第55話


「でもね、すっごく美味しかった。製菓学校に通ってるのかな? って思うくらい。あれは完全に、プロの味だった」

 そりゃあプロに仕込まれた味だから、と心の中で言う。

 緊張がほぐれればおしゃべりな唯香だが、細かなところを切るときは、口を半開きにして集中する。コウタはそんなことには気づかないまま、現在と過去を重ねていた。

 ミントに切られた時とは、感覚が違う。

 ミントの方が、慣れていた。

「あ、あの」

「ちょっと待ってくださいね、もう少しだけ……。お待たせしました。なんでしょう」

「三戸さんって、ドッペルゲンガーに会ったこと、ありますか?」

「ドッペル……それってなんのことでしたっけ?」

「自分のそっくりさん」

「ああ、世界に三人いるとかいないとかいうやつですかね? うーん。私はないかなぁ。でも、思うんです。実はもう会ってるんじゃないかって」

「おお」

「体型が変わったり、メイクを変えたりしたら、顔の印象も違くなったりするじゃないですか。だから、気づいていないだけで、駅のホームで隣に並んだことがあったり、スーパーのレジにその人がいたり、いつもの道ですれ違ってたりとか、するんじゃないかな? なぁん……てっ!」

 チャキ、と不吉な音がした。

 視界に入るわずかな唯香が、慌てている。

「どうかしました?」

「あ、あのぅ……店長呼んできます」

「え?」

 唯香が駆け去ると、コウタは、カットが始まってから頑なに見なかった鏡を見た。なぜ、あんなにも慌てたか。その答えを見たいという、欲に負けた。

 自分の頭を見て、目が痛くなった。熱を帯び、雫が垂れた。

 はや足の音が、ふたり分。

「天海さま。本日はご協力いただきありがとうございます。私、店長をしております、豊洲と申します。この度は、大変ご迷惑をおかけしまして」

「めいわく?」

「私が仕上げを担当させていただきますので、どうか」

「心を、見透かされたような気がしました」

「……はい?」

「ぼく、お任せするって言いましたけど……。でも、自分がしたいと思った髪型にしてもらえるとは、正直思ってなくて」

「あの」

「だから、嬉しくて」

 唯香はそっと、ティッシュを差しだした。コウタにはそれを受け取る余裕すらない。

 弟が友だちに迷惑をかけなかったかをチェックするためにと、待合スペースで雑誌を読みふけっていた姉が、店内が騒がしくなっていることにようやく気づいた。

 誰の許可を取るでもなく、ズカズカと歩みを進める。

 アシンメトリーな髪をして泣いている弟を、鏡の向こうに見た。

「あの、弟がご迷惑を……?」

「ああ、いや。ご迷惑をおかけしたのは、こちらの方、なのですが」

 状況を把握しきれず、豊洲も困惑の色に染まる。

「ごめん、ヒロコ。私が変に鋏を入れちゃって」

「ああ、そ、そうなの?」

「違う、変じゃない」

「コラ、コウタ! 別にこれでいいよね! ……って、あれ? 変じゃないって、どういうこと?」

「この髪型にしたかったって」

 唯香が、コウタの涙をそっと拭った。

 視線が交わると、再び涙が溢れ出す。

「え、ごめん! 涙、代わりに拭こうと思っただけ、なんだけど……ど、どうしたらいい?」

「コラ! コウタ! 泣くな! 男だろ!」

 友人の弟のカットをする、と三戸から報告を受けていた豊洲は、後からやってきた女性が姉であると察した。そして、姉のどこか威圧的な雰囲気から、兄妹の関係性を気にした。

 ――この子は、お姉さんが怖くて嬉しいと嘘をついているのではないか?

「やはり、私が仕上げを」

 豊洲がコウタの髪に手を伸ばす。

「イヤだ! ミントが切ってくれたのと、そっくりの髪型! チャービルに似合ってるって言ってもらえた髪型! ぼくは、これがいいんだ!」



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