暗闇に溶けた分岐点 後半

 

 

 沈黙は金。


 金というのは物珍しいものだが沈黙に限れば、こちらはそれを産み出す稀代の錬金術師である。


 事が終われば、喧騒は東台の一笑と共に去りぬ。後はボリボリという小気味のよい音だけを響かせるのみ。

 

 こうしていると頭は古傷のようにうずいて、昔のことを思い起こしてしまう。人生経験乏しい自分が思い出されるのは、もっぱら学生時代のころだった。 

 学校生活だったり、それに伴う集団行動の時をするときには、雰囲気を壊すのが常であった。


 いや、それほど皆に興味を持たれることはなかったが、いるだけでどこか空気が淀むような性質が自分にはあるらしい。

 

 しかし、良識を持った皆は何か暴言を吐くわけでもなく顔をわずかに顰めると、何事もなかったような顔をして自分から遠ざかり、こちらもその人間を見なかったようなフリをするのが自分にとっての対人関係の始まりと終わりであった。


 こうして、後腐れない対人関係を築いてきた自分は、羞恥に晒されながら誰かと一緒にいるというのは初めてのことで、目の前にいる人が微妙そうな顔をする原因が自分にないことも初めての事だった。

 

 「乾パンって結構味気ないよね」


 月見里とこちらでは出てこない言葉が東台から発せられる。

 

もう腐るほど口にしているこちらと月見里にとってはその言葉に首を縦に振るしかない。

 

 「乾パンだからな」


 「んー、あー、確かにねぇ」


 そう言うと、東台は月見里と同じくらい顔をしかめた。決して不味いわけではないが代り映えのない味、パサついた食感。

 金平糖か何か甘いもので口を直したいものだが、残念ながら乾パンのほかにあるのは2,3個程度の氷砂糖の身である。


 どうして、ずっと予備に回していたのかようやく分かった気がする。ただ、ある意味では、非常食としてふさわしい物かもしれない。


 「ずっと前に動画で見たんだけど、こういう乾パンみたいなやつって昔の海賊も食べてたみたいだよ」


 「それは……難儀なものだな」


 そうは言ったものの、海賊というのはアフリカの方にいた海賊のことだろうか、それとも黒ひげとかの所謂な海賊なのだろうか。


 どちらにしろ、それほど昔からこんなものを食べていた先人には頭が上がらない。

 缶詰に書かれた安心・安全の味という言葉が、なんだか深いような皮肉がきいているようなそんな気がする。 


 「え?海賊って、でっかい骨付き肉とか食べてたんじゃないの?」


 そう声をあげたのは、月見里であった。でっかい骨付き肉という言葉が、乾パンが詰まっているはずの胃袋を鳴らした。どうやら、胃袋も乾パンはあまり好きではないらしい。


 月見里の口から骨付き肉という言葉が出てくるのは驚いたが、おそらくその出所は彼女のベットの隅にあるあの週刊漫画だろう。


 「ううん、昔はね冷蔵庫とかの保存方法が無くて、お肉とか野菜とかすぐ駄目になっちゃうから乾パンみたいな日持ちのいいもの食べてたんだって」 


 「塩漬けとかにすればよかったじゃん」


 「んー……確かにね。もしかしたら、塩とかも貴重過ぎて使えなかったのかも」


 そう指を立てて答える東台。興味深そうに耳を傾ける月見里がいれば、まるで在りし日の学校の授業であった。


 「ふぅーん……肉が無かったら、魚食べればよかったのに」


 ならば、月見里は頭のいい小生意気な学生だろうか。確かに、彼女の素朴な疑問も頷ける。

 骨付き肉がないなら骨付き魚を食えばいいものを昔の人たちは相当魚嫌いだったのだろうか。


 「言われてみれば、そうかも。多分だけど、木造の船じゃ火も焚けなかっただろうし、昔のヨーロッパの人たちは生魚を食べなかったみたいだから刺身食べないぞーみたいな信念が強かったんだよ……まぁ、そのせいで死んじゃった人も多かったみたいだけど」

 

 へぇーと感心するように頷く月見里。ただ、少し間が空いたのでまだどこか納得していないようである。

 その時に、こちらを一目していたが、残念ながらどれだけ見つめられても東台以上の答えは出てこない。


 そういえば、海外の人は生卵を食べないと聞いたことがあったが、その延長みたいなものなのだろうか。


 しかし、全く文字通り死ぬほどまでのひもじい思いをするというのに、昔の船乗りはなんというか立派な人たちである。

 そう思えば、齧っている乾パンも――流石に美味しくはならなかった。むしろ、胃がヒリヒリしているような気さえする。


 「そういえば、八雲さ。2日間、食べてなかったわけだけど、体は大丈夫なの?」


 お腹をさするこちらに東台はそう尋ねてきた。ハンカチとティッシュは持ったのぐらいの軽い声色で。深刻にしない分、ありがたい。


 しかし、2日間食べることを引き換えに眠り続けていた体は軽いどころか、やはり重い。緊張の冷めた頭もどこか鈍くなっているような気がする。


 多分、いや、多分ではなく、体は弱っているようではあった。噛まれたところはやはりまだ痛くて熱い。

 だが、まだそれを隠せるぐらいには状態は悪くなってはいない。


 それならば、もう自分の体である。動けるのならばもはや問題がない。心配なところはあるが、自分よりも心配なことがまだたくさんある。


 「いや、俺の方は大丈夫だ。いろいろと悪かった」


 いろいろ状況が変わり過ぎていまいち呑み込めないところがあったが『あれ』に追いかけられている中、一日失ったというのは大きい。

 まして、こちらが意識を失っていたと言うのだからその苦労は過酷なものだっただろう。そう思うと、未だにバツの悪さがあった。


 「ううん、別にいいよ。終わり良ければ総て良し。大団円のサーカスだから」


 東台が慌てたようにそう言った。彼女の言葉にどこか引っかかるところがあったが、きっと彼女の言葉は本心なのだろう。

 少し安心している自分もいるが、月見里は先ほどと同じく心配そうな顔をこちらに向けているのを見つけてバツの悪さが残る。

 

 「俺が倒れてた間、どうやって寝てたんだ」


 「んー、寝袋敷いて八雲と同じ階段の広い所で寝てたかな。八雲も寝袋の上に載せたかったけど、触っちゃいけないって言われてたし……ごめんね」


 「いや、いいんだ。ありがとう」


 申し訳なさそうにする東台にそう言った。気を使わせてしまったようで申し訳ないが、それぐらい約束を徹底してくれた方がありがたい。


 「ううん。でも、目が覚めて本当に良かった。ゆいちゃん、昨日ずっと泣きそうな顔してたんだよ。起きなかったどうしようって」


 「――っ。今、その話しないで」


 そんな耳が痛くなる話をすると、月見里は耳まで赤くして声を荒げる。

 しかし、こちらと目があうと、照れ隠すようにまた別のところへと目を逸らした。口に苦いものはあったけれど、なんだか微笑ましくて気が休まってしまう。


 その一部始終をばっちりと見た東台もどこか優し気な笑みを月見里に向けていた。


 「本当、ゆいちゃんの事、大事にしなきゃだめだよ」


 東台はそんな顔のまま、こちらに向けて優し気な声でそう諭された。

 

 あくまでも、自分と月見里の関係性は同行者の一言に尽きる。そういうべきなのに、彼女の言葉を否定も肯定も出来ず喉を鳴らして返答を濁した。 


 「それで、ちゃんと飯は食べたのか?」


 眠れたようでそこだけは安心したが、ご飯も食べたのか気になる事柄でもある。


 「うん、これと同じ乾パン」


 そう言って、東台は月見里の方へと目を向けた。月見里の反応は薄いが、首肯しているところを見るに確かにそうであったらしい。


 最初に、肉だとかサバだとか桃だとか特に月見里あたりから勧められたが、すっからかんになって2日目の胃袋に高カロリーのものを流し込むのはなんだか躊躇してしまう。

 それに、文字通りお先真っ暗な状況で貴重なものを消費するのは憚られる。

 

 もしかしたら、月見里がそういった豪華なものを勧めたのは、乾パンでパサパサになった口を潤したかったのではないだろうか。

 

 そう思うと、断ってしまったことに、若干後悔を覚えてしまう。


 「2日間、これか。それは大分ヒモじかっただろうな。まだサバとかいいものが残ってただろうに」

 

 「まぁ、何が起きるか分からなかったし、そういうのは皆一緒に食べたかったじゃん?」


 東台の言葉に少しだけ言葉を詰まらせた。


 皆でおいしいものを食べるという価値観的なものは理解できるが、その皆という範疇の中に何の躊躇もなくこちらも含めることに戸惑いを感じていた。


 月見里とは関係性上、よく同じ時間同じ場所で食べているが、同じ鍋をつついた仲だとは思っていない。


 今の関係性を例えるなら、同じ缶詰を食べた仲なのだ。

 一人一つの缶詰、それに手をつけなくとも個別に用意させているので別のものを食べてもさして問題ない。


 こんな不審者一人と幼女一人の世界では、きっとそれが良い関係性なのだ。


 だが、それならば、自分の勝手で食べればいいのを、どうして自分たちは同じラベルの缶詰を突いているのだろう。

 

 「八雲、どうしたの?」


 「ああ、いや、悪い。少しぼーっとしてた」


 「本当に大丈夫?やっぱり、まだ寝てた方が」


 先ほどまでにっこりとしていた東台の顔がかなり心配そうなものへと変貌していた。

 こういった時に、あまり考え事をするべきではないなと幾ばくか後悔が発露するが後の祭り。月見里も同様の物へと戻っていた。


 「大丈夫だ。後少しぐらい休憩すれば問題ない」


 「そう?無理しないでね」 

 

 東台がそう言ったので、「ああ」とだけ返事を入れた。言った言葉が本心からのものでなければ、どこか弱々しくなるのが自分の悪いところである。

 だが、それを聞いた東台は安堵の表情を浮かべていたので、誤魔化せたようである。何度もそんな姿を見てきた月見里はどこか険しい顔になっていたが。


 隠せる程度の体の怠さだが、これが半日や一日程度で治るようなものではないと思う。ならば、騙しだましで移動していた方がまだマシな結果にはなるのだろう。


 「もうなくなったか……」


 そうつぶやいた。嬉しいような悲しいような。缶の中に手を突っ込んでみると、底の感触しかない。もう全部食べ切ってしまったようだ。確かに、胃に内容物が入っている感じはある。


 衣食足りて礼節を知るという。衣は既に纏っているし、少なくとも空腹感はない。加えて、住の方も考えようによってはベンチが置かれていない更衣室のような快適さがある。


 そうなると、緊張に侵されていた頭も大分余裕が出来たようで、周りの状況がどうなっているのかも段々と見えるようになった気がする。ただ、それを理解したところで、あまり気分がよくなる話でもない。


 ある意味、先ほどの海賊と同じく、壊血病になりかけて甲板でへばってる状態と言ったところだろうか。

 

 手探りでないと形さえ捉えられない暗闇。

 不用意に光も音も出すことも出来ず、精神も体も決して快調とはいえない身を引きずっているのに、まだ一駅も通過していない。背後にはいつ追ってくるか分からない『あれ』がいて、向かう先に『あれ』がいないとは限らない。

 

 このような状況は表すことわざがあったはずだが、それを思い出せるほど頭は回っていない。少なくとも、自分だけではなく、月見里もそして東台も身を削っているような気がした。


 なんとなしに、缶の中で指を回してみると氷砂糖が残っていた。だが、あまり食べる気にはならなかった。

 触った分を口に含み、2日間乾パンを食べた月見里の労いの意味を込めて、月見里の缶へと残っていた氷砂糖を落とした。


 「食べろ」


 月見里は少し驚いていたが、「ありがとう」と小さく呟いた。


 「……ん」


 「ん?どうしたのゆいちゃん」


 月見里の方から荷物を漁る音が聞こえた。そちらの方を見た直後に3人の中間にドサッとなかなか重みのある音と共に見覚えがある麻袋が落とされた。


 「お前……これ」


 思わず、息を呑んだ。金平糖だった。


 金平糖自体驚くべきことではないが、貴重品になってしまったそれが握り拳2つ入るぐらいの袋の中にこれ以上ないぐらいにパンパンに膨らんでいた。

 最初は潰れた風船のようだったのに、今では豚のように丸々と太っているではないか。

 ああ、彼女の努力が実を結んだのだと半ば彼女の努力の結晶に感心の溜め息を漏らしてしまう。


 「いいから、食べてよ」


 「いや、これは……」


 そう覚悟を決めたかのような表情でそう言うが、金平糖は月見里の大好物の一つである。


 食べたいのを我慢して、5年以上もかけて作られた月見里の努力の結晶に手を付けるのは躊躇われる。

 いや、唐突にそんな大事なものを食べさせようとする彼女の心情が分からなかった。


 東台も何かを察したのか、それとも月見里の声色に躊躇いを捉えたのか、「宝石箱みたいだね」と覗き込むだけで口にしようとしなかった。


 すると、月見里は乱暴に袋の中に手を突っ込んで、握ったものを口の中へと押し込んだではないか。


 「フゥン、フゥフゥフゥウフゥン」


 拳一つ分の金平糖が放り込まれた頬はリスのように膨らんでいつものモグモグ言語が炸裂する。


 おそらく、「ほら、食べてよ」と彼女は言っているのだ。

 

 東台も通じたらしく、「あ、ありがとね。いただきます」と空になった自分の缶詰を差し出す。


 これ以上、断るのもヤボな話な気がした。東台が食べて、こちらが食べないのは何だか嫌だ。


 「ありがとう。もらうぞ」


 どういう心境なのかは分からないが、もしかしたら口直し的な感じなのかもしれない。


 こちらが差し出した缶には、かなりの数の金平糖がこぼされた。東台の方が気持ち少なめにされているがだいたい同じぐらいのものを渡している。


 心なしか、いや、普通に見ても不健康にパンパンになっていた袋はBMIで健康的な数値だと言われるほどやせ細っていた。

 後数回同じ量を落とされたら、袋の大きさは最初の物に戻ってしまう。


 もはや、ここで全て食べ切ってのではないかと思えるほどに。

 

 「お前、ここで全部食うつもりか」


 「うん、そのつもり。もう全部食べていいから」


 「……月見里。前も言っただろ。物資は無駄遣いするなって」


 そういうと、月見里はぴくりと金平糖をつまむ手を止めた。自分の出した声の語気を強めた。

 物資の浪費は選択肢を狭める。特に嗜好品は心の平穏を持たせるための清涼剤のようなものだ。


 それを何度も言ってきたのに、ガン無視して怠ろうとする月見里への怒りもある。


 しかし、今まで節制を努めてきたはずの彼女が突拍子も無く禁句をやらかそうとしていることに何か嫌な感じがした。

 

 それを伝える語彙力はなく、荒くした声もいつもよりも弱々しいようで、月見里は怯えることもなくこちらへと目を向けた。

 

 トンネルに入ろうと言った時の目と同じく真剣めいた眼差しにこちらはまた何も言えずに黙りこくってしまった。


 「もし逃げきれない状況になったら、私を餌にしてよ」


 そうして、開門された月見里の口から、諦観めいた声音と共にそんな言葉が出てきた。


 耳に入った途端、それが冗談ではないことが理解できたし、それがもし冗談でも許せないセリフだ。

 

 だからこそ、吠えた。


 「餌だと……? お前……じゃあ、なんだ、これは最後の晩餐とでも言いたいのか。クソガキ、てめぇ一つ餌にしたところで、何の意味もねぇんだよ」


 感情のまま怒鳴っても、思い通りに声が強くならないことにイライラする。

 

 東台もおそらくこちらと同じような事を優し気な声色で言っているが、月見里は一切目を逸らすことなく、睨みつける自分を涼しげな顔で見つめている。


 そこに嫌悪の色が無いことがむしろ、ますます腹が立って恐ろしかった。


 「……馬鹿な考えは止めろ。クソガキ。クソガキ!次言ったら、それをどぶの中に捨ててやるからな」


 クソガキ。何か気の利いた言葉は出てこない。


 ワザと月見里の足下を強く踏んで、先ほどと似たような言葉を吐き捨てている自分に頭の悪さを感じながら、自分の缶詰の中に落とされた金平糖を彼女の袋の中へと放った。


 それでも、月見里は目を地面に落とすことなく、こちらを見上げていた。

 まるで目つきの変わらない彼女に、俺は一体何を言えばいいのか分からない。


 「……クソガキ」


 誰も紡げる言葉も無く、何か話せる雰囲気でもなく、ランタンに焚かれた光だけが神妙めいた顔つきをする月見里と東台を照らしている。


 多分、自分もそんな顔をしているのだろうか。


 そうして、金平糖は東台の物も月見里の袋に戻された。乾パンも氷砂糖も、3人の缶詰から無くなった。


 じくじくとした部屋の中、同じくじくじくしたお腹を慣らすように座り込んだが、気まずい雰囲気に立ち上がる。


 「そろそろ出るぞ」


 その言葉に反対する声は無かった。


 2人首肯するだけの引き続きの無言。だが、月見里からは先ほどの目は消えてはいなかった。


 入った時と同じようにロープを掴ませ、ランタンの光は再び消される。


 彼女のその目がどうなったかは知る由もない。知ったことではない。


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