鹿せんべいはどこにもない


 暑さと言うものは意気揚々と家の外へと出ようが、意気消沈して出ようが、汗の量もその不快感も変わらないものだ。

 

 外へ出ると静かな太陽の光が周りを取り巻いていたが、その陽に優しく包まれることはなくむしろ服が纏わりついていると表現できるほどに不快感を覚える。


 肌を舐められるような気分。それさえ、不快というのに地面の踏み心地さえ悪い。

 地面は水に浸かった角砂糖のように崩れ落ち、破片として残るアスファルトが靴の隙間に引っかかって靴底がずたずたになりそうだった。


 辛うじてアスファルトの上にそびえたつビル群も外壁が剥けて下地のコンクリートを晒しており、まるで皮を剥かれたバナナのようである。


 その重要そうな建材も剥がれ落ちて、鉄筋をさらけ出しているものも多い。それすらもなくなってただの穴凹が穿たれているのも少なくはない。これほど荒れ果てては、なんと形容すればいいのだろうか。


それほどまでに鈍い鼠色をさらけ出しているのに、退廃感を覚えないのは今まで見てきたそれを覆えるほどの植物が繁茂していることだろうか。


 微妙な蒸し暑さが取り巻き、歩くだけで体力が奪われるような場所なので当然東台がへたってしまい、木陰を見つけたのでそこで座り込み一旦休憩することになった。


 左隣に華凛な幼女、月見里、右隣に華麗な少女、東台。

 この場合、両手に花という表現があっているのかもしれないが、距離感的には隣わきに植木鉢に入った花ぐらいと行った方がいいかもしれない。


 しかしながら、皆汗をかきまくったせいで水分補給をと3つ並んだペットボトルは皆90度を向けられていてそこばかりは親近感を多少なりとも覚えてしまう。


 「うあぁ、このあたりジャングルみたい、なんか空気もべたべたするしちょっと気持ち悪い」


 初めての場所ではしゃぎ気味な東台も、取り巻く生温かい空気に舐められては深い層に眉をひそめる。


 日々こちらと街を探索している月見里も額の汗を拭い頻繁に水を飲んでいたりと流石に快適とは言えない。

 

 「海から近いせいだ」


 「へぇ、そう考えるとこの空気ちょっと塩辛いかも」


 東台は舌を出して言っていた。

 しかしながら、海から距離はあるので潮特有のもっさりとした空気感はあるが潮のかおりはしない。東台の言うそれはおそらく思い込みか舌に汗が流れ落ちたせいだろう。


 月見里も小さく舌を出して確かめてみるが、プラセボを信じるようなたちでもないのですぐ引っ込める。

 だが、その表情は心なしか残念そうにしている。


 「ああ、海かぁ。砂浜とかあこがれちゃうなぁ」


 「海に行ったことが無いのか?」


 両腕を後頭部に組み透明の壁にもたれかかるようなポーズで東台は空を見上げる。


 普段ビルに隠れているが、昨日のような高層ビルからは一望できるほど近場に海はあって特段珍しいものではない。

 東台もこの町に住んでいたはずなので新しい物好きな彼女が行かないはずがないだろうとつい突っ込んでしまう。

 

 「うん、まあ、憧れは憧れのまま取っていた方がいいかなって、そのまま」

 

 「約束もあるしね」とまた誰かとの言葉を言っていつもの笑みを見せ、もう一度空へと向きやった。もはや、海の代わりの空を見ているかのようである。


 「確かに……それなら、このあたりの海は見ない方がいい」


  しかしながらも、コンクリートにまみれた街の海は彼女が見る青々と輝く空とは似ても似つかない。そう言った点においては、彼女の考えは残念ながら正しい。


 「うん、知ってる」


 こちらが少し躊躇いながら返事すると、彼女はずっと空を見たまま平然と答えた。声色も変わらず、その瞳はこちらから見えそうにない。

 

 横にいる月見里は変わらずつまらなさそうな目で東台を見ていて、心なしかどこか安心する。

 しかし、こちらの視線に気づくと月見里はその目つきは崩れ、みるみるうちに目じりが下がって何かバツが悪そうにしていた。


 「ねぇ、この道、大丈夫なの?」


 と目と鼻のずっと先にある景色に視線を向けた。


 視界内に多少の開放感はあるが、代わりに見えるのは剥げて黒ずんだコンクリートの色だけで緑の色は極端に少なく決して良い眺望ではない。

 

 遠目でしか見たことのない鉛のような景色が実際に近づいてくると、軽くなったはずの足取りが段々重くなっていた。

 

 知らない道を歩くというただそれだけなのに、どうして本能はこうも勝手に足取りを悪くさせる機能がついているのだろう。

  歩く道の左右に今にも崩れそうな建物があって、そのどこかに『あれ』が潜んでいる可能性もあるので警戒するのは当たり前だ。


 だが、東台が何のアクションを示さずマイペースな足取りを貫き通しているのを見ていると自分がおかしいのではないかと思ってしまう。


 「あー、おいしかった。ごちそうさま」


 東台はそう言っていきなり立ち上がり、背伸びをする。彼女が手にしていた水筒は逆さまになっていたがニュートンの法則のように水は一滴も落ち来ない。

 どうやら全部飲み干したようで思いっきりがいい。


 「もう飲んだのか?」


 「うん、まだたくさん水あるしね」


 「そうか……まぁ、いい。じゃあ、出るか」


 彼女の計画性が無いともいえる行動に突っ込みを入れたくなったが、途中で熱中症になっては困るよなと口を噤んでおいた。

 顔も先ほどよりかは血色がよくなっているので、そういう意味でも水をたらふく飲んでよかったのだと思う。


 月見里の方を見れば、彼女も既にペットボトルを仕舞い地図を眺めていた。もう出発する頃合いだろう。

 

 「ここからは道の真ん中を歩け]

 

 「え、こんな道の真ん中で?」


 そう言ってこちらは立ち上がった。その言葉に疑問を呈したのは東台ではなく月見里だった。


 移動の際、大きな道のところは壁か道の隅に張り付いていくのが常なので、違和感あることこの上ないだろう。『あれ』がいるかもしれないところでそんなことをするのは愚の骨頂だ。


  かくなる自分もそうだが、そんな心理的なことを考えていても仕方ない。今やるべきことをやるしかない。


 「このあたりはもう長持ちしそうにない。『あれ』がいない――とは断定できないが、真ん中歩いていた方が安全だ」

 

 大移動で外れにあるこの地域には『あれ』がいない――と考えるのは早計かもしれないが、気を回せる部分は無限ではない。

 実際問題。それを心配するより建物の崩落を考えた方がいいだろう。


 実際、そびえ立っている電柱は殆ど倒れて丸太のように転がっているし、壁だったものが地面に突き刺さっている。

 未だ立っているものも、風が吹く度ぐらついていていつ倒れてもおかしくはない。


 以前、『あれ』の注意に気を取られたあまりに壁にヒビが入っていることを気づかずにもたれかかった時にレンガブロックが頭上に落ちてきて怪我を負ってしまったことがある。


 そのうえ、落下音と呻き声と月見里の叫び声のフルコンボで『あれ』に気づかれそうになり、近くの民家に篭るも数日缶詰め状態になったりと、踏んだり蹴ったりの有様だった。

 『あれ』の叫ぶ声を四六時中聞きながら、月見里と共に乾パンをボリボリ食い漁ってのをいまだに覚えている。


 まだ午前中だ。『あれ』が出てくる可能性よりも、壁が崩落する可能性の方高いだろう。


 「ふぅーん……分かった」


 月見里もそれで納得したのか、淡泊に返事すると少しだけ満足げに笑みをこぼして地図をしまいこみ視界を前方に戻した。


 元気を取り戻した東台は、そんなことに興味はないようでこちらの会話にさえ意にも返さず目の前の景色に気を取られているご様子。

 

 「武器は手元の近いところにおいておけ」


 「うん」


 それでも、どんな状況下においても油断大敵という言葉もあるように気を抜けるような事はない。

 少しでも精神的余裕が作れるならその分危険察知に気を回す必要がある。それが生き延びる方法――とは言えないが、危険からは多少遠のくことはできる。


 こちらの言葉に頷いて腰にある鉈の感触を確かめている月見里はともかくとして、油断の権化のような東台は一体どうしたら正解になるのだろうか。


 昨日銃を渡そうとはしたものの、やはり彼女が武器を持って『あれ』を殺す姿が思い浮かばない。

 むしろ、昨日のような暴発を起こしそうで手ぶらでいさせた方が良いのではないかと思ってしまう。

 

 馬鹿と鋏は使いよう――とまでいかないまでも、東台鹿野のとの字すら知らない程度の人間が無理に何かさせようとするのは悪手というものだ。


 そもそものところ、月見里の事を知っているかと言われれば、それさえ怪しいところはあるが。


 ――そんな押し問答、一人禅問答を断続的に足りない頭の中で駆け巡らせながら、道の真ん中を渡っていった。


 ※ ※ ※ 


 

 道の真ん中を渡り、『あれ』に遭遇することも、壁の崩落を見ることもなくいきついた先は、鉄骨さえ黒ずんだコンクリート建造物群。それと、もはや元舗装道路とも言えない岩だらけの道路。


 荒涼とか殺風景と言えばおそらくこの場所を連想させるだろう。遠目で見た時の印象とはあまり変わらず、それが不思議と足取りの軽さを取り戻させた。


 建物の窓は当たり前のように割れて、その中のどれを見ても外の壁と同じような様相を見せており、疎らに窓が張り付いている中心部周辺よりも酷い状況だが『あれ』の影も呻き声さえも聞こえない。


 かといって、前日行った大通りのような無音ではなく、錆びた建材と枯れきった人皮の臭いが漂う町中で何かの動物の声が鳴き声が聞こえていた。


 それが足取りが軽くなった理由なのかもしれないが、きっとそれだけではない気がする。


 「うーん、やっぱりブタなのかな?」


 東台はそれが聞こえてくる度、何かの動物の名前を言ってくる。


 はじめはお腹痛めてるイノシシ、猿など山にいる動物から、フラミンゴとかラッコとか動物園にいる動物へと変わり、先ほどはドアだとか無生物に終わったが、今度はどうやら家畜らしい。


 しかし、今回もこれじゃないと腑に落ちない顔をしてまた口ごもって他の動物の名前を準備していた。


 月見里も最初あたりはバカバカしいと彼女の言動に呆れた顔をしていたが、今は彼女の口元を動く度に次の動物の名前を出すのかと聞き耳を立てているようだ。

 

 彼女たちの能天気さに、多少なりとも不快感を覚えるべきなのだろう。

 だが、街中で、『あれ』の気配さえ感じず、ただ何か犬とか猫とかの人畜無害なものがいるという初めての経験で、不思議な気分と言うか肩透かしを食らった気分というか、気が引き締まらない。

 なんだか、かつてあった、冒険しているような気分さえ思い起こしてしまう。


 「あっ、あれじゃない?」

 

 東台自身が答えを導き出す前にその答えが目の前に走り抜けた。東台は興奮して子供のように駆けだすが流石にそれは無警戒過ぎる。 


 「ゆっくり歩いてくれ」

 

 「えへへ、ごめん、ごめん、つい」


 こちらがそう言うと、東台はピクリと体を止めて苦笑いを浮かべるが目は動物がいただろう方向に向けており心ここにあらずといったようだ。


 月見里も本来ならば彼女を咎めたり、眉と目を鋭くして訝しんだりするが、今回ばかりは目に期待を込めて東台と同じ表情をしていた。

 

 「分かった、少しだけ見に行くか」


 と彼女たちを咎めはするものの、これほどまでに続々と動物の名前を出してくるとそれが当っているかどうかは気になるタチである。

 

 「本当に?やったぁ!」


 そうこちらが言うと、東台は飛び跳ねて今にも動物の下へと疲れはどこに行ったのやら一目散に向かおうとした。


 だが、流石にそれは許容できないと、遮るように前に出て、自分の後ろをついてこさせるという形に落ち着かせる。


 『あれ』ではないが、曲がりなりにも人間ではない動物。こちらの会話の声で向こうはこちらに気づいているだろうが、下手に近づけば逃げられるか最悪の場合襲われるかもしれない。

 

 「今からあまり大声は出すな、ゆっくり歩け」


 「分かった。動物が怖がらせないようにってことだよね」


 「……ああ」


 東台が興奮気味にそう言って目をランランとさせる。


 月見里は彼女のように声をあげはしないが、口自体は我慢できそうにないようで手で必死に蓋をして瞳の光は零れ落ちそうなほど蓄えている。


 動物は前方の建物の角のところへと消えていったはずなので、壁からは一定の距離を保ちつつも向こうの様子が見れるような位置についてゆっくりと移動していく。


 先ほどとは違い鳴き声は聞こえてこないが、何か水が跳ねる音が聞こえてくる。


 動物が涎を垂らして待ち受けているのだろうかと一瞬身構えてしまうが、それにしては唸る声はない。

 少しばかり道の隙間に生えている草をわざと踏んで音をたててみるが、先ほどと同じくにしきりにピチャピチャという水音が聞こえるぐらいだ。


 もう後一歩のところに迫っても、ずっと水音が続いている。

 

 緊張感のない動物だ。いつの間にか後ろでこちらの行動を真似してふざけている東台と冷ややかな目でみる月見里2人の掛け合いが行われているというのに、なんという動物なのだろうか。


 これ以上間の抜けた空間で真剣めいても仕方がないと、体を低く保ちつつも動物のご尊顔を拝むこととした。


 「うわぁ、すごぉい!でっかい池!」


 そう小声で興奮の声をあげたのは東台ではなく月見里だった。東台は別の事を言っていたが、こちらは月見里と同じところを見ていた。


 文字通りの建物の建物の間を埋める湖。


 湖といっても陥没した道路に水が溜まっているだけだが、その周りには植物が繁茂しており、鮮やかな暖色を咲きほこらせていた。


 雨水がたまったのだろうか、それとも配水管から水が漏れ出たのか何で出来たのかは分からないが、ここまで重くて暗い色を見てきただけに異世界に迷い込んだのかと思えるくらいには美しい光景だった。

 

 どうやら先ほど見た動物は水を求めてここまで来たらしい。

 お互い視認できる距離にいるのに、月見里が感嘆の声をあげたのに、見えていないのか気にも留めていないのかしきりに水を舐めていた。


 しかし、東台が立ち上がり感嘆の声を漏らすと、動物は身をピクリと震わせ、首をゆっくりと持ち上げこちらの方へと向きやった。

 

 どうやら正体は立派な角を蓄えた鹿のようだった。と思えば一匹だけではないらしい大きな水たまりに気を取られて気づかなかったが、樹葉の隙間から首が続々と伸びあがっていた。


 3匹、いや、5匹ぐらいだろうか、その中に角が生えていないものもいるからどうやらオスとメスの群れのようだった。


 そういえば、昨日土手にいた時に鹿を見た記憶がある。

 実際、鹿達も逃げることなくあの時の興味深そうな目で棒立ちになった東台をじっと見ており警戒している素振りは見られない。


 しかし、誰一人鳴き声も身じろぎ一つなく見てくる彼らに何か不自然というか不気味という印象を覚えるが、彼らの色艶のよい毛並みが太陽に照り付けられる度に何か幻想的なものさえ感じて、ただじっと見ることしか出来なかった


 月見里も声一つあげることなく、心なしか身を縮こまらせているように見えた。

 

 「鹿せんべいとかってある?」


 「いや、ないな」


 「そっかー、やっぱりないよね」


 東台はそう言ってしゃがみ込み、「缶詰とかは食べないよねぇ」と悔しそうに歯嚙みしていた。

 あまりそういう空気的なものを感じていないのかそもそもそんな空気感を帯びることがないのか本当に彼女はどこ問わず通常運航である。


 しかし、そんな永遠とも続くにらみ合いっこはそれほど長くは続かなかった。


 群れの中で一番大きな鹿が中心部の方へ振り向くと、先ほどよりもビクリと大きく体を震わせ別の方向へと走り去っていった。

 他の鹿もそれについていくように続々とその方向へ走り去っていった。


 「あっ、鹿さん待って。ああ、行っちゃった」


 東台が逃げる鹿を追おうとするが2足と4足では走る速度が違い過ぎて彼女が5,6歩行った後はあっという間に姿が点になってしまう。


 東台は酷く残念そうな顔をするが、月見里はどこか安心したような顔をしていた。

 

 そして、また3人になった頃。暑い日にも関わらず肌がぞわつくほどの冷たい風が流れて、いつもの肌のピリ着きが戻ってくる。


 清涼だった空気に涎のような生臭いものが混じったようなそんな気がした。


 「そろそろ行くぞ」


 「うん、まぁ、仕方ないよね」


 「時と場合によるが、帰りもまたここを通る」


 「本当に?やった!」


 寂しそうにしていた東台は嬉しそうに飛び跳ねる。

 その変わり様にいつかお気に入りのぬいぐるみを見つけた時の月見里の姿を想起したがその彼女は喜ぶような様子はなく、嫌そうな顔をしていた。

 

 「また会えるといいね」


 「私はいい」


 東台は瞳を輝かせてそう月見里に問いかけるものの、月見里の瞳は当然のように光はなくむしろ嫌悪を宿して鹿が去った方を見ると少しばかり語気を強くしてそう言った。


 「そっか」と東台は寂しそうに返事するが、目を輝かせたまますぐにこちらの方にくるりと身を回し、


 「八雲はどう?」


 と問いかけてきた。月見里は同意するなと訴えかけてくるような目をするが帰りはどちらにしろ知らない道より知った道を通った方が安全だ。


 それに答えの正体に興味があっただけで、別に鹿が好きというわけではない。


 「少なくとも危険がなければいい」


 正直なところ、今頭に残っているのはいつもの考えぐらいだ。

 今から火中の栗を拾いに行くのだ。さっさと中心部に突っ込んで火傷しないうちに本を手に入れる。理想論で語ればそうなるのだろうが、きっとそんなに上手くはいかない。

 鹿も猪も兎も横切ろうがもう気にすることはない。

 

 「そっか、じゃあ、安全な鹿じゃない鹿がいいね」


 「ふふっ、何それ」

 

 東台の珍奇な言葉に月見里のしかめっ面は吹き出してしまったが、すぐにしまったと「やっぱり、言わないで」と戒めるように口を絞った。


 やはり、押そうが引こうが東台の返しに勝るものはないらしい。



 東台が鹿のいなくなった水たまりにバイバイと手を振って、また長い道のりが始まる。


 海から離れ山側の方に戻ることになるので道には坂がつきはじめ、それを際立たせるかのように穴凹のアスファルト道が続く。

 その途中で先ほどと同じような巨大な水たまりを見つけるが動物の姿は見えなかった。『あれ』の姿もまだない。


 東台は見かける度残念そうにするが、何度かそれを目撃するといつの間にか一目するだけで気にも留めなくなった。むしろ、今は月見里の方が気にしだしていて、なんだか可笑しな気分になる。 


 そして、もう一匹も見つけることもなく、水たまりも無くなった。

 

 それもしばらくした後、靴裏に砂利がくっつく感触が無くなり、周囲の景色は黒ずんだコンクリート色から緑色を取り戻し、青いガラスもそれを比例するかのように増えてくる。


 遠目で見ていた中心部のビルは首を真上にしなければ全貌が見えないほど大きくなった。

 

 ここまで来たのは初めてで、上げた首の普段使わない筋肉が間に小石を挟んだような違和感を覚えてしまう。


 東台はその高さに特段驚くということはなく、先ほどよりも輝きの少ない瞳でちょっと見上げるとそれ以上見ることはなかった。


 月見里はどうかと思えば、同じように驚きはしているものの、どこか物悲しげにも見え、諦観のようにも見える不思議な表情をしており、どちらにしろこちらよりは感嘆めいたものは感じていないようだ。


 ただの自意識過剰かもしれないが、もし本当に差があるとするならば、きっと自分たちと彼女の「思い入れ」の差だろう。


 東台にとってはただの超高層ビルだが、こちらにとっては文字通り小さな点と紙面上の線の存在だ。昔も今も。


 「おっきいね」


 「ああ、ここまで大きかったとは思わなかった」


 「……うん」


 月見里は未だその存在感に未だ圧倒されている。こちらも月見里の反応から見ても2人一度も踏み入れたことのない未知。


 これを抜けると商業施設や住宅が多くある場所になるらしいが、今も昔もどうだったか分からない。いつもこのビル群に遮られていてその景色さえ分からない。

 

 まだあちら側の高速道路が落ちていなかった時に調べておくべきだったが、その時は行くほど物資は不足していなかった。

そもそも物資が不足していてもここに来ることはあったのだろうか。


 ないがしろにしていたところは、自分が最も苦しい時に襲い掛かってくるというのは本当らしい。

 

 「ここ確か東中央区だから後もう少しだね。ここ真っすぐ行くとぬいぐるみ屋さんとか結構可愛いお店とか多いんだよねぇ。帰りに寄ってみる?」


 東台は立ち止まるこちら二人に声をかけてきて、行動を合わせるかのように視線をビルへと戻した。

 東台の言葉に一瞬月見里が揺らいだが、やめてほしい。できれば、さっさと離れたい。


 3人同じ方向を見上げていると、観光しているような気分になってしまう。


 それがただ恐怖を抑えたい防衛本能のせいか、それとも本心なのか今の自分には分からなかった。

 

 「遠慮しておく……ここからだと何駅ぐらいになる?」

 

 「うーん、2駅くらいかな、あっ、でも乗り換えもしなきゃだから3駅だ」


 「……そうか」


 東台はまるですぐ近くにあるというようなことを言うが、電車ももう動いておらず線路を伝って歩いたとしても不動産広告で見るような電車で何分とかの距離にはならない。


 しかし、2,3駅と聞くとどうして今も近い距離のように聞こえてしまって、こうも落ち着けてしまうのか。


 「うーん、でも電車止まっちゃってるだっけ?だとしたら……ここから何分ぐらいになるんだろう?」


 「どうだろうな、少なくとも夕方までにはつければいいが……」


 距離だけで言うならもっと早いかもしれないが東台というイレギュラーがいるので夕方でも着かないかもしれない。


 辺りを見ればビルに反射する光の強さは弱くなっており、夕方までの時間はそうあまり長くない。夏に近いので暗くなるまで多少の猶予はあるが、電灯がない街では安全に光を点けられるところはそうない。


 「なら、地下鉄を通っていく?」

 

 「え!?」


 東台がそう言うと月見里から驚嘆の声が上がる。それをあげた本人はしまったと急いで両手で口を塞いだ。


 街中で大きな声をあげる危険性を熟知している彼女だが、いきなり暗闇を連想させる言葉を聞くと悲鳴をあげてしまうなのでどうしようもないことだ。


 「あっ、そっか。ゆいちゃん、暗闇嫌いだったもんね。ごめんね」


 「い、いいです。ごめんなさい、大きな声出して」


 気まずそうな顔を浮かべる東台に月見里は小さく畏まった礼をするが、決してそれは尊敬の念ではなく拗ねた他人行儀だ。


 その視線はこちらに向けており、その目は東台と同じく気まずそうにさせている。

 

「『あれ』はまだあのあたりにいるだろう。少なくともこちらの姿も形も見えない」


 そう言って、こちらはそのビルとは少し離れた高層ビル群を指差した。


 高さは少し見劣りするもののそれでも雲を突くかのような高さを誇っており、積み木のように建てられたそれは今やぬかるんだ地面に刺された杭のように歪んでいて真っすぐや斜めやバラバラだ。


 しかしながらも、まだまだ屋内に入れるほどの耐久性はあり、その中で『あれ』はおそらく棒のように突っ立っていることだろう。


 位置的にこちら側は見えるかもしれないが、いくら視力が良くても点だけの存在だ。

 

 「ふーん、それなら手を振っても問題なさそうだね。皆でやってみる?」


 「バカなの!?」


 東台の馬鹿げた提案に月見里はまた張り裂けんばかりの大声を出してしまい急いで口を塞ぎ、未だ呑気に笑みをこぼす彼女を睨み付ける。


 おそらく、手を振っても動く点が3個増えるぐらいなので問題ない。きっと多少近道を使っても『あれ』に遭遇することは少ない――――と思いたい。


 だが、東台のその行動に焦燥感を覚える自分がいる。そんな「行動的」な自分の足は前に出ようとする度、つま先に錘がついているのかと思えるほど重い。


 いくらどう見ても、目の前に広がり続ける道の隅々はデジャヴさえ受けれてくれない未知の景色がずっと広がっていた。

 

 

 

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