選択とは何かを捨てる行為


 風の出所が限られた地下は地上から離れていくほど冷たくなってくる。時折、肌に感じる空気がどこかぬめり気があるような感じがして、決していい心地はしない。


 手すり代わりに手を付けていた壁はひんやりとしてどこか湿っぽい。奥へ奥へと入り込んでいくと、経年劣化で出来た割れ目から液体が溢れ出しているのが感触で分かった。

 おそらく、地下水か下水道の水だろうとは思うが、自分にとっては何か別のように思えてしまう。


 奥に行っても明るくなることはなく、暗さが増していく。電気はもちろん通ってはいない。

 香水やスーツの匂いの残り香も無く、今やどこにでもあるようなかび臭さが蔓延している。


 底に着いた時、一体どれほどこの匂いが濃くなるのだろう。


 目と鼻の先にあるのは今いる暗闇よりもっと濃い暗闇で、自分の手さえもう良く見えない。


 後ろで蠢ている小さな陰影は月見里だろうか。おそらく、その向こうにいるはずの東台は輪郭さえ見えない。かろうじて後ろにいるのが月見里だと判断できるのは、ロープを掴む小さな手ぐらいしかない。

 

 そんな輪郭さえ失くしてしまうほどの暗闇の中、ふと昔図書館で読んだ本を思い出した。

 確か、ある男が冥界から愛する人を現世へと連れ戻そうとした際に、振り向いてはいけないという約束を破って振り返ると付いてきていたはずの愛する人がどこかへと消えたという話だった、だろうか。その後、どうなったかはもはや忘却の彼方。


 もしここがそのあの世だとすれば、月見里は何回消えてしまったのだろう。その人物が何故振り向いたかは彼のみぞ知ることだが、同じ立場にいると気持ちが分かる気がした。


 ロープで引っ張る月見里の重みがいつにもまして重く、伝わってくるのも彼女の手の震えのみ。

 『あれ』がいるかもわからない空間の中で声を上げることもできず、最低限に留められた足音は布が擦れる程度の音しかない。


 普段ならもっと鋭敏に音が聞こえてくるはずなのだが、血が十分に通っていない頭はどこかぼーっとしていて感覚さえどこか乏しい。


 ――それにしても長い階段だな。


 意味もないのに、そんな言葉が口から出そうになる。もう何かを口にしなければ、自分も消えてしまうのではないのかと思えてしまったからだった。


 いつもならそれほどでもない長さなのに、視界が潰され事前知識が無いとこれほどまでに足が重たくなるものだろうか。


 「――――っ」


 再び月見里へ視線を向けようとした瞬間、足裏に真っ平な床の感触を踏んだ。手に置いていた壁もそこから無くっているので階段の踊り場が終わってしまったらしい。


 ならば、今どこにいるのかと頭を回してみても、同じような暗闇。

 だが、電車通学をしていた時の記憶を引っ張りだしてみれば、駅の連絡通路なのだろうと予想は出来る。


 どこかに改札があるはずだが、僅かばかりの光で色付けされた闇の中では広い空間があると分かるぐらいで視覚情報は乏しい。


 ロープを少し引っ張って進むぞと合図を送り、右の方へと続いている壁を手で触って確かめながら進んでいった。


 地下へと押し込まれて漬けられた闇は、全ての音をかき消すかのような静寂に包まれている。

 ただ、時折どこからか水滴が落ちる音が聞こえてはくるので、正気を保つ分には事欠かない。

 

 連絡通路の壁には凹凸がなく、レンガ造りではなくなったらしい。ツルツルとした滑らかな壁が続くが、ところどころにひび割れが出来ていたり、陥没穴のようなものが出来ていたり状態は良くもない。


 そうやって、壁の肌触りを確かめながら進んでいくと足に円柱状の固いものが当たった。

 触ってみると、どうやら柵であるらしい。

 

 おそらく、この先に駅があるのだろうが、何の事前情報も無しに行くのは無謀である。

 改札機の近くに確か路線図があったはずである。電光掲示板は見れないだろうが、路線図の書かれた冊子ぐらいはあるはずだ。


 再び合図を送り、進んでいった。予想通り改札機らしきものが手に触れた。何個かその感触があると、ガラスのようなものにあたり、それが過ぎるといくつもボタンのついた機械にあたった。これが券売機だろう。


 東台がこれが券売機であることに気づいたらポチポチとボタンを押していくのだろうか。そんなことはないだろうと思いつつも、嬉々として押す光景がありありと目に浮かんでしまう。


 転がる硬貨でも入れて川近くの駅まで運んで行ってくれないものかとボタンを押してみるという薄ら寒いことをしてみるが、返ってくるのはボタンらしからぬ固い感触のみでやはり空しい。


 気を取り直して、券売機の周りを探ってみると紙の感触があった。

 

 ロープを弱く引っ張って合図を送り、改札機の下にある隙間にしゃがみ込んで死角を作り、月見里の服の奥に隠したランプをそれに照らさせた。

 浮かび上がってくるのは螺旋のように広がった線図。やはり路線図だったと胸を撫でおろす。


 指でなぞってみると自分たちのいる楽器駅ならぬ楽毅駅はすぐに見つかった。

 どうやら、川までは5駅ぐらいあるらしい。確かにその駅の名前と地上に上がった後の景色には覚えがある。

 モールの方も確かめてみるとここからは3駅程度のところにあるようだった。

 

 結構走った記憶があったが、実際それほど離れてなかったようで空しい気持ちがあるものの、それぐらいなのによく見つからなかったなと自分たちの幸運に些か複雑な思いが湧いてしまう。


 自分たちの置かれた状況に溜め息の一つぐらいついてもいいだろう。だが、静寂の暗闇に一つ音を落としこめば何が起こるか分からない。


 今こうして闇の中に光を落ちしている中、ダンゴムシのように身を丸めていても、体の隙間という隙間から漏れ出てしまうほど光が拡散していた。


 壁に耳あり障子に目あり。行き過ぎれば、ただの精神病だが、かなり不味い事であるのは確かである。

 それでも、小さな光の向こうは未だ無音の空間が広がっているためか、不気味を通り越してどこか不思議な感じがする。


 以前、トンネルの中でライトを照らすと、中から『あれ』が飛び出してきたことがあった。

 あの時はバイクのライトだったが、今は若干緑がかった光でそれのせいもあるのだろうか――――いや、それはないだろう。


 だが、こうしてマジマジと月見里が握るそれを眺めていると、月見里と2人で蛍を見た時の事を思い出した。

 あの時の月見里は目を輝かせて爛々としていたが、今の月見里は光が消えてしまえばそのまま闇の中へと消えてしまうのではないかと思うぐらいに憔悴しているように見えてしまう。


 月見里の隣にいる東台さえ神妙な面持ちをしているので、余計にそう思えた。


 「――――」

 

 だが、光を意味も無く晒していても意味が無い。ランプをしまう様にロープで合図を送った。

 月見里は不安なのを口の中に隠すように唇を噛んで、名残り惜しそうに服の奥底へとしまうのを最後に彼女の顔は再び闇の中に混ざった。


 立ち上がってその場を後にした。後は改札機を背中にして、壁伝いに移動すればおそらく駅のホームに辿りつくはずだ。


 そうして、先ほどの改札機のところまで戻ると、今度は金属とは違う柔らかい感触が足にあたった。

 手で確かめてみると、改札機の両端から出ているようで、記憶が正しければ昔折れ曲がった切符を入れた時に横腹を殴ってきたあのゲートなのだろう。

 

 暗闇の中、見えない何かを飛び越えるのは危険なことだ。ほかの改札機から通り抜けられないかと端まで行ったもののどれも閉まっているようだった。

 誰かが出て行ったなら多少歪みか何かありそうな気がするが、どれもぴっちりと閉じられているようで痕跡も見つからなかった。


 もしかしたら、この先に何もいないのだろうか。


 そんな甘い言葉がよぎるが、『あれ』に噛まれた腕がジンジンと痛みだしてその考えを取り払った。


 こちらはロープを下に引っ張り、しゃがめと合図を送る。少し間があったが月見里から合図があった。2人しゃがみ込んだようである。

 こちらもしゃがみ込んで、後ろ這って改札機を潜った。

 

 昔、修学旅行でどこかの大きな寺の柱にあった穴を潜ったときのことを思い出さなくもないが、もしここが明るかったらと考えると自分のやっていることにバカバカしさを覚えてしまう。

 

 潜り抜けても暗闇は暗闇である。後続にいる月見里の合図を待ちつつ、周りを見てみるもそんな所感しか出てこない。

 手を伸ばしてみてもあるのは空気ぐらいだ。また壁を探して伝っていかなければならないが、そこまで大きい駅でもないので改札機をまっすぐ行けばそのまま駅のホームかそれへと続く階段があるイメージだがどうなのだろうか。


 いや、足元も見えないと言うのに、迂闊に動けば2人を巻き添えにして転び落ちてしまうかもしれない。捻挫ぐらいならまだ何とかなるが、骨折でもしようものならもう二度と地上へと上がれないかもしれない。 

 

 ――これが急がば周れの精神で行くべきなのか。


 そう自分を説得してみて、若干の面倒くささを胸の中に残しつつも、月見里にロープを引っ張られて準備が出来たの合図。

 また手探りで壁の感触を確かめつつ、進んでいった。おそらく、左へとずっと進んでいっているようだが遠回りをしているようでむず痒い。


 無駄なところを歩き回るのもなかなかにリスキーな事が多いが、死角となるところに『あれ』がいる可能性は十分にあるので虱潰しに探せるメリットはあるのではないだろうか。


 経験則に基づいて考えるもあまり良い事とも思えない。こんなところで見つけたとしてもどうやって対応すればいいのだろう。


 そもそも『あれ』は暗闇の中でも目が見えるのだろうか。その答えは頭の一片にも出ず、文字通り闇の中である。


 触っていた壁がまた曲がり、固く閉ざされた扉を何個か触り、先ほど触っていたものが向かい側になったぐらいになったころ、大きな穴が空いた空間があらわれた。


 足元を確かめてみると、紛れもなく階段であった。

 

 ある程度の距離を歩いた分、当たりくじを引いたような高揚感があるが、いよいよ下っていかなければならないという実感に足のすくむような思いもあった。


 しかし、躊躇しても結局いつかは動かなければならない。ならば、未だ高揚感残るうちに行った方がいいだろう。

 月見里に階段の壁を触れさせて、ロープをゆっくりと下げて降りるぞと合図を送った。

  

 「――――っ」


 しかし、動こうとした時に、掠れ声のようなものが一つあって、掴むロープが重くなった。

 それが月見里の声であることも、ロープが軽くならない理由も分かっている。


 月見里がおそらく見ている方向に目を落とした。階段の先。


 電車の臭いを纏ってやってくる風はなく、列車の音が聞こえることは無い。なのにどこからか風の吹いている音が湧きあがっている、気がする。

 それが何であるのかは知覚できない。しかし、その先にあるのが今いるところよりも遥かに濃い黒一色であることは分かる。

 

 多分、自分とは比べ物にならないほどの恐怖を月見里は抱えているのだろう。それでも泣き出さない彼女は、未だ地下へと入る前に見たあの熱は消えていない。

 

 ならばと、こちらはロープをゆっくりと上下に揺らして動けるときに動けと合図を送る。後は彼女の判断次第だ。

 元はと言えば、こうなったのは俺の失敗のせいで俺の責任。被害を被るのは俺だけでいい。そうでなければ、正当性はない。


 もし上に行きたければ、このまま引き返そう。あてはないが、もしもの時は自分が餌になる。そうすれば、出来るだけ遠くに2人を逃がすことが出来るかもしれない。

 

 そう思うと自分はロープを上へと引っ張っていた。上に上がろうという合図であることは、月見里も知っている。

 

 自分がそうしていることに驚きはあるもののどこか達成感があった。それでも、これで彼女の覚悟を無下にしている感じがして、罪悪感も胸をひりつかせていた。


 少しの間、間が空いた。


 「…………」


 月見里から返ってきたのは、おっかなびっくりながらもロープを下に引っ張るという行動だった。

 

 胸にジワリとしたものを感じた。しかし、今はそんなものは邪魔で仕方ない。


 静かに深呼吸をして平常心を整えて、軽くなったロープを若干弱めに引っ張り階段を下っていった。


 階段は先ほどのものよりかは、幾分短いものに思えた。真っ暗闇に慣れたせいなのか、距離的に短かったのか。生憎、段数を数えていないので良く分からない。


 降りた先に壁は無く、どこを触っても空気をかするのみ。下手に動けばホームに真っ逆さまだろう。

 そもそもどちらに向かえば川の方へと着くのだろう。そもそも、どちらはどこにあるのだろう。

 

 勢いで来た感じもあって、こんな自分に何か良い手が思いつくはずもない。


 どうしようかと、どうすればいいのだろうかと、戸惑うくらいしか出来ず、おそらく前方にあるのだろう地面を踏んだ。

 

 ――なんだこれ。


 そうすると、足裏に違和感があった。まるでいくつもある滑らかな石を踏んでいるような感触があった。

 周りを踏んで見ても同じような感触がある。試しにもう一歩進んでみると、今度は細長い滑らかな石を踏んだ感触があった。

 

 規則的に並べられているようで奇妙な感じだが、以前にも踏んだような気がする。

 気になってしゃがみ込んで触ってみれば、ようやく思い出した。

 

 ――点字ブロックか。


 記憶だとこの丸っこいのが止まれだっただろうか。ならば棒線が進めだったか。普段使ったことが無いものを朧げな記憶を頼りにその上を歩いてみることにした。 

 念のため、月見里も点字ブロックを触らせてどういうところを歩いているか確認させた。月見里はこれを知っているのだろうか。


 それは分からないが、月見里もきっとこれを使ったことが無い。慣れない足元のせいで、彼女も自分もどこかおぼつかない。

 月見里の後ろにいる東台の様子は分からないが、これまでの彼女を見ているときっと同じようなものだろう。

 

 アトラクション感覚に若干の高揚と不安を覚えつつ、歩いていると進めの棒線が無くなり、止まれの丸点の点字ブロックしかないところに行きついた。

 こ

 れほど止まれがあったらどう動けばいい。奇妙な感覚を覚えて、何があるのだろうと周囲の要素を手で触ってみることにした。

 そうすれば、地面が空気に変わった箇所があって、遥か昔に聞いた駅員のアナウンスが頭の中を木霊した。


 ――白線か


 立ち上がり、線路があるのだろう方向に目を向けると、頬に冷たいもの伝わる感触を覚えた。冷や汗の1つや2つかきたくもなる。

 あのまま考えも無しに言っていたら、ここに落ちていたのかと。そう思うと目の見えない人間の苦労に同情にも思える畏敬の念を覚えた。

 

 先人たちの知恵というものに感謝を覚えるものの、残念ながらこの点字ブロックだけではどちらが行きたい方向に続くのかは分からない。

 もしかしたら、点字か何かで書かれているのかもしれないが、点字の知識が無い自分にとっては無いのと一緒だ。


 結局は目に頼るしかない。多分、どこかに駅の看板があるはずだ。


 今いる点字ブロックを基点として、触れるものが無いかと物がありそうなところに手を突っ込んでみる。

 どうやら駅は広いらしい。いくら突っ込んで見てもスカしかない。しかし、幾らか突っ込んでみると柱のようなものがあり、イスらしきものがあったり、少なくとも何かはあるようで着々と目的の物に近づいている感じはあった。


 そして、多分、当たりを引いた。看板のようなものに触れた。

 滑らかな紙のようなものを触っているような感触で、以前駅名の入った看板に触れた時と似たようなものだった。

 引き出物を当てたような高揚感を覚えたが、ここが暗闇だと気づいてまた振り出しに戻った。


 もういっそのこと勢いママ光を点けてしまえと思わなくもないが、静かに横たわる闇から『あれ』がいつ牙をむいて襲い掛かってくるか分からない。


 しかし、分からなければ、間違った道に行く可能性は高い。

 もし正しい方向に行ったとしても終点ではないので、通り過ぎて別のところに行ってしまう可能性がある。


 先ほど見た路線図を思い出してみると、今いる東側の海沿いのところからだと西に回っていくと川のところに行って、東回りに回っていくと確か中心部につくはずだ。このままいけば、他の路線と交わるところがあるが、大まかに考えるとそんなルートである。

 ある意味歩いていればいつかは自分たちがどの方面に行っているのか自ずと分かるかもしれないが、現実的ではない。


 答えはすぐそばにあって、見る方法はあるのに、それをやってしまえば代償を払うわけで、もう出口の階段の先にあった光が届くこともないこの暗闇分の対価を払える度胸もない。


 ならば、最後に残った非現実的な案を取ろうかと思えば、そんなものを月見里と東台に押し付ける勇気もない。


 否定の材料はたくさん出てくるが、新たな案は出てこない。

 これほどのないない尽くしでも、頭には何かはあったが、それが具現化する前に消えて行ってしまう。

 

 それでも、なんとか引き出そうと頭をうならせてみるも、なんだか馬鹿らしくなってしまう。


 ――地下鉄に入りたくなかったのは俺じゃないか


 結局は頭には何もなくて、考えるふりを始めている自分に気づいた。もう袋小路だと気づいているのに、それが嘘だと嘯いて非生産的なことをする。


 今は自分を責めるほどの時間はないというのに、俺は一体何をやってるんだろう。


 「――――っ」


 そうやって一人勝手に悲観していると、後ろからロープを引っ張られた。月見里からの合図だった。


 なんだろうかとこちらが反応する前に、月見里が前の方へとロープを引っ張った。

 

 それが何だか一瞬考え込んだが、前方に行こうということだと察した。


 月見里がどういった根拠で判断したのか疑問だが、それをどのように伝えるか伝えてもらうかのサインは作った覚えがない。


 考えはない。こちらに答えられる材料が無い。

 

 少しの間考えて、こちらはロープを引っ張って応じた。

 月見里が決意をもって進んだ道だ。ならば、もう何の理由がなくとも彼女の意思を尊重してもいいだろう。

 先ほどの黄色い線までお下がりくださいの点字ブロックに戻り、月見里の示した方向へ進んでみることにした。

 

 ホームの端に階段を見た記憶がある。このまま行けば、それにたどり着けるはず。


 そうすると、改札機のところで触ったフェンスのようなものが当たった。流石に、線路へと降りる階段が簡単降りられるようになっていないだろう。


 冷静になるも、また道を妨げられて、八方ふさがりに逆戻り。どこかに道が無いかとフェンスを触りながら移動してみると、一つだけ外れているのが分かった。


 ドアだったのだろうか、傍の地面に本来はまっているはずのものの感触があった。手で探ってみると、鎖が絡まっているようでどうやら何等かの理由で切れてしまったのだろうか。

 

 だが、それほどまでに楽観主義になった覚えはない。風は吹いていないはずなのに、どこか空気が奥へ奥へと流れ込んでいるような音がしている気がした。

 

 倒れたフェンスを越えると、フェンス伝いにホームとは反対側の方に行くと再び壁があった。それを頼りに進んでいくと、思った通り階段があった。

 自分の記憶が正しかったのだと喜ぶ気持ちも僅かにあるが、また下へと下っていくのだと思うとむしろ足は竦む。


 月見里にまた降りるぞと合図を送った。また少しばかりロープが重くなったが、すぐに軽さを取り戻す。


 かなり音を抑えているはずなのに、カツリカツリと階段を踏む音が妙に耳の奥に響く。

 

 少しばかりの時間が過ぎ、地面へと足をつけた。


 本当に下についたのかと足で探ってみれば、線路のレールらしき突起物があるので、どうやらそうであるらしい。

 ホームは自分が思っているほど深かったようである。本当にホームから飛び降りなくてよかったと胸を撫でおろす。


 後ろの2人が降りたのを合図でもらい、ゆっくりと歩を進めた。ここからどれくらいの距離があるのか。


 そういえば、進む方向が正しければ何駅か先に左へと分かれるところがあったはずだ。ならば、左の壁を触っていた方がいいだろう。


 レールを飛び越えて左へと移り、壁へと到着。これで路線の変わり目が分かるが、駅のホームに着いたことをどうやって確認したらいいのだろうか。

 こちらが立てばあちらが立たないみたいな状態だが、まずはこの方向が正しいかどうかに重点を置いた方がいいだろう。


 そうやって、いよいよ左手に壁の冷たい感触が触れた。


 選択とは何かを捨てる行為である。自分が取った行動ながらそんな言葉を思い出した。


 できるなら、有意義な選択で死にたいものだ。

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