潰れたシュークリームは砂糖のように溶ける


 甲高い悲鳴。後頭部を叩かれたかのように頭の奥底でどよむ。


 痛い。


 ろくろを回すように世界が回って、弾け飛んだ赤鉄が体の中に戻ろうと赤血球のような球体を成そうとしている。


 左腕が酷く重たい。強い力で引っ張られているそれはミシミシと軋み、分厚い紙を裂くかのように切られる筋肉の筋が悲鳴をあげた。


 痛い――。


 それと目が合った。人間の死体を被った化け物が赤茶けた歯茎を晒して凶悪な笑みを浮かべ、自分の腕は真っ赤に噴いていた。


 「くそがぁーっっ!」


 もう片方の腕で掴んでいたもののレバーを引いて、空間が弾ける。


 こちらの腕から離れて床に倒れ伏すのを観測しながらも、鼓膜が破けそうな音さえおざなりにして体の筋一本まで動かなくなるのを確認するまで撃ち続けた。


 無音だったはずの空間は、何発もの号令と共に、陰惨めいたうめき声が木霊する。


 上か右か左か下。どこから発されたものかもはや多すぎて分からない。


 しかし、それが何であるかは地面に転がる血だるまが物語っていた。


 「月見里……立てるか」


 月見里を見れば、ガラス手すりにへばりつくように倒れていた。


 こちらが勢いよく突き飛ばしてしまったせいか、何が起こったのか分からないと困惑の顔をこちらに向けているのが痛々しい。

 それでも、響く『あれ』の声に我に返ったのか、こちらの言葉に恐る恐る頷いて立ち上がった。


 「東台?」


 後ろにいる東台に言葉を投げかけるも、彼女は呆然と立っているのみで何の反応も返ってこない。

 こちらに視線を向けることなく、その瞳は別世界へとピントを合わせているかのようだった。


 「……そのケガ」


 「ああ……クッソ」


 月見里に指をさされたところは、もちろん化け物がいたところで、そこを見れば服越しに大きな血だまりが出来ていた。

 アドレナリンが出ているのか、あまり痛みは感じられない。構っている暇もないので、頭の布切れを切り取って、その上へと巻き付けた。


 「東台」


 「あっ……ああ、ごめんね」


 2度目でやっと我に返るも、返る言葉に覇気はない。


 「ここから脱出する。走ってくれ」


 「う、うん」


 東台はこちらの言葉に応じるも、小さく頷く姿はまだどこか頼りげない。


 だが、今もなお『あれ』の声は轟き、段々と数と大きさが増している。


 「――っ!ゆいちゃん?」


 そんな彼女の手を月見里は強引に引っ張った。


 呆気に取られるようだったが、少なくとも東台の目を丸くさせて、頭を覚まさせるには十分な働きだったらしい。


 「いいから、早く動いて」


 3人走り出した。


 洪水のように声があふれる。姿はまだ見えない。


 だが、確実に銃声の鳴った場所を捉えている。


 「月見里。本はどうした?」


 「リュックの中に入れた」


 「分かった。花火は点けられるか」


 こちらがそういうと、月見里は頷いた。


 ポケットの中からロケット花火を取り出し火をつけ、「3,2,1」と唱えて飛ばしていく。


 甲高い音と共に天井で弾けた。外で飛ばした時よりも良く響いたが、密閉された空間でどれくらい陽動してくれるかは未知数。


 「どこに行くの?」


 月見里に自分の手を引っ張られたままの東台は先ほどの困惑した表情で固められたまま、こちらにそう尋ねてくる。


 正直、分からない。しかし、頭の中では未だ3日前のボーリング場が堂々巡っていて収拾が未だついていない。


 「とにかく、今は外に出ることだけだ」


 それが最善な選択で無くなったことだけは、不安げな顔を浮かべた月見里を見なくとも分かる。


 「でも、どこから?」


 今度は月見里から言葉を投げかけられる。それも分からない。それでも、足のみが来た道のルートへ進む。


 外にはどうやって出ようかと考えるも、声が反響して『あれ』がいる正確な場所が分からない。果たして一階にいるのか。

 しかし、下を覗きこんでも白い床が単調に光るのみで、『あれ』の姿は未だ捉えられていない。


 「来た道を戻るしかない」


 あのバツ印が頭に引っかかるが、知らない道を無暗に通るよりかは多少なりとも状況を把握できている道を通った方が幾ばくか安全だと思った。


 どよめく声の下、天井に白い靄を作るまで花火を打ち上げ、管理室へと駆ける。


 「――――!」


 管理室のある階数に降りようとしたところで、真下に『あれ』の姿を捉えた。向こうもこちらを捉えると、叫び声をあげる。


 おおよそ、人間の声帯から出てこれないような異様な音。

 真っ黒の口から次々と飛び出していくのを目撃して身を翻したくなったが、行ける道は前にしかない。


 胸の萎むような感覚を植え付けられ、死角へと逃げるように階段を降りた。

 

 目の先にはドアがあるだろう場所が見えてきた。後5回ほど地面を蹴ってしまえばたどり着ける。


 『あれ』が階段を登ってくる音を耳の奥に入れこんで、お祈り程度にドアから離れたところに打ち上げ花火。

 看板の矢印を逆向きにする程度の陽動だが、今は少しでもいいから時間を稼ぎたい。


 東台に鍵を閉めさせて、最後の一押しに荷物から取り出したロープをドアの取っ手に巻き付けて補強。

 これでも、戦車の装甲板を凹ませるほどの力がある『あれ』の前ではそれほど持たないだろう。


 自分が出来うる限りの固い結び目を作って振り返れば、行きに見た白い廊下が広がる。運が良いのか悪いのか、その中に茶色い影は無い。


 「あっ――」


 「走るぞ!」


 月見里が何かを口にしようとするが、今は横目にして走り走らせた。


 そうすれば、目の前に分岐点。


 バツ印のドアを背にしなければならないが、そこを曲がれば管理室。階段を降りれば搬入口。そこを出ればもう外。


 捕らぬ狸の皮算用だが、自分たちが外に出て太陽を浴びているの光景を思い浮かべ、少しばかり気が軽くなった。


 「――――っ!」


 曲がり角、背後から重い金属を執拗に叩く音が聞こえてきた。


 施錠して紐で縛った程度のドアから到底そんな音が出るはずがなく、振り向けばバツ印のドアが文字通り揺れていた。


 裏から鐘突き棒でも突かれているかというぐらい盛り上がるドア。おそらくもう何分も持たない。


 いよいよ、出来た隙間から狂ったような声が吹き上がっていた。


 「ここから一気に搬入口から出るぞ!」


 自分たちの来た道からも聞こえてくる叫換に、呼応するかのようにして声を張り上げる。もうどれだけ声を小さくしようが意味をなさない。


 ならば、自分たちを鼓舞するためだけに声を出して、勢いのまま地面を蹴る。


 後ろの2人も返事の代わりに、地面を大きく地面を蹴り上げ走る。


 長距離マラソンゴール前の観客の大歓声のような声を後ろから浴びて、白い廊下は終わり告げ、搬入口のトラック群を抜け、駐車場の分厚い車列群を抜けた。旗がはためく振り出しにたどり着いた。


 後ろを振り向けば、3日前に見た景色がそっくりそのまま広がっていえる。まるで先ほどの事が幻であったかのような静寂が身を包む。


 緊張がゆるんだせいか、供給過剰の乳酸そっちのけで走った足が一気に重たくなる。

 もうこのまま、立ち止まってしまいところだが、もっと距離を稼いで適当なところに身を隠しておきたかった。


 「ごめん、ごめぇん、やっ――雲、もう、走れない」


 だが、そうはいけそうになかった。後ろから東台に呼び止められる。


 もはや、死にかけのセミのような千切れた言葉を紡ぐ東台は、膝に手をつき体全身で呼吸をして、こちらを見上げる顔は真っ青としていた。


 月見里もそこまでとはいかないものの、吐き出される息は体全体の空気が吐き出されているかのように荒い。


 「――――!」


 一度休憩してしまってもいいかという考えが脳裏をかすめた瞬間、ガラスが破裂したような音と共に地面が揺れる。


 直後、今まで聞いたことのないようなけたたましい音がモールから鳴り響いた。


 「なんだ――」


 示し合わせたわけでもなく、脊髄反射のごとく3人の視線がモールに引き寄せられる。


 建物の窓という窓。否、目に見えるところかしろに『あれ』が溢れていた。


 まるで、シュークリームが潰れてクリームが飛び出したようなそんな光景。

 現代的でハイセンスな色で塗り固められた外壁が、全て『あれ』の表皮へと塗り潰されていく。


 それほどの『あれ』がどこに収容できたのだ。本来荷重がかかることを推奨されていない屋根は砂糖の山に水を落とされたかのごとく崩落していく。


 砂糖がなくなった蟻どもが別の獲物を探すのと同じように、全て平らになってしまえばやがてこちらへと牙を向けるのだろうか。


 そんな水槽越しのような他人事みたく考えるが、現実はまだ原型を留めているうちに一部の『あれ』がこちら側へと近づいている。


 「悪いが、ここから先足を止めることは考えるな。前だけ見て、肺を片方潰してでも走り抜けろ」


 息を呑む音が聞こえた。


 それが誰の物かは分からない。だが、気持ちはおそらく皆同じ。


 何の返事の機会を与えることなく、再び走り出す。しかし、どこに行けばいいのか分からず。

 足先は、ルーティンを求めるように未だボーリング場へと続く道を向けている。


 変える方法も分からず、ただただ距離を稼ぐために走り続けた。


 しばらくして、後ろから轟音が聞こえてきた。音からして、おそらくモールが完全に倒壊してしまったのだろう。


 『あれ』の声が次々と飛んでいく、モール側だけではなく中心部の方からも響いている。

 声質がどこか違っているが、混ざり合ってこちら側へと飛んでくる、もうどこへ行っても無駄だと言わんばかりに。 


 それでも、進み行く。


 真っ新なアスファルト舗装が終わり草木が増えた頃、耳に入る『あれ』の声は質量を持ちだした。

 いくら草木をかき分けても、以前見た鹿の姿がない。もう終わりだと言わんばかりに。


 それでも、止まれない。


 もはや、火事場の馬鹿力のごとく、普段の何倍も動かされた体は炎のように熱い。 頭も手も足も何もかも。体に纏わりつく蒸気は、きっと筋肉が溶けて蒸発したものだ。

 足の感覚はもう既に無い。自分は土を蹴っているのか、空気を蹴っているのか。


 ふやけた鼓膜では、自分の地面の蹴る音さえぼやけている。

 後ろにいる彼女たちの息遣いは聞こえてこない。気配だけが自分の背後に彷徨っている。 


 それでも、止めてはいけない――。


 「ごめん、ごめんなさい。止まって……お願い」


 しかし、後ろから服を掴まれた。それでも、止まれないが、死にかけた猫のような声がこちらの足を立ち止まらせた。


 その声の主は東台で、振り向けば彼女の姿に声を呑み込んだ。


 普段、血色豊かに表情を変えている彼女の顔は真っ青な色さえ脱色して白に染まりきり、ぐしゃぐしゃの紙のようになって止めどなく涙が流れていた。


 もう見るからに異常な状態だが、足は立ち上がったばかりの小鹿のように震えて、きっと膝に置かれた手を取り払ってしまえば崩れ落ちてしまうぐらいには衰弱しきっているように見えた。


 一度止まった足をもう一度動かすのは難しい。

 月見里もこちらも程度の差があるが、歪めた眉を隠すことも出来るはずなく、もはや苦しそうな表情を浮かべて痛々しい。


 不幸中の幸いか、いつの間にか『あれ』の声は山彦程度に薄いものになっていた。段々とぼやけているような気がした。


 「分かった……呼吸を整えるぞ」


 遠くではあるが、それでも声は依然としてこちらに向いている。自分で出した言葉なのに、それが間違った判断とは思えた。


 しかし、3人一緒になって顔をぐしゃぐしゃにしようとも、到底十分な距離を稼げるとは思えない。 


 ならば、選択肢は一つしかない。その選択も、彼女の歪んだ眉が少しばかり緩くなる程度のでしかないが――。


 考え込んで、地面を見るとふと赤い点々が散らばっていた。


 それは線のようになって、後を追えばこちらが来た道に続いている。


 「なんだ――?」


 突如、足元がふらついた。自分が、宙に浮いている。


 水面を覗きこんでいるような青い青い景色が見えて、景色が消える。


 「――――!」


 後頭部に柔らかな衝撃があって、直後音が鳴った。


  

 しかし、その音はすぐに遠く、遥か遠くへと飛んでいってしまった――



 

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