(小話) 毒虫と月見里
陽の光に当てられて登っていくような温かいイ草の匂い。
それにあてられて一度開いた瞼は再び眠気で重くなり閉じようとするが、早朝にしてはやけに温かいという違和感を覚え飛び起きた。
急いで開いたカーテン越しに見えた空は暗闇で、向こうの方に濃い赤色が暗雲をジリジリと焼き焦がすように差している。
その光景に安堵して念のためと時計を取り出すが、差された時刻を見てすぐに微妙な気持ちになる。
まだ早朝というには早いが、深夜とも言えない微妙な時間帯だった。今日出発するのは早朝と決めていたが今から二度寝するには短すぎる。
「まさか、な……」
まさか、こんな時間に起きるとは思いもしなかったと口にしようとしたが、声帯は萎んでいて途切れ途切れの言葉しか出てこなかった。
決めた時間にきっかり起きれるほど『あれ』に磨き上げられた体内時計を持つこちらが見当はずれの時間に起きるとは大分久しぶりのことだった。
「……せいか」
あいつらのせいかと。今度は口にしようとしたが、誰かに責任を押し付けるような言葉を発するのは気が引けて口を噤んで代わりに鼻息を漏らした。
テントの中から月見里のランタンの光が漏れ出ていた。その中で当然のように東台も静かに寝息を立てて眠っている。
太陽の熱気は既に夜の冷気に吸われているが、肌にまとわりつく空気がいつもよりも熱気を帯びているような気がした。
畳のせいかと一瞬思うが、そういえば東台がいた。よくよく考えれば一人分の体温が追加されているのだからその分温かいのだろう。
一昨日は何故あんなにも深く眠れたのか疑問で甚だしい。まさか、浅はかな少年だった昔の自分のように明日にせまる遠足に期待を胸躍らせゆったりと眠りについたというのだろうか。
そう思案をくぐらせたとき、喉に何かが引っかかりむせ返り彼女たちを起こさないよう急いで口を塞いだ。
咳が止まり、口を覆った手を見ると血がねっとりと付着していた。
だが、こちらにとって特段珍しいことではない物だ。
ただ、以前吐いたものはもっと赤みがあったような気がする。今は自分が吐いたのかと疑えるほど黒い。
タールのような黒。
そこから白い歯が浮き出て嘲笑するかのごとく差し込まれる陽の光を鈍く照り返していた。
「クソ……」
酷く下らない。何も苦しみは感じてくれないのにどうやって並大抵でないものが出せるのだろうか。
悪態を吐いた後に壁にも垂れ込んで外の方を見つめる。どこかで頭を冷やしたい。
この時間帯でこの辺りならば下手をしない限り、『あれ』に出くわすことは少ないだろう。
そう考えたこちらはすり足で部屋を出た。
霜で濡れたドアノブに気持ち悪さを覚え開けた先はやはり暗闇で肌寒い。
目の慣れと向こうの日の光が強くなるのと合わせて自分の足元は朧気ながらも徐々に見えはじめて、ずっと河川敷を歩いていると景色も切り開かれていくように輪郭が見え始める。
そうして、河川の向こう側に何か動いているものがあって身構えながら覗いてみると、3匹の鹿がいた。
家族なのだろうか。
都市部にはあまり獣がいないと思っていたが、どうやらこの時間帯に河川へと水を飲みに来るようである。
しかし、鹿はこちらと視線が合うと素知らぬ顔で悠々と草むらの中へと消えていった。
こちらはそんな一部始終をあんぐりと口を開けて見つめていた。傍から見るときっと間抜けな顔だろう。
まだ頭は寝ぼけているらしい。
だが、言い知れぬ焦燥感は胸の中で沸き起こり、感情は「健全」に働いていることに乾いた笑みが浮かんしまう。
「ねぇ」
後ろから太陽とは毛色の違う淡い光が差され、共に月見里の声が聞こえた。
「なんだ」
予想外の声に驚いて持ちうる反射神経で体を振り向かせると、胸の中にあるランタンを守るように身を縮こまらせる彼女の姿がそこにあった。
「あの、そのね、どこかに行っちゃってたから」
こんなぼんやりとしか光が見れない薄い暗闇の中、お守り程度の光でここまでこれた彼女にこちらは目を丸くさせた。
だが、その驚きが止むと何かを言いたそうにもごもごとしている彼女の口を見て、酷くバツが悪くなりただ「そうか」とだけ済ませて、振り返り再び河川の景色を眺めるフリを決め込む。
一時、沈黙が流れる。彼女の仕草や呼吸のように聞こえる途切れ声がうるさく思えるほどの静寂。
「ごめ――」
「ルールを忘れたのか?」
再び後ろを振り向き勇気を振り絞り声を発した彼女をぴしゃりと叩き落とすようにそういった。
自分でも想像していなかった強い声音が出たことに内心驚きはするものの、気にならなくなるくらいの怒りが自分の中にあった。
「……謝らないこと?」
「そうだ。そう思ってなくとも、そういった言葉は出すな。決してだ」
言いながら月見里へと近づいていく、自分の発する声が別人の声と錯覚するほど口調が強くなったころには彼女が見上げなければこちらの顔が見えないぐらい近づいていた。
しかし、彼女はこちらに一切目を合わせることなく、頭を俯かせていた。
表情は見えないがどういう風になっているかは理解できる。それでも衝動は収まらず、「お前。わかってるのか」と真下の彼女の頭に吐きかけた。
「……うん」
月見里は弱々しい声をあげる。
その声を聞いた途端に感情の高ぶりが波を引くように冷めて、正当ではない感情に任せて彼女を脅迫するような態度を取ったことに罪悪感と気まずさを覚えた。
「クソ」と負け犬の遠吠えのように小さく呟くと、その場から逃げ去るように側にあった階段から下の河川の方へと降りる。しかし、彼女もこちらに続いて階段を下りてくる。
それにまた頭をかき回され、階段に足を踏み落とす音を大きくさせるが、それでも彼女は付いてきた。
「おま……」
しびれを切らしたこちらは後ろに振り返り月見里を睨みつけた。すると、ちょうど目の前に月見里の足があり、震えていた。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったものだ。
先ほど罪悪感を持ったばかりなのに怒りに任せて同じような事をする短慮な自分に嫌気が差す。それでも、喉元に苦みを感じるような後悔を幾度も無く覚えてしまう。
こちらは中和させるように後頭部を手で掻いて、しばらく立ち止まり、
「……少しだけここで休憩する」
「……うん」
そういって階段に座り込んだ。月見里はこちらの隣に座り込んだ。彼女が少しだけ明るい声で応答したことに心なしか安堵感を覚えた。
そして、またぼぉーと間の抜けた顔をしようと遠くの景色を見た。先ほどの鹿はどこに行ったのだろうかと、ひたすら探すフリをしながら、口をもごもごさせていた。
月見里も言葉を発さず、同じように景色を見ていた。
彼女はもしかしたらウサギでも探しているんじゃないかと一瞬だけ考えてしまったが、そんな日和見的で調子のいいことを考えた自分に嫌悪を感じてそれ以上何も考えなかった。
今回は昨日のような沈黙にはなりそうにない。川の流れる音が誤魔化してくれるようにこちらのぼやく声をかき消す。
頬を撫でつける風がこちらの口をこじ開けようとといつも以上に強く吹いているように感じる。
それでも、こちらは月見里の反対側へ顔を向けて、帳尻合わせるように未だもごもごと動かす口を手で触って隠した。
そんな中でも、端にあった赤色の空はたちまちに広がりを見せて、黄色く淡い光が闇に落とし込まれ溶け込んで薄くしていく。冷たかった風も太陽にあてられて温められていく。
ぼんやりと見えていた対岸の建物も、立てつけられた看板も見えるほど明るく照らされる。
錆色の隙間から「~~事務所」というのが、その前に何が書いてあったのだろうか。
いや、なぜ、そもそもそんなものを必死になって読もうとしているのか。
下らないことで時間を浪費して物事を先延ばしにする自分にイラついて後頭部をかきむしる。
その時、ふと月見里の方を見た。彼女は体育座りをしたまま、安心しきったような安らかな顔をこちらに向けて眠っていた。
せめて、さっき鹿がいたことを話せばいいだろう。いや、月見里は鹿嫌いだったことを思い出して、妙に安心している自分がいる。
そうなって、やっとこちらはいよいよ情けなく口を開く。
「なんで皆俺に謝るんだよ」
太陽の大半が見えるぐらいまで、その場で座り込み景色を見続けた。
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