屋上での一休み
「ねぇ、これ、どこまで行くの?」
コツコツと階段の冷えた反響音が響く中、東台がそう声をあげた。
しかし、その反響音を響かせるのは東台ではなく月見里である。先日通ったような下水道でも響いた子気味良いものだが、当の東台は遊ぶことはなく。今鳴らしているのは月見里である。
彼女の言動を見ていると茶化す言葉の一つや二つは出てきそうなものだけれども、階段上り始めてから今まで彼女からひとしきり出てきたのは息切れのみである。
そして、やっと言葉として発されたそれもかなり途切れ途切れなものである。
「あと、2階だ」
東台から「えー」という不服の声が山彦のように返ってくる。
「これぐらいの段数でヘタレてたら世話ないよ」
「アハハ、結衣ちゃん。キツイなぁ」
月見里は呆れたようにそう東台に言って見せる。
確かにこちらと月見里は多少の差異はあるけれども、重い荷物を担いでよく階段やら瓦礫の山やらを登ったり降りたりしているので彼女の体と精神はもはや幼女離れしているものだろう。
そうであるならば、矢小間遊園地から麓まで降りてくるときでも青色吐息な東台は同年代の中では下の方に収まってしまうだろう。
そんな運動不足の体で寝袋やら食糧やら料理器具やら纏めて数十キロになるものを背負っているのだから無理もない。
しかしながら、一度も根をあげたり駄々をこねることもなく汗まみれでも明るい顔でついてくるのだから不思議なものである。
「着いたぞ」
階段を登っていると、月見里のランタンの光からドアの形が浮かび上がってきた。
そうして、ドアを開いてしまえばカビ薫る真っ暗闇の中に眩い光が漏れて東台から歓喜の声が出る。
だが、すぐに困惑と落胆の声に変わる。
太陽の光の中。視界に見えるものは水たまりが干上がって出来たような黒いシミがあるコンクリート床とそれを囲うようにして設置された錆びた手すり。
「え、なんで、お、屋上?オアシス的な何かはないの?」
「そうだな。今広がっているので全部だ」
「えー」と気だるそうに肩を落とす東台。
もちろんオアシス要素の透き通った青は無く、コンクリートをそのまま落としたような鼠色が張られた雑居ビルの屋上。
周囲の雑居ビルの一部が崩れて視界がある程度開いているぐらいで変哲がない場所である。
「まぁ、いっか!うんしょっと――それで、どれくらい休憩できるの?」
沈むの早ければ立ち直るのもきっと早い。
東台は早速といった感じに荷物から寝袋を取り出したと思ったら躊躇もなく黒いシミの上へと放り投げ、寝転んで背伸びをすれば、こちらを向いてそう尋ねてきた。
先ほどの疲れ切った姿を想像できないほどに形状記憶のごとくいつもの調子に戻る様に、もはや困惑というよりも呆れの感情が強い。月見里は変わらずの呆れ顔で固定されているが。
「3時間と、21分程度だ」
「本当に?やったぁ、早起きは3文の得だね!」
すぐその後に「いや、この場合は3時間の得。かな?」と呟く。残り21分はどうやら端数に入ったらしい。
こちらはただ「端には寄るな。それ以外は好きにしていい」と言って、彼女と同じように寝袋を取り出して双眼鏡など用意していた。
月見里も小さな欠伸をしつつこちらの隣に寝袋を敷いて寝転がる。
「じゃあ、八雲もゆいちゃんもおやすみす」
「ああ」
「おやすみs――あぅ、おやすみじゃない!」
東台と月見里。多少の言い合いはあるけれど、言い終われば2人仰向けになって瞼を閉じる。
床の面積自体は今の人数を3倍ぐらいにしてもまだ余るぐらいの広さだが、下から見えないように中央に集まるように敷いたので、さながら3人で1対2の向かい合わせになる形になった。
テントの中でもそうだったが、人とましてや女の子と目と鼻の先にいるのはなかなかに落ち着けない。
彼女たちが身じろぎするたびにシャンプーか何かの甘い匂いがこちらの鼻を擽り、その度一人罪悪感を覚えてしまう。
東台もいるせいか、その匂いは鼻からなかなか抜けない。
それでも距離を離さないのは引っ付き虫である月見里のためだが、こうなると他の方法を考える必要がありそうだ。
気分を落ち着かせるように自分も仰向けになって空を見上げた。
早朝であるためか冷たそうな青一色が空を覆っている。こうなってしまえば何か一つだけでもいいから白色が欲しくなってしまう。
そう考えると、ふと学校の白い壁を思い出した。そういえばあの頃、授業をさぼって屋上で寝転がりたいそんな願望を抱いていたような気がする。
だけれども、屋上には鍵が掛けられていて一度も入ったことはない。サボったことも一度も無い。それなのに、授業にはあまり付いていけなかった。
だからこそ、学校の屋上で昼寝していて授業をサボっているくせにテスト100点とれるやつは現実にいないことを理解できるのだろう。
そうであるならば、今ここでどこともつかないビルの屋上で少女2人と寝転がっているのは果たして現実的な事なのだろうか。おそらく、そうではない。だが、今自分はここに存在している。
モンシロチョウが自分の目の前を通り過ぎれば、きっとこの景色は淡く消え去ってしまうのではないだろうか――
「下らないことを考えたな……」
そんな言葉が口から漏れ出た。しかし、それに呼応するものはなくそのまま空へと消え去っていく。
見回せば、月見里も東台も柔らかな寝顔を晒して、小さな寝息を立てている。
「まだ第一波には時間があるか」
と呟き、取り出していた時計のアラームをセットしてこちらも寝袋に寝転がり静かに瞼を閉じた。
「――――!」
そんな静かな空間に一つ、大きな音が響く。それは決して機械が出せるものではない生物的なもので、『あれ』の声にも似た――
「ごめんごめん。やっぱり、お腹空いちゃった」
その方向へと目を向ければ、そう言って舌を出した東台がいた。
※ ※ ※ ※ ※
「お皿出しながら待っててねー」
そうして、先ほどまで寝ぼけておっとりとしていた東台が掃除をするときのようにテキパキとして、いつの間にか自分の荷物からフライパンを出して料理をかき混ぜていた。
料理と言ってもフライパンに缶詰のチキンを放り込んで焼くという単純なもの。
だが、フライパンを回したり、箸で具材をせわしなくかき回したりして焦がさせることなく、しかしどの面も満遍なく焼きあげていったりとその手さばきは決して大雑把なものではないことが窺える。
「ちょうど頃合いかなぁ?隠し味投入!」
そういって数本の小さなプラスチックの袋を取り出しフライパンの中に黄色いソースを落として広げていった。
ジュウジュウと蕩けて揮発していく音と共に肉の脂が混ざりあって甘酸っぱく香ばしい匂いが広がる。中身はどうやらマヨネーズのようだった。
昔祭りの屋台裏で漂ってきそうな少々粗野だが濃厚な臭い。と言えば聞こえがいいのだが、どこか先ほどの焼きただれた『あれ』の臭いを彷彿とさせて喉に生温かな溜りが昇ってくるのを感じてしまう。
しかしながら、眠っている月見里はともかく、東台はその臭いに顔色一つ変えることは無い。焼きあがるのを今か今かと待っているようで、むしろ口に涎を垂らしているほどである。
どういう精神構造をしていていれば、そんな反応が出来るのかと彼女に恐怖を覚えてしまうものの、それでも彼女の華麗な手さばきによってその感情は純粋な感嘆に吞まれてしまった。
月見里のように塩などをふりかけるような常識的なひと手間さえ加えずに缶詰を食べる性分にとっては、確かに濃厚な脂の臭いは食欲をそそるものだと言うことは納得できて落ちない腑も落ちてしまう。
「なぁに?このにおい?」
「あっ、ゆいちゃん。おはよー」
どうやら月見里の琴線にも触れたようである。
道中目を擦ったり、何度も欠伸をするのを我慢していた月見里が眠そうな声をあげながらもフライパンの中身を見るや否や涎を垂らして急いで皿を出していた。流石、成長期真っ盛りと言いたい。
寝言の一つや二つに甘いものが必ず出てくるような甘党である彼女だが、その癖脂っこいものが好きな性分でもある。
しかし、どうして自分がこんなことが頭の中に入っているのだろう。そんなこと知ろうがあまり意味のあるものではない。だけれども、袖振り合うも他生の縁。数年もいれば多少ながら嗜好の一つや二つ覚えてしまうのが人間の常というものだろうか。
「ふふふ、かんっせい!」
東台はそう言って「さっ、お皿に盛り付けるよ」とこちらと月見里が出した皿に盛りつけていく。
月見里は盛り付けられるやいなや手をつけようとするが、気質なのか育ちの良さなのかぐっと堪えて皆の皿に盛りつけられるのを待っているようだった。
とはいっても、代わりに口の中に箸を突っ込んでいるようで子供感は隠せていない。
「ゆいちゃん。えらいね」
「うるひゃい」
と東台に揶揄われると眉間に可愛いらしい皺を作って怒鳴るものの、一度料理に口を付けると眉間は緩み切って食べ物に夢中になっているのだから彼女もだいぶ胃袋を東台に掴まれているようである。
こちらも月見里に続いて口にすると、脂っこい匂いに違わことなく肉汁とマヨネーズの油が口いっぱいに広がる。
朝っぱらからこんなものを口にすれば胃もたれの一つや二つをしそうなものだが、妙にすっきりと胃の中に入っていくのが不思議だ。
胸肉なので意外とすっきりとした口当たりだったこともあるかもしれないが、慣れない早朝の空気とここまで相当な手間暇と時間をかけて移動したことが慣れ切っているはずの体に相当負担をかける行為だったのかもしれない。
「どう?おいしい」
「ふぅん」
月見里は東台のようにあからさまな素振りを見せようとはしない。しかしながら、頬が溶けているんじゃないかと錯覚するぐらい頬を綻ばせて食事を楽しんでいるのが何よりの証拠である。
やはり、ちゃんと料理というのを覚えるべきなのだろうか。
ストレスを可能な限り緩和させることが体に物事を行わせるための最善の手段ではあるとは昔どこかで読んだ本に書いてあった。
だが、味よりも食えるまでの速さを求める自分が料理を作っても悪い結果にしかならない未来が容易に想像出来てしまう。きっと、他の誰かが月見里に温かなご飯を食べさせてくれるのだ。
「ごちそうさまでした。っと!あっ、食器とかは洗っておくから置いといてもいいよ」
「いや、自分で洗う」
「そっか、別にいいのに」
そう言って「ごちそうさまでした」と手を合わせた東台は、自分の食器とフライパンをウェットティッシュで拭き始めた。
月見里はというと皆が食べ終わっていることに焦りを感じて、またリスのように口に溜め込んで早く片そうとしているよう。
東台はそれを見て焦らなくていいのにと笑いかけるが、月見里が口をもごもごと動かして「うるさい」と応戦。定番になりつつある件を繰り広げていた。
こちらも自分のものに関してはあまり手をかけたくない性分なうえ、ウェットティッシュで皿にへばりついたマヨネーズを取った後は消毒液を吹きかけてさっさと荷物にしまうと、胃に入ったものを体になじませるように軽い体操をして再び寝袋の上へと寝転んだ。
彼女たちの方を見ると東台も自分のものとなると着崩したTシャツと同じく適当に食器を片して、今は吐いた後にやっていたラジオ体操のような運動をして寝る準備をしているようで再び複雑な感情が蘇る。
ただ、月見里はめいっぱい口に詰め込んだせいで飲み込まず、置いてけぼりの涙目で未だ頬張っていたが。
こちらも「マイペースに」とか「時間はたっぷりある」と月見里に投げかけられるだろう言葉が出てくるが、どの選択肢をとっても彼女がリスになってしまう結末に行きついて雲散霧消してしまう。結局、誰がどのような言葉を投げかけても人というのは変わらない。
「そういえば、八雲?」
「なんだ?」
そんなハムスターになっている幼女を意味もなく眺めていると、東台が食器を拭きながらこちらに呼びかける。
「ここって橋から少し先、ぐらいのところだよね?」
「ああ、そうだ」
「どうしてこんな中途半端なところの屋上にあがってきたのかなって」
確かに東台の言う通りここは中途半端な位置だと思う。橋から決して近くもなく、決して中心部からも近くも無い。今日の目的地からも外れている。
橋を渡り建物の隙間を伝ってくるという苦労の割には大通り経由で行けば橋から歩いて10分か15分程度という近場である。
「あっ、でもこの近くの大通りからならすぐに
これも東台の言う通りだ。ここから5分程度歩いたところにある大通りがあって、そこを通れば2時間程度で中心部だ。
道が悪ければその倍はかかるだろうが無駄な体力を使わず行ける点は大きい。
「いや、そこは通らない」
「ん?ならどうして?」
だが、そこは通れない。
合点がいったと思った東台の顔はまた困惑に戻る。モグモグと口を動かしている月見里は見た目間の抜けたようであるが何か察したような目をこちらに向けてきた。
「『あれ』の通り道だからだ」
「あーっ、そっか。ここ通勤路だもんね」
『あれ』が果たして通勤しているのか分からないが、大通りを真っすぐ進んでしまえば目をつぶってでも中心部に行けるという道の一つでもある。
至る所に地下鉄の駅があって、多少急がなくてはならない場合でも十分対応できるほどの利便性の良さである。道は街の血管と言われるが、ここはその大動脈を担う場所だろう。
だが、新陳代謝のような腐るほどの開発でここよりも利便性の良い道が作られていけば当然淘汰されていって、近場の人が使う程度の大きさの割には人通りが少ない道に落ち着いたのである。
人はもはやいないのに、今は昔以上の活気を取り戻せているのだから、本当奇妙なことだ。
「『あれ』の大群が来るからだ。様子を見るにはここが都合がいい」
「ふーん、そうなんだ。あの一昨日みたいなやつ?」
「そうだ」
「そんなに眠れるほど時間がかかるの?」
「ああ、嫌な話だが……一昨日のものより相当かかるだろうな」
「ええ……でも、眠れる時間が取れるからよかったね。ゆいちゃん」
どんなことでもどうしようもなくポジティブに考える東台だ。だが、月見里も鼻白む様子はなく、膨らんでいた頬はすっかり萎んだと言うのに口を噤みノーコメントなようである。
もう一つしか残っていない道。それに通ずる大通りの近く。『あれ』の大移動を見るのにはうってつけの場所だった。
東台の言った通り先日車の下から見たものよりも大規模で、橋の向こう側で彷徨う無数の『あれ』が、わずがに顔を傾けるだけで見えてしまうぐらいのところに中心部に向かうために通る。
そして、夕方になれば皆どこかへと戻るために再びここを通る。
それが行きつく先はどこなのか未だに分からない。ただ、決められた時間に、一定数の『あれ』が第一波、第二波、第三波。
断続的に続いていき、渡り切ってしばらくすれば、再びばらばらに散らばりどこかへと行ってしまうのは知っている。
以前、どこに行くのかと追跡しようとしていたが、大抵が中心部へと入っていくため最終的にどこに行きつくのかは未だに分からない。
帰りだけでも調べてみようと一匹の『あれ』をつけてみたこともあったが、何の変哲もない家の中に入っただけでそれ以上のことは無く、また朝になれば大移動に参加するだけであった。
それだけならば『あれ』の習性なのだと考えられたのだが、大移動に参加せず自分の根城にとどまり続ける『あれ』も少なくないのだから判断し難い。
もしまだ人間性というのがあれば、それを個性と呼ばれるのかもしれないが、『あれ』の顔からはそんな理性的なものは見えてこない。
人間の形をして中身は得体の知れないものが、散らばって彷徨っているというのにまとまって行動をすると思えば、それに従わずその場でただ直立しているも存在している。それなのに、人間を見れば皆同じ獣の顔をして、食い殺そうとしてくる。
「絶対声や音を不必要にあげるな。食い殺されるぞ」
ただ彼らに対して唯一理解していることは、一匹いれば周りに1000匹いると思え。もとい、そいつらの一匹にでもこちらの姿形を見られようものならそんな習性をほっぽり出して皆食い殺そうとしてくることだ。
退路はあるが結局は『あれ』の釘のような歯が体に食いこむまでの時間を引き延ばせるぐらいで、それでできること言えば精々2人のこめかみに銃口をつきつけられるぐらいのものだ。
「分かった。でも、どうせ、寝ちゃうから大丈夫だと思うよ」
しかし、彼女はそれほどのことでも平然と聞き流す。
口ぶりからしても、昔から散々話していたことからも、彼女はこの街の住民であったのだろう。
きっと、遊園地の人々とは違い『あれ』の姿形や言動など散々見てきたというのだろうが、それにしても東台の呑気とも肝の座ったともいえた反応に舌を巻くばかりだ。
「……分かった。しばらく、『あれ』のうめき声が聞こえてくるが……何か異常があればその時は知らせる」
「ん、OK。ありがと」
とだけ言って、彼女は有言実行、寝袋の上に転がりそのまま鼻提灯でも作れそうなほどの間抜けな顔を晒して眠りにつく。
「月見里も終わったら、休憩しておけ」
「んふぅん」
推定「分かった」という言葉が月見里の眠そうな声で返ってくる。
結局、疲れているときは眠ることが一番だ。こんな場所なら寝られるうちに寝るのが良い。
こちらは視界から外すように彼女から背を向けて、腕時計のタイマーを回し少しだけ早めると今度こそ眠りについた――。
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