鹿を逐う
「ほんと、2人ともいつも不思議なところで寝てるよね」
ぼんやりとしたオレンジ色。近くから東台の呆れた声が聞こえてくる。
薄目を開ければ、床に倒れこむようにして眠っている月見里の姿が傍にあった。
昨日のような事が起こらないよう、身を持ち上げようとしたが背中のあたりに鈍痛が走る。
どうやら自分は座り込んだまま眠ってしまったらしい。一つ何か動くたびに節々が悲鳴をあげていた。
「ほらほら、唯ちゃん。そんなところで寝てたら風邪ひくよー」
東台は苦笑いを浮かべ、寝袋を抱き枕のように抱く月見里をゆるゆると揺さぶった。
普段の月見里はこちらよりも先に起きているぐらいにはしっかりとした幼女である。
しかし、慣れないスポーツもしたせいなのか、煩わしそうに身を揺らすだけで瞼はぴっちりと閉じられている。
こういう時は近場で音を鳴らして起こすのが良いかもしれないが、疲れているのならもう少しばかり放置しておくのがいいだろう。
「まだ動かさなくていい。寝かせてやれ」
「そう?分かった」
そう言って東台が手を放した瞬間、月見里の腕が伸びあがり彼女の手を掴みあげた。
「あっ……え?」
「ゆいちゃん。おはよう」
直後の月見里の表情は満面の笑みを浮かべていたが、東台の無反応さを見ると途端に笑みが壊れた。
月見里はこちらに何か訴えかけてくるような目をしてくるが、後ろから大声を出しても驚きそうにないので「おはよう」とだけ挨拶をしておいた。
すると、今度は眉を歪ませ不機嫌そうにする。
「ごめんねぇ。八雲の言う通り昨日のボーリング大会で疲れちゃってるよね」
東台が申し訳なさそうに手を合わせ許しを請うが、月見里は見る気すらないようで眉を歪ませたまま別の方へと視線を動かして、
「別に。そっちこそ、大丈夫なの?」
そう彼女の身を案ずるかのような言葉をかける。しかし、その声色はやはりどこか棘がある。
「うん、このとおりピンピンです!」
「ふぅーん、よかった」
「じゃあ、皆で朝ごはん食べよっか」
そんな月見里の冷淡な態度に臆する気配さえ見せず東台は合掌していた手で、ポンと手を叩いてみせて満面の笑み。奥のボーリングレーンに引っ込んだ。
毎回の朝の挨拶といい月見里の塩対応に根気よく付き合う東台の対応は、まさに砂糖対応。
確かに、それをされ続けている月見里は徐々に解されていってはいるので意味がないわけではないらしい。
「月見里、お前はもっとマシなところで寝ろ」
2人残された空間。
東台が居なくなれば、ここぞとばかりに体を回したり背を伸ばしたりしている月見里だが、所々で痛みに顔を歪ませていた。
こちらがドアに鎮座して安全に眠れるようにしていたのに、月見里も体を痛めてしまうのは本末転倒。
月見里はそれを理解しているはずなのだが、その言葉に返ってくるのは東台に見せたものよりも一層不機嫌なそう表情で、
「前はこんな感じだったじゃん」
月見里は不満げに口を尖らせる。
視線さえもこちらに合わせることもなく、地面を睨みつけている。こういう時は大抵すこぶる機嫌の悪いときである。
「前って、会った時のことだろ。眠れる時にちゃんと寝ておけ。前も言っただろ、寝不足は」
「寝不足は注意散漫のもと」
こちらが言い切る前に、以前教えた言葉をそっくりそのまま被せてきた。
月見里は幼女ではあるが、こちらよりも注意散漫という意味は重々承知している。しかし、それを無視してこういう事をしてしまう理由はたった一つしかない。
「ああ、そうだな。もし『あれ』が侵入してきたらまず食われるのは俺だ、お前じゃない。信用していないことは分かるが」
「別にそう言うことじゃ……」
「八雲、唯ちゃん!もしかして二度寝しちゃった?」
月見里が何かを言いかけようとした時、後ろから東台の声が被せるように声をかけられた。
東台を見ればエプロン姿で長い箸を握っており、どうやら料理の最中であることがうかがえる。
「分かった。今行く」
「OK。今日はサバのみそ汁だよ」
そう返事すると東台は手を振って再び奥へと引っ込んでいった。
あの身の崩れかけた鯖缶を使っているのかと思うと慣れに慣れ切って味さえ感じなくなった舌が喜びの悲鳴をあげた。
どうして、みそ汁という単語がつくとここまでそそられてしまうのか。
「月見里、飯も大事だ。行くぞ」
そういうと月見里は声を漏らすが、何かアクションを起こすのでもなくこちらの後をついてきた。
※ ※ ※
「どう、おいしい?」
「ああ、鯖って美味かったんだな。忘れていた」
そうこちらが言えば、黙々と食べ続けている月見里も仕方なしとばかり続けてうんうんと頷いた。
昨晩と同じくボーリングレーンのすぐ後ろに備え付けられたベンチとテーブルで食事を取っているのだが、少しでも視線をずらすと鏡面に輝くボーリングレーンが伸びていて落ち着かない。
「どう?昨日ちょっと掃除したんだよね」
「ああ……綺麗だと思う」
「んふふ、ありがとう」
そう言って胸を張る東台。朝からそれをされると、目のやり場に困って気まずくなる。
視線を晒した先にいる月見里はいつもながら子リスのように頬を膨らませているが、その表情は東台の突飛な行動に訝しみを含んだ呆れの表情が見える。
自分も巻いている布切れを取っ払ってしまえばこんな顔をしているのだろう。
東台が一昨日といい昨日といい、誰にも頼まれるでもなくもぬけの殻になった空間をここまで磨き上げてしまうのか正直疑問で一杯である。
「ゆいちゃん。あまりおいしくなかった?」
「……おふぃい」
東台はそんな子リスの睨みに気づいたのか、申し訳なさそうに眉を落としてそう言葉をかけた。
月見里も彼女の料理は気に入ったようで、目を多少逸らしながらもおそらく「おいしい」と言葉を紡いでいる。
「ふふ、よかった。これなんの魚だと思う?」
「ふぁっき、はばってひってたひゃん」
「あはは、そうだったよね。正解」
東台も月見里のもぐもぐ言語を会得したらしく、何の支障もなく話しているのを見ると本当に姉妹のように見えてしまう。どちらが姉かは言うまでもない。
「さーて、今日はどこまで行くの?」
そして、彼女の月見里いじりが終わると、今度はこちらへと話を切り出される。
ふわふわした話から形を持ってこちらに突っ込んでくるのだから、東台の掴みどころは分からない。
いや、この場合、するべき返事がふわふわしていることが原因なのだろう。
「モール……だな」
その言葉も口にしてみても途中で詰まってしまった。後もう少し声を出すのが遅かったら「だな」ではなく「だろうな」になっていただろう。
「そっか、ここからならちょっと回ることになるけど、まぁ、歩きで半日程度でつけるかな」
「ああ、どうだろうな」
「大丈夫だよ。ここからなら大通りじゃなくても小道でそれぐらいで着けるし」
「そうだな、小道か」
「うん、まぁ、私はこのあたりの道あんまり行ったことがないんだけどね」
ヘヘヘと後頭部に手を置いて、苦笑いを浮かべる東台。
表情の印象は本来ならば無責任という3文字が浮かぶものだが、東台だとキャラという3文字が差し替えられてしまうのだから不思議だ。
「俺は一度も無いな」
3文字違いで同レベルなこちらも何か言えることは無い。
彼女にとっては輪郭さえぼやけた景色かもしれないが、自分にとっては相変わらず濃黒の線でしかない。これは五十歩百歩でいうところの何歩目になるのだろうか。
月見里の方を見れば自分と同じ顔をしており、少なくとも月見里と同じぐらいの歩数だろう。
「そっか、じゃあ、どんな道も最初はドキドキ出来るから逆にラッキーかもね」
「ほんと、馬鹿じゃないの?」
彼女らしい言葉にスッ転びそうになるが、何とか月見里のツッコミでそれを堪える。
「むむむ、確かに。こっちじゃ、アリスちゃんって呼ばれてたしねぇ」
月見里の言葉にまるでどこか見た彫刻のように頭を抱える東台。
不思議の国の方ではなく、連れ込まれた少女の方に因むとは名づけた人間のセンスに興味が湧いてしまう。
だが、その人間も今は『あれ』になって大移動の中に混ざりこんでいるのだろう。
「どれだけ悩んでいても道が分かるわけでもない。後30分したら出るぞ」
あきれ返る月見里。そんな彼女の頬から膨らみが無くなったのを見てそう言った。
「OK。ごちそうさま」
東台の合掌と共に、こちらと月見里も「ごちそうさま」と言ってから、一時解散して各々荷造りのために散らばった。
東台が掃除したボーリングレーン自体はともかく、未だ散らばらせたままの本やら縫いぐるみやらを片して、東台が最後のボーリングボールをボーリングレーンに転がして見事にガターへ落としたのを呆れた目で見送って外へと出る。
緑に埋もれたコンクリートが張り巡らされ、ガラス片とレンガ片が散らばる廃墟。
いつも見る風景だが、その中に3人以外の動くものがドアを開いた先、すぐ目の前にいる。
いたるところに茶色い集団がいた。
「うわぁ、鹿がいっぱい!」
東台の言う通り鹿であった。しかし、昨日とは比較にならない。群れと表現できるほどの数であった。
こんなコンクリートの破片が空に舞っている廃墟群だというのに、どの鹿をとっても栗色の毛並みで太陽の光で艶やかに光っている。彼らの栄養状態はかなり良いらしい。
「もしかして会いに来てくれたのかな?」
「いや、それはないな」
東台は喜色満面の表情で興奮気味にそう言った。
喜ぶ東台を否定してしまうのは躊躇われるが、昨日の鹿と比べて数が多すぎる。
がん首揃えて昨日と全く同じ表情を皆浮かべてのを見るに、そのどれにも昨日見た個体はいなさそうに思えた。
相も変わらず、月見里は昨日と同じ仏頂面をしており、相も変わらず相性が悪いらしい。
「そっか、残念。でも、こんな街中でこんなに鹿さん見るのは修学旅行以来かもね」
「修学旅行って?なに?」
「ん?それわねー。学校の皆で旅行いく行事のことだよ」
「へー」と返事するものの興味を失う月見里。
修学旅行。残念ながらこちらは一度行ったきりでそれ以降はサボっていかなかったので知識レベルは月見里と同程度である。
ただ。東台の言うそれが奈良公園の事を指しているのは目の前の光景を見て察せられた。
それと例えられるほどの鹿がいるというのに、獣も食うはずの『あれ』の姿は何故か無く、僅かな声すら耳に入らない。
「妙だな」
そう独り言ちる。
月見里も東台も鹿を見た時の反応がそれぞれ違うが、自分にとっては何だか不思議なものを見たような感情に至る。
それは一重に、本の調達するために通っていた地域に動物を見かけなかったことにあるのだが、川辺といい、この地域といい、何故これほどまでに鹿がいるのだろうか。
そういえば、動物がいた時に『あれ』の姿を見たことが無かった気がする。
「それにしても、この鹿さん達どこに行くんだろうね?」
「どっかの山じゃないの?」
思案に暮れている中、東台がそう独り言のようにして尋ねる。月見里の言葉から棘を抜けば自分も同じ答えである。
鹿は2人分の答えを無視するかのように、山とは反対の方向へ歩きだした。
「みーんな。御城まで行くみたいだね」
御城。それは中央の地域を指す名詞であり、『あれ』の巣窟。実際に向かっているのかは別にして、一頭の例外なくその方面へと向かっているように見えた。
その光景は『あれ』の大移動にも見えるが、鹿たちの歩き出すタイミングはバラバラでマイペースと言ったようである。
こちら側をぼんありと見つめ続けていた小鹿が親鹿らしきに呼ばれ渋々と付いていくワンシーンさせ見られ、どこか人間味のある行進であった。どこまで続いていくのだろう。
やがて、最後の一頭となり。重い腰をあげて、小走りで仲間たちの方でかけていく。
「とりあえず、行くか」
一頭が点になって、草と同化するまで見送った。
そういえば、どこかの本で動物には五感があるそうで危機予知に長けていると書いてなかっただろうか。
百聞は一見に如かず。もしそれが事実ではなくとも、どうせここを通らなければ辿り着けない。
「これぞまさしく、鹿を追うだね」
「……そうだな」
月見里がまた訝しげに満足気な東台を見つめていた。
聞いたことが無い諺だが、それがあってようが、あってまいが正にその状況なので否定できる材料が無い。
心なしか、遠くにいったはずの鹿が時折草葉から首を伸ばしてこちらを覗きこんでいるような気がした。
そうして、歩きだすと鹿にはすぐに追いついた。
東台の好奇心旺盛豊富な言動を、月見里の冷えた目つきをいくら浴びせかけられようが素知らぬふりをして悠然と闊歩している。
強者の余裕か、草食動物の諦観か。つまるところ、人間というものにもはや脅威を感じていないのだろうか。
もはや主のような歩み、否、定期運行のバスのように鹿はゆるゆると歩く。中心部であるためか、下水管から染み出たものが小さな池のようになってあちこちに同じものを作っている。
それもそうだ。街は自分たちの餌によって溶かされ、自分たちを轢き殺してきたものは既に路傍の石になってしまったのだから、それも当然の話である。
そのどれもが到底そこから漏れ出たように思えないほどの透明度の高い水を反射させ、蓮がぷかぷかと浮かび、街中では到底見かけないような水鳥たちがパチャパチャと水を跳ねさせる。
街の中心であると言うのに、豊富な水資源と日当たりのよさで、新たな生態系を形作っているようである。
そうとなれば、こちら3人を見ても自分たちの足元にある鼠色の地面をぺちぺちと叩いても反応は薄い。
ただ、東台は新たな動物を見る度歓喜の声をあげ、月見里は兎限定で子供らしい興奮の声を漏らしていたりと人間の方は有史以来の多情多感ぶりを発揮しているようである。
段々と奥へと進んでいくと、緑は薄くなって、鼠色の地面が空鼠色に変わって、比較的新しい建造物に変わっていった。
反比例するかのように動物の数は少なくなってくる。
ついには、鹿も踵を返すように違う方向へと消え去ってしまう。
一匹は行くかと思ったが、決まったかのように皆Uターンしていって、また悠々と草の中へと消える。
まるでそこに見えない境界線が出来ているかのようだった。
そこを通り抜ける前に、東台のバイバイと呑気に手を振るのを月見里と2人で眺めて一休み。そうして終われば、いよいよ鉛のような腰を上げる。
そこに足を踏み入れてしまえば、また『あれ』の気配が自分の肌に纏わりついた。
破棄された車の密度が増し、敷き詰められたアスファルトの色が黒く濃く滑らかになってくる。
気に留めないふりをして、もっと前に進めばいよいよ至る所に生えていた木は柵に囲まれたところに追いやられる。
もはや、あるのは昔と寸分たがわないほどの道。足先を少しあげれば車にぶつかるほど多くなっていた。
視界に空いている隙間がないほどに混濁しているというのに、どこかがらんどうに思えた。
きっと、そこにいるはずの『あれ』の姿がないからで、ただただ気配のみが皮膚の深層に突き刺さりそうなほど鋭くなっていく。
巨大なドーム状の建造物がもう目と鼻の先にあった。一瞬だけ、身の凍るような風が通り過ぎたような気がした。
「あー、懐かしい!そうそう、ここ、ここ。このでかいモール!」
東台の歓声があがる。
祝福するかのように開店記念と『あれ』が発生した3日前の日付をさした垂れ幕が正面へと続く道に吊るされていた。
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