箱庭の人生ゲーム


 「いやぁ、長い事おしっこ我慢してたから、出し切るのに結構時間かかっちゃったよ。アハハハ」


 空気を取り払った東台は落語家のごとく慌ただしく部屋の中に入って開口一番、下ネタ発言。

 そこには苦笑いを浮かべ後頭部に手を置いている東台がいるので、おそらくそういう発言ではないのだろう。


 だが、おしっこという単語に、思わず東台の股のところを見てしまって、目に焼き付かぬうちに視線を逸らすが強烈な罪悪感に追い打ちをかけられる。

 

 「これ皆でやらない?」


 罪悪感冷めぬうちに、東台が机に箱のようなものを置いた音がした。


 音の正体を見てみると、文字通り箱。ルーレットと一般家庭のイラストに何の関連性があるのか分からないが、「人生ゲーム」とポップな文字で書かれていた。

 

 「じ、人生ゲーム?」


 月見里も自分と同じ考えを持ったのかは分からないが、神妙な顔をしてそれを覗き込んでいた。


 「うん、そーだよ。人生ゲーム。ほら、やったことない?みんなでルーレット回して出た目分、このボードを進んで、マスに書いてあるごとにいろんなイベントがあるんだけど、そういうのをこなしていって、最終的にたくさんお金を稼いだ人が勝ち」


 箱を開いて人生ゲームのボードやらルーレットを出して説明する東台。ゴールに先についた方が勝ちだと思っていたが、手に入れたお金の総数で決まるのかと一人感心する。


 月見里も興味を持ったのか彼女の言葉にふぅーんと頷きながら、人生ゲームのボードを眺めていた。

 

 「これ持ってきたのか?」


 「ううん、下で見つけたの。なんだか、懐かしかったし、皆でやろうと思って」


 東台みたいな美人でも、こういうボードゲームをやっていたとは驚きである。


 自分の乏しい想像力を総動員してみても、休み時間中にスマホいじりながら友達とダベって、放課後はタピオカミルクティーとか映えとかいうのを写真に収めてSNSにあげる以外の事しか思い浮かばない。


 もしかしたら、人生ゲームもその映えというものに含まれるのだろうか。陽キャJKの趣向には到底追いつけず。


 「えーと、車は……あったあった。どの車がいい?」

 

 東台はそう言うと、箱をどけてミニチュアの車を机の中央へと転がした。積み木のような分かりやすいファンキーな色遣いに、対象年齢ギリギリ圏外の月見里が興味深そうに覗き込む。

 

 「じゃあ、私はこれにする」


 そう言って、月見里は赤い車を選んだ。いや、月見里が選んだのだからイチゴ色だろう。

 東台は黄色。ヒマワリみたいな笑顔を日頃浮かべている彼女にはとても合っていると思う。どちらが勝つかは分からないが、なんとも楽しみな一戦である。

 

 いつ始まるのかと待っていると、2人神妙そうな顔つきでこちらを見てきた。

 

 もしかして、 自分も人生ゲームをやる流れになっていないだろうか。


 「俺もやった方が良いか?」


 「うん。パーティゲームだからね。皆と一緒にやれたら嬉しいな」


 そう言って、純真無垢な笑みを向ける東台。


 何と答えたらいいのか困り沈黙が生まれると、外から『あれ』の呻き声が聞こえてくる。

 やれることは全部やったのだ。下に居ようが上に居ようがどこにいようが、『あれ』の前では関係ない。


 正直、人生ゲームはやるような相手もいなかったので、ルールも触り程度しか知らない初心者である。でも、それは月見里も同じだ。

 そう思っていても、あのクラスメイトの雑踏の中にいた自分を思い出して、どうしてもそれに手を伸ばすわけにはいかなかった。


 でも、混ざろうとしたあの時のように、月見里も東台もこちらに何か嫌悪を浮かべているわけではなく、むしろ未だに車を選ぼうとしないこちらを不思議そうな不安そうな顔を浮かべて見ている――。


 まあ、パーティーゲームなのだから、2人でするには物足りないだろう。

 

 「……じゃあ、俺はこれにする」


 こちらは青い車を掴んだ。なんだか、男子トイレのマークを連想させてしまうが、この色が一番しっくりくる。


 「ん、じゃあ、順番決めよっか。はい、じゃんけーん」


 一息つく前に出されたじゃんけんに慌てて月見里と共に出すと、東台がパーで月見里とこちらが2人揃ってグー。

 

 そして、月見里とでじゃんけんをすると――こちらの順番は一番最後になった。

 

 「じゃあ、回しまーす」


 そうして、ラスベガスのカジノのごとく、ルーレットが回される。オッズは人生。結果は9。最大は10なので初っ端から良い目を出したみたいだ。

 

 「なになに?幼稚園でよく眠れた。2マス進む。やったね!」


 そして、11マス進むと、親から小遣いもらったとというマスを踏んで3000円ぐらい貰っていた。かなり金持ちの親御さんだ。


 そういえば、月見里と初めて会った時に着ていた服も中々良いものだった気がする。高級子供服なんてものがあるのかどうか分からないが、いい所のお嬢さんだったことが窺えた。

 きっと、彼女なら3000円ではなく、5千円か、いや、一万円ぐらいは貰えていたはずだろう。未来の成功者である。

 

 しかし、今の月見里は、どこか悔しそうな顔をしている。


 「次、私!」


 「ありゃー、自転車でこけて骨折」


 「もー!車に乗ってるんだから、それ運転すればいいじゃん」


 「まぁまぁ、小学生じゃ車運転できないから」


 そう謎のフォローを決められて、若干乱暴にルーレットを回す月見里だが、残念ながら東台が出した半分にも満たない。

 そして、踏んだところが足を骨折した一回休む。初っ端から一回休むとは骨が折れそうだ。


 なんとも不機嫌そうに頬を膨らませる月見里を横目に、ルーレットを普通に回してみると進んだ先は転んだ拍子に素手で犬の糞を踏んだ2回休み――。出だしから踏んだり蹴ったりの糞ッタレな人生である。



 そうして、それぞれの人生が終了。


 東台は常に一番最初にゴールに着いた。レースならその時点で勝ちなのだが、人生ゲームはそれだけでは勝ちではなく、彼女は類まれなる幸運で大量の札束と土地を手に掴み圧勝状態である。

 結婚式に缶をつけた車を走らせると言うのを聞いた事があるが、彼女が乗りつけるのは金塊を引きずった金メッキブガ〇ティだ。


 そして、2番手はもちろん――月見里。後ろにホルダーとつければ、かなり今の状況に近い。

 しかし、それをつけてしまえば、月見里は頬を膨らせながら、歯軋りするしかないだろう。それぐらい悔しい思いをしているようだった。


 月見里は一流大学へと進学して優秀な成績をおさめバリキャリウーマンとなり、持てる金で株券やら保険証券やら金持ちの三種の神器を使って対抗しようとするが、だいたいは金融危機もびっくりの大暴落を起こして負けてしまう事が多かった。

 しかし、それが全て上手くいったときは東台に勝っているので決して悪い手ではないのだが、それを仕掛ける相手がラッキーガールの東台ではあまりにも分が悪すぎた。


 それでも、彼女は諦めることなく勝つたびに、子供らしい生意気な笑顔で勝利の美酒、もとい、勝利の美ジュースに酔いしれているので彼女もなんだかんだ楽しめているようだった。

 

 傍から見ているこちらにとっても、東台と月見里の争いは、昔見たアメリカのレースアニメを彷彿とさせてなんだか微笑ましい。

 しかし、そうなると、月見里は差し詰めあのニヒヒとカートゥーン臭い笑みを浮かべる稲妻髭のおじさんになってしまうがそこはご愛嬌だ。

 

 そして、永遠の3番手を飾るのは他でもないこちらであった。骨折したり轢き逃げ事故にあったり、いろいろな理由をつけられて何回も休まされた。

 そういったことがあったせいで、ゴールの順番さえ常に最後。よく人生は太く短くより細く長い方がいいと聞くが、こちらの場合はかなり細くなってしまったのだろう、その中身も凄惨なものである。


 高校で成績振るわず、Fラン大学に行ったはいいものの、ブラック企業で働かされて鬱病となり3回休みで治療費もかなり取られた。

 結婚詐欺でお金を騙し取られたり、派遣労働者という名で社会に復帰をしたはいいものの新型のウイルスが流行ったことにより仕事が減って最後はネカフェ暮らしでゴール。おそらく、リアルではそのままひっそりと孤独死しているのではないだろうか。


 自分に操作されたゆえに不幸な人生を歩まされた車クンだが、学生時代に一度もいじめを受けることなく、喧嘩できるほどの友達がいるので自分よりまだいい人生を送れているのではないだろうか。


 それに途中から月見里や東台に同情されて、結婚マスとか大学マスとかいうルーレットの目によって結果が変わる系のところは、「いい目のところにしよっか」とかなり優しい声で言われたのでマシにはなった。まさにネコと和解せよ。


 「ふぅー、いやぁ、楽しかったぁ」

 

 背伸びをして、バタンと畳に身を投げ出す東台。電源を切ったかのように眠りに落ちた。

 それは同じく畳に散らかるおもちゃのズウォティ札とミニチュアサイズの億ションのようなだらしない印象を持ってしまうが、その中にどこか淡く退廃的なものが見えてくるような気がしてならなかった。

 そんな文豪のなりそこないみたいな感受性を抱いたはいいものの、やはり東台のもっともたるところが形のいい丘になってしまったので、やましさを覚えて目を逸らす。


 その先に見えるものはオレンジ色の光。もうそんな時間かと浦島太郎な気分になるが、その光に混じって微かに『あれ』の声が入り込んできて白髪の老人になった彼のごとく現実を薄々と思い出した。


 月見里も既に疲れてしまったのか、座布団を枕代わりにして健やかな寝顔をこちらに晒している。彼女に照らされた光はランタンのものか夕陽のものかどちらか分からない。


 誰もかれも人生ゲームをとっちらけにして後は野となれ山となれ。だらしない事この上ないが、鬱陶しい気はせずどこか爽快な気分だ。

 こちらも2人と同じく、ぼうっとしていると窓の一筋からもれる光がオレンジから淡い黄色に変わっていた。

 また暗闇が来る。そろそろ人生ゲームを片づける時間だろう。終われば、彼女たちを起こして飯でも食べよう。


 そうして、とっちらけになった人生に終活を迎えさせる。単純作業は好きな方だが几帳面でもないので、とりあえず元あった場所に押し込めて箱を閉じた。

 少しこんもりとしているのは、おそらく差しっぱなしにしてた東台の億ションが自己主張しているのだろう。

 

 「もしまだまともだったなら……」


 口を噤んだ。こんなことを考えても仕方がないことだ。


 時計のアラームを日没の時間にセットして、茫然と外の光を眺めた。


 ※ ※ ※


 時計は静かにアラームを鳴らした。しかし、こちらが起こそうとする前に、月見里がその音を聞きつけて目を覚ましたようである。


 東台も起きてきた月見里に体を揺すられて、どうにかこうにか起きたようだ。

 揺すられたという言葉の中に、体をドラムのように叩いてみたり、両頬を挟んで押しつぶしてみたりするが、それでも起きず、結局鼻と口を塞ぐという強硬策が含まれていたらだが。


 そんなこんなで人生ゲームを隅にやり、夕食を食べることになった。料理器具もとりあえず取り出してみたが、あまり料理する気にはなれない。

 

 それじゃあ、素材の味を楽しむかとくじ引きを引くように荷物から缶詰を取り出してみると、乾パン。

 ある意味思い入れ深いものである。今だけはその姿を見たくなかった。

 

 乾パン以外にないかと荷物に突っ込んでみると、他にも乾パンの缶詰とは違う感触はあるのでいくらかはありそうである。しかし、食糧はどれくらい残されているのだろうか。


 「そろそろ飯食うぞ。缶詰を出してくれ」

 

 「お、OKィ」


 東台は寝ぼけているのか、なんとものんびりとした声色で返事。


 起きてしばらくの月見里は健在をアピールするかのように、きびきびと荷物の中から缶詰を取り出しているようである。


 こちらはそれを横目に料理器具を一旦隅へと追いやり、缶詰を机の上にばら撒いた。

 その隅に、自分の缶詰を置き。東台がばら撒かれた缶詰を立たせつつ、自分の物を置いていった。


 そうすると、ちゃぶ台一つ埋め尽くす――ほどはないが、それでも8割がたは埋め尽くされるほどの量はあるようである。

 

 「八雲?どうしたの?」


 「……」


 東台に心配そうに何か言われたが、今は決して答えられそうになかった。

 朝昼晩食べても3日ぐらいは持ちそうではある。だが、今自分が缶詰の山を見ている表情はきっと暗い物だろう。


 今の状況言い表すのなら、猛吹雪の中知らない山の穴倉に取り残された遭難者のようなものか。

 『あれ』に取り囲まれ、脱出の道は閉ざされ、川までの距離がそこそこあり、街外までの距離は長く、バイクがあるところは遠すぎる。

 

 これ幸いと、この家の中に入ってこようとする『あれ』がいないのが、不幸中の幸い。

 このままこの家に籠っていたら、いつかは諦めて去ってくれる可能性もある。そうでなくても、この包囲が若干でも緩まってくれるかもしれない。


 それでは、いつまで籠れるかというと、バイクに行くまでのカロリー分を除くとして朝晩食べると3日ぐらいだろうか。


 一日一食であれば、一週間持つかもしれないがそうしてしまうと体が弱ってしまう。体が弱れば、頭の回りも悪くなるし、反射神経だとか運動機能も著しく落ちてしまうだろう。『あれ』から逃げるぐらいの体力は絶対残しておきたい。


 でも、そう考えると、たった3日しかないわけで、再び八方塞がりだと言う事を自覚されられた。

 せめて食料供給できればと思うが、ぬいぐるみ店にそんなものがあるわけもない。民家と併設なので台所もあったが目ぼしいものもなく、冷蔵庫もあったが推して知るべし。


 2階も彼女たちが寝てる間に調べてみたが、やはり畳とちゃぶ台程度しかない。押入れの中もカビた布団いっぱい。

 昔、兵糧攻めにあった城では畳を蒸かすか何かをして食べることもあったらしいが、そこまでになったら心も体もボロボロの状態である。

 やせ細った月見里が畳をズルズルと啜る姿は正直も嘘も見たくない。


 「――――っ!」


 そんな考え事をしていると、お腹の虫が聞こえてきた。東台かと目を向けたが、彼女の視線は月見里に向けられていて、そこには顔を赤くした月見里がいた。


 「悪い。考え事をしてた。缶詰の中から好きなのを選んでくれ。一人一缶までだぞ」


 腹が減っては戦が出来ぬ。今は落ち着いて腹を満たそうではないか。

 こういう時には東台が先に手をつけそうだが、腹の虫を鳴かせた月見里が真っ先に缶詰を掴もうとする。だが、こちらはそれを遮った。


 「悪い。これは俺が貰う」


 「あっ……うん」


 月見里が手を伸ばした先にあるのは、あのトンネルで食った乾パンであったからだった。


 乾パンを噛んでいると砂漠の砂を齧っているような感覚にとらわれて、今はあの時発した月見里の言葉と投げつけた袋の感触を思い出してしまう。

 もしかしたら、彼女なりの意趣返しなのかもしれないが、そうであったとしても今は知らぬ存ぜぬだ。


 少しの間、沈黙が出来た。未だ自分の背後にある窓からは『あれ』の声が尽きない。今は外にいる『あれ』が騒ぎ立てているだけでいい。


 「好きなものを取ってくれ。これから長くなる……」

 

 いろいろとその場しのぎなことをしてきたと思うが、後悔を覚えることがなかった。今までの行動をどうやり直せば上手くできたのかどう考えてみても思いつかないせいだろう。

 だが、今の状況は余命をただ伸ばしているだけのようにしか考えられず、これ以上好転するような糸口は見えない。いや、もう糸も口もないんじゃないだろうか。


 全ては後の祭り。祭りというのなら、多少の贅沢をしてもバチは当たらない。


 月見里はコクリと頷くと、果物の缶詰を掴んだ。本当に欲しかったのはそっちだったらしい。

 苺の缶詰というのが存在しないのは残念だが、シロップでつけられた桃ほどおいしい果物はない。

 しかし、月見里はその缶詰を開けようともせず、じっと見ている。


 「どうした?」


 こちらが声をかけると、月見里はこちらの乾パン缶詰を奪うようにして引っ張ると、持っていた果物の缶詰をこちらに渡してきた。

 こちらが何故だと問う前に、月見里が口を開く。


 「金平糖の代わり」

 

 素っ気なく軽口を叩く月見里。ああ、なるほど、意趣返しのつもりだったのかと合点しかけたが、言いながら背けていた顔がほんのり赤くなったのを見て照れ隠しであることに気づいた。


 「ありがとう」


 「うん」 


 好きなものを取ってくれと言ったのは自分で、桃の缶詰は好きだ。ここは素直に受け取っておこう。

 月見里は淡泊に返事するものの、やはりまた顔を逸らして照れ隠しを隠せていない。


 彼女は別の果物缶詰を取り、温かな目を向けている東台にも若干嫌そうにしながらも同じものを渡した。


 「いやぁ、いいもの見させてもらったねぇ」


 「うるさいから、早く桃を喉に詰まらせて、しばらく死んどいて」


 東台に茶化された月見里は、目くじら立てて軽口を叩く。彼女がこれほど感情をむき出しにすることはあまりない。

 これが10代女子の馴れ合いというものだろうか。


 「うん。じゃっ、いただきます」


 マイペースな東台はいつの間にかに合掌。大口を開けて桃を突っ込む。月見里も競う様に大口を開けて桃を丸のみしてリスに変身する。


 こちらもいただきますと言って口に放り込んでみると、なかなかに甘くておいしい。これほどまでにみずみずしく感じるのは久しぶりに食べたせいだろうか。

 果物缶詰が珍しいというわけではないが、男である自分は肉とか野菜とかとにかく量が多そうなのを優先して調達しているので容器が大きい割に内容物が少ない果物系はあまり取ることは少ない。

 それに見つけた果物系はだいたい月見里の口につっこむので、リュックサックの底にたまるようなものでもない。

 

今回も同じくして缶詰の中の桃がつきた。いつもなら3切れ程度しか入っていないのだが、4切れあって何だか得した気分だ。

 そして、ほくほくした気分で缶詰に残ったシロップを舐めつつ飲む。なかなかにとろみのあるものだが、桃の風味もあってどこかサッパリとしたものであった。しかし、全部飲み干してみると腹も満杯になってしまった。


 月見里はまだ半分で、未だ2個目を頬張っている。おそらく、飴のように舐めているのだろう。彼女も久しぶりの桃に喜んでいるようであった。

 しかし、東台とこちらが食べ終わったことに気づくと、咀嚼をするようになった。だが、飲み込みたいけど吞み込んだら終わってしまうという喪失感とせめぎあっているようで食べるスピードはあまり変わらない。


 顔だけ早く進んでいるような表情をしているが、もはやスピードもどうでもよく可愛いらしい。


 「ふぅー、いやぁ、ゆいちゅんがゆっくりと食べてくれるから、のんびりと食後の休憩が出来るよぉ」


 なんとも揶揄うようなことを言うが、彼女の性格上と姿勢上おそらく本音だろう。床にもたれかかってポンポンとお腹を叩いているところを見るに東台も満足したようである。

 月見里もそれを分かっているのか、多少を眉を怒らせるもすぐに表情を戻してゆっくりと食べだした。


 自分のお腹が萎んでいくことに未だ自分は死んでいないことに自覚した頃、月見里は完食した。しかし、一番若い彼女はすこぶる高い新陳代謝を生かして、食後の休憩であるとか関係なしに動けてしまえる。

 月見里はすぐに手に持ったものを缶詰から歯ブラシと歯磨き粉に変えて、こちらも東台も歯ブラシを手に持って一階の洗面台に行って3人揃ってシャコシャコと小気味いい音を立てて歯を磨く。しかし、2人がかりであっても、月見里の歯磨きの音は最後まで残った。


 そういえば、今までは別々の時間に歯磨きをやっていなかっただろうか。今、こうして示し合わせたかのように3人で鏡を見ながら一緒に歯を磨く光景になんだか不思議な感情を覚える。


 吐き出された白い痰が混ざりあっているのを見ていると、異様に申し訳ない気分になってしまう。

 蛇口はあるが流石に水は出てこないので、なかなかにバツが悪いが水が勿体ないのでこのまま放置することにした。

 そういえば、東台はどうやってトイレを済ませたのだろう。それは便器のみぞ知るところにしておきたい。


 多少トイレのドアに気を取られながら階段を上がると、もう外は真っ暗であった。いつもなら月見里のランタンの光で気づくはずなのだが、彼女の腰に下ろされたランタンの光はいつもよりずっと暗い色になっている。


 「月見里……」


 「なに?」


 「いや、いい……」


 何故そんなに暗くしているのかと聞きたくなったが、何故だか口が塞がってしまう。それを見た時の自分の感情は良く分からなかったからだ。

 ただ、もうあの強い光を見ることは無いんだなと自分が思ったことは確かである。


 外の音を封じ込めるように雨戸をぴっちりと閉めて、後は眠るだけだ。早速机と座布団をどけて寝袋を敷いた。座布団を枕代わりにしたら、少しはいい夢が見れそうである。

 

 東台は2度目の電源オフ。月見里も朧げな光に撫でられて瞼を閉じていた。


 そして、こちらは再び一階へと戻った。レジ前の仕事用には向かなそうな堅めの椅子に2階の座布団を敷いて帳尻を合わせて座り込んで茫然と外を見つめる。


 おそらく、外に満月が出ているのだろう。ぬいぐるみ製のバリケードから青白い光が薄っすらとにじみ出ている。きっと、外を出れば幻想的な光景が見れるのだろう。

 

 ならば、月光の下に浮かび上がる『あれ』の姿は一体どんなものなのだろうか。おそらく、人の顔はしていない。

 だだ、朝に聞いたものよりは若干トーンが落ちているような気がする。眠気で聴覚が弱っているのか、それとも――。


 「…………」


 後ろから小さな足音がした。振り向かなくても月見里の足音だとすぐに分かる。

 

 そうして、月見里は振り向かないこちらに何も言う事もなく、近くにある不格好な椅子に座布団を置いてこちらの隣に座った。


 「ランタン。ここに置いていい?」


 「……ああ、いいぞ」


 やはり、言葉を交わす月見里の声色はいつもと同じだ。それがなんだかモヤモヤする。


 その正体も分からぬまま、また沈黙。


 それに差し込まれるように外の騒ぎが聞こえてくる。それにどこか自分のモヤモヤがかき消されているような感じがした。

 しかし、このモヤモヤを作った要因の一つでもあるため、なんだか複雑な気分でもある。

 

 こちらは何とも言えない気分を紛らわすように、レジ台に頬杖をついて何も見えない外を眺めた。


 ――本当、俺は下に降りて何をしたかったんだろうな。


 興奮も冷めきった頭にそんな言葉が浮かんだ。やはり、降りて見ても状況は変わらない。それは分かっていたし、それを期待して来たわけでもない。


 なら、どうして自分は降りてきたのだろう。それも薄々分かってはいるが、その理由のものが一階に降りてこないとは考えても無かったし、当然来るものと期待していた。

 

 しかし、口からは隣の幼女に聞こえない程度の小さな溜め息しか出てこない。

 月見里がいることに安堵を感じている自分もいて、『あれ』の喧噪に居心地のよさを感じる自分もいる。そんな矛盾がどうしても言葉を形作ること憚られた。


 それでも目線だけは月見里の方へと向いてしまう。当の彼女は今こちらに目を向けていない。

 こちらと同じく頬杖をついて彼女は一体どこを見ているのだろう。ランタンの乏しい光からでは、彼女の表情が見えなかった。

 

 月見里の見定まらないブラッドオレンジの瞳を覗きこんでいると、何故だか日中にやった人生ゲームを思い出した。

 もしあのコンクリートやレジの中にある紙のおもちゃが使えた時間がもう少し長く続いてくれていたら彼女はどうなっていただろうか。

 

 おそらく、あの父親と、いるだろう母親に愛情をたっぷりに育てられながら、学校でピカイチの成績を取って、たくさんの友達に囲まれていたのだろうか。

 彼女はちょっと生意気な子だが、それはだいたい俺のせいで本来は素直な子だと思う。それに彼女は美人だ。多少難があっても、周りの子たちが放っておかない。

 某こどもの歌のように100人は難しいとは思うが、きっと気心知れた優しい友達が出来ることだろう。

 そして、中学生になったら甘酸っぱい恋愛をして、学校という輝かしき白亜の中で人間性というのを育んでいくのだろう。

 高校生になったらまた素敵な恋人が出来て、友達とはいろんなことで騒いで、たまに喧嘩したりして、でも結局は仲直りして――少なくともこちらでは想像できないような並みの人間以上のアオハルというものを過ごせているのではないだろうか。


 そんな健やかな人生の春を過ごしたなら、次は栄光の一流大学で、そこでもリア充ライフを過ごしていることだろう。

 いろんな人間関係に揉まれて健やかな大人となり、きっと高級スーツを身にまといスーツケース片手に世界を飛び回るスーパーエリート社員になっているのではないだろうか。

 彼女の部下たちは中々に大変そうである。もしかしたら、途中でイケメンでエリートなお金持ちと結婚して、いろいろと衝突しつつも子供が生まれて幸せな家庭をきっと築いていける。

 彼女の子供もなかなかに大変そうであるが、芯の強い子なのできっと子供たちも健やかに育っていくのだ。


 時には上手くいかないこともあって大変なこともあるだろうが、きっと彼女が辿ったあの盤上の人生よりももっといい人生がおくれていたはずである。


 「月見里。お前を――」


 言いかけて止まった。俺は何を言いたかったのだろう。出そうとした自分の言葉がどうしようもなく虚しいことだと思ったのは確かであった。


 しかし、それは隣にいる月見里に聞こえる声量で、彼女は迷っていた瞳をこちらに見定めていた。その表情は怒っているわけではなく、空気に溺れそうなくらい苦しそうなものだった。

 そんな彼女がこちらが何もない言葉を告げる前に、飛び降りるように椅子から降りて頭頂部をこちらに向けた。


 「ごめんなさい」


 そして、またこちらが止めようとした時に、月見里が繰り返す。


 それが何に対してかは重々承知だ。だが、自分のどうしようもなさをふつふつ感じて、やるせなくてムカムカする。


 「前に俺は言ったはずだぞ。謝っても解決はしない。俺に解決出来る方法がない。それに、誤りばかりする俺に謝るのは謝り損だぞ」


 「うん……それでも、ごめんなさい」


 彼女の息を絞り出すような悲痛な声色が、あの首を絞めた時の感触を呼び起こす。

 

 あの時、もう少し長く締めていたら息絶えていただろう。それなのに(自分がやってくれ頼んだとしても)首を絞めたこちらに対して、嫌なほど綺麗なお辞儀をして震えている姿を見ていると狼狽する事しか出来なかった。


 「……頼むから頭を下げるのをやめて、座ってくれ」


 外から漏れてくる音にかき消されるような小さい声が出てきた。気持ち悪ぃ。肝心な時は、ダンマリをしたいのか。


 しかし、いつもの自分を見ている彼女はこちらの情けない声を聞き取り、静かに椅子に座った。だが、頭はこちらに下げたままだった。


 喧騒が終われば、沈黙が始まる。こういう時は、お互いに景色を見るものだがぬいぐるみに塞がれ、相変わらず聴覚でしか外の様子が見えてこない。


 そうすれば、こちらは無い外の景色を見るフリをしながら月見里に視線を置いて、彼女はこちらが見ているのを知らず、やり場のない手をいじり気まずそうに体を小さくしていた。


 なんでこうなったのだろう。この子の人生は――。どうしたら、彼女自身の人生を送れたのだろう。


 「俺はお前が言ってなくても、あの時首を絞めて殺そうとした」


 無意味な後悔だ。喉にあった言葉とは違っていたが、言った言葉も事実であることに変わりない。   

 

 「……ん、分かってる」


 しかし、月見里は酷い言葉を投げかけられても、淡々と応じた。否、淡々というのには、不自然な柔らかさが内包されているように思えた。


 それがどういう感情なのか、それを掴む外から流れ込んでくるものにかき消えて分からない。

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