血を引く糸


 「――――」


 目覚ましのベルが鳴る。


 普段ならバカみたいに規則的な音に鬱陶しさを感じるものだが、その音はやけに高く悲痛そうなものに聞こえた。

 

 後頭部に当たる感触がとても柔らかい。自分は今、横になって眠っているのだろうか。


 額の部分にも何かひんやりとしたものがあたって心地いいが、他のところはごつごつとした岩みたいな固い感触で寝心地は良くない。

 何故だか片方の手だけ、ふやけたように感覚が掴みづらい。


 そのヘンテコなギャップさえ通り越せば、いつか子供のころに熱を出して寝込んだ時に似ている。


 陽に焼けた畳、古ぼけた土壁。どこか情緒があるのに、か細い思いをしたことしか覚えていない。

 それでも、どこからか聞こえる風鈴の音が髪を撫でる感触と共に流れていくのが心地よかったのを覚えている――。

 

 否、頭の中に浮かぶ情景のどれもが、子供の頃に体験したものではない。もっと最近の物だったが、それがいつの記憶かは分からない。

 しかし、熱で暈けた目の先に映る、橙色の髪をこちらの頬へと落とす彼女には確かな見覚えがあった。


 そういえば、自分は何をしていたのだろう――。


 「大丈っ――か?」


 橙色の光が焚かれ。黒く塗られたようなコンクリート壁が見えた。


一瞬、まだ本屋の倉庫の中にいるのかとショックを覚えたが、横からランタンの光に照らされて地面から階段が浮かび上がってくる。


 「起きた……!」


 その主である月見里の喜声が飛んできて、ようやく悪夢から現実へと引き戻される。

 

 「あっ、八雲。よかったぁ、起きてくれて」


 柔らかな鈴の音のような声。そちらを向くと、東台が安心しきった顔をして笑みを浮かべていた。


 未だ朧げなところが残る視界で見る彼女はかなり輝いていると思ったが、よくよく目を凝らせば彼女の顔に太陽の光が当たってだけだったようである。


 どうやら、ここは完全な地下ではないらしい。


 東台は、外の様子を一度だけ見ると、慎重に階段を降りてこちらへと駆け寄ってきた。起き上がろうとするが、体にまだ力が入らずまた視線は天井へと戻される。


 目が慣れてきたせいか、天井の角付近には長方形の電灯が刺さっていて、それが下の方へとずっと続いている。

 それを追っていけば看板らしきものも張り付けられてあって、少なくともただの連絡通路ではないことは垣間見えた。


 「ここは……どこだ?」


 「ここ?楽毅駅っていう名前の地下鉄駅――の入り口付近かな」


 「が、楽器駅?そうか……」


 楽器という名前に珍奇なものを覚えたが、自分が知っている駅の名前のどれにも当てはまらない。

 周りを見れば茶色いレンガをはめ込んだような壁が至る所に見える。下を見れば同様のものがあって寝心地の悪さはここにあったらしい。


 天井か床のものか、そこから零れ落ちたものを見るにどうやらタイル状のものである。その程度しか分からない。

 唯一分かる事とすれば、自分が眠っていたのは階段の踊り場であることのみ。


 自分がどの地点にいるのか分からないことに一抹の不安を覚えるが、頭が冴えてくると東台と月見里にここへと運んでもらったという事実に今更気づいてやはり罪悪感を覚えてしまう。

 

 「その……運んでもらって、悪いな」


 「ううん、いい休憩になったから倒れてくれて良かったよ」


 なんとも良い笑顔で返す東台。それぐらいのブラックジョークを言ってのける彼女に、どこか有難みを感じてしまう自分がいた。


 とはいっても、隣にいる月見里は言葉にもならない低い声を最後に絶句していたので反応は人それぞれである。

 

 「それで、2人とも怪我はない――痛っ」


 「ああ、八雲。まだ動いちゃ駄目だよ」


 起き上がろうと身を起こした時に、熱を帯びた痛みが腕に走った。

 こちらの唸る声に月見里が慌てた様子でこちらの目の前に立った。


 心配そうな顔を浮かべているが、目を向けているのはこちらの顔ではなく腕元。

 未だ尽きることのない熱を孕むそれに目を向けてみると、布切れをぐるぐる巻きにされてちょうど頭に巻き付けたもののように成り果てた腕が置かれていた。


 「ごめんねぇ。なかなか血が止まらなくて、これでもかと巻いちゃったら、そうなっちゃって……でも、ミツバチの花粉みたいで、かわいいでしょ?」


 そう言って、苦笑いを浮かべる東台。心なしか、月見里もどこか気まずそうにしている。

 変わり果てた姿に困惑してしまったが、ヘンテコな比喩表現をされるとそういう感情さえ冷めてしまう。

 ただ、ミツバチは固められた花粉を運んで受粉をもたらすが、こちらのものはただ単純に腕の動作を制限するだけのものだと思うとそのあたりは少し複雑な気分でありる。


 どれぐらいの時間、気を失っていたのかと時間を確かめようとしたが、自分の腕に巻いてあった時計がどこにもない。


 「巻いてあった、腕時計はどこにいったんだ?」


 「あっ……そっか、やっぱり――ごめん、運ぶのに夢中で全然気づかなかった。もしかしたら、外にあるかも」


 そう言って、東台は苦笑いを浮かべる。

 時間をはかることで移動の計画を立てたり、どこに身を潜めるかを考える材料にもなりえているのに、その手段がなくなったのは大きな痛手だ。


 「ごめんね」


 「いや、別にいいんだ。こちらこそ悪かった。その、いろいろと迷惑をかけたようだな……本当に。それにしても、寝相が悪いせいで、腕が勝手に階段に乗ってたようだった」


 自分の管理の仕方が悪かっただけなので、彼女を責める道理はない。それに、外へ出て探しにいけばいいだけの話だ。

 しかし、それにしても腕が痛いし痺れている。それもそのはず、腕が階段を2段分掴んでいたようで、寝違えない方がおかしい体制であった。


 「あっ、ああ、ううん、違うよ。それは、心臓よりも高い位置に上げると血が止まりやすくなるって聞いたから――血は止まったでしょ?」


 「ん、そうだな。ありがとう」


 確かに腕を見てみれば、ところどころ赤いものが出ているが、噛まれているだろう場所は何かが張り付いているという感触しかないようで、おそらく、多分、止血できているようだった。


 しかし、未だ生傷であることに変わりはなく、アドレナリンがすっからかんになった今では、脳にマグマがぶち込まれたようなとてつもない痛みに成りえている。

 

 「だが、その――悪かった。身体を触らせて。消毒液はつけてくれたか?」 


 「う、うん」


 「そうか、よかった」


 とりあえず、患部になったとも言うべき場所を消毒したことに安心したものの、東台がバツが悪そうに月見里の方へと目を泳がせているのを見つけて途端不安な感情に戻される。


 しかし、その動作自体はすぐに終わって東台が再びこちらに目を向けると、こじ開けるように口を開いた。


 「あの、八雲さ。一応、八雲の腕にも消毒液をかけたんだけど、体とかは大丈夫?」

 

 「あっ、ああ、それは多分大丈夫だ。そのあたりはもう自分の顔で実証済みだからな……感染はしない」


 こちらは布越しに自分の顔を撫でた。感触は昔と変わらず、蛇のようにざらついている。何年物の傷になるのだろうか。


 噛まれたら感染する。ある意味ゾンビものの既定路線といえるパターンだが、残念ながら現実はそれからも逸脱してしまっているらしい。

 時折、血のような液体を吐くことがあるが、それだけで体の調子がおかしくなったことは一度もない。


 「そっ、か、ごめんね。変なこと聞いちゃって」


 「いや、いいんだ」


 こちらが口に手を置いて考え込んでいると、東台が申し訳なさそうに顔を落とした。

 その感情が何に対してなのかは分かるが、彼女の責任ではない分罪悪感を覚えてしまう。


 自分の顔が彼女の言うところの耳なし芳一なのは、決して誰かに望まれたのではなく、自分の選択で自分で引き起こした結果でしかないので、自業自得の以外の何物ではないのだ。


 「――――ぁ」


 自分の口から何か声が漏れた。自分のものなのに、その意味は分からない。だが、その声でいつの間にか地面に目を落としている自分にようやく気が付いた。


 やっぱり、地下へと続く道の地面は、冷たくて暗い。


 一層と雰囲気が沈みこむ。その息の詰まる感じがどこかデジャブを感じさせるものだったが、先ほどまでいたあの倉庫であると気づいたのはそう時間がかからなかった。

 もうこんなところ出てしまった方が、身のためだ。 

 

 「こんなところで休んでいても仕方ない。出るぞ」


 「八雲。待って」


 そう言って、中二病よろしくの腕を抑えるポーズで立ち上がろうとすると、東台は慌てたようにこちらを止める。

 一体なんだと思ったが、月見里も東台も同じように不安げな顔を浮かべて出口の方を見あげているのを見て、体中から血の気が引いた。


 「まさか、もう『あれ』が近くにいるのか」


 「うん、まだこっちには気づいてないみたいだけど……」


 それならば早く出なければと思うが、今の時点で外からは何も聞こえてこない。


 「――どれくらいいた?」


 「うーんと、多分3桁ぐらいは超えてるくらい。だよね?」


 東台がそう言うと、月見里も頷いた。モールで見た数よりは大分少なくなっているが、かなり近くまで来ているとなると『あれ』の声が1つや2つ聞こえてきていいはずだ。


 「そうか、分かった。一旦、そこで待っててくれ」


 そうして、立ち上がろうとすると浮遊感に襲われて足元がふらついて倒れた。


 「くそ、一体どうなってるんだ」 


 「まだそんなに動かない方が……あんなに血が出てたんだよ」


 東台は深刻そうな顔をしてそう言った。まるで彼女が余命宣告を告げる医者のように見えて、いつもとのギャップに少し笑えてくる。


 しかし、いつの間にかこちらの傍に座っている月見里の顔が、泣きそうなものになっているように見えて気分が沈み込んだ。


 「悪いが、水をくれ」

 

 そういうと、月見里が即座に水を手渡してきた。もはや、前もって準備したかのような早さである。


 キンキンに冷えたものではないが、喉へと流し込んだぬるい水が失った血の分だけ体全身を巡っているような気がした。否、そう思いたい。


 ここに退路はない。じっとしていても、一度人間の姿を捉えた『あれ』がみすみす諦めてくれるわけでもない。 


 寝転んでいるわけにもいかず、立ち眩みを抑えつけてもう一度立ち上がった。ここにいる彼女たち、2匹分の餌にされてたまるかと、それらしい発破をかけて。

 

 「リハビリを兼ねて、外の様子を確認したい。とりあえず、そこで待っててくれ」


 そう言って、一段一段確認しつつ階段を上った。こころなしか、足がヒクついているような気がする。 


 月見里と東台からは何の言葉もなかったが、途中まで階段を上る音が聞こえてきた。しかし、こちらが上までたどり着くと察したかのように足音は止まる。


 ガラス越しではない健やかな光が目を覆い、開放感が身を包む。だが――。


 「なんだこれは……」


 外の景色を見ることはかなわず。目の前には鬱蒼とした草があった。


 それでも、閉鎖的な空間には似つかわしくない、どこからか漂う花の香りがある程度の清々しさを持たせてくれている。周りには青々しい色物しかないが、きっと近くに花が咲いているのだろう。

 その花の名前も形も知らないのに、どこか既知感のある匂いであるのがどこかもどかしい。


 花の香りは決して嫌いではない。風景を見るときに何か華があった方がいい。

 向こう側にいるだろう『あれ』に未だ気づかれていないのは、おそらくその草花たちのおかげで、そう考えれば頼もしい壁にも思えた。


 だが、地面を見れば、轍のようなものがあって、その先には子供ひとりがしゃがみ込んで入れるくらいの穴があった。

 おそらくこちらを運んだ時に出来たのだろう。ここを見つけて、ここまで運んできた東台たちには驚くばかりでやはり申し訳なく思う。


 轍はトンネルのようなものを作り、外界と繋がっているように見えるが、やはり『あれ』の声は聞こえてこない。


 ただ、何かが草を食んでいるような潰しているような音が時折聞こえてくる。

 

 鹿が草でも食んでいるのだろうか。ただ、それほど穏やかなものではない。


 恐る恐る体を落として、出来た穴から覗きこもうとするも、瓦礫か何かが邪魔して何も見えない。

 何もいないかもしれないという、根拠のない期待感を持ちながら、立ち上がって草木をかき分けて覗きこんだ。


 「――――っ」


 息を呑んだ。


 地面が『あれ』に覆われていた。

 

 否、地面だけではなく建物の壁も覆われていた。


 おそらく、東台の言っていた3桁では済まないどころの規模であることは違いないが、そんなものがどれもイソギンチャクのようにゆらゆらと頭を動かしているのが気持ち悪い。


 どのような力で壁に張り付いているのかは奇妙極まりないが、地面側も一点の場所だけ異様に盛り上がっていて異形の様相を見せる。


 『あれ』が折り重なって出来た山。

 まるで運動会で見た組体操を想起させるものだが、傍から崩れているのもそっちのけで続々と乗り上げて形作られるそれは整然としたピラミッドではなく、肉の塊といった方がよいものだった。

 

 しかし、そのこちらではなく他のことに気をとられているおかげか、こちら側へと視線を向ける『あれ』はいない。声をあげるものもいない。

 それこそが、今の不幸中の幸いに陣取れている所以でもあるのだが、彼らの掌で遊ばれているような気がして自分の感情の中に喜びは生まれなかった。


 そんな複雑な気分を孕んだ刹那、一つの風がなびいた。


 ビルから作られたのだろうその風は強く、こちらを覆い隠す草をいなして、こちらの姿を公衆の面前へと曝露される。


 『あれ』は何かを捉えたかのごとく、揺らしていた首をゆっくりと風に乗ってこちらの方へと向きやり――。


 「――――っ!」

 

 思わず漏れそうになる声を、顔に巻き付けた布切れを噛んで止めた。


 草の擦れる音なんて無視して、即座に体を落として、息を殺してゆっくりと離れた。


 階段へと腰を下ろした時には、体全身の力が逃げるようにして抜けていた。


 「なんだ、あれは?」


 「でしょ?昨日もずっとあんな感じで……」 


 東台がなんだか申し訳なさそうに、指をもじもじさせている。


 あんなことをする『あれ』は見た事がない。多少なりとも『あれ』のことを知っていると思っていた分、未知に対する驚きが重くのしかかってくる。


 だが、何故そんなことをしているのか考える余力もなく、緊張で縛られた体を抱えたまま、ただただ放心するしかなかった――。

 

 「今、何て言った?」


 そういえば、先ほど東台の口から『あれ』以外の無視できない2語が出てこなかっただろうか。

 それが聞き間違いだったらと願うばかりだが、残念ながら問いただした彼女の表情は暗くなっていた。


 「えーと……昨日もずっとあんな感じって」


 「昨日?昨日ってどういうことだ?」


 「そのぉ、八雲。2日間ずっと倒れてて……」


 「ああ、嘘だろ」


 目の前が歪んだ。自分の知らぬ間に二日過ぎ去ってしまったという事実に狼狽するしかなかった。


 しかし、放心するこちらに東台はまた申し訳なさそうな顔をして空を見つめ、 


 「あの、それとさ、『あれ』が固まってるところに八雲の時計があるかもしれなくて……」


 「はぁ、嘘だろ……」


 東台がまた言葉を紡ぎ、先ほどと同じ言葉を繰り返した。だが、負の感情で心を呼び戻された分、吐いた息は先ほどよりも重く心に留まる。


 音で反応しているだけかもしれないが、果たして人間の姿を見た『あれ』が秒針の音ごときにあれほどまで反応するのだろうか。

 

 返事もない。誰も彼女も深刻な顔でこちらを見てくる。


 酸素欠乏気味の頭では思考をまとめることも難しく、おもむろにミツバチの花粉――もとい、きりたんぽみたくなった腕を枕代わりにして項垂れた。


 今度は鼻腔の中に消毒液の臭いが広がって、あまり落ち着かない――。


 「まさか、臭いに反応――している?」


 あるようでなかった考え。嗅覚。おおよそ、獣のそれよりも一層劣っている感覚が、元人間になってから鋭敏なものになったということだろうか。

 それならば、時計に残された人間の臭いに今反応しているのかもしれない。5年以上荷物に詰め込んでいたそれはきっと極上の臭いだ。

 

 まるで犬、いや、さしずめ狼といったところだろうか。5年も餌にありつけなかったそれならば、人間の残り香でも追い求めてしまえることだろう。


 いつ臭いの下に辿り着けるかという絶望感に乾いた笑いがこみ上げるが、腕に出来ている球体にほのかに浮き出る赤色を見て、焦燥感に襲われて立ち上がった。


 「まずい。はやく血の痕跡を――」


 慌てたように立ち上がったが、また東台に止められる。何かと睨みつけてしまい、びくりと震えた彼女の腕には小瓶のようなものが握られていた。 

 

 「あっ……その点は大丈夫だよ。八雲の血がついたところは、水をかけて香水をまいたから。入口のあたりだけだけど……」


 そう言って、東台は小瓶を揺らした。ちゃぽちゃぽと中で揺れる水が聖水のように見えて頼もしい。

 青草の壁で花の香りがしたのか合点がいったが、東台が香水を使う習慣があるという意外性に驚いた。

 

 「そうか、すまないな……」


 それでも、束の間の安堵。


 もし見つからなかったとしても、飢えで死ぬこともなく、眠ることもない『あれ』と、飢えも睡眠欲も月並みにある人間が持久戦で勝てるわけもない。彼らが飽きという感情を持っているのなら話は別だが。


 結局は、じり貧であることには変わりない。


 「テントでも敷いて……様子見る?」


 少しの間の沈黙の後、東台が小さく指をたてて自信なさげにそう提案する。


 自分の頭の中では既に物資の浪費という5文字が浮かんでいるが、他の案があるわけでもなく――迷い箸ならぬ迷い首で月見里に視線を向けた。俺は月見里の顔に正解が書かれていると思っているのだろうか。


 当然、そんなことは無い。


 彼女はちらりと後ろをみやると困ったように眉を落としてこちらを一目、そのまま無言で地面へと視線を落とした。

 

 「――――!」


 瞬間、金切声が空間へと流れ込んでくる。


 銃を取り出し構えるが、そこは外ではなく、闇へと続くトンネル。


 音が反響したせいで外からの音が向こうから聞こえたように錯覚したのかもしれない。

 そうでなかったとしても、5年もメンテナンスされていない施設で建材の一部が落ちることなど珍しくも無いことだ。


 少なくともそれ以上の事が何も起こらなかった。起き上がりの頭に緊張の糸を引き締めるのは難しい。糸を緩めて、銃をしまいこんだ。


 上手く収まらない。手が震えていた。人は慣れるというのに、どうしてここまで自分は臆病なのだろう。 

 

 「どうしたらいいんだ――」


 憔悴しきった頭から出てきた言葉はどれも弱音で、今回もそれは例外ではなかった。


 出てくる言葉で何か解決できるわけもなく、ただ目の前にいる2人に不安を押し付けるようなものでしかなくて、それが一層罪悪感を深める。


 自分の言葉が一秒でも早く彼女たちの背中へと通り越して暗闇の中へと吸い込まれてしまえと、心ながらに願った。


 「退路なら――あるじゃん」


 月見里が小さな口を開けてぽつりと言葉をこぼした。


 言いながら真っ暗闇に吸い込まれそうなほどに影が差していく彼女を見て、こちらはいつもの東台をまねて手を叩いて話題を切り替えた。


 「仕方ない。テントを設営して、持久戦に持ち込むぞ。さぁ、取っかかれ」


 もういい。こうなれば、持久戦だ。明日になれば、もしかしたら、いつも通りの行動に戻っているかもしれない。

 よくよく考えてみれば、『あれ』に見つかったのは今回で2度目だ。一度目は、例外的なものだったが、それは別にいいだろう。


 「退路ならあるって……」


 「これで順調に数が減っていけば、逃げられるチャンスもあるかもしれない」


 「えっ、でも、ゆいちゃんが今……」


 東台は困ったように眉を下げていた。


 もちろん、数が減っていくなんて何の確証もない。もしかしたら、今も数が増えているのかもしれない。だが、明日数が減らないという根拠もまたどこにもないのだ。


 3日間の付け焼刃が悪魔の証明とかいう言葉を浮かばせる、そんなものはシュレーディンガーの猫でねじ伏せてやる。


 奮い立たせようとしたが、血液欠乏気味の頭では耐えられずまた転んでしまった。


 「八雲……」 


 こちらを支えようとする東台。それを手で遮った。これはただの立ち眩み。


 「腹が減っては戦は出来ぬだ。今日は早めに飯を食べて、さっさと寝よう。早く準備に取り掛かるぞ」


 そうだ。腹が減っては戦は出来ぬ。


 3人ぽっちで、広大無辺の『あれ』に立ち向かうことなんて考えてはいないが、少なくとも武士は食わねど高楊枝よりは幾分マシなことわざではある。


 根拠も無い自信を鎧のように纏わりつかせれば、謎の高揚感の導くままにテントを設営しようと自分の荷物をひっくり返すが――。


 「退路ならあるって言ってんじゃん!」


 月見里が状況そっちのけで声を張り上げた。


 その直後、またあの音が飛んでくる。それはまた同じ地下鉄へと続く暗がりからだった。


 しかしながらも、青い顔をした彼女がすぐに口を塞いだおかげか、その後に続くアクションが起きることは無かった。

 

 「お前、一体何を考えているんだ?」

 

 それでも、その行動が悪手であることには変わりはない。


 もしかしたら、この声で位置を特定されたかもしれない。ここにやってくる可能性も高まったことだろう。


 目の前の月見里を睨み付けるが、彼女は臆することなくこちらの目を見据えていることに胸がざわついて続く言葉を飲み込んで身を引いてしまう。


 きっと、こちらは情けない顔をしていたのだろう。月見里はこちらから目を背け、次に東台へと目を向ける。


 「ねぇ、ここから郊外までは行けるの?」


 「え?えーと、郊外まではいけないけど、橋があるところまでは行けたような……」

  

 突然、意識を向けられたことに戸惑う東台は、たどたどしくも天井を見上げてそう言った。


 運が良ければ東台の言う所まで行けるかもしれないが、街機能が老衰寸前の都市のインフラがそこまで状態を保っているとは思えない。

 だが、そうだとしても、この八方ふさがりな場所からは離れられることだろう――。


 「だが、月見里……」


 声をかけても月見里は押し黙り、見据えるように暗闇の方へと目を向けた。まるで、ドラゴンに立ち向かう少女のようで――。


 「ゆいちゃん。大丈夫?震えて……」


 「…………」


 月見里は鎧武者のように口を固く閉ざし続ける。それでも、彼女の小さな体は主人の覚悟を鑑みることはなかった。


 「なぁ、月見里。俺は地下鉄駅に入ったことは無い。今みたく小さな光でも無暗に焚くこともできない。さっきの音聞いただろ?また暗闇の中で泣かれたら……」


 自分から出る声はどこか猫撫で声で気持ち悪い。吠えてやりたいが、すっからかんになった頭では到底出来そうになかった。


 だからこそ、どうしても最後の言葉が声にならなかったのだろう。否、いったい何を言えばいいのか分からないのだ。


 「――――だから」


 吠えようとするも、弱々しい声しか出ない。月見里は射貫きそうな真剣な目でこちらを見据えている。


 少なくとも、俺には善人にも悪人にもどちらかになる覚悟がないことははっきりした。

 

 別の選択肢を与えてやれる頭も無い。無い無いづくしのこちらが与えられる言葉も無いのも道理だ。

 

 「ねぇ、いつ動くか分からない『あれ』が外にいるの。食糧も無駄に出来るほどないし……。このまま立ち止まっててもただ状況が苦しくなってくだけで――選択肢が一つしかないんならそうするしかないじゃん」

 

 月見里はそんな不完全な言葉さえ呑み込んで返す。どうしようもなく正論な言葉に、何か言い返せる言葉をやはり俺は持ち合わせていない。


 空気が重くなったような気がした。これは彼女の決意によるものなのか、こちらの抱いている感情のせいなのか。


 彼女は今もなお震えている。それを手を伸ばすこともなく、ずっと俺は見ている。


 「――っ!何してんの?」


 しかし、東台はそんな彼女の手をいとも簡単に掴む。


 月見里とこちらが2人して鳩が豆鉄砲を喰らった顔を晒したのはこれが初めてのことかもしれない。

 

 「手をつなげば、ちょっと安心するでしょ?肝試し、肝試し!」


 そうあっけらかんと答えてしまう。月見里は3本毛のデカクチビルお化けでも見たような顔をしているが、体の震えは確かに治まっていた。


 そんな自分の様子を見たせいなのか、彼女は握られた手を見て溜息をつくとコクリと小さく頷いた。

 

 一体どういう意図があるのかは、東台の満面の笑みを見なくとも理解できた。 


 ある意味いつものルーティンを逡巡したおかげで、月見里の険しかった表情も段々柔らかくなっていることに自分もどこか心が安らいだ。

 だが、同時に取り巻いていた空気がまたこちらを通り越して解決されたことにまた自分は無能であることを刻みこまれる。


 しかし、東台は新たに纏わりつく邪気をそっちのけにして自分の空気を運び込む。

 

 「お腹空いちゃったらいろんなこと不安になっちゃうし、ご飯食べよっか」


 東台はいつもの笑みを見せてそう言った。


 意味的にはこちらと言った言葉と似ているが、彼女が放ってしまうともはや抗えないような不思議な気持ちにさせられる。


 月見里は素っ頓狂な顔を彼女に向けていたが、反対の声をあげなかった。


 そして、テントの代わりに食器を取り出した。暗闇の中で、階段の踊り場で、コンロとフライパンがあるのがなんとも奇妙に映るが、昨日まで真っ暗闇のでかい倉庫にテントを立てていたのでインパクトはあまりない。

 

 フライパンに落としこまれるのは何だと思えば、緑の草と肉の油滴るスパム。


 緑の草を吐き出した缶詰のパッケージのいたるところにエセモノ英語が散りばめられていて不安を覚えるが、そういうものは全てスパムが吸収してくれるので問題ない。


 東台が言うにこの緑の草はホウレンソウであるらしい、小松菜かと思ったがよくよく考えたら小松菜の缶詰は見たことがない。


 鉄分が豊富にとれるそうだが、栄養素という概念しか知らない自分にとってはなんだか堅そうという感想しか思い浮かばなかった。

 東台がいうところには貧血予防にいいらしく、東台と月見里が続々とこちらの皿に盛りつけだしたのを見るにかなり気を使われているようでなんだかこそばゆい。


 極めつけに、スパム缶の肉さえ結構多めに入れてくれたのが本当に申し訳なくなるがやはりうれしかった。


 そうとなれば、気分は誕生日にでもなったようだが残念ながら昔も今も祝われた記憶はない。

 そもそも、祝えるようじゃない状況下に陥った原因は自分にあるので彼女たちの優しさにどこか気まずいものも感じてしまう。


 月見里と東台はそんな態度もおくびに出さず、いつも通りに食事を終えてご馳走様。そんな中でも地下鉄の方から時折風が唸るような音が流れ込んでくる。


 一体それがなんであるのかは誰も言葉にすることはなく、黙々と食器の片づけを終えて準備を整えた。

 

 空っぽだったお腹の中は満杯で、未知に対する恐怖心が入り込んでくる余地はない――そう思いたい。


 少なくとも、今の東台は肝試しに行く子供のような熱を瞳に持たせ、月見里は――輝くランタンを消して胸に小さな光を灯す。灯る小さな光は比喩ではなく、こちらが預かっていた光る兎の人形である。


 東台に手を引かれる月見里が、一瞬だけこちらを見て不満げな顔を浮かべた。だが、彼女のそれはこちらに不満をぶつけるときの顔ではなく、覚悟は折れていない。


 そして、一度だけ光のある出口へと目を向け、鉛のような地面を蹴り暗闇が続く入口へと歩き出す。


 ふと、蜘蛛の糸という言葉が思い浮かんだ。


 地獄で苦しんでいた男が生前一度行った善行のために極楽浄土へと続く蜘蛛の糸を目の前に垂らされたという話だ。

 終わりはどうなるかは知らない。相変わらずなことに、何故だか自分は気に入った本は最後まで読まない。


 しかしながら、蜘蛛が吐いた糸を登ると言うシチュエーションに今回ばかりはどういった終わり方なのか薄々感づいてしまえる。

 

 ならば、自分の足元に浸かる暗闇の終わりはどうなるのだろうか。選択肢があるだけマシともいえる。

 見方によれば今回こんな選択肢を作ったのは虫を助けたのと同じく彼女たちがこちらを救った善行からともいえるが――。

 

 ふと頭をかいて、もう片方の腕に当たる。ほのかに鉄の臭いが薫った。きっと、飛び散った血が服に付着したのだ。

 こんな血でも飢えた『あれ』には格別のご馳走になるのだろう。きっと、釘付けになるぐらいには――。


 「なんで、俺を――」


 その後の言葉が続かなかった。一体俺はその後の言葉を言って彼女たちからどんな返答を貰いたいのだろう。


 しかし、どんなことを言ってももう後の祭りだ。


 「ん?どうしたの?」


 それでも、好奇心旺盛の東台はこちらの顔を覗き込んで、残りの言葉を口から引きだそうとする。 


 「……いや、まだ血の臭いが残っててな。悪いが、香水をかけてくれないか」


 「ん、いいよ」


 そう言うと東台は香水を腕を中心にして体のあちこちにかけてきた。そんな至る所にかけるものなのかと思ったが、鼻腔の中に香水の香りが充満するときっとこういうものだと一人合点した。


 入口で嗅いだ残り香よりも強い、花かフルーツにも似た甘い匂い。

 本来の臭いを嗅いで今更ながらに時折、そして今まさに東台から香ってくる匂いだということに気づいた。


 おおよそ、こちらからは決して臭ってきそうにもないそれが自分に纏わりついていることにウズウズした笑いが出てくる。

 

 「いいなぁ……」


 羨望混じった女の子らしい声が月見里から漏れ、当然東台は聞き逃さない。


 「いいよ。じゃあ、ゆいちゃんにもかけてあげる」


 月見里が四の五の言う前に、東台は先ほどと同じように彼女へとかけていく。


 いきなりかけられたことに少しばかり嫌そうに眉を歪めたが、自分の服の臭いを嗅ぐとどこか複雑そうな顔をしながらも喜んでいるようだった。


 3人同じ匂いが並ぶと、こうも強烈な臭いとなるのか。だが、血の臭いは確かにしなくなった。


 「行くぞ」


 そう言って、3人暗闇の中へと沈む。


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