一瞬を。

「やっぱ凄いな……」

 片方の腹に触れながら嘆息する。

 灯眞が回避ではなく防御を選んだ時点で、恐らくこれを打つと決めていたのだ。

 でなければ考えられないほどの一瞬だ。真菰がスライドすると同時に身を捻り、さらにニッパーを繰り出すまでは。

 一瞥すれば、交錯して抜けていった真菰は開始線に戻って行く最中だ。

 頭を振り、灯眞も向かい合うその位置へ。

(何のためのアクティブスタイルだ……。動け、動いて動いて、かき乱せ)

 柚木戦ではフェイントも何も効果を成さなかったため、相手を動かす戦い方を選んだ。

 けれど今は、それを引きずっていてはいけない。

 気持ちを切り替えて真菰を見据え、ブザーの音と共に飛翔する。

 やはり真菰も動きは同じで、双方真っ向から衝突する。

 同時に弾かれ、鏡合わせで互いに上昇。

 ドッグファイトにもつれ込む。

アクティブスタイル同士のドッグファイトは苛烈だ。

互いに目まぐるしく動き回り、遊弋する剣が稀に衝突して弾かれる。

「おぉッ!」

 海面を背負う真菰に対し、上方から突きを放つ。首を捻って避ける真菰に対し、突きから横薙ぎの連携攻撃。

 けれど敢えて失速して避けられ、再び胴体ががら空きに。

「──ッ!」

 寸でのところでサブスラスターを吹かし、ニッパーをやり過ごす。

 ──高峰との戦闘で似た局面に遭遇していなければ、咄嗟の回避が間に合わなかったかもしれない。

 そんな思考を頭の隅で展開しつつ、一度距離を取って様子を見る。

 背面飛行を止めた真菰が、いつもとは違う無表情でこちらを見ていた。

 彼女が稀に見せる、集中しているが故の揺るがない能面。

 ずっと横から見ているだけだったが、こうして向けられると圧が強い。

「そんな表情、するんだな」

 静かに呟き、呼吸を整える。

「でも……俺だって」

 ソードを構え、徐々に下降。一触即発な状況で、灯眞は矢のように飛び出した。

 ソードを逆手に持ち替えて、海面に叩きつけんばかりに一刀。

 バックステップで避けた真菰が、勢いよく両腕を広げた。

 夏の大会で柚木に繰り出したピンチング。しかもあのときとは違い、灯眞のブーツが水面を叩くほどにスレスレの位置にいて、下降するという選択肢が消えている。

 その上ピンチングは、相手の動きによってはそのままニッパーに繋がる技だ。

 拘束、攻撃、どちらもこなす万能の技。

 ──だから、隙を晒せばやると思った。

 ピンチングは二刀流が試合を決めるための常套手段、そう教えてくれたのは真菰自身だ。

 だから灯眞は逆手で飛び込んだ。

 剣先が上を向くよう、腕を多少動かせば、それで相手に届く向きで、届く角度で。

「ッ……!?」

 逆手のまま右腕を振り上げ、同時にリリース。

 手を離れたソードが真菰の胸を穿ち、瞬間弾かれて姿勢が崩れる。

 準決勝、柚木が見せた投擲術。先ほど自分が受けたばかりの技を練習無しのぶっつけ本番で取り込んでくるとは思わなかったのだろう。

 だがさすがの真菰はすぐに目を細め、両腕を無慈悲に狭める。

 敗北を告げる二刀が振るわれて、けれどそれは互いの刃を叩くだけ。

 対柚木戦を想定した、サブスラスターだけを使った方向転換。

 まったく力まず、けれど振り回されることもなく、ラプターが頭を軸に灯眞の体を縦に回す。

 そして同時に、真菰の体に弾かれたソードを器用にキャッチ。

 それは流星のように一瞬で、瞬くよりも素早く、隙を晒した側頭を斬った。

 その一撃に、歓声が上がる。

 ポイントセンサーのブザーが鳴り、得点を知らせるホログラムの数字が変わった。

 詩島灯眞に一本。一対一。

「──ッはぁ、はぁ……げほっ──……」

 気がつけば無呼吸だった。それほどまでに集中していて、一瞬頭がクラっとした。

 貪るように酸素を吸い込み、大きく肩を揺らして見た、視線の先。

 残り時間は二分少々。まだ三分しか経っていない。

 ──いや、もうそんなにないな。

 視線を落として見た前腕のデバイス。表示されているDGPの残量がかなり少ない。

 ドッグファイトで無理をしすぎた。あと二分稼働させ続けることは不可能だろう。

(真菰のフェンサー……向こうも多分、同じくらいのDGP残量のはず)

 開始線に戻りながら、灯眞は大きく息を吸う。

 互いにDGP残量は残り僅かで、二本目を先取した方の勝ち。

 であれば、温存など考えるな。

 一合一合を全力で、一刀一刀を必殺で。

「──よしッ」

 気合を入れ直すために頬を叩き、開始線の前でソードを構える。

 右腕を後ろに伸ばし、対する真菰も同様に、けれど灯眞にはない左手のソードを前に突き出して構えて睨み合う。

 ──ブザーが鳴り、両者が動く。

「シッ!」

「えぇいッ!」

 左側頭を狙った灯眞の一撃を、左手に握られたソードが弾く。

 同時に右腕のソードが灯眞に迫るも、こちらは伸ばした灯眞の左腕が刃を掴んで受け止めた。

 一瞬の膠着、直後に真菰の蹴りが灯眞を弾く。

 その衝撃で左手が緩み、灯眞は海面へと急降下。

「ぐぅ……ッ!」

 歯を食いしばって衝撃を堪え、全てのスラスターを全力稼働。あと一分、いや三十秒、とにかく少しでも動け、動け、動け!

 海面に激突する直前で反転し、水柱を立てながら灯眞は飛翔する。

 恐らく次の交錯で勝負が決まる。

 DGP残量もそうだが、それ以上に直感が告げている。

 なら、どうすればいい。

 有利なポジションを取られた状況で、二振りのソードを避けて相手に一撃を叩き込むためには。

 フェイントで抜いて上を取る。これが王道かつ常道だろう。

 ラプターの機動力をもってすれば、抜き去った直後の反転で一本奪える。

 が、そもそも真菰を抜くことができるのか?

 先ほどの場面、抜かせないつもりで構えて隙を晒し、まんまと一本取られたのが灯眞だ。

 相手がこう動いたら自分はこれで対応しよう、という判断を一瞬で行うだけの力と経験が灯眞にはまだない。

 だからギリギリのところで灯眞は一歩、真菰に及ばないだろう。

 では下から突き上げて隙を作る。

 いや、これも難しいだろう。

 あっさりいなされて一本取られる未来しか見えない。

 考えている間に真菰との距離は縮まり、猶予がなくなっていく。

 こうして灯眞が考えている間にも、真菰はもう選択肢を決めているのだろう。

 灯眞がフェイントを仕掛けて来るなら、真っ向から潰すか乗るフリをするか。

 もし下から突き上げて来るなら、避けて通り過ぎ様に斬るか、再び海面へ押し付けるか。

 ──いや、まだある。

 この状況で有利なポジションにいながら、一本取られた選手を灯眞は知っている。

「──ッ!」

 上昇しながら灯眞は真菰の奥、白雲の流れる空を見た。



 眼下の灯眞が、真菰から視線を外して空を見た。

「……抜きに来るんだ」

 短く呟き、真菰は胸の前でクロスさせるようにソードを構えた。

 下から攻める選択肢は二つ、どちらを取っても対応できる自信はある。

 フェイントで抜きに来るようなら、ギリギリまで引き付けてピンチング。これで弾ければ良し、弾けず避けられても、広げた腕を避けて大きく膨らんだ状態なら追撃が届く。

 突き上げで姿勢を崩しに来るなら、宙返りで回避しながらの胴狙い。これでいい。

 ──フェンサーのDGP残量はもう少ない。ラプターもそうだろう。

 であれば、直感が告げる通りにこの交錯で決着がつく。

 いや、決着をつける。

「……」

 唇を引き結び、その瞬間を待つ。

 右か、左か──灯眞の左肩が下がる。綺麗に揃っていた足も、左だけが下がって重心が傾く。

 であれば、真菰の左側を抜き去るフェイント!

「ッ! ……えっ!?」



「真菰でも引っ掛かるんだな、これ」

 ニヤリと笑い、右に傾いたまま最後の一刀を振り切った。

 バチンッ、と鳴るDGPの弾ける音。腕を駆けるDGPの反発と、打ったという感覚。

直後、ポイントセンサーのブザーが鳴った。

「ッ!」

「あだっ!?」

 同時に二人の選手は正面から衝突し、弾かれる。

 夏の大会で柚木が一本取ったときの再現。灯眞の反応に合わせてきた柚木とは違い、真菰の反応がどうあろうと押し通すと決めた一撃。

 一瞬の静寂、しかし直後、割れんばかりの歓声が地上から響いた。

「──ッしゃ!」

 その歓声を背ではなく足で受け、灯眞は右手を突き上げた。

 取得本数、二対一。

 SSF秋の大会、優勝は──詩島灯眞。



「──してやられたなって、さっきからずーっと思ってる」

 秋の大会が終わり、喧騒とは縁遠い白樹島の砂浜。

 今日は早く帰って休みなさい、という折月の言葉を受けて、けれど落ち着いていられずに散歩に出た砂浜。

 示し合わせたわけでもないのに堤防には真菰が居て、その隣に座り、すっかり落ちるのも早くなった夕陽を眺めていた。

「奇遇だな。俺はしてやったりって、さっきからずっと思ってるよ」

 二人顔を見合わせ、似た者同士だなと笑う。

「悔しいなぁ……。一度見た動きだったのに」

 試合が終わった直後なんか頭を抱えて目を閉じて、本当に悔しそうだった。

 かく言う灯眞も、試合直後に快哉を上げる程度には嬉しかったけど。

「次の大会まで、私はずっとこの悔しさを忘れないよ」

「次に戦うときじゃないのか?」

「灯眞君とは練習で試合するでしょ? だからだめ。次の大会まで」

「次、か。……SSFは冬と春の大会がないから、来年の夏なんだよな」

 昔はどの競技にもあった春季大会は、いつからか夏季大会と統合されて数を減らした。

「うん。……最後の大会だよ」

「最後……最後かぁ。俺、SSF始めたばっかりのはずなんだけどな」

「あはは、そうだね。でももしかしたら来年は非公式大会とか、結構開催されるかもしれないよ? 何せ今回の大会、初めて地上波のテレビ局が撮りに来てたから」

 そう。今回の秋の大会は、SSF史上初の地上波のテレビ局が取材に来ている中で行われた大会だった。

 今まで新興スカイスポーツの中では日陰者だったSSFが初めて大体的に取り上げられるということで、実はスカイスポーツ振興連盟はかなり気合を入れていたのだとか。

「私たちの試合、放送されたら話題になるかもね」

「それで人が増えてくれたらいいけど」

「増えてくれるよ、きっと。来年は新入部員とか、沢山来るかもね」

「折月先生の負担が増えそうだ」

 他人事のように言って、それから灯眞はそう言えばと言葉を続ける。

「折月先生からあんなこと言われるなんて、思ってもなかったな」

「えー? 本当に気付いてなかったの?」

 灯眞の言葉に、真菰はじとーっと半眼を向けてくる。

「いや、気付かないだろ。てっきり真菰を大会に参加させるために顧問を引き受けたんだろうって」

 試合の後、折月は「詩島君がどこまで伸びるか楽しみだったけど、まさかこんなに強くなって、二回目の大会で優勝するなんてね」と言われた。

 どうやら折月は、灯眞の才能を生かすために顧問になり、部活を存続させようとしたのだとか。

「まったく……。練成会で、客観的に自分を見ることは大事だよって言ったのに」

「ごめん」

 頬を膨らませる真菰が可愛くて、つい口元を緩めてしまう。

 とうの真菰はそんな灯眞の仕草に気がつかなかったようで、視線を日が沈みゆく水平線に向け、目を細める。

「──今度は追われる番だよ」

「ああ。分かってる」

 追われるのは初めてじゃない。気付いてなかっただけで、本当は今までのどんな競技でも追われていたのだ。

 灯眞を抜いた天才と同じように、灯眞が抜いてきたあらゆる選手から。

 だから。

「追われるのは怖くない。だから、逃げないよ」

 立ち向かおう。努力し続けよう。誰かに追い抜かれないように。まだ見ぬ先を走る誰かを、追い抜けるように。

「そっか。……なら、覚悟しててね」

 真菰は明るく、それでいてどこか挑戦的に微笑んだ。

                                    完



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剣戟の果てに手を伸ばして 結剣 @yuukenn-dice

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