橋上で
「準備は整ったか」
「うん、たぶんね」
東台が大きなあくびをあげる。
辺りは陽の形が東の空の端に完全に見えるぐらいであったが、それでも薄暗さがまだ残る早朝であった。
「ねぇ、本当にこんな時間に出なきゃいけないのぉー……」
なんとも眠そうな声を出す東台。
「後で仮眠の時間はとる」
「わぁ、本当に?でも、後10分だけでいいからもうちょっと眠っておきたかったなぁ」
「……少しの辛抱だ」
10分だけ眠ると言って、その時間で起きれた試しはない。
月見里も東台の主張を同意するように大きなあくびをして目を擦っている。
「これからあの橋を渡る。大移動の前には向こうに到達しておきたい」
「大移動?」
「そうだ。一昨日のようなものだ」
「あっー」と膝を打って一人上機嫌になる東台。
一方で承知しているはずの月見里は慣れない時間に起きたせいなのか我関せずと荷物を文字通り突っ込んでいて不機嫌そうだ。
「あんなのが、毎回あるの?それで、いつもよく帰ってこられたよね」
「すごいなぁ」と言って東台はこちらと特に月見里を見て驚愕の表情をしていた。
月見里が誇らしげに胸を張っているが、その時間は避けて行動しているのでその点に関しては彼女と東台はどんぐりの背比べ状態である。
「いつもはその時間帯を避けている」
『あれ』は本来集団で動いているように見えるが、大半は個々で動いている。
しかし、特定のタイミングになると同じ方向に向かう。
そして、次のタイミングが数時間後。ちょうど通勤、通学のタイミングと同じぐらいの時刻にあった。
「荷物の中身が動かないようにタオルか何かで隙間を埋めておけ」
「OK、音が鳴らないように……だっけ?」
「ああ」
東台も準備をし始める。散らばった彼女の荷物の中にはぬいぐるみやらコミック本か何かの本が入っていた。
月見里もぬいぐるみと漫画本を持ってはいるが、それと同じようなタイプのものを年上である彼女が持っていることに何だか珍妙なものを見たかのような気分になる。
もしかすると、月見里が実年齢よりも大人ということなのだろうか。彼女が子供にしては大人びているところがあるのは知っているが、この場合東台が実年齢が子供っぽいという評価が最も適しているのだろう。
「準備できた」
と月見里がこちらに駆け寄ってきた、走ってももちろん彼女のリュックサックから音は聞こえてこない。ある種、数年間同じことをしてきた成果というものか。
しかしながら、今の彼女はなんとも誇らしげな顔をしていた。
詰め込んでいた時に何度も東台の方を睨み付けていたので、競争に勝ったという喜びだろうか。いつもは見ない子供っぽさである。
「わぁ、ゆいちゃん。早いねぇ~!こっちも準備OK」
歩いて寄る東台。着ているのはブロック塀の上に打ち上げられているような粗野なTシャツだ。
だが、そんな雑な姿とは打って変わり、彼女が中身を詰め込んだリュックサックは隆起がなく綺麗な形を保ったままで音もあまり聞こえてこない。
心なしかそれを見る月見里の表情もどこか悔しそうだ。
普段、几帳面である彼女の性格がなす技というものだろうか。子供っぽい東台がこうプロ顔負けの整理整頓術を行っても、それはそれで奇妙な気分になる。
「行くぞ」
それだけを確認すると、真後ろから月見里の「ぶっー」と不平の声を横目に橋の方を視線を向けた。相変わらずのボロい橋である。
荷物を背負って歩き、月見里が小石を上へと持っていくように蹴り上げる音を聞きながら十分程度歩くと橋についた。
目の前には錆色被った車が見切れないほどに並び、人の生活感が吐き出されたように無数のゴミと、それとは反対に亀裂に産毛程度の雑草が生えていた。
そんなものは日向のあたらない路地でよく見かけるが、それは軒並み地面に張り付けられたように潰れて、足跡のようなものを無数に形作っている。
東台がぽつりと「動物の足跡?」と言っているが、これの正体はおらく昨日窓から見た『あれ』の大群が通った痕跡だろう。
「昨日の通りだ。退路はない。声はあげるな。合図があったら屈んで待機しろ」
「OK」やら「分かった」と緊張が感じられたり感じれなかったりの声色が聞こえてくる。
身を少しだけ屈めさせ、少しだけ歩幅を大きくして歩き出した。
橋を踏んだ途端に浮遊感。気のせいであることを祈りたいが、所々に地面が剥がれ下の川が見れるほどむき出しになっているのでそれが現実であることを思い知らされてくれる。
深淵を覗くものはまた深淵に覗かれる。
この言葉と自分の足元にある穴の下の景色では意味は違うのだろうが、橋の割れたところに、『あれ』の破片を見つけてしまえばもう息を飲んでしまう。
彼女たちも同じ気持ちなのかは定かではないが背中から彼女たちの驚嘆の声があがることはなく沈黙を貫いている。
そう頼んだのはこちらなので何の不思議も無いのだが、これほど反応が無ければ逆に不安になってしまうこちらは天邪鬼なのだろうか。
後ろをちらりと一目すれば、彼女たちの顔に強張ったものは何もない。東台はもはや真顔でむしろ月見里の方が下の川を見ないようにひたすらこちらの方を向こうとしていたりと忙しない様子が見て取れるほどだった。
念のため、もう一度、地面を踏んでみる。
今度は靴の跡がつくぐらいに強く。だが、埋め込まれている鉄骨から軋む音が無いのを確認すると、こちらは進んでいった。
進んでいくと車が一つの塊のように集まっているのが見えた。
近づいてみれば正面衝突して立ち往生している事故の痕が中心にあり、取り囲むようにして放置されていた。
まるでパイプに挟まれた毛の塊のように車両群が溜まっていると言えば良いだろうか。橋の状態も奥に進めば進むほど劣化具合が酷くなっている。
両幅に組まれた鉄骨の柱も所々に虫食いのような穴が出来て、微妙ではあるが素人であるこちらでも判別できるほど歪曲している。
それを心なしに見ていると、足元が揺れているような気がした。こんな腐りかけの状態では風の1つや2つ吹けば無理もない。
否、そんな重々しい金属の振動ではない。
もっと軽いもので、もっと定点的なもので、音は近づいてくる。
「隠れろ」
怪しいなら隠れろ、それが自分の中の格言である。
嫌な予感を覚え、手を腰ぐらいの高さにやって身を屈めろと合図を送り、視界に入った近くの車を壁にして身を伏せて車の下の草木を除けて様子を伺った。
何かが擦れる音の正体は動く首輪だった。
それに嵌っているはずの犬や猫の存在は当然としてなく、ただ紐が地面に擦りつけられているようだった。
それを引いているのは『あれ』だった。
しかしながら、その姿はなんだか朝の散歩を楽しんでいる老人のようにさえ見える。
呑気そうな歩き方とは表現できないが、その穏やかに地面を踏む姿からは普段見るような攻撃性は見えてこない。
その歩く方向も大移動と言えるほど数多の『あれ』が向かう町の中心部とは反対方向へ向かっているようで、なるほど珍しいタイプだ。
ふと今の『あれ』の表情はどのようなものだろうか――と好奇心が生まれるが今いる位置からでは横顔すら見えない。見たとしても、結局その人間性をなくすのだ。
しかしながら、他のところからまた違う音が聞こえてきたのに気づいて、後ろの彼女たちに合図を送り身を屈んだまま前へと進んでいった。
『あれ』一匹かと思えば、何かを引きずる音が聞こえる度、車の下から草木の間から覗きこめば、呑気そうに歩いている個体を見つけることが出来た。
呑気そうといったが先ほどのような人間味のあるものではなくどちらかと言えば機械的な――からくり人形があの泥色の肌の中に埋め込まれているようなぎごちない動きに見える。
そのどれもが中心部とは真反対の方に歩いており、どうやら珍妙な行動をしているのは一匹だけではないらしい。
「ねぇ」
横を向くと地面にうつぶせになってこちらを見る月見里の姿があった。そんな彼女の手には石ころを握られていた。
自分たちの進行方向とは逆のところに投げ込み誘導させる。『あれ』に囲まれそうな時の定石な手段であるが、一方通行かつ久方ぶりに通る道では不用意に興奮させるのはあまりいい手にはならない。
こちらは『あれ』の専門家ではないが、5年『あれ』と対峙してきた身としては素人よりマシ程度の判断は出来る。
ハンドサインで月見里にそれを捨てさせ後ろへと戻らせた。今は石ころのように静観するしかない。
そして、『あれ』はこちらに気づいている素振りもなく、車の下から覗きこんだ『あれ』の姿が消えた。首輪の擦れる音も確実に小さくなっていく。
「動くぞ」
そう小声で合図を送り、身を屈めつつも進んでいく。
今は早朝。ともなれば、日中に活動することが主である『あれ』の絶対数も少ないものだろう。加えて、大半の『あれ』は未だ郊外にいる。
そうであれば、なりふり構わず渡り切りさえすればこっちのものだ。蛇が這うようにして静かに反対側へと回り、車を壁にしながら移動した。
時折、足跡の多いところで車の下から『あれ』の姿が無いかを確かめて、余計な音を出さないよう地面の散乱物を避けながら避けさせながら徐々に進んでいった。
しかしながら、絶対数が少ないというのはそれだけこちらからも見つけられにくいということだ。
『あれ』が前方にいるのならば、反対側に回ってやり過ごし、また戻り、両方にいたならば最悪石を転がして誘導すればいい。
だが、『あれ』の姿がない。それなのに、呻く声は聞こえる。
橋という狭い範囲だが、端が見えないぐらい長く連なり重なり合う車列とその隙間を埋め込むように生える草木が邪魔をして視界は意外なほどに狭い。
「月見里。前を向け。視界は一つしかないんだぞ」
月見里はこちらを真似するかのように、こちらとは反対側の方を見回していた。
その姿は天敵に襲われまいと体を震わせ直立不動で辺りを見渡すミーアキャットのようで余裕がなかった。
彼女はこちらがそう合図を出すと、表情を暗くして見回すのをやめた。
東台にこの合図を教えていないために、ずっときょとんとした顔をしている。
姿が見えなくとも動かなくてはならないと身をあげる。
「――――!」
その時、どこかの『あれ』が気付け薬でも嗅がされたかのように急に興奮し始めた。
共鳴するように、別の方向からも、あらゆる方向に似た声色が次々と出始めていた。
その声が向けられているのはもちろんこちら側だった。
意味も無いはずなのに、衝動的に息を止めた。何故気づかれたのか、見つけた『あれ』はどこにいるか、車の下から覗き見るが草木が邪魔して何も見えない。
いつの間にか『あれ』の叫換は消えて、ただひとつ。唸る声が足音と共に地面越しから流れてくる。
様子を伺うような静かな震え声、だが時間が経つほどそれは鮮明になっていく。
どうやら、近づいているのは
鼠の死骸が転がるダクトから風が吹き抜けているような不快な音を発してはいるが、その中には女性特有の声の高さが留まっているように思えた。
そんな異様な声質ではあるが、興奮したような声音ではなく様子を伺っているような感じに見える。
『あれ』の心情は分からない。
だが、こちらの頭の中は恐怖よりも困惑に満ち満ちていることだろう。隣にいる彼女たちも不安げな面持ちをしている。
何故発見されたのか。その原因がわからない。
「これが失敗したらすぐに川に飛び込め」
そういって赤くくすんだナイフを取り出した。
赤いのは紛れもなく『あれ』の血である。今、出来ることは迫りくるものを打開するための考えを張り巡らせることだ。
この行動の意味を感づいた月見里は何も問いかけてくることなく腰に巻いている鉈を手にかけた。出来る限り身を伏せ、車の影になるかのような徹底ぶりだ。東台はそれにつられて身を低くする。
一度、ヒトの痕跡を見た『あれ』を撒くのは難しい。
他の『あれ』を呼ばれる前にこれを『あれ』の急所に差し込む――。
車のボディに体を貼り付けてノックするように軽く叩いた。注意を向けた『あれ』は来てほしいところに歩みを変える。
一抹の不安と共に静かに『あれ』が来るのを待った。
チャンスはきっと一回程度。出来るだけ意識が別のところで一気に畳みかける。
こちらは伏せていた体を起こし中腰の姿勢を取った。伏せていたいが、もう逃げ場はないのだ。
車と車の人が一人入れるぐらいの隙間に『あれ』が入り込んでくる。薄い金属を叩く音が聞こえてきた。ボンネットでも叩いているのだろうか。
『あれ』の息遣いが聞こえてくる。
その音はもう女性でも人間の呼吸音でもなく、獣のような呼吸。吐き出される唾も感じられるほど生々しいものだった。
緊張のせいかナイフを握りしめる力が強くなる。ナイフの先端が小刻みに震えているのが分かっているのに、何故だかその動きは遅く見えた。
そうしていると、パンと薄い金属板を叩く音が自分の真上から聞こえてくる。車のボンネットでも叩いているのだろうか。
一度深呼吸をついて脳に酸素を送る。緊張して萎縮したものが膨らんでいくのを身に感じながらナイフの感触を確かめる。
脚、から腰と『あれ』の輪郭が徐々に自分の視界の中に形を帯びてくる。
真上に『あれ』の手が置かれた。頭が見えてくるのももう時間の問題である。
向かい側の車のタイヤにめがけて石を投げた。ぼふっという萎んだ音に『あれ』はびくりと体を痙攣させその場で棒立ちとなった。
そして、腰を下ろしてその音がなったところへと体を落としていく、その時ボンネットに置かれていた手がゆっくりと離れていった。
――咄嗟にその手を掴み間髪入れずにこちら側へと引っ張った。
予想だにしていない方向の力で呆気に取られた『あれ』の体は人形でもつかむようにこちらへと倒れこんでくる。
視界に映った『あれ』の表情は、驚愕と歓喜が浮かび上がった。
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