第56話


 帰路は、静かだった。

 ヒロコはちらりちらりとコウタを見た。

 少し落ち着きを取り戻したものの、コウタの涙は止まらない。ヒロコはいつものように声をかけながら、コウタを引きずるように扉へと向かった。頭を下げ、いざ扉を開けようとした時。この日初めて会った豊洲に言われた言葉は、ヒロコの心に深く刺さった。

『お姉さん。コウタさんは何も悪くありませんから。そんなに尖った言葉をかけるのは――』

 刺さった言葉が、口を縫う。言葉を吐き出そうとするも、なんと声をかけたらいいのかわからない。いつもはなぜ、あんなに気軽に罵倒できていたのだろう。自分は、弟のことをなんだと思っていたのだろう。少なからず、コウタがこんなに心のうちを曝け出したのは、初めてのように思う。弟にも、こんなに生々しい心があったのだ。

 何気なく吐いた言葉に、傷ついたことがあるだろう。それでもこの人は、イヤイヤ感を隠さないことはあれ、反抗することはなかった。

 そんな人だから、自分は甘えていたのかもしれない。

 コイツは捌け口にしていいと考えて、自分の中のモヤモヤとしたものを好き勝手ぶつけて、勝手にスッキリしていたのかもしれない。

「コウタ、そういう髪型、したかったんだね。知らなかった」

 音声読み上げ機能を使ったかのように、感情が乗らない言葉。けれど、ヒロコなりの精一杯の言葉。

 コウタは返事をしない。ヒロコはそれに、少しチクっとした痛みを覚えた。

「ねぇ、なんかさ、聞き慣れない名前が聞こえたんだけど。あんた……コウタさ、海外の友だちとか、いたの?」

「いない」

 言葉が返ってきたことに、動揺した。

「あ、そ、そう。じゃあ、キラキラネームみたいなやつか」

「ちがう」

「ん? じゃあ、なによ」

「愛称、かな」

 ようやく、コウタの顔に笑顔が戻った。

 アシンメトリーであることを確かめるように髪の毛を触る弟を、じっと見る。

「もう、安心だね」

「ん?」

「あたし、就職したら、家出てくでしょ」

「うん」

「コウタ、うるさい姉ちゃんがいなくなって、スッキリするでしょ」

「そんなこと、ないよ」

「え?」

「前は確かに、さっさと出てってくれないかなって思ってた。でも、こうして素敵な出会いができたのは、姉ちゃんのおかげだから。ぼく、今度はあそこで髪染めてもらいたいなって思ってるんだけど。高いかな? あそこ」

「コウタが普段行ってるところの、三回分くらいはするんじゃない?」

「やば。じゃあ、バイト頑張らなくっちゃ。……ねぇ」

「ん?」

「ありがとう。三戸さんと、友だちになってくれて」

「あんた、本当に変。……わかった! ドラえもん見つけたでしょ! それで、なんか、精神と時の部屋みたいなところに連れて行ってもらってさ」

「そうかも」

「はぁ?」

「あそこは確かに、異次元の世界だった」


 三戸に頼んで染めてもらった、ミント色の髪が風に靡く。

 カラーリングの後、いつもありがとう、とプレゼントされた、黄色い髪の小さな女の子の人形を握りしめた。人形が身につけている、透き通る欠片が、キラキラと輝いて見える。これを持っていると、刻む思い出に華を添えてくれるという噂で、恋人や友人と共に持つことが最近の流行りなのだという。

 見上げた街頭ビジョンには、ちとせの姿があった。

「彼らは空に溶けて消えてしまいました。なんの前触れもなく、跡形もなく消えてしまいました。ずっと、いつかは帰ってきてくれると信じていました。でも、もう、この場所では会えないのでしょう。今はただ、消えた先、たどり着いた場所で、これからも楽しく、笑って、生き続けてくれると、信じています」

 乗員乗客、全てが認定死亡となったことは、大々的に報道された。

 この世界では死んだと認定されても、別の世界では生きている。この世界で生きていたとしても、別の世界では死んでいるとみなされているかもしれない。

 

 今、生きている場所で、生きていく。



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