エンドロールの続きは無い


 「じゃじゃーん、どう?」


 そうして戻って来たリビングは様変わりしていた。


 テレビの前にあったソファは遠くの窓の方へと移動させられ、その中間にあったテーブルさえも今ではソファ用のテーブルに変貌を遂げていた。


 そうなれば、元々の部屋の広さも相まって、と表現したくなるほどに開放的なものになっている。

 ただ、テレビとこちらが寝転んでいたソファだけは未だ元の場所にあるようで、そのちょこんと佇んでいる姿になんとも寂しいものを見てしまう。


 「様変わりしたな」


 「そうでしょ? 結構頑張ったんだから」


 東台はそう言いながら力こぶを作ってみせた。

 そこにコブらしいコブはがなく、柔らかそうな白肌が広がってしまえば、頭の中で先ほどの光景が呼び起こされ視界を逸らしてしまう。


 しかし、頭からその映像が消えてしまえば、そんな華奢な体をした彼女が一人で家具を動かしたりしていたことに遅れて驚かされる。

 もっとも、唐突にこんなことをしたという方を驚くべきところなのだが、そこは他人は他人で自分は自分の精神。

 

 「なんで腕曲げてるの?」


 「あはぁ、そうなっちゃうよねぇ……まぁ、問題ないです。さっさっ、座って座っちゃって」


 当然、月見里も怪訝な顔で彼女を見るが、彼女の言葉を聞いてもむしろ東台は気を落とすどころか自信満々の顔をして悠々とソファの元に行くと席に座るよう促してきた。


 こちらと月見里は顔を見合わせるが答えがどちらの顔にもあるはずもなく、互いに同じような表情を浮かべるのみ。

 しかし、そのまま突っ立っているのも仕方ないのと、少しばかり香ばしい匂いが漂ってきたので、2人表情を張り付けたまま東台の下へと向かった。

 

 「うわぁ、きれい」


 ソファの前に立つと耳に入って来たのは隣にいる月見里の感嘆の声だ。


 中央に緑に吞まれかけた煤色の超高層ビル群が広れば、左に薄青混じった翠緑の波を連ねた山脈がぼんやりと映し出され、右には琥珀色に焼かれた海が悠々と横たわる。

 風光明媚、花紅柳緑、花鳥風月、そんな言葉が頭をよぎるがそのどれもがもはや違うような気がする。


 いや、違う。これは混ざり合っているのだ。

 違った形を色をしていると言うのにどれもこれもが美しい。どうして喧嘩し合うこともなく、どうして高め合うこともなくそこに佇んでいるのだろうか。


 「ふふーん、すごいでしょ。ここが一番景色の良いところなんだよ」


 そう言う東台の鼻息は荒い。

 それでいて、くの字を作れるほど胸を張る姿に若干引いてしまうが、こんな景色を見せつけられればなるほど部屋をひっくり返してでも見たいものだろう。


 「じゃあ、皆で食べよっか」


 東台が言って机に置かれた皿にのせられた食材に手を指し示した。


 「パンか?」


 「えぇ、あのカチカチのパサパサなやつ?私はパスするから」


 月見里がもう目にも入れたくないとばかりに顔を背けた。


 彼女が言っているのは机に乗っているものではなく、いつも食べている乾パンのことだろう。

 遊園地のときでも遠征のときでも食べているだけに見るだけでもうんざりと言ったようだ。


 最も、それと一緒に入っている金平糖やら氷砂糖は今でも飽きず食べているが。


 しかし、ここにあるパンは折りたたまれてはいるものの固い板状のそれとは程遠く、きつね色にこんがりと焼けていてもその柔らかさを感じ取れるような食パンだった。


 「ユイちゃんもあれ嫌いなんだ。分かるー、食べた時口の中がパサついて嫌になるよね。でも、これは食パン製だよ。」

 

 「ふーん……食パン?あの?」


 「うん、パン祭りのパン!」


 月見里は自分で言った言葉にも関わらず開いた口が閉じないほどに驚いているようだった。

 当然、こちらと会う前にも彼女の歴史があるわけで、食パンなんてありふれたものだからきっと食べていることだろう。


 しかし、ありふれていたのは昔で、サツマイモ暮らしをしている今では到底考えられないような貴重品だ。


 「うん。昔ね――自分の家に帰ろうとした時、駅前で見つけたの。ほら、パンの缶詰って珍しいでしょ?」


 自分の家と昔という組み合わせに一抹の不安を覚えて口に運ぶ手が止まってしまう。

 しかし、焼けたパンの香りと、それからマヨネーズの甘酸っぱい匂いと肉汁の臭いが鼻腔をくすぐられればどうでも良いことである。


 さっさと口の中に入れてしまおうと腰を下ろそうとすれば、東台の姿が目に入って体が止まってしまう。


 東台はまたあの目を光らせて窓の外を覗いている。何の感情も見えないのに無表情ともつかない顔を身に着けている。

 一体あの瞳には何が見えているのだろう、その瞳には先ほど綺麗だとぼやいた景色が凝縮されているがきっとそれではない。


 「なぁ――」

 

 「まぁ、いいから。早く座って、座って」

 

 声をかけようとしたときに、こちらに振り向いた東台は既にいつもの屈託ない笑顔戻っていた。

 その変わりように驚かされるが、ぴしゃりと突き放されたような気がして口を閉ざした。


 「座らないの?」


 ぼうっとしていると下から妙に上気した月見里の声が聞こえてきた。


 何事かと見れば隣にはおらずいつの間にか席に着いたようで、行儀よく座っている格好とは裏腹に口をあんぐりと開けて涎を垂らす月見里がそこにいる。

 その姿に少しばかり驚くものの、これ以上待たせては悪いような気がして自分も急いで席へと着いた。


 「皆座ったね。じゃあ、いただきます」


 「いただきます」


 東台の号令に続けて合掌。月見里はそのままサンドイッチを口に入れて食事タイムに突入したようだった。

 食事を手に取りつつも、どうしても東台の様子が気になってと恐る恐る彼女を覗き込んでみる。


 彼女はいつも通りのにこやかな笑みで、山の方をぼんやりと眺めていた。


 あっけらかん。

 それ以上でもそれ以下にもなっていない。今の彼女の姿によく合う表現だと思った。


 その姿を見ているとまたいつもの狐につままれたような気分で締めくくられてしまう。

 隣を向くと、月見里が満面の笑みでサンドイッチを頬張り、もはや両方からつままれたようで自分が滑稽だと思えてしまう。


 月見里の頬張る姿を何の気なしに眺めていると、こちらを不思議そうに見つめ返してきた。きっと、自分の表情もこんな感じになっているのだろう。


 おそらく、人の気持ちを分かったところで、きっと自分は野次馬の一人にしかならない。そう探るのを諦めたこちらは気分を変えるようにこちらもサンドイッチに手をつけた。

 

 「これは、肉か」


「うん、鶏肉とマヨネーズ。ありきたりだけど、鉄板だからね」


 口にしてしまえば、乾いた口内に滑らかなマヨネーズの酸味と脂でとろける肉の旨味が広がり、すっからかんになっていた脳は大歓迎と言わんばかりに多幸感を放出させる。


「ペットボトルといっしょに沢山入ってたから何個か拝借しちゃった。」


 鶏肉を使い切ったはずなのに何故というこちらの疑問を察したかのように、東台は戸棚の方に指差した。

 そちらの方を見れば戸棚から古ぼけた缶詰や包装材が文字通り見える床に吐き出されているのが見える。


 「ごめんね、あとでちゃんと片付けておくから」


 「別にそれは気にしなくていい、どうせ適当に放り込んでたからな」


 「そっかぁ。道理で開けた時にバァンって落ちちゃったわけだね」


 「そうか、悪かったな」


 「別にいいよ。ちょっとした雪崩見れて面白かったし」


東台の大げさな身振り手振りに小気味よさを感じつつも、自分のだらしなさで彼女が被害にあったことに負い目を感じてしまう。


 しかし、東台は何の事もないと朗らかに笑い軽口を叩いてみせる。

 その姿を見て胸のつっかえが下りていくのを感じて自分に少しばかり嫌悪を覚えた。


 「そういえば、八雲。犬飼ってたの?」


 「――――」


 もうひと口を口に運ぶ暇を与えられることなく、東台にそう声をかけられる。


 口の中にはもはや何も残っていないのに、口の中がまた乾いていった。


 「戸棚の中にたくさんドッグフードの缶詰があったからちょっと気になっちゃって」


東台はこちらがまだ咀嚼していると思っているのか、舌を滑らせる彼女はこちらの返答を待たずにマシンガントークを繰り広げる。


何犬飼ってたの?だとか、自分がなんの犬が好きだとか、こうちゃんとかいう友達が犬飼ってて散歩の手伝いしてたとか、どれも他愛のない世間話で、月見里も我関せずとパンの味を噛み締めるのに夢中だ。


 「八雲……もしかして、聞いちゃダメだった?」


そんな会話が自分には重い。


 いつだったか、主人公が教会の暗い部屋で自分の事を独白しているシーンをテレビで見たことがあった。あの時の主人公が何故苦悶の表情を見せていたのか、今になって分かる気がする。


いつの間にか頭も垂れていた。


 それでうんともすんとも言わなければ、東台は何か伺いを立てるような弱い声音でそう言ってくる。


 「いや、東台が気にすることじゃない。あれは、ここの持ち主のものだ」


 「……そっか、ごめんね」


 「……謝るのはやめろ。関係のない話だろ」


やっと返した言葉も何故だか弱々しく、口にするたびに後悔にも羞恥にも似た感情が募っていってしまう。


申し訳なさそうな顔で見てくる彼女に引け目を感じ、月見里の方へ目をそらした。

だが、すっかり食べきってしまった月見里は、平らげた後の皿には見向きもせず心配そうな顔を晒してこちらの一挙一足を覗き込んでいる。

 その姿に鬱陶しさを感じて、誰もいない窓の方へと視線を向きなおした。


 「ここからだと東台の働いていた場所見えないな」


 「そうだね。あのビルを倒したら見えるかも。あっ、でもそれだと潰れちゃうか」


 「そうだな」


 月見里が何か口を開いたのを無視して、バツの悪さをごまかすように話題を切り替える。


 東台の軽口は些か誇張した表現だが、最終目的地で東台の元アルバイト先は、地図上から見れば確かに目の前の連なるビル群の向こう側にあってちょうどその中央あたりに建っているので物の見事に隠れてしまっているようであった。


 しかし、通ったのは数年前で、その上、一度も来たことのない場所から位置をピタリと当ててしまうとは、東台の地理感覚と記憶力には舌を巻いてしまう。


 だが、そんな驚きはあっても、その感情が鎮まるとフラッシュバックをするかのように過ちを犯した時の映像を何度も何度も再上映される。


 当然、気分も変わりはしない。むしろ、燃え上がった火を手で覆い被しているような無意味さを感じて、それが胸を酷く焼き焦がしているように思えて、無性に頭を掻き毟りたい。


 「俺が殺した……」


 いつの間にか自分の視線は地面に向いて独りごちる。


 残る灰が暖炉から吐き出されたような罪の独白。そんな非生産で独り善がりな言動をしてしまう。この場所にいると特にそうだ。


 不幸中の幸いと言えるのは、その声が惨めったらし過ぎて2人の耳に届かない事だろう。

 

 「あっ、二人とも窓の外見て」


 胸に重いものを抱え、こちらは席を立とうしたが、それを一蹴するように東台は手を叩いて興奮気味に窓を指差した。


月見里はそれにつられ振り向き2人並んで窓を覗き込む形になっていた。こちらも呼びかけを無視してどこか行くのは気が引けて一緒になって窓の外を覗いた。

 

 そこには全ての感情を無に帰してしまうほどのものがあった。


 落ちていく陽の光と共に海と空の境界が繋がりどちらが海だったか空だったか分からないほどに交じり合わされるも、未だ太陽の光が残る空は地平線に赤紫色が一点光り、その上からはウルトラマリンの濃い蒼が包み込み、その両方に覆いかぶさる雲は両方の色を帯びて輝く。


 プールの底で見た夕焼け、いや、色のついたビー玉を覗き込んだ時の色。

 

 記憶を辿ってはその色ではないかと思えば違う。だが、どこかで見た事があるような郷愁深くどこか幻想的な雰囲気がそこには封じ込められていた。

 


 「これ逢魔が時っていうんだよ」


 「おう、がとき?」


 東台がそう月見里とこちら側を向いて、聞いたこともない言葉を口にする。月見里が反芻するようにその言葉を聞き返すと「ううん」と首を横に振って、


 「逢魔が時。昔の人はこの時間に怖いお化けみたいなのが出てくるってのが信じられてたんだって」


 「迷信だけどね」と東台が笑みを浮かべ、冗談とも本気ともなんともつかない態度でそう言ってみせた。


 目の前に広がる光景がどうやって作られたのを知っている分、そして、その下に彷徨うものを知っている分、なんだがその言葉がブラックジョークのように思えて愉悦さを覚えてしまう。



 そうして東台の解説が締めくくられたように、逢魔が時も幕を下ろしていく。


 日が本格的に陰ると、並べられていたように鎮座していた山脈と摩天楼と海洋の境界でさえもぼやけて黒く塗り潰し、一度それらのシルエットを際立って浮かび上がらせる。


 まるで暖炉にわずかに残った小さな火が消えていくような。そんな哀愁が自分の身を包んでいく――そんな気がする。


そうして、こちら側の感情さえ放って煙のように消えていった。しばらくすれば、月が白々しい光を放った。

 温かみはなく、どこか寒ささえ感じるその光では地面を照らすのには頼りない。不透過の黒一色がビルの底へと溜まる。


 そして、部屋の中も真っ暗闇となり、取り残されたように月見里のランタンが橙色の光を灯す。


 「――――」


 そうして、終わりを告げるように、荷物の中にある時計のアラームが鳴った。 


 「何の音?」

 

 「もうすぐ日没になる合図だ」


 必要ない時は切っているのだがどうやら忘れてしまっていたようである。取り出してみると確かに18時半少し前ぐらいを指している。

 これも数年前に拾ったものだと言うのに狂いもなく動いているものだから缶詰もびっくりの物持ちの良さである。


 「あっ、それ何かの映画で見たことあるシチュ。もしかして、『あれ』って夜中になると狂暴化したりするの?」


 「いや、それはない――とは言い切れないな。だが、暗闇の中で歩くのは嫌だろ」


 そうランタンの取っ手を両手でしっかりと握り込む月見里を一目して言った。

 

まだ電気が生き残っていた時には夜中に出歩いたことがあるがそれでも大通りから外れてしまえばすぐ暗闇に浸かる。町全体が暗闇ならば尚更。


 もしかしたら、元人間である『あれ』も夜目が効かないかもしれないが、『あれ』の解体新書なんてないのはない。

 どちらにしろ明かりが無ければ身動きが取れないので、そんな目立つ行為をしていればすぐに『あれ』気づかれてしまうだろう。


 「あーね。確かにこの暗さじゃあねぇ」


 彼女はうんうんと頷き、辺りを見回していた。


 時計の針が一つ進むごとに暗くなっていく時間、部屋は自分の足元さえ暗く月見里のランタンが紅一点光っている。


 東台は彼女のランタンを覗き込み、天井を見上げると、


 「そういえば、天井のランプ明かりつかないね――」


 そう言って吊り下げれた電球を指差す。しかし、すぐに「そりゃ、無理か」と自分が言ったことに突っ込んだ。


 埃で見えづらくなっているが、外見を見る限り最新型のLED電球だが、電気が通っていなければ無いのと一緒である。


 「あれはどう?」


 流石にランタンだけでは心許ないだろうと何かないかと周りを見回せば、月見里がこちらを呼びバッテリーを指さした。


 「バッテリーか――残量は……少し増えた程度か。もし点けるなら窓から離れたところでつけてくれ」


 部屋の隅っこにランプがLED電球だった覚えがあるので、バッテリーに浮かび上がる数字を信じるならば24時間つけても問題ないぐらいの電力が溜まっていた。


「今日はどこにテントを立てるの?」


 東台が「はーい」と元気よく挙手して会話が終わると、次は月見里からまた「ねぇ」と声をかけられる。

 見ると抱え込んだ腕には寝袋とお気に入りのぬいぐるみが加えられていて、寝る準備は万端らしい。


 「今日もテント張るの?なら、ここが良いな。景色見たいし」


ソファから顔を上げ会話に入ってくるのは東台で、窓の方に手を広げ「まぁ、何も見えないけど、存在感だけで開放感ある、みたいな?」と苦笑いを浮かべていた。


 「いや、今回は張らない。寝るところは勝手にしてくれていい」


 「じゃあ、私はこのソファで寝るから何かあったら教えてね」


 「分かった。本当にランプを点けたくなったら光量は最低限にしてくれ」


 「OK、じゃあ、ゆいちゃん。後で、枕はないから――寝袋投げでもしよっか?」


 「おやすみ」


真顔になった月見里に一蹴されて、「そっか、残念」と東台はソファに落ち込んだ。そんな光景を見ているとふと修学旅行の時の記憶がよぎる。


 あまり過去を思い出すことは無かったが、何故だか東台と言葉を交わす度に昔のことを思い出してしまう。


 もっとも、思い起こされるものは可もなく不可もないものばかりで、修学旅行なんてでかい寺やでかい神社を見たぐらいだ。

 もしこれに不可があるとすれば班行動をとらされたことで、可があるとすれば同じ班の人間がこちらを疎むことなく大人の接し方をしてくれたことぐらいだろうか。


 「月見里、ランタンの光は窓に近づけるな」


 「うん」


 そんなことを思い出したせいでこちらの言葉に月見里が頷くと不思議な感覚を覚える。

 さながら、自分が消灯中に見回る教師になったような気分だ。


 「俺は書斎にいるから何かあったら呼ぶ」


 やったことも無い事に同調する自分に珍奇な感覚を抱えつつ、月見里にそれだけ伝えるとリビングを出た。


 「あれ、美味しかった。ありがと……」


 「どういたしまして」

 

月見里と東台の声をドア越しに聞いて、閉じ切った後に薄暗さが広がり閉塞感が一層高まる廊下にため息を吐き書斎へと歩いた。

 


 書斎に戻れば視界に張り付けられるのは変わらず真っ黒。


「はぁ……窓があっても小さければ意味がないか」


 まだ夕焼けの残滓があるはずなのにその色のカケラさえなく、黒の濃さがいくらか薄くなっているぐらいだった。


 先ほどまで明るかったから大丈夫だろうと思っていた自分の浅はかさにはあきれ返ってしまい一人溜め息を吐く。


 「懐中電灯があれば問題は――ああ、くそ」


 そこで自分の背中にあるはずの重みがないことに気づいた。

 おそらく、リビングに置きっぱなしにしてしまったのだろう。思わず舌打ちをしてしまった。この部屋では妙にその音が響く。


 取りに戻ればいいのだが、その際に月見里が付いてくるかもしれないと思うと戻るのは気が引ける。


「――仕方ない。後は寝るだけだ」


 何か言葉を言うたびに暗闇の中へと放り込まれそれっきり、目を開ければすぐさま墨汁のような黒に潰される。月見里ほどではないがこちらも闇はあまり好きにはなれない。

  

 どうせ、目さえつぶってしまえばすぐに眠れるだろうと現実を逃避しつつ奥の方へ行き、手探りで床に散らばった紙を隅に追いやるとそのまま寝転がった。


 床で寝るのはあまり珍しいことではない。一昔前は常にそんな状態である。

 しかし、固い感触が頭を圧迫して、冷気がズボンを通り越して体温を奪ってくる感覚は到底心地よくなるものではない。


 せめて寝袋は荷物の中から持ってきたらよかったと、今更ながら後悔してしまう。これが下衆の後知恵なのだとため息を吐いた。


重い空気は下に行くというのだからこれも地面の底に溜まっているのだろうか、なら寝転がっている自分は一生それに困らないだろう。 


「ねぇ」


そんなバカげた考えに一人笑みを浮かべていると、視界に光が差して頭上からいつもの幼女の声が返ってきた。


「月見里か、何しにきた?」


 「荷物、部屋に忘れてたよ」


 そうか細い声で言った彼女の手を見ると何かを持っているようで――


「まさか、俺の荷物に触ったのか?」


 身体を起こし問いだすと、彼女は必死に首を振り、


「ううん、大丈夫。持ってきてないし、触っても無い」


 「そうか、それならいい」


 ランタンの光を手の方に近づけてそう言った。手を見れば確かにこちらのリュックサックではなかった。


「そうか、よかった――何故、寝袋を持っているんだ?」


 しかし、握られていたのはリビングでも見た彼女愛用の寝袋とぬいぐるみでどちらにしろあまり良くない結果だ。


「……ここで寝ようと思って」


 「そうか、じゃあ、俺は他のところで寝ようか」


 彼女は「えっ」と困惑の声を刹那漏らしたが、こちらに悟られまいと口を結びダンマリを決め込んだ。


 しかし、眉のゆがみは隠しきれていないようで、それが痛々しく映る。そんなものが視界に入れば自分が彼女に対して酷いことを言ったように思えて胸に刺さりこみあまり気分のいいものではない。


 その何とすればいいか分からない感情を咳払いで追い払い、「それで」と話題を切り替えた。


 「リビングで寝ないのか?ここは床が固くて狭くて寝にくいぞ」


「だって、東――あの人って寝相悪いから……それに好きなところで寝ていいって、さっき」


 リビングにはたくさんのソファがあるのだから離れて寝ればいいと思うが、先ほどの彼女の反応からしてそれが理由でないことは百も承知だ。


 だが、確かに好きな場所で寝てもいいと言ったのはこちらだ。反故にしてしまえば、常日頃、こちらとの決まり事を守っている彼女に示しがつかないというものである。


 「そうか、ああ、そうか、勝手にしてろ」


 何か反論する言葉は見つからず、代わりに胸に燻るのは月見里に対する正当性のない怒りだけが口を開き、放つ声だけは冷たい。

 言い切ると勢いのまま、起こした体を横にして彼女の顔が見えないよう反対側の方へ顔を向けた。

 

 月見里は返事をすることはなく、黙っていた。ランタンの光だけが先ほどよりも床を強く照らして揺らめいていた。

 

 起きた昂ぶりは小さく冷静になると、八つ当たりのように怒りをぶつけたことに罪悪感が吹き上がる。そうして、突かれるように自分はまた口を開いた。


 「は――歯は磨いたのか?」


 「うん、磨いた」


 押して引いてもましな言葉は出てこず、代わりに出てくるのはお茶濁しの世間話。


 しかし、月見里も不平を言うことなく、むしろ安堵の見える声色でこちらの言葉に応じて見せた。


 それ以上何も言葉が双方出ることは無く、背中に風を感じるぐらい近くで月見里がランタンを揺らしながら寝袋を敷く音のみが聞こえてくる。


手洗いうがい外出控え、そして、感染者から距離を取れ。以前見たチラシの文言が頭に浮かんだ。


 存在を主張するかのように頬にある古傷が痛む。きっと、これは今の自分に対する抗議なのだ。


 月見里とは出来る限り距離をとるべきだ。

 物理的にも――精神的にも、それなのにそれをする方法を頭に説いても頬に説いても目の前には暗闇しか流れてこない。


 「おやすみ」


「ああ」 

 

背中にいる月見里が欠伸混じりの声で言ってそれに応じると、そのまま小さな寝息を立て始めた。


 こうやって、挨拶をかわせるほどの近さにいる。そのことに何故だか強く言えない自分もいる。何故だか安堵している自分も僅かばかりにいる気がする。


 「これじゃあ、『父親』だろ。クソ」 

 

 そう悪態を吐いて月見里の顔に視界を向けた。橙色の温かい光の中で、可愛らしい寝顔を晒している。まるで天使のようだと月並みな表現しかこちらからは望めない。


 父親という名の依存先。


 血がつながらない赤の他人であるはずなのに、文化的で最低限度な生活さえ送れず、こちらに縋るしかない幼い少女。

 

 それを利用して付いてこさせているのは一体どこの誰だ。


 「なんて屑野郎なんだ、俺」


 そう悪態を漏らすが、また暗闇の中に吸い込まれる。それにまた安堵を感じる自分がこちらを嘲笑っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る