『あれ』の目、月見里の瞳

 

 車体の数は先へ進むごとに減っていくが、図体がでかいものが横転していたりするので周囲を見渡すことさえ難しい。

 月見里を肩車すればなんとか視界が確保できるかもしれないがそんな考えは論外である。


 そんなものが珍しくないので、壁がそびえていると表現した方がもはや適切である。

 その不揃いの壁が道を挟み入り組みさせさながら迷路のようになって折り重なっていた。


 死角が多いということはそれだけ相手から見えないということだが、ここが頻繁に車が行き交っていた大通りという事実が安心感をもたらしてはくれない。

 

 まさか、あの死角に『あれ』が潜んでいるのではないだろうか。まさか、あそこの見えないところにも待ち構えているかもしれない。 

 ここまで考えてしまうのならば、もはや被害妄想、否、薬物中毒者が見る幻覚と同程度というものだろう。


 しかしながらも、左方も含め見える部分全て見回しても『あれ』の姿形はなく、気配さえない不自然さが一層緊張感を煽り立てた。


 「――?」

 

 こちらはそこら中に転がる薬莢の一つを拾いあげた。


 その時、東台が不思議そうにこちらを覗きこんでくるが、月見里がグーにした手を彼女の顔の前に掲げて睨み付けると慌てたように後ろに下がって両手で口を塞ぎ苦笑いを浮かべる。

 

 そんな殺伐とした和気藹々さという矛盾を横目にして、手につかんだ薬莢をそのまま進行方向とズレたところにある装甲車へと放り投げた。


 へしゃげたドアにあたったそれは鈍い音を立て静かに落ちる――。


 というこちらが立てた予想に反して、ドアの上を少しばかり滑るように転がるとその表面のあちこちに出来た小さな陥没穴の一つに吸い込まれるようにはまり込んで落ちることなく先端をのぞき込ませていた。


 これは失敗したと言っていいのだろうか。それ以前にこれを失敗というような畏まった表現をしていいのか。

当然のように『あれ』は出てこないが、なんだか腑に落ちない。なんだか、気恥ずかしもあった。


 後ろを振り向けばそんな穴と同じぐらいの大口をあけている月見里の姿があった。

 さらに後ろを見れば眉をあげて振り返ったこちらを不思議そうに眺める表情をして東台がいたが――


 「――――!」

 

 そんなオチを向かえてもこちらの勘は嫌とばかりに的中する。月見里はびくりと体を震わせ石橋だったはずのものは微かな呻き声と共に消え去った。


 「――っ。声をおさえろ」


 釣り餌に引っかかった招かれざる者。


 音に誘われるように地面を薬莢を踏み鳴らす音がすぐ近くから沸き立つ。 


 こちらは身を低くせて、東台を先頭にして来た道を戻らせる。彼女の表情は困惑に変わるが、説明する暇はないと横目にして一気に外へと出た。

 

 すぐに2人を左手にある戦車の壁へと貼り付けさせ、こちらは向かい側にある車両に張り付いた。


 そして、入れ替わるように『あれ』がその道に姿を見せる。


 こちらが、ではなく自分よりも遥かに背丈の小さい月見里が身を屈ませて『あれ』の足元ぐらいになるぐらいの位置で覗きこんだ。 


 そうもしないうちに、月見里がピースサインをこちらに掲げた。その意味と、彼女の険しい表情に間違いがなければ2匹いるということだろう。


 確かに先ほど音が重なるように聞こえていた。今更ながら合点を合わせる自分が間抜けに思える。


 見張る必要はないと手を下に落とし知らせるが、手の形をそのままにしてこちらに構えたままの手は震えるばかりで動かない。

 先ほどのように笑っているのでもなく、決して武者震いでもない。先ほどよりも強張っている表情がそれを物語った。


 静かに響く『あれ』の足音は断続的で、その間隔も歩くというには遅すぎる。

 一度立ち止まってはまた踏み込んだような一歩、また立ち止まって――まるで威圧しているかのように。繰り返す。

 

 こちらは彼女に手を豆をつかむような形にして口元にもっていく素振りを見せて合図を送った。

 月見里はその意図に気づくと、ポケットからゆっくりと小さな箱を取り出し、中身を掌に転がした。


 その正体はピンク色の球体で、イチゴ味。駄菓子屋で売っていたようなものだが、月見里お気に入りのガムである。

 それを錠剤を飲むかのように口の中へと放り込む。 


 瞬時にとはいかないが、咀嚼するたびに彼女の表情は柔らかくなり、足の震えも止んで後ろへと下がった。


 どれほど緊張が解れたのかは月見里のみぞ知るが、こちらが彼女の後ろでただ座り込む東台にガムをやれと目配せすれば嫌そうな顔をしていたから大分余裕は出来たようである。


 そのせいかは神のみぞ知るが、状況は先ほどよりもマシになってきているように思えた。

『あれ』は未だゼンマイ人形のような動きを繰り返しているが、その音の大きさは依然変わらずむしろ聞こえてくる度に徐々に小さくなっているように見える。

 

 おそらく、このままじっと息をひそめておけば通り過ぎていくだろう。


 周りを見ても月見里は壁にした車両にもたれかかれり、東台はガムを噛むことに集中している。所謂、言わぬが花。沈黙は金で――


 「――――!」


 その時、甲高い金属音が地面を跳ねた。


 『あれ』が驚いたかのように威嚇声をあげる。


 その音の甲高さと状況を察するにこちらが投げた薬莢だろう。自重で落ちたか、運悪く体がぶつかって落ちてしまったのか。


 原因は分からないものの、『あれ』は聞き慣れぬ音が想定もしていないところから湧いて酷く興奮しているように見えた。


 体が強張る。奇声が聞こえた途端、自分はいつのまにか腰にはめていたナイフを不意につかんでいたようであった。

 経験によるものなのか。臆病者の行動がここまで極まるともはや一種の芸当に近いだろう。


 月見里を見れば彼女も同様に腰に備えていた鉈を掴んでいた。その所作はもはや電光石火のようである。 


 2人の人間がこれほど動いても『あれ』はその場から動く気配はない。


アスファルトの固い地面に打ち付けられる鈍い音、それとは似つかわしくないチャラチャラと鳴る薬莢――奇声と共に延々と鳴り続ける。

 

 だが、ただ一つ。先ほどのように音は2重になることはなかった。おそらくやっているのは一匹のみなのだろう。


 では、もう一匹はどこにいったのだろうか、その奇行とは裏腹に何の所作もこちらからは聞こえてはこない。


 「……!」

 

 その一匹はすぐに見つかる。それは最悪な形で。


 真横に『あれ』がいた。


 正確にいうとこちらと彼女が隠れた車両の間、先ほど通って引き返してきた道なので斜め左下にいると言った方が適切だろう。


 しかし、壁越しからでも木の瘤のような鼻先がはっきりと見えており、感情面でそのように捉えることは出来なかった。

 息遣いも聞こえるぐらいの距離だが、以前車越しで聞いた『あれ』の息遣いとは違い、酷く落ち着いたもので呼吸をしているのか怪しいほどに静かなものである。


 まるでマネキンのように――否、軍人が直立不動で立っているようだった。

 現にもう一匹の『あれ』がどれだけ暴れようが意も返さずその場で身じろぎ一つしていない。

 

 いつの間に来たのかと、勘づかれたのかと焦る気持ちはあるものの、何度もこのような状況に出くわしていると『あれ』は何故そんな行動を取るのかという疑問が先に湧いてきてしまう。


 その場でただ佇んでいたいのかもしれないが、その行動原理は傍で音が発されて奇声をあげるよりも到底わかりようが無い。

 あの干からびた脳味噌の中には一体何が残っているのだろうか、こちらは彼(または彼女)のことを知らないしその考え方に浸るのは些か不快だ。


 (月見里、やめろ)


 襲い掛かろうとせんばかりに鉈を取り出そうとする彼女を止めしゃがむようこちらは合図を出す。掴んでいたナイフを取り出して『あれ』の鼻先を捉えるように刃先を向けた。

 

 これ以上動いたら殺してやる。


 そんな覚悟にも似た高揚感が胸を締め付けるが、それは悪手であるということが頭の中では理解している。

 今出来ることは息を押し殺すことだけ。喚き立つ殺気も呼吸も出来るだけ押し殺す。


 そうして自分の頭が冷えていくのを感じると、自分を傍観視しているような謎の感覚に襲われる。まるで自分が息を潜めた狼のように振舞っているように見えて呆れかえってしまう。否、状況的には肉食獣から身を潜める兎だろうか。


 ウサギと言えばなぜか月見里を思い浮かべるが、彼女の表情はこちらと似たようなものである。

 ただ一人、月見里の後ろに隠れる東台は車の下で息をひそめていた時と同じような表情を晒していた。


 そんな奇妙な静けさが広がると、荒れ狂っていた方の声量も虫の羽音よりも小さくなりやがて途切れた。


 何の反応が返ってこないことにあきらめたのか、無数に転がる薬莢に叫び続けるのを下らなく思ったのか


 バチバチと輝く花火がバケツの水に落とされたような、不自然ともいえるべき切り変わりようにある種の疑心暗鬼を抱くが、そうもしないうちに伸び出ていた鼻先がゆっくりと引っ込められて消えていくのを見ると途端に安堵感へと変換されていく。


 その音が完全に消えたのを確認して合図を送ろうと月見里に視線を向けると、既に彼女は手で輪っかを作ってこちらに合図を送っていた。

 ナイフから手を離しても体は震えていたと言うのに、ニンマリ顔をした彼女を見た途端、消えてしまうのだから複雑だ。


 「……行くぞ」


 そう言って、静かに深呼吸をした。



 ※ ※ ※



 様子を確認して居なくなったことを改めて確かめると再び体を低くして大通りを通り過ぎた。

 当然と言っていいのか、運が良かったと言っていいのかは分からない。


 だが、先ほどの2匹以外の『あれ』に出くわすことはなく大通りを無事に通り越すものの、また再び鬱蒼とした草むらの中に入りこんだ時にどっと体に倦怠感が流れ込んできた。


 月見里も東台もそれは同じであったようで、しばらく歩いた後に安全そうなところを見つけそこに座り込んで休憩を取った。


 安全と言っても相対的という意味であって、周囲に目を凝らせば草はある程度踏まれており薄っすらと道のようなものが出来ていて『あれ』が通っている可能性が少なからずあった。


 それでも記憶を辿ればここが相対的に最も安全な道には変わりはない。そうでなくても大通りと呼べる道を迂回出来るルートもあるので最善の道でもある。

 

 「またお家ばっかりだね」


 「そうだな。今は気にしなくていい」


 東台がそう軽く笑い、こちらはそう軽く応じる。それ以上のことはない。


 ここにあるツタやその他大勢の雑草を取り払ってしまえば、住宅地の集合体といったところで橋を渡る前にあったものと同様のものが立ち並んでいた。


 唯一違う所と言えば、草の間から露出したものが堅牢なコンクリートブロックやレンガブロックであることだろうか、無機質で堅牢な見た目通りそれで打ち立てられた建造物も高く聳えており、世が世なら5階ぐらいのマンションと呼べるものだった。


 昔、このあたりに沢山の人間が住んでいたことは想像に容易いが、その抜け殻たちは今の時間は駅にいるので必要最低限の警戒だけで十分だった。

 もっとも必要最低限というのはただ周りに目を配る程度のものである。

 

 「このあたりに来たことあったりするか」


 「うーん……このあたりは来たことないしねぇ……もしかして、迷子になっちゃった?」


 「いや、このあたりは覚えている。だが……」


 東台は電車のある方向へ指してくるくると回していた指を口元にあて小首をかしげる。

 以前も同じような事を聞いて同じような答えが返ってきた記憶がまだ残っているので別に彼女に道を聞きたかったわけではなかった


 ただ、単純に彼女の様子を確かめたかったからだった。


 先ほどの緊迫感に包まれてピリつく中でも平然としていて足先さえも震わせる様子も無かったが、こちらが声を出してもいいと言った途端に表情は電球のように明るくなった。


 今はといえば、周りの変わり果てた様子をキョロキョロと見回していた瞳を黙り込むこちらか仏頂面の月見里か、時折周りの景色に向けている。


 東台の一連の行動を辿ってみるとそのような反応になるのは当然と思えるが、何故か違和感を覚えてしまう。

 現にこちらを見る瞳は恐怖で震えていることもなく、いつもと変わらず好奇心に満ちて透き通った瞳。一体何を見ているのだろう。

 

 「いや、何でもない」


 「ふぅーん、変な八雲」

 

 しかし、口にすることは出来ない。


 むしろ、こちらを映す彼女の瞳に何か見通されているような気がして思わず目を逸らした。人の目を見るのはもともとあまり好きではない。

 こちらの振る舞いに東台はそう言ったが、怪訝な顔一つすることなく「まぁ、いいか」と興味は再び広がる景色に移る――


 「そういえば、唯ちゃんってここに住んでたの?」


 かのように見えたが、次の興味をこちらの真後ろに引っ付く月見里に移していた。


 しかし、月見里も彼女の瞳を見てうざったいと顔をしかめるばかりで、口もへの字に歪めて無視を決め込んでいる。


 「ゆいちゃん。訛り?みたいなのないし。やっぱり、都会っ子なのかなって」

 

 それでもあきらめない東台は負けじと月見里に話しかける。


 彼女の口を開かせるためのきっかけづくりかもしれないが、東台と月見里の言葉遣いは普段から言葉遣いに無頓着なこちらから見ても確かに異なるものだった。

 東台の言葉遣いが汚いというわけではなく、彼女の言葉通り訛りだ。


 確かに東台から発される言葉の端々にはどこか見知らぬ訛りがあるが、月見里にはそれがなかった。(ただその訛りが息を呑むほどの美女である彼女に親近感と温かみを覚えさせてくれる所以である)


 月見里の言葉遣い自体はどこにでもいるような小学生のようなあか抜けたところはあるが、訛り自体はまるでなく、初めから今の記憶を辿ってもテレビで聞くような標準語しか彼女から耳にしたことはなかった。


 ただ、そんな人間はスマホのタップ一つすればごまんといるので、これだけならば別にどうという話ではない。

 だが、彼女の鈴の音色のような澄み切った声音が濁りのない発音と絶妙に合わさってその端麗さを存分に発揮させていた。


 きっと見知らぬ人が初めて彼女の声を聴けばどこか大きな家の令嬢と見まがうぐらいだろう。

 

 それでも、こちらが彼女をそのように思わないのはその鈴が七五三で跳ね回る幼児の頭に乗っけてある鈴のようにチリンチリンと五月蠅く駆け回ることが時折あるからだ。

 ただ、東台が横についてからは鳴りを潜めてそんな欠片さえ全く見せることがない。


 しかし、東台の純真な瞳の輝きか、何度も何度もカランカランと鐘のように鳴って鳴りやまぬ彼女に諦めたのか、月見里は首を空に向け朧気に見える高層ビルをその目に捉えどこか神妙そうな顔を浮かべると、


 「それは……秘密」


東台を一瞥してそう地面に呟いた。


 「そっか、秘密かぁ」


 東台は「女の子の秘密は絶対だもんね」と軽口をたたいて、それ以上彼女から問い詰めることなくあっけないほどにあっさりと終わらせた。 


 東台が一瞬こちらを見た気がするが、こちらも月見里の出自なんて知りようもない。


 知らぬが仏。


 そんな諺が頭に浮かんだが、互いにそんな話を交わしたことがないので暗黙の了解というほうがきっと正しい。


 返答の代わりに一人小さく肩をすくめた。

 その時にふと月見里の表情が見えたが、あまり覗いてはいけないような気がして真反対の方向へと向き直した。

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