元いじめられっ子コミュ障はトイレにこもる

 

 しばらく彼女の泣き声がしばらく脳髄に滞留した後、重くなった体は自重に従うごとく下へと降りるのみだった。

 否、それは都合がよすぎる。音をたてないように静かに足をつけて降りたので自分の意志である。

 

 そして、自分の意志の行き着く先はバリケードではなく、トイレの中。尿意も便意みたいな生理的な欲求もなく、ただあるのは胃を濡れた手で握られたような違和感だけが自分の中に取り残されている。


 もう本当に何もすることがなく、手持ち無沙汰感があるのに、足も腕も動かす気は起こらなかった。

 冷めぬ感情だけは口からとめどなく吐かれて忙しない。もしタバコでもあれば口にくわえていたいところだが、そう考えてみても自分が紫煙を吐く姿は到底想像できなかった。ただただ、周りを見るだけ。

 

 5年以上も放置されたトイレだとかなり汚いだろうと思っていたが、こうやって入ってみると床にシミ一つなし。便器も年季の入ったくすみがあるものの白い部分しかない。ここの持ち主はまめな人だったのだろう。


 無臭であれば、やはり不快感よりも居心地の良さが勝ってしまう。ドアの上側にすりガラスの小窓からしか光が入ってこないため、ドアを閉めると自分の肌の色が見えるかどうかの薄い暗闇が広がっている。それが身にまとわりつく心地良さを馴染ませていた。


 いや、今はこんなところであるからこそ居心地の良さを感じてしまうのだろう。


 小さい空間に模られた居心地の良さに縋って、自分のどうしようのなさを隅へと押し込める。そんな自分に嫌気がさすが、それでもやはり気分は悪くならない。


 「クソ……」


 鼻をこすっていると、一瞬だけトイレの臭いがした。いや、ラベンダーの臭いがしたと言った方が正しいだろうか。


 臭いの下を辿ってみると、便器の奥側の壁にどうやら芳香剤があったらしい。だが、中身はもう空っぽのようである。

 残り香なのだろうか、それともただの先入観が引き起こした空耳ならぬ空鼻なのか。


 どちらにしても、どこか懐かしい臭いだと思った。あのじめっとした青いタイルに、閉まっているというには上下がスカスカでペラペラなトイレのドア。そんな頼りないドアの後ろに隠れて、楽しそうに談笑する同級生の声を聞いていた学生時代の昼休み。


 自分は昼休みのチャイムが鳴ると、いつもトイレに駆け込んでいた。胃腸が決して弱いわけではなく、手につかんでいるのもトイレットペーパーではなく、スーパで買ったタイムセール5割引きの食パン。


 休み時間中はいつもいじめられていた。暴言を吐かれ、殴られ蹴られもやはり当たり前。どんなことをされたかは未だ脳裏に焼き付いている。だが、全国探せば自分よりも酷い虐められ方がきっとあったのだろう。自殺を考えられないぐらいの、その程度の規模のいじめであった。


 当然、遠巻きに見ていた人は誰も止めようとはしない。それが日常であって、加害者である気持ちの悪いがいじめられるのは正当なのだから。


 それでも、昼ご飯だけは一人で食べたかった。他にも理由はあるが、自分の食べ方が相当に汚かったからだ。化け物みたいな顔をした男が食べ物を食い散らかすのを誰が見たかっただろうか。


 しかし、パンを口に付けようとした瞬間、本当にこれでいいのかと思ってしまう。こうやって、トイレの中に隠れて食事をするのは卑怯なことではないのかと。自分は加害者なのだ。そんな自分が少なからず安寧を感じるために身を置いていることに嫌気が指すのだ。


 色々な葛藤を覚え、禅問答をしているような状態になるが、答えはいつも見つからない。ただ、場違いなラベンダーの香りに包まれていることに馬鹿らしさを覚えて、結局は教室に戻るのがお決まりだったのである。


 そして、白い目を向けられる中、クラスメイトの食欲を損なわないように背を向けてひっそりと食べるのである。でも、あれほど毎日食べていたのに、あの食パンの味は正直よく覚えていない。


 色々と後悔はあるけれども、自分は逃げなかったことを誇りに思っている。しかし、それがどうだ。完全に密閉されたトイレの中で、日和見的な薄暗闇の安寧に浸かってしまっているではないか。

 どうせここにずっと隠れることはできない。いつかはこのドアを叩かれる。そうでなくても、食料も水も無くてはここで生きることは出来ない。まして、そんな事望んでない。


 それでも、動けなかった。


 まるで足の甲と太股の上に重い石を乗っけられたような感覚。そんなことになっているのは他でもなく、自分のせいだ。


 もはや、先ほどのラベンダーの臭いは消えてしまっている。どうやら、本当に空鼻だったようである。

 動け動けと自分に発破をかけるのも馬鹿らしくなった。教室に帰って来た時のクラスメイトの顔の通り、ここに篭っているのが、昔も今も相応しかったのだ。


 ――――!

 

 その時、ドアを叩く音。


 あるはずのない距離感で身を引いて後頭部を壁にぶつけた。


 「アガッ……!」

 

 「――大丈夫?」


 ドアを叩いたのは月見里だった。張本人で被害者なのに、その声にはどこにも嘲笑や怒りはなく、心配一色に聞こえる。


 壁に頭をぶつけた音をバッチリと聞かれたのだろう。この家の防音性はあまりよろしくないらしい。


 「……ああ」


 鈍くなった頭の中に久しぶりの鈍痛。頭が覚めたような気分だが、痛みが引けば気まずさが頭に浮かび上がってくる。

 

 「どうした?何かあったのか?」


 あんなことをして開口一番これはないだろうと言いながら思ったが、いつも通りの声色にマヒしてこちらもオウムのように言葉を返してしまった

 

 やはり予想外だったのか、月見里は途端にしどろもどろになって、「と」という言葉が聞こえてくると、


 「東台――さんが、漏れそうなんだって」


 なんだか気まずそうにそう言ってくる月見里。


 思わず自分の下を見てみると、便器。ああ、そういえば今トイレの中にいるんだったと「少し離れてろ」と言って外へと出た。

 

 そうやって、弾かれたようにトイレから出たが、そこにはいつもと変わらない月見里の姿が佇んでいてまた体が重くなった。


 こちらを見る月見里の表情には怒りも悲しみも無く、平然としたものでそれがホッとするというかより一層不安を煽る。


 「東台さん、待たせちゃってるから来て」

 

 月見里の「や」の言葉さえ出てこないこちらの代わりに、月見里がそう淡泊に言って一瞬迷うように手を小さく左右に動かすとこちらの袖口を掴んで引っ張った。


 「――っぁ」


 感染するから触れるな。


 そのルールがあったはずなのに、何故だかその言葉さえ吐けずに情けない声を漏らしただけ。


 ただ、それでも月見里が気持ちの悪い思いをしていないか不安になってしまう。伸し掛かる申し訳のない気持ちに、恐る恐る見上げてみるが、残念ながら階段の先を見る彼女の顔はこちらからでは見えない。


 見えるものといえば後頭部と――わずかに覗き込める首下で、自分の締めたところが赤々と残っているのが痛々しく映った。


 「ふ、二人ともお帰り」


 そうして、互いに何も言うことも無く2階へと上がると、嬉しそうに笑みを向ける東台がいた。しかし、どこか余裕のない笑みである。


 「ごめん! ちょっとトイレ行ってくるね」


 こちらの反応も待たずに、慌てたようにそう言って股の辺りを押さえつつ階段を降りて行った。その降りているのか踊っているのか分からないぐらいに乱れた階段の降り様に、かなり我慢していたのを察せて申し訳なさを感じた。


 そして、階段のドタドタ音が終わって、ドアが乱暴に閉まる音が聞こえてくると、2階でこちらと月見里の2人きりとなった。


 「座ろ」


 月見里は沈黙を割り、こちらの袖口を引っ張って座布団の上に座るよう誘導する


 久しぶりの座布団の感触は何だか場違いに心地いい。目の先には置いていたはずの寝袋が消えており、代わりに元あった机が置かれていたので目を覚ましてから結構時間がたったのだと察せられた。


 それまで月見里を東台に押し付けて、自分はトイレで現実逃避だとか、自分の屑さ加減には辟易とする。これで怒鳴られたり蔑まれたりしなければ、結局俺はそういう人間だと諦められているのだ。


 しかし、目の前に座った月見里の顔には、そのどれもが見当たらない。いつも通りとも言い難く、ただ真剣な目でこちらを見据えて一挙一動を待っているように思えた。

 

 多分、待っているそれは首を絞めたことに対する謝罪か弁解だろうと思った。それだったら、いいと思った。


 「なぁ、月見里」


 「なに?」


 月見里は小首を傾けた。彼女の瞳が若干色づいた気がした。その正体は多分期待だと思う。

  

 でも、謝罪の言葉を言ってどうなる。たかだが、5文字程度の言葉で一体何が変わるというのだ。


 それを言ったところで、繰り返そうと思えば何度でも繰り返して彼女を傷付けられる。同じようなことが起きれば、また性懲りもなく彼女の細くて小さな首を絞めてしまうのだ。


 そんな簡単なことさえ保障も出来ずに謝ってしまうのは無責任だ。


 ならば、もう謝ることなく自分のやったことが正しかったかのように振る舞えばいい。俺は面の皮の厚い屑野郎だ。


 だが、そういう風にして心の中で叫ぶと、酷くやましい気持ちになって収まりがつかない。結局、自分はどちらにもなれず、口を噤む。


 「具合悪いの?」


 月見里が心配そうな顔を浮かべていた。話しかけたと言うのに、何も言葉が無かったら不安にもなるだろう。


 しかし、自分の中には謝罪の言葉も罵詈雑言も無い。


 「トンネルで行く方向を決めてくれたの覚えてるか?」

 

 謝ることも罵倒して開き直ることもできない自分は、ずっと気になっていた事を聞いてしまおうと思った。


 肝心な話題からはぐらかしているようでクズっぽい言動には思うけれども、無言を貫くよりかは幾つかマシだと思った。

 

 「覚えてる……」


 「あれどうやって、正解の道だって分かったんだ?」


 月見里はこんなことを聞かれるとは思わなかったのか、少し目を見開いていた。


 しかし、こちらがじっと見ていると、天井に目をやり、再びこちらに目を向けて口を開いた。


 「見せてもらった路線図あるでしょ?スタートの駅からゴールの駅まで直線だったから、ホーム側を左手で触ってたら上側で、ホーム側を右手で触ってたら下側方向って言えるじゃん?それでゴール地点の駅が下方向にあるからあの方向って考えたの」


 月見里の理路整然な説明に舌を巻いた。やはり、月見里は聡い子である。AIにだって勝てそうである。


 「まさか、そんなことを考えていたとはな……」


 大人である自分が考え付かなかったのは情けないことかもしれない。ただ、あんなに怖がっている闇の中で推論を立てて提案してきたことに彼女の成長を感じた。こればかりは自分に対する情けさよりも彼女に対する誇らしさを感じていたい。


 当の月見里は何を鼻高々としているのか分からないと言った具合に、キョトンとした顔をしているが。


 「え?その考えだったから、進んだんじゃなかったの?」


 「ああ、考えナシで行ったんだ」


 しかし、月見里の言葉に情けなさがぶり返す。


 月見里の判断に従ったのはこちらに何の考えがなかったのがきっと大きい。心なしか、月見里の瞳が先ほどよりも大きくなっているような気がする。

 

 なんだか見透かされているような気がして、気が気でない。


 「それなら、どうして……」


 縋るように身を乗り出して、そう尋ねてくる。一体、俺に何を期待しているのだろう。


 「お前が決めてくれたことだし、お前の判断を尊重したかった」


 でも、結局これしか言えない。やはり、月見里に責任を押し付けている情けなさもあって彼女の顔を直視できなかった。だが、これだけはその時も今も本当のことである。


 いつか、月見里は自分から離れていなくなるのだ――否、いつか、自分が彼女に対して愛着というの名の執着をして彼女の深いトラウマを与えてしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。

 

 だから、その前に自分がいなくても生きられるようにしなくてはならない。

 

 そうは考えてみたものの、あの時は暗闇に自ら立ち向かおうとする月見里に感動して、後先考えることなく応じたのである。

 結局、どれぐらい綺麗な言葉を並べても、自分は馬鹿なことをしただけの体だけが育った大人なのは違いない。

 

 「ふぅーん」


 月見里はこちらを咎めるようにそう言った。その声色はどこか淡泊で、この期に及んで美化しようとする自分をおそらく蔑んでいるのだろう。


 今、自分はどれくらい情けない顔をしているのだろうか。自分の馬鹿さ加減を綺麗な言葉で覆い隠したというのに、顔を隠すのは卑怯な気がして、恐る恐る月見里の方へと顔を向けた。


 だが、今度は月見里の方がこちらから顔を逸らしていた。


 ただ、覗き込めた横顔が、どこか柔らかい表情になっているように見えた。それは自分の期待だろうか。

 

 彼女の真意が良く分からない。一つの答えさえ自分の頭から出ぬまま、階段からドタドタ音がぶり返した。


 「たっだいまー。2人ともお待たせ」


 そうして、階段からひょっこりと快活な笑みを出してくる東台。


 いつものごとく、まとわりついていた空気感が取り払われていくのを感じたが、今回ばかりは残念でならなかった。




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