第54話
ヒロコは待合スペースのソファに腰を下ろし、雑誌に手を伸ばした。その姿をちらりと見、コウタは唯香の後について店の奥へと進む。くるりと向けられた、大きな鏡の前にある椅子に、おそるおそる腰掛けた。この鏡も、実は扉なのではないか。手を伸ばせば、とぷん、と揺らめき、自分を違う場所に連れて行ってくれるのではないか――。そう思い、手を伸ばす。椅子に腰かけたままでは、手が届かない。
「どうなさいました?」
「あ、いや。大きな鏡だなぁって」
「普段は美容室で切らないですか?」
「そう、ですね。安いところでパパっと」
「美容室ってけっこう、こういうおっきい鏡の所、多いですよ。うちが特別ってわけじゃないと思います。よかったら、ほかの美容室にも行ってみてください。今日は『今度から美容室に行こう』って思ってもらえるように、頑張りますので」
ほんの少し、表情に余裕が出てきたように思う。鏡を見ればそこにいるからと、ついつい見つめてしまうが、見つめれば見つめるほどに、心が荒波立った。
「改めまして、ご挨拶から失礼します。天海さま。本日は、私、三戸唯香が担当させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。はじめに、ご要望をお聞かせいただければと思うのですが」
「よろしくお願いします。えっと、何でもいいです。っていうか、その……良かったら唯香さん、あ、いや、三戸さんが思う、ぼくに似合う髪型にしていただくことって、可能ですか? 無理にとは言いません。でも、どんな髪型になっても、文句を言いませんので。たとえそれが丸坊主でも」
鏡に映る、瞳が揺れた。
「それはそれで、ちょっと困っちゃうなぁ。でも……って、ごめんなさい。友だちの弟さんだからって、口調が砕けすぎですね。失礼しました」
「気にしないでください。友だちと話すみたいに、気軽に話してもらえたら嬉しいです。それじゃあ、その、トレーニングにならない、ですかね?」
「どうでしょうか。でも、きっと、すこし砕けた話し方をされたほうが気が楽って方もいらっしゃると思うんです。だから、お客様の心地いい形でできたら、それが一番かなって。では、今日は少し、肩の力を抜いて。カットとお話、させていただきますね」
「楽しみにしてます。あんまり、途中経過は見ないようにするので。どうしても判断に迷った時は、声かけてください」
髪に触れる、手が止まった。
「見ないんですか? 雑誌など、お持ちした方が?」
「いや、話し相手になってもらえるのなら、話していたいです」
「鏡大きくて、視線のやり場に困りません?」
「自分の手を見るか、目を瞑っておきます」
「そ、そうですか。判断に迷った時……うーん、大丈夫かなぁ」
不安げな呟き。
「本当に、どうなっても文句言いませんから」
「が、頑張ります!」
チャキ、チャキとハサミの音がする。
時々、思い出したように唯香に他愛ない話を振られた。
何かハマっていることとか、ありますか?
漫画、読みますか? どんな漫画を、読んでいるんですか?
休みの日はどんなことをして過ごしてるんですか?
唯香からの声掛けは、コウタのプライベートに切り込むものばかりだ。なんとなく、お見合いか何かに来たような錯覚をしそうになる。
「……ちなみに、三戸さんが好きな食べ物は何ですか?」
唯香は、自分は聞く側であり、聞かれる側ではないと思い込んでいた。ハンドルを握り、アクセルを踏むのは自分であると、思い込んでいた。
不意に飛んできた問いに困惑し、手が止まる。仕事そっちのけで考えて、ようやく声になった答えは、
「タルト、ですかね? お姉さま、って言うと変な感じがするので、ヒロコさん、くらいの表現にさせてもらってもいいですか?」
「ああ、もう、ヒロコでいいですよ」
「かしこまりました。ヒロコから話を聞いたんですけど、天海さま……コウタさんって、以前、超人気タルトを偶然ゲットしたことがあるそうですね。私、そのタルトが、めちゃくちゃ好きなんです。っていっても、これまでに食べたのは二回だけなんですけど。もう、すっごく記憶に刻み込まれてて。あれがもし、コンビニで売ってて、いつでも食べられるものだったとしたら。たぶん、飽きるまで食べてます。うーん、でも、もしコンビニで売ってたら、そこまで好きにならなかったかも、って思ったりもするんですけどね」
「希少性、ですかね?」
「そう。そんな感じ。滅多に食べられないすごいタルト補正がかかってて、おいしいにこう、なんていうのかな」
「バフ、ですかね?」
「バフ?」
「あ、えっと、その、能力強化、みたいな意味です」
「ああ、そうそう! そんな感じ」
唯香の緊張がほぐれてきたようだ。ハサミを扱う手に、リズムが生まれてきた。
「それで、そう! 最近、『そこのタルトの台みたいなクッキー焼けるよ』って言ってる人がいるよ、って聞いてね。紹介してもらってさ。自己紹介もそこそこに、図々しくも食べたい食べたい! っておねだりしたの。そうしたら、本当に焼いて来てくれて。正直、クリームとかフルーツとかがないからなのか、似ているのかそうじゃないのか、よくわからなかったんだけどさ。あ、これはヒロコには内緒ね。ほら、ヒロコって、否定されるのあんまり得意じゃないっていうか」
全面同意だ。鏡から目を逸らしたまま、クスっと笑う。
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