真下の大移動 後半

 

 彼女たちの喧騒は終わらない。もはや、時計の話ではなくなって、また別の話に変わるぐらいには長いことやっている。


 普段なら彼女たちの喧騒をただただ眺めるぐらいだろうが、今見ているのは両手に落とした手帳。

月見里の持っている物と似ているが、こちらのものは使い古した歯ブラシのようにめくりあがって色も剥げているため、彼女のそれとはされている。


 彼女が何を書いているかは分からないが、自分がこうして書き記してきたのは『あれ』の行動のみである。

 そうして、今書いているのは先ほどの『あれ』の第一波と第二波と第三波が来た時間と来るまでの間隔。


 こうして書いてると不思議と頭の中に入ってくる。インク特有の匂いがそうさせるのか、はたまた、文字に書いているからこそ実感が湧いてくるのだろうか――

 

 「東台、月見里。中断して来てくれ」


 反応がない。まだ喧嘩中のようである。


 呼び掛けて即座に来るような重要なものではない。これを何かに例えるのならきっとテスト前の大掃除のようなものである。


 紙の無駄。乱雑としか言いようの付かない文字や記号に『あれ』は寸分違わず動いてくれたことがあったのか。

 長ったらしく描き続けても『あれ』の大移動が終わる時間が短くなった理由も全く分からない。分かるはずもない。


 ずっと、ずっと、『あれ』に貪り食われるイメージが頭から離れない。


 ああ、クソ、クソ。『あれ』の行動がどうなっているかわかるものか。ここにいるのは考察するフリをしているだけのポーザーだ。クソ野郎。


 「――――!」


 気づけば手帳を地面に投げ捨てていた。地面を跳ね大きな音があがる。だというのにそれはどこか空虚で虚しい。


 しかし、その音は和気あいあいと喋っていた2人を物の見事に黙らせた。

 東台は口を半開きにさせて、月見里は虎に吠えられた小動物かのように縮こまっているのに目だけは酷く大きく開かせている。


 熱い怒りは冷めて残るのは煮凝りのような罪悪感。重くなった口から出る声は掠れ掠れで、それでも出てこようとする言葉は「いや、そういうわけじゃ――」という言い訳しかない。


 それでも、何とかそれを取り払い濾し出してやっとのことマシな言葉を口に出した。


 「――悪かった。今日のことを説明したいだけだ」


 「そうだったの?あー、よかったぁ。何か怒ってるのかと思った」


 すると、東台は強張った顔を緩めて胸をなでおろし、月見里も彼女の言葉でやっとのこと萎縮した身体を伸ばした。


 何故こうも自分は怒りを何かにぶつけてしまうんだろうか。それは当然のように跳弾して、自分の胸には極太の針を刺す羽目になる。


 これ以上要らない事をしないように口を閉ざしたいが、ここから先を知らないということを伝えなければ必要以上の危険を叩きつける羽目になってしまう。


 しかしながらも、口にできないのは自分がやっていることに自信がないからというわけではない。

 確かに自信はないが経験とそれで培われたこうじゃないだろうかというぼんやりとした実感というものは確かに自分の中に存在していた。


 それでもなお、無条件にこちらの指示に従う彼女たちに、むず痒くイライラする。東台にも月見里にも。

 

 『八雲がいるから大丈夫!』


 そんな疑心暗鬼のような感情が胸に渦巻く中、先ほどの言葉が蘇る。彼女が屈託のない笑みでそう自身満々に放った言葉だ。


 その言葉におそらく含みはない。


 何度もこちらはミスを犯しているよいうのに何も不服を言うことは無く、不平不満の表情をこちらにしたことはなかった。

 ただ、足場が悪かったり、歩く距離が長かったりすると疲れたとかしんどいとは漏らしてはいたが――出た言葉はそれぐらいだ。


 「今の自分なら空中浮遊だって出てきそうだな」


 そう小さく呟いた。きっと、ゴムまりのようによく弾むことだろう。


 もしかすると、彼女がそのように言葉や振る舞いが出来るのはこちらが全知全能の者か何かだと思っているのだろうか。


 頭を抱えるように後頭部に手を置くと自分の頭が丸いことを実感した。それは纏っている布切れのせいだが、これが月見里お気に入りの某21世紀型タヌキのキャラクターにも見えているのならお笑い草だ。


 こちらの身を包んでいる服のように、断片的な知識と経験を継ぎはぎ切り捨てまた継ぎはいで何とか今日まで生き延びてきたに過ぎない。

 自分の体は一ミリも浮くことは無い、むしろ、3ミリ程度沈んでいるのではないだろうか。ポケットには屑紙しかない。


 月見里が生き残ってこれたのも自分のおかげではなく、ただ彼女自身がこちらよりも頭が良いからだ。


 とは思うけれども口を開こうとすれば、目の前にいる彼女のにこやかな顔が突き崩れてしまう光景を思い浮かべてしまってただ頬のあたりの筋肉が張るばかりだった。


 「もしかして……お腹痛い?」


 東台が不安げな顔を浮かべてそう言った。「そんなわけないでしょ」と月見里の静かなつっこみが入るが、腸を絞られているような痛みは確かにあった。

 

 この感情はある意味自意識過剰と言ってもよかった。だが、そんな考えをどうしても捨てきれずずにいて、こうして事前に言っておくべき大事な話を棚上げしている。

 

 月見里はもう何年も共にいるからこちらの勝手など多少は知ってはいるだろうが、東台と共にするのはこの数日数時間程度。


 もしかしたら、月見里もこちらの勝手を知っているからついてきているということはなく、きっと彼女は身近な「大人」だからこそ付いてきている。それならば子供ながらいい判断で悪い判断だ。


 「そんなに深刻なことなの?」


 「最初に――最初に言っておきたいことがあるんだが、このあたりのことはあまり知らない」


 だが、何も言わなくてもその表情は曇っていく。本当どこまでいっても人の表情を曇らせることが得意なようだ。

 やっと紡いだ言葉もまた力んでしまったせいで語気が強くなって深刻さが増したような気がする


ああ、糞。本当に嫌な癖だ。今、彼女たちがどんな表情を見せどのような感情をぶつけてこようとしているのか、その想像をするだけでも嫌だ。

 

 困惑か、失意か、失望か、こちらに対する嫌悪か、それとももっと想像が出来ないような負の感情をぶつけてくるのだろうか。


 見なければいけないのに、一度伏せた目を彼女たちの顔に向けることが出来ない。


 「ふぅーん、そうなの?」


 間も置かれることもなく、東台からそんな呑気な声が返ってきた。


 その呆気ない言葉に耳を疑い彼女の顔を見るもいつも通りのにこやかな顔をしていた。


 月見里の表情も視界に入るが、彼女も不安な表情を浮かべることなく、平然とした顔でこちらを見つめていた。


 「いや、だから、俺は知らない。今まで中心部に行ったことさえないんだぞ」


 「え?一度も?結構、面白い店とかあるのに」


 「ああ、そうだ。そういうタチでな」


 「そっか。うーん、でも、私もこっちに来てからは学校とバイト先と家を行き来するだけだったから似たようなもんかな。これっぽっちも土地勘ないし、通ってた道もどこだったかこんな草むらだらけでもう訳わかんなくなっちゃったし」


 「でも、この辺りはまだ草むらが少ないからちょっとは思い出せそうかも」と続けて後頭部を掻いて笑う東台。


 「いや、そういう話をしているんじゃない。だから――」


 その先の言葉が思いつかなかった。なんと言えば分からない。何を言っても真空の中で鐘を鳴らすかのようにビクともしなさそうだ。


 「うーん、良くわからないんだけど。八雲といると何だか見えてきそうな気がするからかな?」


 そうとボケたような顔をして言う東台に怒りを覚え、頭の中で「お前、頭おかしいんじゃないか」という暴言が浮かび上がるがそれを急いでのどの奥へと押し込めた。


 押し込んでも、今度は困惑しかない。そんな不確かなでよりにもよってこちらを根拠の基礎にしてここまで来たというのか、彼女に茶化されているように気がして怒りはぶり返す。


 「それに。――ん、約束もあるしね」


 しかし、何かを発そうとするこちらを抑えるようにそう言った東台の姿を見た途端、何故だかこちらの高ぶったこちらの感情は急激に冷えていった。


 豊かな胸元から小さな茶色い物体を取り出しこちらに見せつけた。


 遊園地で見たあの鍵だった。おそらく、彼女の言う約束も遊園地で交わした本屋のカギを渡す限りにある場所へ連れて行ってほしいという、別に彼女がついてこなくても良いはずのものだ。


 印籠のように約束のカギを掲げる彼女だが、その表情からはいつもの笑みは消えて、しかし怒っているわけでもなく真剣な目つきでこちらの目を捉えていた。


 「ああ、ああ、そうか。分かった」


 そうこちらは東台に言った。彼女の態度にそう返すしかなかった。


 先ほどの言動を見て理解したというわけではない。しかし、その目を見せらると何故だか圧倒させられる。


 彼女の中にあるものが、期待なのか、覚悟なのか、ただ空っぽなのか。


 そのどれだったとしてもそれ以外でもこれ以上彼女はこちらに立ち入らせる気はないのだろうともはや諦めたのだった。


 それに人に干渉するよりも放任する事が常なこちらにとっては、胸に一物残らるものはあるが、どこを掘ろうと硬い岩盤に辿り着くような不毛なことをしたくなかったからだった。

 

 「あっ、八雲。時計鳴ってる」


 そう東台はいつもの笑みに戻って、こちらの腕に指差す。


 アラームを止め時計を見ると、もう出発の時間になっているようだった。タイミングが良いのか悪いのか、どちらにしろこれ以上気長に喋る時間も無い。


 「出発の時間だ。荷物は持ったか」


「持ってるよ。ほらっ……んふふ、すごいでしょ?」


 東台はどや顔でその場で飛び跳ねて見せる。鍋が擦りあう音は無くなったようで、それでも布か何かが擦れた時のような軽い音は聞こえてはくるが、以前よりもずっとうまく詰め込んだようだった。


 スイッチを変えたように簡単に変わる東台の振る舞いも驚かされるものだが。


 彼女の後ろの方で小さく飛び跳ねてアピールしている月見里よりも音が抑えられていて、たったの数日で荷物を詰め込む技術が格段に上がっていることにも驚かされる。

 かけっことかピクニックが好きというアウドドア派の彼女だからこそ出来る芸当なのだろうか。


 こちらは驚きつつも、これ以上話が逸れてしまうは時間の無駄だ。だが、2人に無反応を返すのも気が咎めるので「ああ、そうだな」と小さく呟いて話題を変える。


 「話は戻すが、このあたりのことは知らない。だから、今日はあまり進まずにあの建物まで移動する」


 こちらはそう言って指を指した。


 中心部とは少し外れたところにあるところにマンション群。

 

 その建物の多くはこの3階建ての雑居ビルの屋上からも見上げられるほどの高さだが、その離れたところにそれよりもひと際大きな高層マンションが突き刺さるように建っていた。


 他の建物は遠目から見ても分からるほど植物に覆われているのにもかかわらず、そこだけは未だコンクリートの壁とガラスが剥き出したままで異様な存在感を放っている。


 それが今回の目的地であった。


 「あそこってなに?」


 そう東台が、ではなく月見里がこちらに聞いてきた。


 「昔の拠点だ。お前に会う前ぐらいのな」


 そうこちらが言うと、月見里は「ふぅーん」とそれとなく返事をするが、東台のように興味を失ったようなものではなく、大きな朱色の瞳を好奇の色でほんのり光らせ声色も普段より少し高い。


 5年近くも共にいるが、彼女に会うより昔の話は一切してこなかった。

 別に嫌い合っているような関係性ではないが、境界線を引いてお互いに干渉しないようにしているといったほうが良いかもしれない。

 

 どんな人間だって叩けば埃の一つや2つは出てくるものだ。

 叩きあったところで結局は互いに埃を吸い込んだ不快感と、吸い込んでしまったことへの罪悪感を胸の中にため込んで気まずくなるだけ。適度な距離感は取らなければならない。

 

 「え?あんなすごいところに住んでたの?」


 しかし、東台はそんな線を悠々と飛び越してあっけらかんとした表情でこちらに聞いてくる。


 月見里もその時だけは彼女を咎めることも不快そうな表情を浮かべることなく、こちらの放つ言葉を待つようにただじっと見つめていた。


 それを見ても不快感はあまり覚えない。東台がこちらのプライベートなことを切り込むときにはだいたいこの表情になっていてむしろ何故だかそんな彼女の反応に興味を持っている。


 「いや、それほど昔じゃない。『あれ』が出始めて暫くぐらいだ」


 「ふぅーん、どうしてあんなところにいたの?」


 「……いろいろだ」


 そう言ってこちらは彼女らから視界を外すように柵へともたれかかり遠くの高層ビル群もとい中心部を見つめる。


 以前よりも斜めになっているような気がするが、それ以外高いだけでどことも変わらない植物まみれの建造物。しかし、てっぺんあたりは未だガラス板がこれでもかと未だ反射していた。


 別にみる必要なんてない。だが、言葉をはぐらかしたい時、自分はよく視線をどこか別のところにやる癖がある。やはり、昔のことは話したくはない。


 東台もそれを察してか、「ふーん、そっか」というだけでそれ以外はこちらに何も言ってはこなかった。

 

 「もういいだろう。そろそろ出発だ」


 こちらもそれに乗って話を切り出す。そもそもここで留まっている理由がない。

 

 「OK」と淡泊に答える東台。月見里も表情を少しだけ暗くしたが、こちらが自分の昔話をしないことは分かり切っているのでそれ以上何も言うこともなくリュックサックの紐を調整し直して手持ち無沙汰感を埋めようとしていた。


 「荷物は――。もういいな。とりあえず、今日は――いや、これからも命の保証は出来ない。だから、可能な限り指示に従ってくれ」


 そう脅迫めいたことを言っても東台と月見里は相変わらず平然とした表情を見せる。

 発破をかけられて覚悟を決めた。そう判断することも出来るが、それは虫の良い話だ。


 月見里を橋の向こう側に連れて行ったことさえない。そして、こちらも渡ったのはずっと昔。


 何度振り返ってもその事実は変わらない。


 「疑問があったら後で教える」


 そんな状況だから彼女たちが何をするのが最善かを、最適かと、妥当かと、適当かと、苦肉の策かと教えておかなければならない。


 だからこそ、こちらが何をしようとしているのかちゃんと口に出しておかなければならない。

 今までは、見て盗めとかいう年季の入った職人が言いそうなことでお茶を濁しているところがあったが、もはやそれでは通用はしないのだろう。


 そう思いながら降りる階段へと足をかける。そういえば、崩れやすい階段を見極める方法を教えたことがあっただろうか。


 「階段を上るときは気をつけろ、特に状態が悪そうに見えるものは――ああ、クソ」


 だが、生来の悪い癖と今まで人に教えてきた経験のないこちらとしては何をどうやって教えればいいのか分からない。


 階段の状態の良しあしってなんだ。材質か、いや木でも石でも鉄でもコンクリートでも崩れるものは崩れる。そういったところも感覚でやり過ごている部分が多すぎだ。


 言葉を詰まらせ悪態をつくこちらに東台はキョトンとした顔をする。


 月見里でさえも何やら不思議そうな顔でこちらを見ていたので、こちらは「いい、忘れてくれ」と口を堅く閉じた。



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