橋の外で 後半

 

 そうして、準備体操も終わり身を動かすと、周りに見えてくるのは看板だった。


 橋を渡る前に見えた看板もあったが、その他は向こう岸では見えなかったものである。


 しかしながら、何か特別なことが書かれているわけではない。名前にいくらかの差異はあれど

最後に居酒屋と名を打つ見慣れたものばかりで、酒を飲むことがないこちらにとって何の感情も湧き上がってこないようなものばかりだ。


 その上、たくさんの看板が軒を連ねているのとは裏腹に道はそれほど広いものではなく、こんなところをどうやって歩いていたのだろうと疑問を覚えるほどゴチャゴチャしていて鬱陶しく感じてしまう。


 恐らく2,3人が横に並んでしまえば途端に道が塞がってしまうような道で、それを挟みこむように2階か3階ぐらいの建物が立ち並び、辛うじて確保されていた隙間には焦げた茶色を帯びた配管や室外機などが埋め尽くされていた。


 隙間なく活用する勿体ない精神の心意気かもしれないが、これだけ極端だとむしろ顰蹙を買ってしまうだろう。


 良く言えば穴場スポットがありそうなどという根拠の薄い期待を抱きそうな装いだが、視界に映るものが決してそうではなかったと教えてくれる。


 暖簾があるはずの入り口はピシャリとシャッターが閉められているところが多く、客の行列の代わりに連ねるように置かれたゴミ袋が黒っぽい中身を散乱させている。

 建物自体も泥に浸かったかのように茶けて、他と変わらない廃墟の姿を見せつけられる。


 ただ、転がっているのが鉄くずや布切れではなく、割りばしやら割れた食器であるのが、ここが飲食店であったことを唯一主張する。


 道の狭さと建物の密度も相まって日当たりが悪く、まとわりつく空気はどこかじめっとしていた。

 そこから差し込むか細い太陽光に緑一点。地面に生えている植物は濃い緑のようなものが多い。

 それがまた澱んだ印象を与えるが、草木自体の背丈は足首あたり程度のもので多少なりの開放感は確保されていた。


 狭い道で開放感があるというのはあまり良い道とは言えばないが今は『あれ』の姿はないので、全体的に圧迫感と荒涼感が共存している空間という印象だけで済んでいる。


 普段は聞こえるはずの草木が揺れる音が無いせいか、換気扇がカラカラと何かに回される音が聞こえる度、昔食べたラーメンの匂いを思い起こさせる。


 奇妙な感覚尽きない空間であるが、東台や月見里はどう思っているのだろうかと後ろを向いてみるが、その度不思議そうに見てくるのでこの感情は些か孤立しているようであった。


 しかしながら、鏡合わせのように2人の目と合ってしまうと、その理由がしっくりと来てしまうのでより一層どんよりとした気分に結局帰結してしまう。


 「かなり狭いね。迷路みたい」


 東台が冗談を言うが、その言葉が最もこの道に合う表現なのだから笑えない。


 裏路地はいくつもあるが、そこに『あれ』が一匹でもいれば塞ぎとめられるような狭い通路である。それに視界がある程度開けている分隠れてやり過ごすのは難しい。

 

 もっと良い道があるかと言えば、もちろん無い。

 正確に説明するならば以前はあったのだが、度重なる崩落で駄目になってしまったのである。

 

 2番目にいいところも、それのせいで『あれ』がそちらの方へと集うようになりリスクが高まってしまい、お陰様で豊富に本があった場所を諦め、遠回りでかつ実入りの少ない所で調達してしまう羽目になったのである。


 桜や廃墟など崩壊していくものが美しく思えることはあるが、それで実害を被ると途端に忌々しいものだと思ってしまう。身をもって発酵と腐敗の違いを思い知らされた気分だ。


 そして、まだ発酵と呼べる3番目の道がここであった。

 2番目の道から逸れているのもあるかもしれないが、道は狭い分それだけ通る『あれ』の数は少ない。


 飲食店という特徴から、本来なら店が閉まっているこの時間帯ならば殆ど『あれ』は寄り付かない。

 残り物には福がある。使い方は違うかもしれないが嫌な事でも良い様に捉えれば多少は気分を。紛らわせてくれるものだ。


 「身を屈めておいた方がいい?」


 「いや、いい」


 またこちらが振り返ろうとしたちょうどのときに、東台は体勢を低くして戸惑いの表情を浮かべてそう尋ねてくる。


 ここを何度か通っている月見里も、心なしか表情が険しい気がした。

 

 「この辺りは今なら――安全だ」


 「そっか、それなら安心だね」 

 

 そう東台が胸をなでおろし、月見里の表情が少しだけ柔らかいものに解される。

 

 それを見届けるように一目して、こちらは時計を取り出し時間を確認した。

 多少、先ほどの東台の事で時間を取られたものの、目的の地点まで行くことを加味してもまだ『あれ』が橋を渡ってくるには十分の時間があった。


 「月見里。道具を取りに行くぞ」


 キツそうな表情にもかかわらず月見里は明るい声でこちらに応じたと思ったら、リュックサックに手を突っ込んで刃がこぼれた数本の包丁を取り出し、外側のポケットの方へと移し始めた。


 「道具?このあたりに隠してるの?」


 「まるでリスみたいだね」と子供のように笑う東台。


 しかしながら、正真正銘の子供である月見里は「リスならドングリ投げちゃえば、どっか行ってくれるのに」と悪態をついていた。


 わがままに振る舞う月見里に対してきっと叱咤かもしくはその反対の言葉を口にするべきなのだろう。


 だが、先ほども、そして今もマイペースで能天気にふるまう東台に複雑な気持ちを抱いていたのであまりそういう気分になれない。

 そもそも東台を勝手に連れてきたのはこちらなので月見里に怒れるような立場ではない。彼女が一昨日のように蹴らないだけマシだと思う。


 「いいや、そうじゃない――だが、ある意味そうかもな」


 「ふーん、変なの」

 

 そう言って東台はまた笑う。箸が転んでも可笑しい笑い上戸というのはこの事なのだろう。「安全」という言葉が出た途端に酷く能天気になった、否、いつもの彼女に変貌する。


 それでも『あれ』の蔓延る街中で響く笑い声は奇妙なものに映った。きっと、そう思わせるのはこちらの服に腐った赤いシミがこびりついているせいかもしれない。少なくともこちらの経験則上、それが愚かな行動だと肌で感じていた。


 だが、笑い声が響いても『あれ』が出てこないところを察するに、安全であることが重ねて証明されているというなんとも言えない事実があってこみ上げてくる感情の中に怒りはない。

 何故だかそんな彼女の姿を見ていると酷く懐かしい感情を覚えて、他に浮かび上がってきたはずの感情が濁されて悉く無に還される。


 「ん?なんかあそこだけシャッター閉まってないね」


 「ああ、あそこだ」

 

 そうして、シャッターが立ち並ぶなかに一つ吊り下げられた暖簾が目に飛び込んできた。強風が吹けばそのまま粉々になってしまいそうなボロボロな暖簾。それを見る度、胸の中には親近と共に様々な感情が入り乱れる。

 

 「入らないの?」


 「いや、ここからは入れない。裏手から入る」


 暖簾の先の扉は老舗の個人中華店にありそうな洋風チックな帯戸で月見里のピッキング技術でも解錠できると思うが、暖簾をくぐって入る気には今も昔も気が引ける。


 「路地に何かあるの?」


 「すぐにわかる」

 

 東台がまた不思議そうな顔をする。彼女にはこの顔をさせてばかりだ。

 しかし、今は索敵が大事だと答えをはぐらかすと、目を凝らして路地の様子を伺う。


 「うわぁ、ゴミがいっぱい」


 そう声をあげたのは東台だった。一体何週間分のゴミが入っているのか定かではないぐらいにゴミ袋が至る所に積み上がっている。


 道端にも転んでいたゴミ袋と同じく黒色で中身は見えないが、ところどころに猪か何かの動物が齧った部分が見られ、そこから覗きこまれるモノはそれを覆った袋の色よりも黒くスライム状というより粘り気を帯びた粘土のような固形物で元がなんだったのかもはや判別がつかない。


 「うへぇ、気持ち悪」


 端的に言うとしかめっ面した東台の言葉の通りだ。昔は蠅が集っていてもっと酷い有様だったが、このあたりは今も同意見である。


 もはや臭いもしないのに3人同じようにしかめっ面を並べて鼻をつまみながらゴミ袋を潜っていくように奥へと入っていった。


 ゴミ袋は徐々に増えていき、最後にはこちらの膝あたりに差し迫るまで積み上がると、その隙間から浮き出るようにドアがある。

 アルミを削ってそのまま作り出したような簡素なドアだが、ドアノブは回せることは出来て今でも機能している。


 「さっきのラーメン屋さんの裏口?」


 「ああ、そうだ」

 

 「なんで、正面から入らないの?」


 「……裏手のドアの方が開けやすい。ピッキングなんて神経を使うものは手早くやりたい」


 それとひらけた場所で両手と視界が一方向に塞がれてしまう状況に陥るのはどういった場合でもリスクが高い。


 狭い路地でピッキングするのも同じようにリスクがあってもどっちも同じようなものだが、この建物ばかりは表からは入りたくなかった。


 「ふぅーん、そういうもんなんだ。今度良かったらさ、鍵の開け方教えて?」

 

 「ん、ああ……そうだな」


 後ろからまた何故なに?が好奇心旺盛な小学生のように尋ねてくる東台。出発のときからここまでどれほどの質問が彼女の口から出てきただろうか。もはや数え切れない。何故だか不快感はあまり湧いてこない。


 「私も一回金庫とか開けてみたいなぁ」


 「うるさいから、黙ってて」


 「ああ、ごめんごめん」


 一人ごちる東台に月見里がそう釘を刺した。


 そういえば、月見里はこういったことを聞いてきたことはあっただろうか。記憶を探ってみても思い当たるものがない、どちらかと言えば人の技術を見て盗むタイプだ。


 今こうしているなかも彼女は東台そっちのけで、ヘアピンを錠口に差し込んでいるところをまじまじと見ている。そんなものを何度も見ているはずなのに、未だ真剣な表情で一つも技術を零すまいとメモ帳に書き込んでいるのはなんともすごいところだ。


 そんな姿を見ているとこういったことを教えていくべきなのだろうがと頭の中で思い浮かぶが、自分のやっていることを教えることにあまり自信はない。

 自分単体であるならば培った経験とそれで得た知識で物事を判断できる程度の技術はあると思うが、これを他人に教えるとするなら一体どう教えたらいいのだろう。


 自分のやっていることを説明できない人間は天才が多いと言うが、古ぼけたドアの鍵程度しか開けられないようなアマチュア程度の技術しか持っていないなら、そいつは常人以下の欠陥品なだけだ。


 きっと月見里も東台もこの技術を習得出来たら、こちらの出来なさ加減を理解出来て辟易とするに違いない。


 ――そう自分の頭の中で思案にくれていると、ガチャリと中の機構が動いた音がした。


 ドアノブを回し恐る恐る中を見る。


 朝であるはずなのに中は酷く暗く、鼠であるような小さな生物の気配もなく、無音無人の空間が広がっていた。


 「安全だ。入るぞ」


 そう言って月見里にランタンを点けろというと、こちらは足を踏み入れる。


 そうすると後ろからランタンの灯が差してくる、目の前にはカウンターがぼんやりと映し出された。

 もちろんラーメン屋だったから東台の家であるバーのような小奇麗なものではなく、ホームセンターから買ってきてそのままのような無骨で簡素な木製の机が佇んでいた。


 佇むと表現したのその机が空間のちょうど中心に一つ立っていたからである。机のほとんどが投げ出されたようにひっくり返り、本来はその上に乗っていたのであろうラーメン鉢の破片がそこら中に散乱している。それを中心に飛び散っている黒いドロドロは外のゴミ袋の中身と同じものだろう。


 料理には作る人の魂が込められていると言うが、この黒いドロドロはそれの成れの果てというのか。

 中心部の机にはまだ綺麗な状態を保ったラーメン鉢が乗っかっているのでそれこそ魂と表現したいものだが、中を見れば同じような黒いものがあり同じ穴のムジナである。


 しかしながら、蠅が集るようなグロテスクな見た目に反して、卵が腐ったような臭いなど想像できうる悪臭という悪臭はなく無味無臭。ネズミやゴキブリなどの足音も聞こえてくることはない。


 「うへぇ、きったなぁ」


 と先ほどよりも顔をしかめて、不快そうに声をあげる東台。月見里も東台ほどではないものの気持ち悪そうにそれを睨んでいたり、常識的な清潔意識を持った人ならば思わず口にしてしまうほどの汚さではあった。


 酸化した黒い油がいたるところにこびりつき、備え付けられていたのだろう割りばしや食器類などは例外なく床に散らばっている。


 昔これを初めて見たときは入るのに躊躇したこともあったが、慣れというのは恐ろしく特段変わったことがないことが分かればなんの気なしに足を踏み入れられるようになった。月見里もそれは同様で、東台は険しい顔をしながらも入ってくる。

 

 そして、カウンターへと回り調理場の中へと入っていく。


 調理場は店ごとひっくり返したようなカウンターとは裏腹に整理されていた。

 大きな調理用具、お玉などの小さいな調理器具まで戸棚や机の上の容器に整然と収め込まれくすみながらも銀色の輝きは未だ健在だ。


 ここだけを切り取ってみれば、今でも営業しているように見える。東台が「汚い」と箸を拾い上げながら机を整えている様は見ようによっても店員に見えるかもしれない


 少しばかり昔の光景を想像して三丁目の夕日差すノスタルジックな思いになるが、この場合は東台のように怪訝な顔をして見るのが自然というものだ。

 備え付けられた窓が割れ、流し台に苔が生えているのが目に映ると昔の光景は現実の光景へと引き戻される。


 「月見里、道具はこの上に全部出しておけ」


 「分かった」


 月見里が荷物から先ほどの擦り切れた包丁を取り出し次々と放り込んでいったいく。


 こちらはその流し台の丁度下にある扉を開いた。中は包丁などの調理器具が並べられているのみだが外で剥きだしで出されていた調理器具よりもはるかに状態は良い。


 その一つをつかみ取って見てみると刃こぼれ一つない刀先が曲線を描いて屈折一つない光を反射させており、銀で作られているのかと見紛うほど酷く透き通って見えた。きっと先端に触れれば皮膚が切り裂かれるだろう。

 

 他に差し込まれた包丁はどれをとっても端麗でそれがそれ一品が例外というわけではない。

 しかし、それとは別に一つだけ無造作に置かれていた砥石がカマボコ板のように真っ平にすり減っているのを見ると、調理器具の良しあしなど分からないこちらにとっても持ち主が丁寧に手入れをしていることが目に見えて分かった。

 

 本当に魂があるというのならその拠り所はきっと道具にあるのだろう。そう思いたい。

 そんな一本を自分の荷物の中にいれて、入れ替えるように自分の包丁を月見里と同じところに投げ入れた。


 その包丁はそれとはまるで違う。くすんだ銀色さえ輝かせることなく、代わりに錆か『あれ』の血痕かもはや見分けのつかない茶けた赤色がこびりつき、刃はサメか何かに嚙みつかれたかのように凹凸になっているという有様だ。 


 道具は持ち主の鑑と言われている。きっとその通りだ。


 鏡合わせのように状態が逆さまな包丁2本。どちらも元はここの包丁である。だが、自分が持つとこうも物の見事にぶち壊せてしまうのか。何もかも台無しだ。

 『あれ』に力任せに刺したり殴ってたり想定外の使い方をして、なおかつ手入れの一つさえしなかったら当然と言えば当然の結果である。


 「月見里。もういいぞ」


 「うん」


 そう月見里に言っても、歴然としたその差に自己嫌悪を覚えてその場を離れることが出来なかった。


 もういいぞと言ったはずなのに座り込んで包丁をずっと眺めているこちらに、月見里は大層奇妙に思っていることだろう。


 だが、彼女も何か言葉をいう事なく隣に座り込み、こちらと同じく包丁を覗きこんでいた。包丁越しに見える月見里の顔はどこか神妙そうだった。 


 「ああ、道具でそれのことかぁ。すごく綺麗な包丁」


 そう感嘆の声を後ろからあげたのは東台だった。


 いつの間にか掃除を終わらせていた東台はこちらと月見里の間に入るように座り込み、バツの悪そうな顔でも神妙そうな顔でもなくただ感心めいた表情をして包丁を眺めていた。


 彼女のビー玉のように輝く瞳を見ると何故だか先ほどの感情は薄れてしまう。そうして冷静になってしまえば、3人で戸棚に入っていた包丁を眺めているという奇妙な状況にいることに気づき、恥ずかしくなって立ち上がった。


 「東台も必要なら勝手に取ってくれ」


 「いいの?ありがとう」


 「問題ない。もう必要のないものだからな」


 そう最後に呟いて月見里の分も掴み、月見里が不機嫌そうに東台と何か喋っているのを背にしながら、隣にあった冷蔵庫だった箱を見やる。


 その冷蔵庫だった箱は牛一頭入るぐらいの大きさがあるせいで、キッチンとの間が狭く見るものに圧迫感を与えられる。


 しかし、棺を開くときのような重々しい音と共に開かれるドアは迫力こそありはするけれども、そこまで力を入れる必要もなく容易く開ける。


 明かりは当然ついているはずはなく中は暗い。だが、差し込んだ光を反射するものがあった。


 包丁だ。投げ込もうとしているよりももっと悪い状態の赤さびたものが乱雑にそこに散らばっている。


 何度も見ているこちらにとっては感慨も何も覚えることはなく、包丁をその中へと放り込んでいった。そうしていると、焼却炉に投げているかのような錯覚を覚える。

 現実はパチパチと燃えさかる音はなく、投げ入れた後に金属がぶつかり合うときの甲高い音がなく、粘土にぶつかったような鈍い音が静かに震えるのみで虚しい。


 その音の正体はゴミ袋。何故そんな音が鳴るのかも知っている。

 ――もっと詳しく言うならばこちらが殺した『あれ』。もとい、ここの元店主だった人だ。


 何故だかこちらは『あれ』に対することやこういう事に関しては現実主義悪く言えば無関心なところがある。


 ただほんの少しだけの罪悪感が取り繕うように胸にほんのりと刺さってくるぐらいだ。

 あと少しだけ情があれば、彼を冷たく腐食していく鉄の中ではなく、ここから相当距離のある広々とした柔らかい土の中へと埋葬することは出来ただろう。


 だが、そんな気は今も先も起こりそうにない。使い終わった包丁をこの中に入れるのもある種のルーティンなものだ。


 そんな良心が胸を通りぬけていく自分に嫌悪を覚えることはあるが、それでも何も感じずに包丁の持ち主を見下ろしていた。

 

こちらがこの袋を切り裂いて彼の顔を見たならばきっと憤怒に濡れた表情をしてこちらを睨みつけてくるだろうか。


 目の前にあるのは焼却炉ではなく、冷蔵庫でもない。


 だからこそ、投げ捨てられた包丁は前にも増して錆びつき、ゴミ袋は徐々に中の体積を失って萎んでいっている。


 唯一ここで自分の好きなところを揚げるするならば、自分の愛しただろう店の中で骨を埋めるのがきっと彼にとって幸せだろうと体の良い願望を持って、ばら撒いた調理器具を献花に見立て拝むような自己満足で独り善がりなことをやろうとしなかったことぐらいだろう。


 もう一度彼だったものと赤さびた包丁を眺めて深く息を吐いてドアを閉めた。

 こちらに何かを訴えかけるように錆びた金具が擦り合い閉まる。


 「もういいか」


 後ろを向くと東台が未だに戸棚に身を突っ込んでガサガサとペットフードの包装をかきむしる猫のように暴れている。

 呼びかけると鳴き声の代わりに「ちょっと待ってて」と奥から返事してくる。


 月見里は何やら呆れたやら仰天しているやら目を丸くしてその姿を悠然と見ているが、「あっ」と東台が体を跳ねらせると驚いてこちらの方へと身を寄せた。


 「ふぅーあった。あった」


 と身を出したと思ったら埃で黒く塗れた満面の笑みをしてこちらに手を掲げる。

 持っていたのは砥石だった。先ほど見た「かまぼこ板」ではなく、レンガブロックのように厚みのある砥石。どうやら未使用のようである。


 「ふっふっー、いいでしょ?」

 

 「ああ、そうだな。研いだことがあるのか」


 印籠を見せつけるかのように誇らしげにしている東台であるが、こちらは彼女が包丁を研いだところなど見たことがなかったのである。


 「ううん、今から挑戦!かな。削りすぎちゃってへんてこりんな形しちゃったこともあったけど」


 テヘヘと言った感じに後頭部に手を回し苦笑いをする東台だが、手に持った包丁に視線を向けると途端に神妙な顔つきに変わった。


 「それにさ、これ多分きっとこの人の大事にしてたものだと思うんだ。道具にはその人の……きっと沢山思い出も詰め込まれているものだから。それなら、ごめんなさい使わせてもらいますってキチンと手入れぐらいはしておかなきゃと思って」


 東台がそう言って取り出したハンカチを包丁に丁寧に巻いていき、その場で黙祷をささげていた。

 捧げる相手がこちらの後ろにいる元主人ではなく包丁であったことに少しだけ可笑しさを感じててしまうものの、彼女のやけに芯の通った「この人の大事にしている」という言葉に一種の整理間のように罪悪感が胸に沸きあがった。


 それなっていても、これからは手入れをしようという熱いものが湧き起こらないことにも嫌悪を感じてしまう。それでも、意思は錆の塊のように動かない。


 そんなことをしても彼には届かない、ならば合理的な理由はどこにあるというのか。冷蔵庫に放り込まれたただ少しばかり肉がついた骨の塊でそれ以上でもそれ以下にもならない。


 いや、彼がどういった状態になっていたとしても包丁を盗んだ時点でこちらは加害者だ。


 それを大事にするというお茶を濁すような自己満足はするべきではない。少なくとも自分は。


 「そうか」


 「うん、そう」


 しかし、そんな複雑な感情が胸の中で流れていてもこちらの考えとは違う東台の行動に関しては怒りを感じることはなく、いつもの決まりきった返事を返した。


 他人は他人。自分自身好きか嫌いか分からない自分の性格の一面。


 何かを感じることはなく風船から空気が抜けていって形を保てなくなったような奇妙な感覚を覚え何の感情さえ湧かなず漏れ出る空気が声になったように気が抜けて沈み切った声色でそう言った。


 しかし、東台は気にせず屈託のない笑みでそう頷いていた。


 「それなら……もういくぞ。月見里。取れるものは取ったのか」


 「う、んん」


 いつも壊しては捨てる月見里もその言葉に呵責を感じたのか、包丁を掴もうと伸ばした手でそれを握ろうとはせず伸ばしたままで固まっていた。


 こちらが言っても月見里は歯切れの悪い返事をして頷くが、指先を震わるだけで不安げな表情を浮かべている。


 「必要なら取れ。どうせ持ち主には何をしても――」 

 

 届かない。その言葉を紡ごうとするが、罪悪感にも喪失感にも似た感情が喉を塞いだ。

 

 なんとかひねり出したその言葉の代わりに「ああ、クソ」といつもの悪態を静かに吐いて何もない天井を見上げた。天井は油がこびりついて床よりも酷く黒い。


 しかし、そんなこちらの態度とは裏腹に月見里は何か覚悟を決めたように包丁とカマボコ板の砥石を取りリュックの中に奥の方へと突っ込んでいた。


 「それで次は?」


 「……ああ、次は寝られる場所だ」


 東台はこちらも月見里も気にすることなく一連の事が終わるとこちらにそう問いかけてきた。

 彼女の笑みがこちらのしていることを他人事のように見ているようにも感じて、それがむしろ心地よさを覚える。


 そうして感情が切り替わるのを感じるとこちらは深く息を吸い込み静かに吐いて、東台の喜ぶ声と月見里の鬱陶しがる声を聴きつつ外へと出た。


 そうして、3人外へ出れば、こちらは再び鍵穴にヘアピンを差し込みいじくった。鍵を開けるためではなく、施錠するためである。


 東台はまだ不思議そうに問いかけるが、こちらは「『あれ』が入ってこないようにだ」とだけ言った。

 しかし、『あれ』が鍵が扉を開けようとすることは見た事はない。おまじない程度のものにその一言を添えるのはいささか過剰と言えるのではないだろうか。

 それでも自分のストレスがマシにはなるので全く無意味ではない。


 それを終えると、表の道には出ずずっと路地から進んでいった。最初に表の道には出ようとしたが、路地から木の棒を箒に見立て道路を擦っている『あれ』を見つけ断念した。

 

 路地も安全かと言われたらそういうわけでもない。


 『あれ』の姿は見えず、先ほどと同じようなゴミ袋が散乱しているのみだが。ちらほらと骨の破片が地面に散らばっている。何の骨なのかは定かではないが、茶色い毛皮のようなものがこびりついているので少なくとも人骨ではない。


 路地の壁はもちろん他の場所と同じようなリンゴが酸化したときの茶色さを帯びているが、斑点のようなシミが所々、だいたい骨のあたりにべっとりとついていてその数も少なくはない。


 血は時間が経つほど茶色くなってそれによってどれくらい前のものか分かると聞いたことがあるが、あいにくそんな知識はないのでこちらにとってはただの茶色くなった血痕である。


 しかし、新しい古い関係なくこんなものが散らばっていればそこが決して安全とは言えない。離れることが得策だと、「音が出るものは踏むな」と彼女らに注意を促して、少しだけ歩みのスピードを速めた。


 それでもその道は長く、埃臭く、鉄臭く、広くなったり狭くなったり新陳代謝を繰り返し、やがて広々とアスファルトが張られた道に出る。


 そして、目の前には、


 「ビル?」


 不思議そうな声色で東台がテナント募集中とでかでかと張られた廃墟のビルを不思議そうに見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る