終わった後の道
「ここの道って、こんなにすっきりしてたっけ?」
下りで疲れ知らずの東台が固い床を蹴ったときの反響音以外、階段を降りてから初めて耳にしたのは、その東台の一声であった。
あちこちあったはずの瓦礫はあたかたもなく無くなり、少しばかり片隅に生えていた筈の草木も地面に投げつられたトマトのように潰れて何もかもが真っ平。
初めてこの光景を見た人ならば、このあたりの地面がプレス機で押しつぶされたと言われればそれを信じてしまうに違いない。
最も、この道が『あれ』で溢れかえっているところを見たこちらと東台ではその印象に乖離がある。
そもそも、錆びついた車がおもちゃ箱から放り出された積木のように多少散らばっていて真っ平と表現するにはいささか難がある。
それにもかかわらず、本来ならあるはずのものが見えなくなると、そんなものさえどうでもよくなるほど荒涼感際立ってしまう。
「大移動の後は大抵こうなる」
「へぇー、そうなんだ。そういえば、鎌田さんが最近道がぼこぼこして困るって言ってたけど、連れて行ったら喜ぶかもね」
満面の笑みでそう言いきってしまう東台。
月見里が小さく鼻で笑う音が聞こえた気がする。
鎌田さんというのは誰かは知らないが、もし連れて行ったら卒倒することは想像に容易い。
「こういう道を見かけたら避ける。もし無理なら細心の注意を払ってすみやかに通過する」
「え?どうして?」
端的なこちらの言葉に東台は当然困惑した表情を浮かべる。
待っていましたとばかりに、いつの間にか東台とこちらの間に入っていた月見里は自信満々な表情で胸を張っていた。
「『あれ』が頻繁に通るような道だから」
「どうして?」
月見里はそう横から切り返す。しかし、東台が燕を返すように「どうして」というと、今度は月見里も「それは……」と言葉を詰まらせ、下を向いて地面の潰れた草を何度か踏みつける。
「月見里の言う通り、草や瓦礫が少ないところは『あれ』が何度も通る可能性が高い」
そんな月見里の代わりに、こちらが言葉の続きを述べた。
助けたわけではない。答えられなかった彼女を小馬鹿にしようとしたわけではない。
地面を何度も踏みつけ草や瓦礫がないからというのを表現していたので彼女も感覚では理解はしている。
だが、
「ふぅーん、でも前通ったところは草とかなかったけど?」
「……」
こちらは月見里と同じところで言葉を詰まらせた。
一度彼女に説明した記憶があった。頭が良い彼女ならはっきりと覚えているだろうがこちら自身良くわかっていないところがあるために説明が不足していたのは否めない。
前通ったところというのは、今日の早朝に通った狭い道のことだろうが、元々草の生えにくい場所で日当たりの悪い場所というのは何故か『あれ』の数は少ない。
もっと昔に遡ってみても、飲食店がひしめき合っているにも関わらず人が少なかった記憶しかない。
駅前にチェーン店やら大きな飲食店ビルが建ってしまったせいだと言われていたが、そんなことを今に考察しても仕方がないことだ。
「ああいう例外も多くある」
「ふぅーん、それなら草木がどれぐらいになると『あれ』が通らない場所になるの?」
未だ眉をハの字から変えない東台はそうこちらに切り返した。
彼女の童顔のせいか、その能天気な性格のせいか、「何時何分何度地球が回った時?」と子供が屁理屈をこねた時に言うようなそれを連想させてしまう。
そういえば、月見里に教えた時も同じことを言われた。
その時も当然言葉を詰まらせてしまい、彼女が気を利かせて話題を変えてくれたが、好奇心が一人勝ちしてそうな東台では答えを聞かない限りは諦めてくれそうにはなかった。
「膝のあたりまで来るところは『あれ』が通ることは少ない。特に道全体にそれがあったらその可能性は高い。逆に足首ぐらいにしか長さがなかったら『あれ』が通っている可能性は高い。だが、その中央部分に道のようなものが出来てたらそこは確実に『あれ』の通る道だ。草の長さは関係なくなる」
とつらつらと学者のように述べあげる。東台はポカリとした表情でヘーと声を漏らし、近くにある草を掴んで「そんなものなんだ」と呟いた。
正直なところ、これは獣道とかそういう類。『あれ』にそんな習性があるのだろうか。
動物か何かが頻繁に通っているところは土が踏み固められるせいで草が生えることもなく道のようになるというどこかの学者が発見した周知の知識を『あれ』とコンクリートに置き換えて喋ったに過ぎない。
唯、その道みたいなものがどれくらい広いか狭いかというのも『あれ』がどれくらい通っているか判断材料には多少成りえる――いや、それさえも判断材料にしなければならないほど情報が少ないと言った方がいいだろう。
「あくまでも目安だ。俺もいまいち基準が分からない」
その行動パターンから外れた『あれ』も存在している。
草が少なくとも膝よりも上にあってもいる時にはいるし、いないときにはいない。
当然の話だ。
昨日、川で数匹の鹿を見たので動物がそこを通っている可能性も否定できなくなった。
そう考えてみると、目安にもなるかどうか怪しくなってくる。
「ふぅーん、そうなんだ。なんか難しいね」
あっけらかんとしてそういう東台だが、その難しいという言葉が正に言い得て妙だ。
確かにこんな推論とも仮説ともつかないふわふわとした話を聞いてもそうとしか言えないだろう。
「分かれ道があって躊躇した際には考慮に入れてもいい」
「ん、OK。でも、こんなところ歩き回ることは今ぐらいしかないから宝の持ち腐れになっちゃうかな?」
ニハハと歯を見せ笑う東台。話半分。それぐらいの態度で聞いてくれた方がこちらとしては楽だ。
どれだけ言い繕うと感覚という適当。一握りの成功体験という妥当で行動しているような人間である。
そんな人間がなけなしの頭を使って書き込んだ紙の束は今まで本を調達するために通ったルート、ルーティンを繰り返すための――さながら日常を繰り返すためだけの情報に過ぎない。
その必死に集めた名ばかりの資料も情報不足は否めず。その地域で『あれ』と遭遇することがないわけではない。
もはや資料というよりは精神安定剤程度だ。
「まぁ……おいおいだ。おいおい考えていくしかない。それに『あれ』がこのあたりに潜んでいる可能性は低い。そこまで考える必要はない。今はただ歩いてくれ」
それでも、これまでの経験で一番危険なのは何も行動せずに立ち止まることであるという結論は変わらない。
同じところに留まれば留まるほど『あれ』と遭遇する危険性が高まる。それだけは唯一自信のある考えだ。
ある程度の目安を持って判断を行えばそれだけ円滑に判断することは出来る。だが、過信するのもまた愚かなことである。
ただ、そのあたりの塩梅も難しい。殆ど経験則に頼ったものなので説明のしようがないというのが厄介なところだ。
こういったことが月見里と説明することを躊躇させる理由なのだろうと考えるがいまいち腑には落ちない。
「んん、なるほどお」
東台はそんなちぐはぐな言葉と同じく矛盾した行動に異を唱えるでもなくいつもの笑みとのんびりとした声音で答えた。まあ、仕方がない。
こちらの高説が終わると、東台はこちらから視線を外すと今度は目を見開いて笑顔を浮かべ、
「ゆいちゃん。なにしてるの?」
と嬉々とした声でそう言った。月見里は反対に「げっ」と言葉にもならない汚い声をあげて唇を結び、手に持っていたものを自分の後ろへと隠した。
子供らしい可愛い仕草だが、東台は「なになに、何を隠したの?」と後ろに回り込んで見ようと子供顔負けの行動を負けじととり、月見里が「なんでもない」とか「見ないで」とか言ってキビキビと身体を動かし後ろに回り込ませようとしないという子供顔負けの攻防戦を繰り広げ始めた。
人というのはなぜか隠されれば隠されるほどに強い興味を持つ。見たところで何も意味がないのが常で自分勝手に白けるまでがセオリーである。
「悪いが、そういうのも後にしてくれ。『あれ』が通る場所だ。さっさとこの道を通り抜けておきたい」
しかしながらも、東台に怒鳴る勇気もないので、「忘れ物がないかは確認しておけ」と屋上にいたときの言葉を繰り返してしまうだけだった。
しかし、そんな言葉でも気を引けたようで、喧噪繰り広げる中、こちらの言葉を聞いた東台は体の動きを止めてこちらを見上げて苦笑いを浮かべる。
月見里はその隙をついてメモ帳を荷物の中へと放りこみ安堵の表情を浮かべた。
「後で目的地についたらいくらでも話せ。今は歩いてくれ」
そう言って自分は荷物の位置を正して、銃の感触を確かめる。そして、彼女たちがリュックサックの紐を正しているのを見届けてから再び歩きだした。
※ ※ ※ ※
東台の好奇心を抑えつけ、歩き始めた道は先ほど話題にしたような青々しい草むらが続く場所。
まだ一般的によく見るような道よりは幾分草の量と長さが高いぐらいで、郊外に出ればこんな場所はざらにある。
それでもここまで印象づけられてしまうのは、先ほどの開けっ広げになった道を見てしまったせいだろう。
先ほどの獣道の考えに倣えば『あれ』があまり通っていない道になる。
草が肌に擦れる感覚に不快感の一つを覚えるものだが、そう考えればこの腐るほどの大量の草の中に紛れ込めていることに安堵感の方が強い。
「今、『あれ』は駅に留まっている」
後ろについてくる2人がこのモサモサという形容詞が似合いそうな草むらにどのような感情を覚えているかは分からないが、多少の余裕を持てたこちらは「おいおい、話していく」と言っていたことを思い出しそう口を切る。
「え?駅って?」
「ああ、このあたりだと……と徒歩で30分ぐらいの――ある程度大きな駅だ」
言おうとした途端、駅の名前を忘れてしまい途中口ごもってしまう。
昔から乗る駅と降りる駅ぐらいしか名前を覚えてなかったのに通過したこそない駅の名前なんて思い出しようもない。そもそも自転車通学だったので乗ること自体あまりなかった気がする。
そもそも駅名を言ったところでこの地域におそらく住んでいなかった月見里には分からないだろうし、発言した東台もそんなものは気にしてないだろう。
「ああ、あそこね。駅ってまだあったんだ」
「ああ、殆ど――崩落しているがな」
「そっか、そういえば郊外にあった駅とかも通らなかったよね。確か……あれ?何駅だっけ?」
なかなか思い出せず腕を組んで考え出す東台だが、すぐに「まぁ、いっか」と諦めて笑みを見せると、「でも、サラリーマンみたいだね。どこかに出勤でもするのかな?」とその言葉を軽口へと切り替えた。
視線を変えてみれば月見里は子供らしい自身の丸い瞳をこれでもかとばかりに細くして周りの様子を確かめていた。
その様子は周りにある草を焼きつかさんばかりの迫力で熟練の偵察兵にも見えてしまうがそれは形のみである。自分の目の端から見える枝葉に次から次へとぶつかり訝しんだ顔をして自分の足元にも視線を移したりと心許ない。
「月見里、まだ道のりは長いんだぞ」
「ご――うん」
そう頷いてしおらしくなって普通に歩くようになるが、喉元過ぎれば熱さを忘れると言ったように、そうもしないうちに足元から視線を外してまたぶつかりそうになったりしていた。
それを何度も繰り返していた。格好だけを見れば間の抜けたようにも捉えられるが、表情は裏腹に険しくなっていく。
「ゆいちゃん。大丈夫?」
東台も気づいていたらしく声を掛けるが月見里は無言。「手つないでようか?」と手を差し伸べるが、「いいです」と他人行儀のバリアーを張り、東台がそんな姿に苦笑いをしつつも草がぶつからないように正面に並ぼうとするが、彼女はその度に横にズレたりして同極の磁石のようである。
まさしく、水と油。双極ともいうべき2人である。雰囲気というものが本当に漂っているなら寒暖差が激しいことだろう。
おそらく、この場では寒い方である月見里の行動が正しく、暖かいの前にポカポカとオノマトペが付いてしまいそうな東台の行動が間違いなのだろうが、まるで心を入れ替えたような2人の行動にどうしても愉快さを覚えてしまい正させる気が起きなかった。
「見るなら、もうちょっと右にも注意を払え」
「う、うん……」
だが、こちらが何か言うと月見里はぴたりと体を止めてしおらしくなった。
彼女は確かに賢い。だが、こういう偵察の類はあまり得意な方ではない。こちらの左目がダメになってからは、輪にかけて酷くなっている気がする。
こちらが下手を打てば自分自身に被害が被るのだからそういった行動をとるのは仕方のないことだし、当たり前のことだ。だが、それで他の事が疎かになれば帳尻合わせになるどころかマイナスである。
「今の時間ならこのあたりに『あれ』がいる可能性は低い。必要以上に気を詰めるのも気を緩めているのと一緒だ」
月見里は「うん」と力なく頷く。その姿を見ているといつもながらバツが悪くなった。
「もしかして、このあたりに駅がないから?」
そうしていると、東台が察したのか天然なのかクイズに答えているかのように横入り。もちろん、彼女の答えにはピンポーンが鳴ることだろう。
「ああ、そうだ」
「あれ?でも、この先にたくさん駅なかった?地下鉄のとか」
「ああ。だが、あそこはもう完全に崩落している。なくなったところに『あれ』が通ることはない。今は草むらのないところだけを警戒してほしい」
「そっか。あの地下鉄、結構使ってたんだけど。寂しいね」
「そうか」
そんな月見里とは裏腹に相変わらずの東台の呑気と言うべきか捉え難い。変わることのない彼女の態度にこちらは奇妙というか当惑と捉えたらいいのか不思議な感覚で参ってしまう。
月見里ならば強がっていると予測はつくが、彼女の場合はおそらく、きっとそうではない。
景色を見る目が、こちらを見つめる目が、月見里とはどこか違うような気がする。
例えるなら、別世界の光景を見ているような、ゲーム画面のキャラクターとして見られているような。ちょうどテレビ画面のガラスが彼女の瞳に張り付けられているようにさえ思えた。
出会った時からあの調子なのできっと彼女にはそんな気はサラサラないだろう、どこまで行ってもこちらの思い過ごし。
ただ一つ、そんな彼女の性質がこちらにとっては奇妙な感覚を覚えさせるもので、月見里にとって良い印象覚えさせない理由であることは確かである。
「あっ、ちょっと道がひらけてきた?」
そんな東台が再び声をあげた。確かに彼女の言う通り、遠くの方にコンクリートの地肌が蜃気楼のように浮かび上がっている。
当然、朝の特徴的な肌寒さが未だ残っている時間にそんなものは現れるはずはない。
「月見里、東台。少し身を屈めろ」
そう言って身を屈めさせた。その一声と行動で、先ほどまで騒がしかった雰囲気がなりを潜めて張りつめた空気が包み込むのを肌で感じた。
「あのあたりは大通りだ。『あれ』が通る可能性も高まる」
頭の中に入っている地図を信じるならば、ここを超えてしまえば目的地まではそう掛からない。
しかしながらも、大通り。
前方の方に錆びた車は見当たらず、おそらくかなり視界も開けたところだ。
彼女たちの方をちらりと見るが、2人とも表情を曇らせることはなく平然と体を落としている。
もっとも、月見里はいつの間にか俯かせていた頭をあげて、こちらと同じコンクリート床へと視線を合わせていた。
その眼光は鋭く、体を落とす姿勢さえ型に入っていて幼女ながら板に付いているという言葉で表現したくなるほどだ。
耳を澄ませてみれば辺りに音はなく、鳥の声さえもない無音。そんな日常の音ともに、ゆっくりと風で流れる草だけが肌に冷たいものを感じさせてくれる。体を這わせコンクリート色のところまで移動していった。
手につく感触は砂利のようなザラザラとしたものだったが、そこへと近づくたびにその粒が固まって元あった固い地面の感触に変わる。
うっとおしい程に広がる枝葉の緑とひび割れた土色の壁からコンクリートブロックの建物群の灰色が開けっ広げになってありありと目の前に現れた。
「うわ、戦争映画みたい。あれ戦車かな?」
東台はそう静かに感嘆の声をあげた。
戦争など出来ない人が殆ど存在していていない世界。なんて非現実的なこととは思うが――
この場所ではその表現がすっぽりと当てはまっていた。
巨大なトラックが何台通っても割れないほどのアスファルトの道路に黒く焦げ付いた穴が大小問わずいくつも穿たれていた。
中を覗けば大小問わず見慣れた
だが、そこに落ちているものは隕石ではなくまぎれもなく人工の物体で円柱の形を成した薬莢である。
月見里の背丈と殆ど変らないぐらいひと際大きなものが目にひくが、こちらの小指程度の小さい物の方がその量は多い。
今持っている拳銃の玉より幾らか大きい程度のものだが、それよりもずっと先端が鋭利で細長く無骨なデザインで人を確実に殺すデザインを成している。
だが、そのどれもが元あった黄金色をくすませ、カビが生えたように青い斑紋がついて、少しばかりの草花と瓦礫とともに横たわり辛うじて残った元の色をのっぺりとした灰色とくっきりとした白と緑の中に淡く光らせていた。
後はずっと、粉塵にまみれた長い筒のついていない戦車がずっと埋もれている。
中には巨大な砲が備え付けられているものもあったが、それもテレビでよく見るような戦車でもない。
ただ、重厚な車体を有しているはずのそれはどれも床に落とされたお椀のようにひっくり返されのっぺりとした車底を晒上げている。
そのあたりから月見里の背丈に届くぐらいの薬莢が滴り落ちたように地面に転がっていた。
よく見れば他にもそのような車両が多くあり、そのどれもが単位にトンが付きそうなほどの重さを誇りそうなものだった。それがどうしてひっくり返っているのだろう。
巨大な弾丸を放ち、その弾丸から身を守る強固な装甲を有した最強の戦闘用車両。そんなものが原型を留めることなく文字通り転がっている。
自分の背筋が冷たくなっていくのを感じた。
「この光景見たらかっちゃん喜ぶだろうなぁ」
そんな有様にも関わらず遊園地にもいない人間の名前を呼びまた東台は感嘆の声を上げる。
彼女との感覚の大きなギャップに驚いてしまうが、月見里も目を輝かせてその光景を眺めているのを見つけしまい冷たいものが少しばかり困惑で和らいだ。
「あの車両を壁にして移動するぞ」
こちらは転がる車両の中でひと際目立っていたものを指差した。
いくつも転がって自分の身を隠して移動するにはもってこいの場所である。理由は分からないもののそれが固まっているところは穴凹が少ないように見えた。
ただ、数こそ多くはないものの一つ一つの車両のサイズが大きいためか視界は悪い。近い距離で『あれ』に出くわす可能性はどれだけ高くなるだろうか。
「え?あれ?あの戦車?ポーランドのやつ?」
「ああ、そう――ポーランド?」
東台がそう言ってこちらが指した戦車を指さす。
決して出てきそうにない国の名前が米軍や自衛隊と同じように呼ばれたことに何か冗談でも言っているのかと東台を見るが冗談をいうニハハ時の笑みはこちらに見せていなかった。
訂正すればいいのだろうが、知識のないこちらではどこの国のどこの戦車の名前なんて点で分からない。
「悪いが、ここからは静かにしろ。口は開けておくな。身もそのまま落としておけ」
まったく、好奇心は厄介なものだ。変に藪蛇をつついてはいけない。
だが、少しばかり緊張が解れたので全く無駄なものではなかった。
こちらは体を落として四つん這いになり、かろうじて車両下からいくつか見えるものを確認していった。
膝が地面に触れた途端、自分の体温が吸われていくのを感じた。下の地面は絨毯のような土から固く冷たいコンクリートに変わっていた。その感触が抑えられていた緊張感を沸き上がらせる。
「少なくとも、まだ様子は確認できないか」
見えるところからは『あれ』の姿は見えない。耳を最大限済ましてみるも、聞こえてくるのは月見里と東台の息遣い。2人とも呼吸は荒くはなっていないのを見るに、それほど緊張はしていないらしい。
それを推し量られるのも良いことかもしれないが、それが不十分な視界で見えたものと同じく気休めなものだ。
しかし、それでも進まなくては事は始まらない。
肉食動物が獲物に襲い掛かる前のように息を殺して転がる薬莢を1人避けていきながら、2人に避けさせながら這っていった。
近づくたびに血に似た鉄さびの臭いが微かに漂ってくる、それがはっきりとしてくるまで寄ると戦車の装甲がのっぺりとした灰色の金属板から点々とした茶色い錆の脆そうな金属板へと変貌する。
どれほど図体が大きくとも近くまでいかないと細部がなかなか分からないということなのだろう、芸術品を目と鼻の先で見る人の気持ちが少し理解できた気がした。
否、視線を向けざる得なかった。
大きな陥没が金属板の至る所にあった。ただ、それは貫通しているわけではなく、一斗缶に大きな石をぶち当てたり、力一杯蹴り上げたら出来るぐらいのもので凹みと表現した方がいいかもしれない。
しかし、相手は巨大な砲弾を飛ばすために作られた分厚い金属の塊。
錆びて多少脆くなってはいるだろうがおそらく腰に巻いている拳銃で撃っても貫通するどころか傷一つつけられないだろう。
一体どれほどの力があればこんな芸当が出来るのだろうか、それをやってのけた相手はもう分かり切っている。
しかし、現実問題そこらの獣に劣る人間の肉体でそれほどの事が出来てしまうのかと疑うはずにはいられず、理解していても非現実的な光景を受け入れられない。
体が竦み立ち止まってしまいたい。傍から見れば蛇に睨まれたカエルに見えることだろう。
戦争の傷跡のようなそれを睨みつけるようにしながら思案にくれるなか、後ろから地面を擦る音が聞こえた。
それはいつも聞く小さな音で。その正体はおそらく月見里だ。
こちらが立ち止まるたびに近づいてくるのは止めてほしいとは思うものの不意に立ち止まった自分が悪い。
手をあげて、月見里を後ろへと戻らせた。そして、深呼吸をして平常心を取り戻すと、両脇にある錆臭い壁を這いずり掻い潜り一気に外へと出た。
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