暗闇に溶けた分岐点 前半
少なくともトンネルということだけは分かる空間をずーっとずーっと歩いていった。結構歩いたような気がするが、今は一体何時ぐらいなのだろう。
奇妙なほどに垂直な壁には固定観念を揺らされつつも、そのざらついた壁の感触や何かのパイプか配線らしき感触に手が溶けているような感覚を覚えた。
そんなものを確認できるほどの明るさは確保されているわけも無く、どこかに明るい場所があればと思うけれども、そんなものさえ塗りつぶされているのではないのかと思わされるほどの熟成された暗闇。
ここは前なのか後ろなのか右なのか左なのか。視線を別の方向に向けて見ても首を回している感覚があるだけで、方向が無い。
それは至極当然視界が潰されているからで、重々承知しているところなのだが、どうしてもこの不慣れな感覚には困惑しか生まれない。正直、もう外に出たい。
そういえば、昔に暗闇の中に人間を数日間閉じ込めるとく狂ってしまうという話を聞いたことがあった。
ただ情報源がコンビニの漫画が詰められた棚の一番下の隅っこにありそうな怪しい雑誌なので何とも言えない。ただ、今こうして似たような状況に浸かっていると何故人間が狂ってしまうと言えてしまうのか分かる気がする。
何重もの厚ぼったいコンクリートで作られた闇の中に、夜中聞こえてくるような生物の声や木々が揺れるような日常の音もなく、時折聞こえてくるような耳をゾワつかせる何か程度の音もない。
まるで、音が最初から存在がなかったかのような振る舞いに、ただただ途方に暮れるしかなかった。
それでも、未だ残っている自我が同じ方向に感触があれば自分たちも同じ方向に進んでいると、感覚ではなく理論的なところでどうにか判断出来ている。
おそらく、今辛うじて残っている触覚さえ消えてしまうと、もう自分が何者か分からなくなってしまえることはきっと容易いことのように思えた。
我思う、故に我あり。
そんな在り方さえ消えてしまうようなことを想像してしまうのは恐怖しか生まない。正直、もう何も思わず、壁の感触だけ触ってのほほんとしていたいとは思う。
しかし、自分がこんなことを考えているなら後ろの月見里はどうなっているのかと思うと気が気でならないのも事実であった。
掴んだロープからは時折小さな震えがあるぐらいで、痙攣のような酷いものは伝わってはこない。
もしかしたら、ろくに震えが出せないほど憔悴しきっているのかもしれないが、こちらがロープを引っ張ったりして様子を伺ったら我慢してたものが決壊して泣き出してしまう気がして確かめてみる勇気が持てなかった。
暗闇が怖いのは当たり前だ。子供なら特に。自分も月見里ぐらいの時は、暗闇の奥底で何か蠢いているような気がして恐ろしかったのを覚えている。
最初は、子供の頃の新聞が剣に様変わりするぐらいの豊かな想像力がそうさせているのかもしれないと考えていたが、空を切り続けただけでヘニャヘニャになるそれとは違い、硬度を未だ誇り続ける彼女の恐怖心を見るととてもそんな風にも思えなくなった。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
そんな言葉がふと頭に響く。月見里は一体、何に覗かれているのだろうか。
そんな事、多分、自分には理解できない。誰が言ったかも分からないが妙に耳に残る言葉の通り、あまり詮索するべきものではないのだ。
それでも、何度も何度もそんな姿を見ていると優柔不断な自分は、彼女に対してぬけぬけとやってしまったものである。
夜になる前には屋内に入ることから始まり、そして、なるべく彼女から暗闇を遠ざけたりして、最終的に暗闇の中でも怖くないように彼女にランタンを渡したりした。
そうやって、彼女から暗闇の接点を無くそうとしたのだが、今も昔も変わらぬ月見里の怯えぶりを見ていると果たしてそれが正しかったのかどうか分からなくなる。
物置に一日放り込んだりして、暗闇にならすみたいなことを考えたことはあったが、そんなボケた精神論振りかざすのも馬鹿らしく思えてできなかった。いや、勇気もなかった。
でも、結局は何故暗闇が怖いのかを自分は知らない。そんなことも知らずに、その場しのぎ的な対応を取り続けるのも果たして無意味な精神論と何が違うのだろう。
答えの出ない出来事に何度も何度もループものを食らわされていてもなお、自分の手には分岐点のようなものを触れられていない。
出来ることならさっさと地上に上がるべきだと思うのだが、地上に上がれそうなところはない。
今も空気は吸えてはいるので、どこかに通気口か何か地上へと続く道がありそうなものだが、残念ながら掌に目はついていない。
駅までつけば地上には出られるとは思うのだが、ずっとこんな場所で歩いているとそれさえ自信がなくなってくる。
後何キロほど歩けばいいのだろう。それまで月見里が持つかどうか。
そんな事を考えていると、腕に何か固いものが当たった。
きっと標識か何かなのだろう。たまにやってくる感触に多少目が覚めるものはあるが、こう何回も当たっているとどこかウンザリするものも感じていた。
念のため感触を確かめてみる。推定、線路。
何度か触ったものと同じものだと辟易して、再び壁に手を付けると、体勢を崩しそうになった。あるはずの壁がない。
「――――っ」
倒れまいと踏ん張っていた足をゆっくりと左へとずらして壁を探してみると、どうやら降り曲がっていたらしい。
もしかして、あの分岐点のところだろうか。いや、それは川を過ぎた少し先にあったはずだ。遠近感覚さえ怪しくなっているが、流石にそこまで歩いてはいないだろう。
奥へ奥へと進もうとしてみるが、4歩ぐらい進んだときぐらいには嘲笑うのように壁が張り付いていた。
変なところに窪みがあるのだなと訝しみつつも何もないと分かれば用が無い。
このままいけば元の道に戻るのだろうと再び壁に手を付け移動しようとすると、コンクリートの壁以上に滑らかなところがあった。
なんだろうと思って、探ってみると、自分のへそぐらいのところに何か取っ手のようなものがしまい込まれている部分があった。
おそらく、何かのドアだ。そう気づいたのはベタベタと触った時に、それらしきものに触れたからだった。
何か特別なものではなく、下に下げると開くようなレバー式の取っ手がついたドアだった。
試しに取っ手を下に落としてみると、何か重々しい音が鳴ることもなくドアが軽くなったような感触があった。鍵はかかっていなかったようである。
トンネルの中にドアがあるという、例えるなら民家の中にオフィスの一室があるような奇妙な状態に、若干困惑はありつつも、その分だけ何の部屋だろうかという好奇心もあった。
扉に隙間を作って、中がどんな感じになっているのだろうかと耳を澄ませてみる
だが、貝の中に耳を突っ込んだときのような幻聴しか聞こえてこない。
試しに部屋の中に手を入れてみるが、何かこちらでも分かるような特徴があるわけでもなかった。
月見里に合図を送り、ドアを触らせた。その時だけ、僅かながらに震えが止まる。
無暗に良く分からないところに入るべきではないとは思うものの、どうせ今も良く分からないところを彷徨っているのだ。
それに、ここから地上に出られるところがあるのではないだろうかと考えると無視は出来そうになかった。出るかどうかはともかく、脱出経路はいくつあってもいい。
真空であるかのように無音この上ないが、何がいるかは確かめようがない。ドア先の横にある壁に手をついて、空間の中を歩いてみる。
ドアは開けっぱなしにさせておいた方がいいだろうか。
少し悩むが、開けっぱなしにしておこう。入ったところの目星をつけられるのもあるが、退路の確保のためである。
壁に手をつけ歩いてみると、ドアを触ったような滑らかな感触があった。
そんなものが小さな溝のようなものをつなぎ目にして延々と続いていくが、それほど長くもなく数十歩程度で元のドアへと戻る。
そんな狭いところに退路があるわけもなく、わざわざリスクを冒したことに若干の後悔が湧いてくる。
だが、こうやって立ち止まっていると月見里と東台の息遣いや自分の状態がどうなっているのか、ようやく実感できたような気がする。2人とも、別々の意味で息が荒い。
一旦、休んでおくべきだろう。そう思い立ったこちらは、待機の合図を送り、ドアを閉めた。ぴっちりと閉じられたドアが不安と共に多少の安堵感を与えてくれる。
しかし、閉じられた闇の中は月見里にとっては劇物も同じで、ドアが閉じた音がした時、ひっと酷く弱々しい声をあげるのが耳にひりついた。
こんな状態でロープから手を離すわけにもいかないので、片手でどうにか荷物を床に降ろして布切れを取り出し。ドアの隙間らしいところを埋めてみる。
それでも、多少不安なところは残るが、取るべきリスクだろう。
「ランタンつけていいぞ」
久しぶりに聞いた自分の声はやけにぼやけていた。だが、月見里は待ってましたとばかりに、ガチャガチャと音を立てたと思ったら、パッとオレンジ色の光を部屋中にまき散らした。
待望していた光に、目は痛くなるもののあまり嫌な気持ちにはならない。東台もキャッっと小さな悲鳴をあげたが、不快な色はどこにもなかった。
ランタン越しに見える月見里も殆ど目をつぶっているが、その顔はどこか嬉しそうである。
寒空の中でストーブの火に当たったようなほんわかとした顔を浮かべる2人だが、東台はキョロキョロと周りを見回すと、また不安げな表情に戻ってなにやら上目遣いでこちらを見てきた。
「これ、もう喋ってもいい感じ?」
そう尋ねてくる東台にドアから漏れ出ないだろう程度の声で言った。なんとも申し訳なさそうに言う彼女である。
普段マイペースな行動を取っている彼女が、こういう重要なところで気遣えるのが、彼女の事を憎めない所以なのだろう。
ただ、彼女に対して感じることはほんわかとしたものよりかは、奇妙に近いものだが。
「ああ、それぐらいの声なら大丈夫だ」
せっかくの休憩タイムである。これぐらい気を緩めておかなければ、息が詰まってしまうものだろう。
頬が柔らかくなった月見里の顔を見たのは、起きてからいつぶりだっただろうか。見ているとどうしてホッとする。
そうはいっても、ランタンの光は円になって体操座りをした3人を照らすのがやっとのものだが。
「あー、よかったぁ。あのままずっと真っ暗のままだったら、頭おかしくなっちゃいそうだったよ」
「月見里にもよく言ってることだが――休めるときは、必ず休んでおけよ」
「うん、ありがとう」
そう言って、有言実行と後ろへばたりと倒れ込む東台。電車はもう通ってないと言うのに、彼女はそのまま大の字になっての通常運行である。
月見里も同じように身を傾けたので、一緒に寝るのかと思ったがその顔は迷惑そうな感じで眉を下げている。彼女の目の先には、繋がれたままの手があった。
「ねぇ、もう手を離してくれない」
「あっ、ごめんごめん。忘れちゃってた」
「別に……」
そういうと、月見里は捨て台詞のようにそう言って目を逸らした。しかし、その顔に不快感はない。
東台はそんな彼女にいたずらっぽい笑みを浮かべるが、どこか思うところがあったのか起き上がると心配そうな顔を浮かべていた。
「ゆいちゃん。大丈夫だった?しんどくない?」
「……うん」
月見里は先ほどよりも小さな声で応じた。
「よかった。よかった。ゆいちゃん、ちょっと手が震えてたから。その度、ギュッーって掴んじゃってた」
「……だから、大丈夫」
そう目を逸らしながらも、自分の手をやっけみたくヒラヒラさせて健在さをアピール。確かに、先ほどよりは顔に生気が戻っているような気がする。
こちらからは気丈に振舞っているように思えた。あまり無理するなよ――と口にしようとするけれども、東台の会話に水を差すような気がしてその口を噤んだ。
「私も手つないでる方が怖くないから、トンネルいるときは手つないでよっか」
「――――っ」
少しの間、口を固く閉ざすが、東台のニッコリフェイスに月見里はどこか苦しそうにして小さく頷いた。
それが月見里にとっては限界のようで、その後は温かな沈黙に包まれる。
こうなると気を張っていたこちらも、どこか気が緩んでしまう。そういえば、ここは一体何の部屋なのだろう。
明かりをつけた時、あまり気にも留める余裕のなかった内装を見てみると、ロッカーのような形をしたものの集まりが周囲を取り囲んでいるようだった。
触っただけではただのドア的な何かだと思っていたそれには、視覚情報でも何をするのか良く分からない小さな時計やボタンの集まりが取り付けられている。
箱か何かだと一瞬思ったが、ドアの取っ手のようなものも取り付けられているので、きっと何かが中に入っている。
中を見たくないと言えば嘘になるが、田舎博物館の展示物で見る真四角の風呂のようなブリキ色の無骨でパッとしない箱に何を期待できるというのだろう。
その無駄にでかい外観に工場か何かだろうかと目を疑うが、ドアの一つに変電設備と注意マークが貼られているのを見つけたので、おそらく電流か何かを操作するところなのだろう。
他のところにも似たようなものが貼られていて、安全管理の徹底ぶりに舌を巻くところだが、もう電気は通じておらず闇に包まれている状況を考えると何だか皮肉のようにも思えて虚しい。
そんなものをあんぐりと口を開けて眺めていると、自分の時計の方が気になった。
時間さえ溶けてなくなっているのではないのかと錯覚していたが、針はしっかりと出発した一時間後を指していた。
まだ次の駅にすらついていないと言うのに、それほどまでに時間が過ぎたのだろうか。
いろいろ思い返してみると心当たりはあるが、どれ一つとっても必要な時間だった――と思う。
しかし、川辺の駅に辿りついた時には何時ぐらいになるのだろうかと考えるとなると――ここはため息一つこぼしておこう。
そんな状況を2人はどう思っているのか聞きたくなってみたが、この静かな揺蕩う時間をかき消すのはもったいないと思えた。
疲れのせいか、目を逸らしたままの月見里も再び寝転んでいる東台も目を半目にしてどこか眠そうだった。
もうこのまま自分も眠ってしまおうか。
階段の上で見た『あれ』が頭に浮かび上がってくるが、それに対して続く何かがどこからも浮かんではこない。
体も重い。頭もどこか空中へと引き上げられているような感覚がある。
このまま眠ってしまえば、目が覚めた時にヘドロのように重くなった体が軽くなってくれるんだろうか。
電車に乗れば30分ぐらいで着く程度の距離にどうしてここまで悪戦苦闘しているのだろう。
もっと先へ進めなければと焦る気持ちも睡魔に溶けた頭では蒸発していくばかり。どうせ、徐々に鈍くなっていく足では、いつ着くか分からない目的の駅に辿り着くのは無理だろう。
「わるい――」
彼女たちに言おうとした言葉も何だったか欠伸と共に泡沫の夢。視界もいよいよ闇の中へと戻っていく。
――――!
『あれ』の声が鳴った。急いで飛び起きるが、後頭部に何かが直撃して痛みが走り、ますます混乱してしまうが――。
見開いた目には、鳩が豆鉄砲を食らったような目でこちらを見る彼女2人の姿しかなかった。
「本当、八雲って起きるときすごいよね」
こうして、静かなひと時が自分のせいで終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます