おもちゃやぐらし! 前話
『あれ』の声が外でひしめいているというのに、人間というものは疲れ切ってしまうと後は野となれ山となれで眠りに落ちてしまう。
こちらもその例に漏れず、ぬいぐるみの黒い鼻を見ていると、いつの間か目の前が真っ暗になった。
普段起こしてくれる月見山からもなんの反応もなかったので彼女も寝てしまったのだろう。
そうして、薄っすらとした光が瞼に当たり、ようやく目を覚ます。鹿がいた――。
昨日と同じく大きな仰け反りをしそうになったが後ろに月見里がいるので踏ん張った。目の前にあったのは普通の鹿のぬいぐるみだったようである。
ツノだけ見て判断するとは、まさに木を見て森を見ない所業だけれども、寝起きに森は見れない(そもそも角もリアルチックではない)。
そんな学びと驚きを与えてくれたのは他ならぬ東台である。既視感のある光景に、サメのぬいぐるみで驚かされたことを思い出した。
しかし、仕掛け人であった月見里は今のこちらと同じようにジト目で鹿のぬいぐるみを見ている。
「フフ、どう?やっぱり可愛いでしょ?」
「ううん、全然」
「ありゃあ、やっぱり唯ちゃんは手厳しいなぁ」
驚かされたことに不服なのか月見里はかなりむくれているようだった。
しかし、睨みつける先は東台ではなく鹿のぬいぐるみの方で、ゆるキャラみたいなデザインのぬいぐるみはお気に召さないらしい。
「ほらぁ、この鹿くんもさみしそうにしてるよ?」
「む、むぐぅ……顔に押し付けないで!」
朝っぱらからなかなかに濃い内容を食らわされたが、東台と共に旅をしてからというもののそれが当たり前のようになっているような気がする。
人間、何にでも慣れるもので、実際こういった掛け合いがないと寂しいと感じるぐらいには病み付きになってしまったらしい。
ならば、こちらが向けられるものは温かめな目しかない。しかし、取り巻く空気は依然冷たい。
よくよく時計を見ると早朝の6時を指している。健康的な生活も身につけられたようであった。
そして、小休止。
東台が月見里の頭を撫でることに満足して、手を叩く。
「そうだった。朝ごはんできたよ。食べよっか」
東台はそう言って、満足げな顔を浮かべて2階へと上がっていった。台風と東台はこちらの勝手を知らずに過ぎ去っていくものだ。
しかし、こちらも月見里もそれに呆気を取られることなく、呆れた顔を浮かべているのだから慣れたものである。
「月見里、眠れたか?」
「……眠たくはないと思う」
お互い気絶したかのように眠ったので、まだ朝だというのに不思議と頭が冴えている。寝不足を心配することはないが、代わりに腰とか肩のあたりがやけに重たくて関節を動かすたび少し痛い。
月見里もこちらの後に続いて柔軟体操をしたりして自分の快調ぶりをアピールしているようが、首のあたりを気にしているようで何度も何度も首を回して不快そうな顔を浮かべていた。
いつもなら体の悲鳴を柔軟な関節技で黙らせて、さっさと出発するところなのだが――次の一歩は踏めない。
せめて、体だけは慣らしておこうとこちらも続いて、少しの間柔軟体操の時間が流れ無言になった。
止めどなく、外からは『あれ』の声が聞こえてくる。
それでも、こちらを見つけているような様子もなく、昨日のような声色のままで奇妙に思えてしまう。外にいる『あれ』はただ単に音を聞きつけて寄ってきた個体なのだろうか。
それとなく視線を外に向けた。即席とは言えど、外から見えないようにバリケードを施したので外の様子はわからない。
ただ、壁に張り付いているぬいぐるみを見ていると、なんだか今の状況とはアンバランスに思えて酷く混乱する。今、自分は一体どんな顔を浮かべているのだろうか。
そんなことを思っていると、月見里と目が合い、お互い目をそらして外の方を見た。
そこだけはいつもと同じ光景で、しっくりくるものがあったが空虚。
「東台を待たせるのも悪いな……そろそろ行くか」
「うん」
顔の強張ったものを戻しつつ、上へと上がると、鍋で何かをゆでている東台が「お帰り、二度寝しちゃってた?」と暢気そうな声で自分たちを迎え入れてくれた。
なんともおいしそうなにおいが漂っている。少々油のこげる香ばしいような匂いがあるが、これこそが世に聞くフレンチトーストなるものか。
調理器具はともかく、それを作る材料はもう調達出来ないだろうし、朝っぱらからそんな重いものを食べられるほどお腹と舌は強くない。
しかし、匂いが鼻腔いっぱいに広がるとそんなことどうでもよくなって、不思議と口内に涎がたまっていた。
「何作ってるんだ?」
「ん、それは見てからのお楽しみ」
そう言って、こちらから見えないぐらいに鍋蓋を上げて、お玉をかき回す東台。ある程度下で時間を使っていたが、結構手間のかかる料理なのだろうか。臭いだけが空っぽの胃袋に入ってきてもどかしいが、手間と金がかかる料理は上手いと相場は決まっているのでここは我慢の一手である。
しかし、鍋蓋から戻ってきた東台の表情を見るとどこか満足気であった。
「そろそろかな。お椀貰うね」
そして、東台に促されて真っ先に出したのは月見里で、彼女のお椀に出されたものは豚汁か味噌汁ともつかない何かの汁系である。
「なにこれ?」
「ふふーん、食べてからのお楽しみ」
なんとも名状しがたい顔。茶色い汁に浮かんだものに何者かと眺めている月見里だが、東台は難易度をあげるのみ。
その返しに月見里ほど訝しんだ顔をしていないと思うが、汁の中に白と茶色のふやけたお米か麩のようなものが敷き詰められていて、よくわからない。
その中で溺れているように(鰯缶の)鰯の身があってどんな味をしているのだろうかと睨みつけてみる。
やっぱり、美味しそうなだけで、何かよくわからない。
「いただきます!」
興味深いとも珍妙ともいえるビジュアルに箸をつけたのは、子供特有の冒険心を持った月見里だった。
なんだか毒見させているようで月見里に申し訳ないと思ったが、彼女の顔が嬉々としたものになったので取り越し苦労であったようだ。
自分も重役出勤よろしくの口運びで料理に手をつけてみると、濃厚な旨味がこれでもかと口内にダイレクトアタック。
麩の正体はクッキーだったようである。見た目がふやけているように見えたが、いざ食べてみるとサクサクとした食感が口を楽しませてくれる。
クッキーも甘いものかと思えば意外と塩気のつよい物。それが鰯の脂と絡んでしまえば、ファストフード店の包装紙で包まれたあの大衆的な味わいを持たせていた。
ならば、ス〇ム缶に慣れ親しんだ自分の口は、足軽のごとく早くなってしまった。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした」
名残惜しい思いも覚える前に、すっかり皿は空になってしまった。
なんて美味なのだろう。脂っこいと思っていたはずなのに、あのクッキーの塩味と脂の甘みのハーモニーの前ではどうでもよくなってしまう。
よきにはからえとばかりにお腹を撫でつけて、余韻を楽しんだ。そういえば、あのクッキーはどこから持ってきたものだろう。
「はい、口直しね」
そんなことを考える間に、東台がこちらと彼女自身の皿に一つづつ氷砂糖を入れた。
月見里にはちょうど乾パンに入っていた氷砂糖と同じ数になっていたので、食べずに取っておいてくれたものだろうか。
「フゥノ、フゥフー、フゥフゥフゥウフゥン?」
このクッキーの正体にあれこれと考えている間に、月見里は口に含んでいるのも忘れてこちらと同じ疑問を興奮を加えて東台に訴える。
それでも、口内を見せないのは月見里の育ちの良いところであり、悪いところである。
「OK。じゃあ、答え合わせといきましょうか」
東台はそういうと、勿体ぶるように恐る恐る後ろで何かを探る。
かなり勿体ぶってなかなか出てこないことにまだかまだかと注視していると、別方向から東台の手が飛んだ。
そして、東台の指さす方向にあったのは、先ほど月見里に差し出した何の変哲もない金平糖もクソもない乾パンの缶詰。
「――か、乾パン?」
いや、あり得ない。嘘だろ。
あんな砂漠の砂を煮詰めて固めてできたようなやつが、飯になるわけがないだろう。
そんな思いが浮かぶ。月見里も動かしていた口さえ止めて、目を丸くすることに注力しているようだ。
しかし、東台は自信ありげな顔を緩めない。むしろ、ますますしてやったりとその表情を強めているきらいさえある。
「その通り。題して乾パン粥です! 」
「フゥフゥン?」
「うん、そうだよ。お粥。昔の軍人さんが作ってたんだって」
米を使った料理の名前が乾パンに名付けられていることに何だか奇妙な感じがしたが、軍人と聞いてどこか合点がいった。
彼らはそこらへんにいるヘビとかカエルとかを捕まえたりして食料を現地調達すると聞いたことがあるので、きっと毎日相当ひもじい思いをしているのだ。
ならば、限りあるまともな食糧の中で美味いものを作ろうと切磋琢磨しているのは道理で、乾パンとかいう乾燥剤を固めて作ったような食材でも美味しく食べるようにできるのもまさに道理というもの。
そんなことを考えていると、目の前にあるそれが精進料理のようにも見えてくる、米がないのにこれほど美味しいものを作れるのだから凄いとしか言いようがなかった。
「はぁー、昔の人はこんな旨いものを作ってたのか」
「うん、ちょっと私の方でアレンジしちゃったけどね」
東台はそう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべる。アレンジというとおそらく鰯缶を入れたことだろうと思うが、たったそれだけで印象はおろか味までがらりと変わってしまうとは舌を巻くしかない。
どれぐらいの手間がかかっているのかはわからないが、いつも罰ゲームみたいに食べていたものがすっかりきれいに平らげてしまったのをみると料理というのはまさに魔法のようだった。
「これどうやって作ったんだ?」
「ん?えーとね――まずは乾パンを砕いて」
東台は少しの間天井を見上げておそらくレシピのことを言っているのだが、小さじ大さじとかいう魔法の言葉が使われることなく説明してくれるので、猶更わかりやすくてありがたい。
レシピを言い切ると、「あっ、そうだった」と何かを思い出し、自分の荷物からメモ帳を取り出しこちらに開いて見せてくれた。中身を見てみると、どうやら先ほど教えてくれたレシピのようである。
改めて文書で見ると若干面倒くさそうにも思えるが、その即席的な作り方と彼女の丸っこい文字と可愛らしいイラストも手伝って、なんだか自分でもできそうな気がする。
「ゆいちゃんも気になる?」
「……フゥンフン」
いつの間にか月見里も隣にいて、同じようにメモをのぞき込んでいた。東台の投げかけにぶっきらぼうに答える彼女だが、おそらく「ちょっと」と肯定していることの照れ隠しなのだろう。
彼女も料理に興味があったのかと関心するが、それよりも物を食べながら人が見ているのをのぞき込むという行儀の悪さに少しばかり目が行ってしまう。
2人の時は多少礼儀を崩しているところはあるが、他の人がいるときにここまでフランクになることは滅多にない。彼女も知ってか知らないか東台に相当気を許しているのだろう。
「じゃあ、私は頭の中に入ってるから、これあげる」
月見里に気が向いていると、東台からそう言われて手渡された。突然のことに対応できず、そのまま「ありがとう」と言ってそのまま受け取る。
ほかにどんなことを書いているのだろうと気になってはいたので、そのままパラパラとめくっているとかなりの量のレシピがびっしりと書かれていた。
「こんなによく書いたな」
「まぁね。新鮮な野菜っていうと殆どサツマイモぐらいしかないから、たまにもらえる缶詰とかレトルト使ってひと手間加えたり、それだけで料理作ったりしてたらいろいろ溜まっちゃってね」
彼女の話を聞くと確かに基本サツマイモ中心のレシピだが、缶詰とかの組み合わせだけのレシピも少なくない。彼女も自分の舌を満足させるのに相当苦労したことだろう。
しかし、そう考えると、彼女の努力にタダ乗りしているようで気が引ける。
「本当にもらっていいのか?」
「うん、もう使わないと思うしね」
その言葉に全部のページに書いているのかとめくってみるが、まだまだ書く余裕があるように思える。
まだ使えるぞとツッコもうとしたが、どこかいつものような笑みを浮かべているというのに、声色からは物憂げな雰囲気が孕んでいるような気がして言葉がつっかえた。
そもそも、その前に東台がパンとごちそうさまでしたと手を叩き話題を切り替えたのでどちらにしろこちらの行動に意味はなかっただろう。
ならば、こちらも東台と同じく、いまだリスのままの月見里を焦らせないようにゆっくりと自分の皿を片すのみであった。
そうして、黙々と片付けいると、乾パン粥の温かな匂いもなくなり、また『あれ』の声が聞こえてきた。
2階だから薄っすらだけれど、昨日よりも一層声の密度が厚くなっているのは分かった。
おそらく、『あれ』はあきらめていない。
だが、久しぶりに美味しい料理にありつけたせいか、不思議と前向きな気持ちが自分にあった。できることはなくとも今日も今日とて警戒は必要。
勢いが冷めないうちに立ち上がると、月見里が後を追うように立ち上がろうとしたのでその場で止めた。
「月見里、今日は上でゆっくりしてろ。俺は下で様子を確かめるだけだ」
そういうが、当の月見里は少しばかり頭を俯かせただけで、あまり納得しているような素振りはない。
「また下に降りてるから。何かあったら呼んでくれ」
「オッケィ」
しかし、こちらはそれを横目にして、グッドサインで東台にお見送られながら重い階段を降りた。
2階より1階の方が、『あれ』が入ってくる可能性は高い。そう思うと、降りた先に見える空間は朝だというのに余計暗闇を膨張させているように見えた。
誰かが一階にいれば、すぐに気づけるだろう。それで助かるかどうかは別だけれども、金平糖の一粒や二粒程度食べられる余裕はできる――。
そんな理由が頭から出てくるが、結局、一人でいたいだけなのだ。
東台もいるからまだ大丈夫だと思うが、昨日と同じように月見里に来られてしまったら、こちらの重圧で部屋が押しつぶされてしまうだろう。否、それほどではないが、やはり今は冷却期間。距離はある程度置いていた方がいい。
しかし、そう考えてみても、やはり自分の中で腑に落ちず。彼女を置いて階段を下りても後ろ髪をひかれ、彼女と話をしても後ろ髪をひかれる。
矛盾するような感情。きっと両端から後ろ髪を引かれているのだ。
「――――――」
外から『あれ』の声がラジオのように流れてくる。やはり、一階の方がその声は明瞭に聞こえる。
この店の窓にぶつかる音も決して多くはないが少なくもない。
彼らは何を考えているかはわからないが、昨日よりも増えていることが改めて分からされた。
しかし、どうしてか、自分の足は震えていなかった。どうにも凶暴性が孕んでいるようには思えない。
その声はモールで噛みつかれた時の獰猛で貪欲な声と表現するよりも、いつもと同じく意味不明な日課を行っているときの乾いた声のような気がする。
「もしかしたら――」
こちらの血に集っていた『あれ』が思い起こされた。
もしかしたら、今いる『あれ』はモールにいた個体ではないのだろうか。だとするなら、今いるのは地下鉄にいた『あれ』と考えるのが順当ともいえる。
不幸中の幸いか、その個体群には姿は見られていない、はずだ。
だが、モールの『あれ』はどうだろうか。
もしあの血の匂いが消えてしまったら、そのあとはどうなるのだろうか。
前にも一度見つかったことがある。その時は一週間、一か月、一年経っても諦められることなく結局そのエリアを放棄したことがあった。
そのエリアは結構物資が豊富でそれを全部腐らせてしまうのかとかなり後悔したことを覚えているが、あの時はまだ逃げ道があった分幸運だったのだと気づかされる。
今は一軒家に缶詰。モールの『あれ』も爆発の音を耳にしているだろう。
それでも外の様子があまり変わらなのは、血の匂いに気を取られているだけで、それが無くなればこちらへとやってくると考えた方が、正直、自然だ。
ならば、どれくらい持ってくれるだろう。
血は固まるがそれでも匂い自体は多少留まってくれるだろうか。それでも、一週間はもつとは思えない。せいぜい、4日か5日。下手をすれば3日――。
「クソ、詰んでるな」
そんな言葉がふいに零れ落ちる。
しかし、そこに怒りも焦燥感もなく、あるのは冷静ともいうべき諦観の声色。人は本当に状況が緊迫しているときには、まるで自覚する余裕を持てないらしい。
砂時計が落ちているのはわかるが、それが後どれくらいで無くなるのか分からない。そんな感じなのだろうか。
それにしても、ゴールがこんなこじんまりとしたぬいぐるみ店になるとは、メルヘンチックなものである。
かの人は自分が死ぬ前に、宴会を開いて食事を楽しんだという。ならば、自分たちも敷き詰めたぬいぐるみを机に並べ立て、今あるものすべて食らい尽くした方が後腐れがないだろうと思う。
ただ、そう考えた途端、月見里から差し出されたキラキラの金平糖を思い出して酷く気が引けた。それに――。
「誰がこれを引くんだよ」
おもむろに銃を取り出した。もしその時になれば、自分は迷いもなく彼女2人に臭い鉛玉をぶち込まないといけない。
「――にしては、やけに軽いな」
こういう場合、命の重み分、重量感を感じるものだが、どこかいつもよりも軽い気がした。
その矛盾に違和感を覚えて、弾倉を取り外してみるとミチミチに詰まっていた弾丸が今はもう一つしか入っていなかった。
「そうか。そういえば、忘れてたな」
自分が撃ったことを覚えているが、確かに弾を込めた覚えがない。
これでは月見里しか撃てないなと乾いた笑みが浮かぶが、その時のことを考えてしまうとやはり身が縮みあがってしまう。
こちらはそれを紛らわせるように、弾をこめた。最大装填数は8発。なんだか心もとない気がするが、アメリカンサイズなピストル弾だとご納得な印象である。
一発でも『あれ』にあてれば、下手に打ちどころが悪くても吹っ飛びはしてくれるので大は小を兼ねるに違いない。
ならば、人間離れしてない人間はたった一発で済ませられるはずである。しかし、どうしてか、俺は弾を全部込めていた――。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ!やーくも!」
押しつぶされるような感情の中、ドタドタと溌溂と階段を駆け下りる音が聞こえ、自分が銃を落とさぬうちにホルスターにしまえこめば、今あるぬいぐるみよりもはるかに満面とした笑みを見せる東台がいた。
「――――!」
瞬間、音がした。どこからかガラスを壊されたような音が聞こえた。
否、それは勘違いだ。どこかの窓ではなく自分の頭の中で聞こえただけだ。充満していた重苦しいものが無理やり放出されたようなそんな感覚を覚えてしまう。
彼女といると磁石を近づけられたコンパスのごとく、自分の気分であるとか雰囲気であるとかまるごと狂わされる。
そして、そんなイレギュラーな彼女が次に出る言葉もきっと似たようなものなのだろう。
「どうした?」
こちらがそう聞くと、東台が何故だか乾パン粥の種明かしの時のように手を背中でかくしてもじもじとしだした。
また何か出してくるのかと身構えようとした瞬間に、目の前に彼女の隠しごとが晒される。
「みんなでトランプやらない?」
「いや――俺は……」
そうこちらに聞いてくるが、こちらの面前にあったトランプが既にこちらの手もとに握らされて、NOという言葉は潰れてしまったようである。
それでも、一階で見張らなければならないという理由も頭に浮かんだが、無意味なことを意味ある事のように喋れるほど器用ではなかった。
「いや、いい。わかった。俺も混ざるよ」
「本当?やったぁ。じゃあ、行こっか」
そういって、東台はおもちゃ屋で跳ね回る子供のような笑顔でこちらについてくるように促してくる。断る理由もないので、とりあえず彼女についていった。
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