第57話


 雑居ビルは取り壊された。更地になると、すぐさま新しい建物の建築が始まる。

 ミントとタイムが隠れていたあの場所とて、今はもうない。

 世界は今日も、成長を続けている。

 空を見上げた。

 青のグラデーションと、ミルフィーユのように重なり合う雲。

 どの世界にもきっと、同じように空がある。だからそこに、不思議なゲートがあっても、なんらおかしなことはない。

「今日は港で、喋ってくるよ」

 コウタは失踪者たちが経験したことを、クッキーを配りながらあちこちで語った。それは多くの場合、コウタが考えたフィクションとされた。信じてくれる人など、そうそういない。その出来事と関係ない者たちにとっては、夢物語なのだから。よくできた、空想の。

「俺は信じるぞ」

 クッキーを齧りながら、男が笑う。

 モゴモゴとしているのを見るに、歯に詰まったか何かだろう。役に立つかはさておき、ポケットに忍ばせていたブラックコーヒーを手渡した。

「おお、ありがとよ。お前さ、なんか週刊誌みたいだよな」

「週刊誌、ですか」

「毎週のように菓子持ってきてよ、ひたすらに話を繋いでいくんだからよ。そんなに語れるんなら、本の一冊や二冊、書けんじゃねぇか?」

「ぼく、文才ないですから」

「今どきは音声入力っつうもんがあるって聞いたけどな。お前、ずっと喋ってんだから、今度から録音しておけ。きっといつか、役に立つぞ」


 物理的な本になったなら――。

 いつかみんなのもとに届くだろうか。

 皆の存在はこの世界でも確かに存在するものとなるだろうか。

 自分の仕事に気づいてもらえるだろうか。

 あの世界が、みんなの人生に続きがあったなら、いつか。


 夜の闇が街を呑む。人々は、同じ方へと歩いていく。賑やかな声が世界を彩る。皆が同じ空を見た。ドーン、と内臓が震えるほどに大きな音が響き、あちらこちらから歓声が上がる。

 透明人間も、同じ空を見て、笑う。

 息を吐くように語ることができる、あの日々が輝きを増していく。

 コウタは録音ボタンを、押した。

 いつもなら、もう少し気軽に語れている気がするのに。呼吸しただけで、喉や肺がチクチク痛む。

 ドーン、パーン、と咲くたびに、背中をそっと、押された気がした。

「1・幻のタルト」

 一方通行になってもかまわない。コウタは分厚い手紙を作ることを夢見て、言葉を紡ぎ始めた。





〈了〉



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