橋の外で 前半


 『あれ』の体は異様に生温かい。もとは人間なのだから仕方がない。肉を刃物でえぐる感覚も、刃の先から受ける固い骨の感触もきっと一緒なのだ。


 こめかみにナイフを刺した後の『あれ』は、確かに棺桶の中に入ったような安らかな表情をしてボンネットに崩れ落ちていた。

 温かな肉と流れる血の感触をこれでもかと感じたと言うのに、道具越しだとあまり感情が動かないのは何とも不思議な心理である。


 だが、ナイフから血が滴っているのを見れば途端に意識が焦燥感に引き戻される。速やかに『あれ』の体を地面へと落として仰向けの形にした。


 『あれ』の死体はあまり珍しくはない。だが、そこから大量の血が流れていれば話は別だ。橋のような限定された道でピラニアのごとく牙をむかれては不味い。

 声色はそれほど興奮しているようなものではないことに安堵はありつつも、確実にこちらがいるところに吐きかけられている。


 「今からこっちを見るな」


 そう言って、彼女らから見えないよう背を向けて、ライターを取り出した。

 血がこれ以上零れ落ちないようにゆっくりとナイフを抜いて炙り、傷口に押し付けた。 


 水が蒸発する音と共に、脂が焼ける臭い。傷口が文字通り潰れるまで焼いた。茶色い皮膚は黒く焦げ付いて血は一滴も出てこなくなった。

 

 その奇妙な臭いに何か感づいたのだろう。「何してるの?」と後ろにいる東台が不安そうな声で尋ねてくるが、今は到底伝えることができない。伝えても仕方のないことだ。


 手早くやったつもりだが、血があちこちに付着してしまっていた。これを一つ一つ拭う時間はないだろう。


 出来ればどこかに死体を隠して、少しでも鎮静化させた方がいい。


 辺りを見回してみれば、先ほどまで張り付いていた車のドアがまず視界に入り、手を掛けたが一つの壁のように張り付いてかなてこでも開けられそうになかった。


 「ねえ」


 月見里のか細い声が聞こえた。彼女の手を見るとヘアピンがあった。


 これで車のドアを開けろという意味だろうが、車の窓越しから見ても錆が見つかり内部の方も錆びているだろうどちらにしろそこまでして開ける時間も労力もなかった。


 車の下はどうだと考えてみたが『あれ』を押し込めるほどのスペースはない。


 「これは駄目だ」


 そう言って、月見里にヘアピンを片させ、もう一度周りを見回した。真下の川が視界に入る。

 

 「月見里。使わないロープはあるか?」

 

 そうとなれば川の底に沈めて見えなくしてしまえばいい。しかし、ただ放り込んでも肺の空気で浮かび上がってしまうだろう。


 そこらへんの重いものをロープで巻き付けて沈めようと思ったが、月見里は首を横に振っているのでその選択肢は叶わない。

 もっとロープを持ってくればと悔やまれるが、そんなものは下衆の後知恵だ。


 悲しいかな、音を極力出さないようにしているものの、一度人間の痕跡をとらえた『あれ』はこちら側に歩みを進めているようで興味を失っていない。


 ただ、『あれ』の歩みはゆっくりとしたなのが不幸中の幸いなのだろうか。


 「いや、いい。月見里、東台を後ろに向けさせろ」


 「どうしたの?」


 「……いいから、向いて」


 そう言葉を告げた時、月見里はそれを察して顔を強張らせ、覚悟を決めたかのように眉間を寄せた。

 

 先ほどから起こしているこちらの珍妙な行動といい、かなり困惑した表情をしたままの東台だが、月見里が後ろを向くぞと再度合図を送ると渋々といった感じで後ろを向いた。


 「もうこれしかないか。クソ」


 こちらは深呼吸をして息を整えなおし、再びナイフを掴み『あれ』の口に突き立てた。


 ナイフを支え棒のようにして切下げ奥歯が目視できるぐらいまで拡げていった。

 周りに転がっている適当な石を握り、手あたり次第『あれ』の口に文字通り突っ込んだ。


 自身の指越しに石が食道から胃に流れ込んでいっているのが伝わる。


 入り込んだ石が食道を切り裂いているのか、口内はみるみるうちに血が溜まっていく、入れる度ブクブクと蟹が泡を吹かせていた。

 人間の形をしたものが出しようもない音に吐き気を覚えつつも、袋に物を詰め込むように石を詰め込んでいった。

 

 食道が詰まって前歯の裏側ぐらいまで一杯になったのを確認すると、荷物から布切れと油を取り出した。

 地面に飛び散った血を出来るだけ拭き取って、『あれ』の口周りについた血を拭い取り油をその周りに撒いた。

 口の中にしたたり落ちた油が血と混じり錆のような茶色く煌々と光る。隠すように布切れを置いた。

 

 それから、頭と顎を押しつぶすようにおさせて、ライターとナイフを近づけ再び先ほどの頭部の傷のようにナイフで少し傷を入れてから血のりを糊にするように焼きつぶしていった。

 相変わらず脂の臭い。それが焼けていく臭いが鼻腔の中に舐めるように奥の方へと入っていった。

 焼けた肉の臭いは心底食欲をそそられるのだろうが、鼻腔の粘膜にへばりつく臭いの元が人型のものから生まれているのがもはや吐き気を助長させるものでしかなかった。

 

 だが、唇の真ん中まで焼いていくと自分が一体何をしているのだろうと自分の事に下らなさも覚えて乾いた笑みさえこぼしてしまう――

 

 「八雲……なに、してるの?」


 耳元でか細く震えた声。


 振り向くと傍にいたはずの月見里ではなく、後ろにいたはずの東台。瞳を震わせ、驚きと不快が入り混じった表情。


 視線の先は当然のごとく『あれ』――否、消しゴムで塗り潰された鉛筆のカスのような輪郭も何も混ぜこぜになってもはや顔だったのか判別がつかなかいほど醜悪な肉の塊に視線を向けられていた。

 

 「だから……クソ!」


 頭の中は白一色。真っ青に顔を塗り潰された東台に見当違いの言葉を吐き捨て、『あれ』を抱き上げ急いで川底へと投げ込んだ。


 『あれ』の肢体は音を上げることなく真っ逆さまに落ちていく。

 

 石を詰め込んだ割には小さすぎる水柱をあげ、浮き上がってこないか一抹の不安を覚えたが、再び上がってくる様子はなく、上から来た異物を構いもせずゆったりと川は流れていた。


 「行くぞ」


 「うっ……ぐぅ」


 東台の青ざめ顔からは涎や涙が漏れ出ていたがそんなことに目をくれることなく、胃から逆流してくるものをおさえようと必死に口をおさえつけている。


 「今は我慢しろ、急げ」

 

 それほど大きくない水音でも確実に橋にいる奴らなら聞こえるぐらいの音量はあった。

 しかしながら、意外にも聞こえてくる『あれ』の呻く声の声量は変わらず、むしろ、声色に戸惑いを含んでいるようにさえ見えた。

 

 理由はまるで分からず、ブラフかと思うが『あれ』にそんな知能が残っているのだろうか。


 気を逸らさせようと石を掴んでみたものの、このような状態で投げてしまえばむしろ興奮させるだけだと地面に落とした。


 何かあればとにかく石を掴んでみる癖は我ながらやめるべきだと思う。とにかく、『あれ』の声は後ろから聞こえており橋向こうには『あれ』がいないように思えた。このまま一気に走れば問題ないだろう。


 車に身を隠せる程度に、しかし、素早く動けるように可能な限り身をあげて走りに走った――。


 ※ ※ ※


 渡り切った後、東台はせき止めていたものを一気に引き抜かれたかのように嘔吐した。

 先ほど少しばかり立ち直ったと思ったら、また体を落として悶えていた。

 

 そんな苦しむ彼女の背中をさするでもなく、こちらはただ通り抜けた橋の方を草木に紛れ見つめていた。


 別に何もしなかったわけではない。余分な袋があったのでそれを渡して、吐いている間に携帯式のスコップで延々と袋を捨てる用の穴を掘っていた。


 それももう終わらせてしまったので、延々と『あれ』の群れが橋が渡ってきているか確認するためとかいう理由で橋をぼおっと眺めているのである。

 こちらの真似をして橋をずっと眺めている月見里は、心配しているのか侮蔑しているのか分からないが結構な頻度で東台の方を見て、眉を少しばかり顰めていた。


 「一昨日のことが心配なの?」


 また東台に一瞥をくれると、月見里がこちらを向いてそう口を開いた。


 確かにそれも心配ではある。経験上、まだこのあたりに『あれ』はいないことは分かっているものの、一昨日の仲間の死体を見た『あれ』の反応が昔と比べて過敏だったことを見るに警戒の必要性はあった。


 肯定は出来ない。否定も出来ない。答えられることなく押し黙った。


 今自分の心の中に取り巻いているのは靄ともつかない形の取れない負の感情ぐらいだろう。


 月見里はこちらに返答がないのを見ると、「やっぱり、なんでもない」と気まずそうに言ってこちらと一緒に橋を眺めることに戻った。


 果たして月見里の目には何が見えているのだろうか。こちらの目から見えるものぼんやりとした橋の輪郭。

 荷物に入っている双眼鏡で見れば見えるだろうが取り出す気が起こらず、そもそも一ミリも興味が無い。


 実際に見ているものといえば背後にいるだろう東台である。


 幾度も幾度も彼女を一目するが、見えるのは苦しそうに袋に吐いている姿だ。


 それを見る度、自分の中の靄が輪郭を帯びてくる、その正体は何の変哲もない後悔だ。


 細分化するとすれば、余分な袋を彼女に渡す代わりに石を詰め込んで、『あれ』の体に巻き付けて落とした方が余計な血を見ずに済んだという手段に対するものと、もう一つは自分自身がやったことに対する後悔だろう。


 もっと、自分を取り繕う汚い側の部分を剥いてさらけ出すならば、今までやってきた行為に、ずっと無意識の中で溜めていた感覚を今更ながら合点を得てどうすればいいのか分からなくなっている状態だった。


 人間なんにでも慣れるものである。魚を捌くのと一緒で、『あれ』を殺すのも、切りつけるのも何もかも。

 あるいは、月見里に初めてこのような光景を見せていた時、表情を少し強張らせるような反応の薄さだったのであまり気にしようともしなかったかもしれない。

 

 「ああ、クソ」


ただ、自分が言葉にできるのは定型文のような悪態のみであった。人との会話を慣れさせない楔が自分にはかかっているのだろうか。


 こういう時は謝るべきだろうが、もはや責任の取れようのないことについて謝るのはあまり好きではない。否、嫌いだ。

 それで謝るってしまうのはもはや相手のためではなく、自分が許されたいためだけの自己保身のようなものに過ぎない。


 しかしながら、責任を取るための代替案を思いつくほど頭は良くない。


 だから、ただただ慣れなそうにない感情を抱えつつ、橋を眺め『あれ』を見張ることで自分が何もしないことへの正当性を見出そうとしているのである。


 こういうのをきっとクズの行動というのだろう。

 何度も何度も眺めるうちに、形を成した罪悪感が胸を抉っていくうちに、東台はいよいよ吐くのをやめて、先ほど作っていた穴の中に袋を落とてスコップを手にそれを埋めていた。


 「と、東台――」


 そう彼女に声を掛けた。何か言葉を思いついたわけではない。


 彼女がスコップを振るうたびに聞こえてくる土の擦れた時の音が、胸にあるバツの悪さを小突いているように思えて、思わず口から漏れ出しただけの鳴き声でしかない。


 今も全く思いつかず。頭が真っ白なまま。しかしながらも、呼びかけられた東台はこちらの方へと体を向きやる――――。


  彼女は一体どんな表情をこちらに見せるだろうか。怒りだろうか、恐怖だろうか、それともそれ以上の予想したくもないような表情を見せてくるのだろうか。


 見たくない。だが、それぐらいは見なくてはならない。


 こちらに向いた瞬間、浴びせかけるものはきっと罵声の言葉。きっと、そうであるべきだ。


 「ごめんごめん、じゃあ行こっか」


 しかしながら、東台がこちらに見せた表情は予想していたそれのどれでもない。


 いつものようなあっけらかんとした笑顔。


 どうして、そんな顔がこちらの面前に晒されているのだろう。女性はにこやかな顔をしたまま怒れるというのを聞いたことはあるが、東台の声には棘らしい棘は無い。まん丸とした純粋な子供の声音だった。


 「いや、東台。本当に――」


 「あっ、ちょっと待って。ゲロしちゃったばかりだから、ウォーミングアップぐらいはしておかないと」


 「あ、ああ――」


 こちらがやった事。今の気分。等々。もっとマシな返事があったかもしれない。

 

 だが、吐しゃ物と一緒に先ほどの記憶までもすっかり地面へと吐き出したような東台の様子に呆気に取られ返せる言葉がなかった。


 彼女は我関せずとばかりに、自分と月見里を背にして「1、2、3」と呟いて準備運動を有言実行、始めていた。


 月見里も橋を眺めるのをやめ、異様とも言うべき東台の変わりようを見ていた。しかし、彼女の眉は先ほどとは比較になれないほどのひそめているため睨んでいるといった方が表現として正しい。


 自分はと言えば、ただ茫然と立ち尽くすのみで、被った布切れを取り払ってしまえば、きっとそこにある表情は真顔にしかなっていない。


 ただ、体だけは無性に何かしなければならないという焦燥感が燻っていた。


 「やるぞ」


 「え?何で?」


 こちらがそう告げると月見里の素っ頓狂な声が返ってくる。しかし、そんな事我関せずと、こちらは彼女の動きを真似て体を動かした。


 これが一体これに何の意味があるのか。だが、一人ただじっとしているとどうにもならないようなそんな気がした。


訝し気にこちらを見てくる月見里だったが、仕方なしとこちらに続いて準備運動を行い始めた。


 とはいっても、月見里は彼女の真似をすることはなく手と足を少しの間適当にひらひらとさせて、適当に飛び跳ねたり、屈伸したりで、嫌々やっているような感じである。

 それを数度行うと、適当なレンガブロックの上に座り、頬杖をついてつまらなさそうにこちらの動きを観察していた。


 そんな月見里の行動に怒りは湧いてこない。むしろ、自分は何をやっているのかと虚無感がふつふつと湧いてくる。


 やったはいいものの、やる気は起こらない。


 月見里と同じように適当に済ませて座り込み腕を背もたれのようにして未だ続く東台の準備運動を見ていた。

 

 そんなこちら2人の様子に東台は目もくれず、今度は柔軟体操を始めた。


 むしろ、先ほどまで調子がすこぶる酷かった彼女のそれはやけにハツラツとして、その動きもやけに板についている。


 一連の動作を流れるように体を規則的に動かしているようで、ふと自分の頭の中にラジオ体操の音楽が流れてきた。

 しかし、いつも寝坊して1度2度程度しか参加しなかった自分にとっては懐かしいと表現するものではなかったが。

 

 「もういいよ。待ってくれてありがとね!」


 「いや、いいんだ――その大丈夫か?」


 「ん?なんて言ったの?」


  溌剌とした彼女の笑みに罪悪感を覚え、そう尋ねてみるが、東台は表情一つ変えることなく尋ね返してくる。


 「いや、何でもない。ただ単に東台の体操上手いなと言いたかっただけだ。それだけだ」


 「んふふ、そうでしょー?昔ね。皆と一緒にラジオ体操やってたから」


 東台はその無理やりごまかしたのにもかかわらず腕を撒くって力こぶを作りにこやかに笑っていた。


 「あっ、でもケンちゃんはいつも寝坊して遅刻してたから、よくハセガワさんに怒られてたっけな」


 「ああ、そうなんだな」

 

 ケンちゃん。ハセガワさん。どれも矢小間遊園地にはいない人物の名前だ聞いたことのない名前を口に出して、東台はまたそれを話したときと同じくどこかを見ていた。


 彼女に聞こうとして半開きのままなった口を一度噤み、漂う雰囲気を変えるように咳ばらいをして、


 「まぁ、いい。あと、もう少し進む」


 「オッケー、それなら後もうちょっとで寝られるね」


 と言って、東台はいつもの表情へと戻りはにかみ、深呼吸をしていた。


 その殻を脱ぎ捨てたような変わりようを見ると、自分が先ほどまで持っていた罪悪感がまたどこか奥へと仕舞い込まれたような脱力感を覚えた。


 「変なやつ」


 その時、月見里がそう呟いて、彼女をまた睨み付けてこちらを見ると荷物を背負いなおしていた。

 嫌悪の詰まったような物言いだが、その言葉が胸の中にすっぽりと入っていくような感覚を刹那覚える。


 しかし、同時にチクりと刺すようで温かみのある奇妙な感情を覚えていた。

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