シュレティンガーの玄関


 「もう朝か――クソ、右目も見えなくなったか」


 いつの間にか眠りについてしまい、目を見開けばまだ辺りは暗い。


もう片方も失明したかと焦って周りを見回すが、すぐにランタンの光を目に捉えた。

 寝て起きた時の時間の間隔はなかなか分からないものだが、太陽がまだ登っていないようである。


 月見里を起こさないよう恐る恐るランタンの光に時計を近づけてみると、どうやらあれから4時間程度しか経っていないようだった。


日が落ちてすぐ辺りに寝たために、その程度の時間ではそろそろ深夜に入るかどうかの中途半端な時間にしかならない。


ランタンの向こう側に映る月見里を見れば顔がこちらからでもくっきりと見れるほど光が当たっているのにも関わらず眉一つ歪ませずむしろ緩ませてグッスリと眠っているようであった。


 しかし、こちらは一度目を覚まし体を動かしたためか眠気はあまりない。むしろ、謎の高揚感で妙に冴えていた。

 何度か体勢を変えて目を瞑るが、それも無駄な抵抗なようで、僅かながらに残っていた眠気さえもどこかに消えていった。


 「そう――」


 そうやって覚醒すると、自分が歯を磨いていなかったことに気づき、まずいと声を上げる。

 しかし、月見里が不機嫌そうに喉を鳴らし身じろぎをしだしたので、急いでその言葉を飲み込み代わりに小さく息を吐いた。


 月見里に言っておいて自分は忘れるとは、何と情けないことだろう。


 そう考えはするものの身動きを取れば彼女が起きるかもしれないと思うと,

起き上がる腰は重くなってしまう。歯ブラシはリビングの荷物の中だ。

 だが、同時に磨かないことに対する焦燥感もあって、腰を下ろすこともできなかった。


 いつもの習慣から外れる行為に焦燥感があることは違わないが、歯医者や彼らが使う器材はおろか知識さえない今では虫歯は深刻な問題の一つである。


 素人が出来ることと言えばペンチで力任せに引き抜くことしか出来ない。

 膝の軟骨を抉るような生々しい音を聞きながらかなづちで何度も後頭部を打ち付けられるような痛みを何時間も耐え抜くのはもう懲り懲りである。


 現にそれを見た月見里は、抜け落ちそうな乳歯まで丹念に磨くほどの徹底ぶりを見せていたのだから今になって麻酔で痛みを消して虫歯をドリルで削れる技術の有難みを感じるばかり。


 永久歯を既に一つ失ったこちらとしては流石にこれ以上は失えないと、空になった奥歯を舐めてゆっくりと慎重に起き上がった。

 

 リビングに戻ると部屋は先ほどよりも明るい。

 真上に上がった月の光が大きな窓を透過して蒼白く清廉めいた明かりで部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。


その先の最も月明かりに照らされる場所に東台はいた。やはり先程寝転んでいたソファで眠っているようであり、本来手を掛けるところに足を掛け、掛けるべき手は床に垂れていた。


 まるで太った中年男性がしそうなポーズだというのに、際立つ容姿を持つ彼女の姿はだらしなさを感じさせない。

 むしろ、青白い光の中で文明も消え去り残滓のように残るコンクリートの部屋で佇む彼女は退廃的な美しさを漂わせている――。


 だが、彼女の口元から涎を垂らしているのが目に留まると、どこからどう見ても東台は東台にしか見えない。

 

 起こさぬように、忍び足で荷物を探してみるとすぐに見つかった。

 彼女の向かいにある丁度こちらが座っていたソファの裏側に転がっている。確かに月見里の言う通り動かした様子はどこにもなかった。


 東台の様子を確かめながら、ゆっくりと近づいてリュックサックの荷物の取っ手の感触をつかんでゆっくりと引っ張り上げる。


 静まり返っているせいか、職業病のおかげか物音ひとつ立たせることなくやり終えられた。


 あとはこの部屋から出るだけで――


 「――――!」


 振り返った瞬間、数秒でそんな考えは倒れた。


 積み重ねられたCDが足に当たり、文字通りの積木崩し。ガラガラとけたたましく雪崩のように崩れ落ちていくCDタワー。


 少なくとも人が驚くほどの音が出ているに違いないが――


 「…………」


 東台は寝息を立てて、よだれを垂らしている。


 空気を読んでいるのか、それとも空気なんて読んでないのかマイペースであり続ける彼女にこの時ばかりは感謝するところだ。


 胸を撫でおろし足をドアの方へ差し出すが、またもや転がるCDの一つを踏んでしまった。


早々、似たような失敗を繰り返すとは情けない限りとそれを引き剥がすと、


 「まさか――まだこんなものがあったとはな」


 昔拾ったCDがそこにあった。


 足元で月明かりに照らされ浮かび上がる文字は――ちょうど異変が起きた日時を示していた。


 「そうか、もうそんなに時間が経ったのか……」


 時間は過ぎ去ったと体感はしているものの、それを小奇麗な文字で見させられるとぽっかりと胸が空くような実感が湧いて出てくる。

 残念ながら異変が起きた日を目のあたりにすることは無かった。だから、自分にとっては映像の中だけの存在で何故だか取り残されたような気分になる。


 その映像を何度も何度も見ているはずなのに、こうやって手に取ってしまうと懐かしさにも似た好奇心が湧いてきた。


 そして、湧き出た好奇心に引かれるように視線を向けたバッテリーにはテレビを数分は見れるほどの電力が溜まっていた。


 

 ※ ※ ※


 

 一時、砂嵐の画面が流れると、年代物の白く淡い映像が流れる。


 映し出されたものはどこかのコンビニで――否、どこかの公園で、どこかの交差点で、写真フィルムのように景色は映像の粗さと共に変わっていく。

 

 「昔の自分ながら、一体何をしてたんだろうな」


 それを見たこちらは自分の昔の黒歴史を見たような気がしてなんだか気恥ずかしい気分も心の中で沸いたような感じがした。


 そういえば、昔、こうやって監視カメラの映像の切り貼りをして町全体がどういう状況になっていたのか調べようとしたことがあった。

 そのように合点するが、実際映し出されているものは『あれ』の姿ではなく、雑踏する人々。

 

 おそらく、異変の起こるより前のもので我ながらいい加減なものである。


 犬の散歩をしている老人。

 多種多様な店内の中で同じようにマニュアル通りの口角をあげて客対応をしているだろう店員たち。

 携帯片手に見えない向こうの相手にお辞儀しながら早歩きでどこかへ行く中年サラリーマンA,B,C,D,etc...。

 それから、判別つかぬ大勢の人々が闊歩する交差点。


 平然とした日常を繰り広げている。


 歩き方も方向も違えれども、皆自分の明日を疑うことなく悠々自適と歩いているようにさえ見える。

 そんな風に一度思ってしまうと、画面で見ているこちらもその時の無根拠な感情が思い起こされていた。


 休むこともなく不格好な制服を身にまとい学校へと向かう。かといって、黒板に書かれた幾何学模様の文字を理解することもなく、ただただそれが理解できる人たちに虐められ。

 土日になれば、これまたこれまでにもない怠惰を貪り。日曜の終わりに何もしなかったことの虚無感を覚える。


 しかし、月曜になればその後悔を忘れて黒板に文字を描く先生に向けて欠伸をあげて、また体中に痣を増やすのだ。


 そんな日常に戻りたいかと誰かに問われたら――自分はどうするだろうか。もはや、あまりにも遠すぎて分からない。


 「はぁ、あまり意味はなかったな」

 

 しかし、そんな事を考えていても仕方ない。時間はいつだって一方通行だ。


 そんなものを見ていても仕方ないとリモコンを指した。

 

 だが、そこから、転げ落ちるように映像は変わっていった。


 犬を抱え逃げる老人、それを追う不特定多数。


 次々と客の体に食らいつく店員と、客に食らいつかれる店員。

 ボロボロになったスーツに構わず体中血まみれにして周りの人々を襲い襲われるサラリーマン。


 魑魅魍魎。そう言っても差し支えない人々。切り替わるたびに血と肉片に塗れていく。


しかし、交差点など主要道路には警察、自衛隊か米軍が戦車や装甲車を引き連れバリケードが張られて組織だった行動が取られておりどうにか秩序を保とうとしているところもあった。


 だが、それも一時で、大量の人の形をした何かが洪水となって制服の防壁は崩される。


鉄でも着込んでいるないかと思えるほどの重装備を備えシールド固める警官は一人残らず踏み潰された。


あらゆる軍事的行動をとるために鍛え抜かれた肢体と頭脳が備わった軍人は銃弾を数発を撃ち込むだけでマッチのように消え去っていく。


数十、数百トンの厚みを誇る鋼を纏う戦車もそれが過ぎ去れば潰され投げ捨てられたアルミ缶のように転がっていた。


 あの後、皆どうなったのだろうか。映像を見る限り、推して知るべし。

 願わくは、画面端に映り込んだ全力疾走してその場を逃げ去る一人の警官が生き残っていることだ。


 「――あまり見ても意味はなかったな」


 だが、最後まで見ても自分の考えは変わらない。


 変わったこととすれば、こんなものを作ったことが無意味であったことに気づいたことと、無意味なことと気づいていたのに無我夢中で作っていた昔の自分に多少なりの呆れを感じたことぐらいだ。


 「それにしても、この警官どこかで……」


 後は、その逃げ去る警官がどこかで見たような顔だと思ったことだった。

 映像は荒く顔はぼやかされたようになっているが彼の漂わせる雰囲気がどこかで感じたことがあるような気がする。

 

 だが、それに合う人物の顔が喉元も出てこず、もちろん頭にも浮かんではこない。


 「まぁ、どうでもいいか」


 しかし、知ったところでどうにかなる話でもない。こちらは映像を止めてまた元の場所へと戻した。


 パチリとパッケージを閉じる音が妙に虚しく響く。


 バッテリーもそろそろ切れる頃ではないかと確認してみれば、電力はまだ残されている。 

 そうすると月見里の顔が頭に浮かんだ。続きはどうなったのかと聞いてきた月見里の表情はどこか縋るようなものだったような気がする。


 「仕方ないか」


 こちらは溜め息を吐いて、中途半端に終わったそれを再びDVDドライブの中へと入れた。


 先ほどの続きが流れるかと思ったが映像の中に出ていた父娘のイラストが描かれたメニュー一覧が映しこまれ、こちらはまた溜め息を吐いた。

 最後のあたりの映像を選択して、早送りで最後の方へと進めていく。


 そうすれば、またエンドロールが流れるところまで行き、最後には――また黒い画面だった。


 「なんだよ。やっぱり続きは無いじゃないか」


 あざ笑うかのようにメニュー一覧の父娘のイラストに戻る。それを見ていると月見里のあの表情も馬鹿らしく思ってくる。


 「これじゃあ、意味がねえな」


 そうして、最後にため息を吐いてテレビを消した。そうして、月明かりだけになった部屋には東台の寝息しか聞こえてこない。


 「……戻るか」


 こちらはそう独り言ちて部屋の外へと出た。ドアを開ける音で月見里が目を覚ましてしまうかもしれない。今からでも別の部屋で寝てしまおうか。


 その選択肢が出る度に先ほどの月見里の表情がチラついてそういう気にはなれなかった。


 どうせ、明日になったら彼女も忘れていることだろうに――。

 

 「――――!」


 書斎のドアノブに手を掛けようとした時、ドアを力強く蹴った時のような音が聞こえてきた。


 何事かとリビングのドアを見るけれどもおそらく寝相の悪い東台でもそこまで移動はしないだろう。

 そして、目の前にあるドアから聞こえているわけでもない。それでも、未だにその音はなり続けている。


 「そうか……まだいらしていたのか」


その音には聞き覚えがあった。


 昔、初めて聞いた時からまるで違わない。


  ここを去った理由であり、『あれ』が昔の記憶を持っていると思わされてしまう理由――。


付けっ放しのテレビを放っておいて、未だ叩かれるドアの方、玄関先へと出た。


ドアを叩くだけではなく、ドアノブも何度も何度もガチャリガチャリと乱暴に回されていた。

 なかなかにうるさいはずなのに、時折聞こえてくるうめき声が耳の中を支配していた。


 今の自分は昔覚えた感情をそっくりそのまま覚えている。否、朧げにしていた分、感情が重い。


 耳を塞ぎたいのに、その度、頭の中で犬が水音交じりの声で吠えた。否、それは頭の中ではなく、目の前にある扉からだった。


 一体、彼の声に、何の感情があるのだろうか。それは想像に容易くない。だが、自分がそれを理解するのは虫が良すぎる気がした。

 

 静かに吠えるように、彼は呻く。


 「ああ、そうだ。俺は貴方の犬を……刺し殺したよ」


自分で声を出したと言うのに、その声は昔の未熟な声音でとてもか細くものに聞こえた。そんなものはすぐにドアを叩く音でかき消されていく。


 その音が裁判官が木槌で叩く音にさえ聞こえてきた。残念ながら裁判所はもう開かれることがない。裁かれたとしても馬鹿みたいに軽い罪になってしまうのだろう。


 「早く開けろよ」 

 

 ここの住人で、こちらにこの部屋の鍵を与えてくれた。自分の犬を保護してくれという条件を付きで。


 だが、その約束を守らなかった。それなのに、平然とこの部屋を使っている。


 彼は死の間際までも大事そうに抱え込んでいた。


 部屋の至るところに犬の痕跡があって、書斎の本棚に埋もれているアルバムの中の写真の一フレームでさえその姿が欠けていなかった。


 きっと、大事な存在だったのだと思う。それでも、自分はその犬の名前を知らない。


 「……早く開けてくれ」


 もし彼かこちらがドアを開けたら自分はどうするのだろうか。

 『あれ』になった恩人をナイフで刺し殺すのだろうか、もしくは床に額をつけて自分の肉体を彼に差し出すのだろうか。


 「いや、どうせまた……」


 そんな疑問の声はやはり消えていく。


 彼はずっと開かないドアのドアノブを必死に回し続けて、こちらは腰に下げていたホルスターを掴み座り込んで。今も昔もずっと平行線のままだった。


 ふと、シュレーディンガーの猫という言葉が頭に浮かびあがった。

 

 どこかの偉い学者が提唱したもので、ある事象が起これば毒ガスが吹き上がる箱の中に猫を閉じ込めるというものだ。

 しかし、その事象が起こったかどうかは箱を開けてみれば分からない。当然、猫の生死も箱の中で、開けてみてみなければそのどちらも正しい結果と成りえる――。


 「シュレーディンガーの猫?ふざけるな。」


 今のこれはそんな高尚なモンじゃない。


 ただの優柔不断で何も決められない俺のクズさ加減の話だろうが。クソッタレ。ドアノブを掴みもしないくせに、奥に引っ込むこともしない。

 

 かと思えば、玄関でただ座り込んで、何も声をあげることもない。屑野郎。さっさとくたばっちまえよ。くたばれよ。


 「くたばれよ……」


 どれだけ強い言葉を吐いても、声は床へと消えていく。


 手も足も目も形のない声も硬直したかのように動かない。


 「終わらせてくれ。頼むから……」


 ドアが開く音がした。


 「ねぇ……何してるの?」 


思いがけない音に立ち上がり体をのけぞらせるが、目の前のドアではなく書斎の方で、間を置かれることなく小さな声と共にランタンを抱き込んでいる月見里の姿があった。


 「――っ。お前には関係ない。部屋に戻ってろ」

 

 心配そうにする月見里。何事かと玄関を見つめ、それが何かわかったら、彼女は酷く不安そうな顔でこちらを見つめていた。


 きっと、安心させる言葉を語り掛ければいいのだろうが、口から出たのは舌打ちだけで彼女を慮るよりも彼女に対して鬱陶しさを覚えていた。


 「でも、外に」


 「黙れ。クソガキ!さっさと戻れ!」


 先ほどまで声が出ていなかったくせに、銃声をあげたかのように自分の言葉は彼女のか細い声をかき消すほどの大音量で放たれた。


 もっとマシな返しがあったはずで、頭の中にもその言葉が入っていたはずなのに、口から出たのは銃声よりも酷い暴言だった。

 

「ぁ……」

 

 月見里はかすれた声を刹那漏らした。


 だが、それを飲み込むように口を噤むとこちらから顔を背けて蜘蛛の子を散らしたかのように書斎へと消えていった。


「なんで俺はいつも……」


続く悪態の言葉を出そうとしたが、自分の愚かさ加減に呆れて何も言う気になれなかった。


 ドアの向こうに行くわけでも、月見里のところへ行くわけでもない。どうせこのまま玄関に座り込んでいるだけで、本当に何もしようともしない。


 後に残るのは怒りが萎み蹲るように座り込む滑稽な男と、罵詈雑言浴びせかけるようにドアを乱暴に叩く音のみだった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る