迂回路
その後も『あれ』が消えることは無かった。飛び散らかされた煙と音の跡を手繰り寄せようと広がり散っては、また集まっていく――
そんな事がずっと続いていると不思議と余裕が生まれてくる。そうなると、嵐のような『あれ』の蠢きと薄い暗闇の中で止まないか止まないかと待っているという状況が家屋の中で嵐が止むのをひっそりと待つ狼と羊の物語のようだと思えてしまう。
といっても、その物語の中のように相手の顔が全く見えない暗闇というわけではなく、月見里のランタンから漏れ出る光で互いの顔が煌々と照らされていた。
「ゆいちゃん、ねむっちゃったね――」
「……ああ」
「その……さっきのゆいちゃん様子が――」
「やみそうにない」
「え?」
「やみそうにないな」
「ああ、『あれ』のこと?……ああ、うん、そうだね」
月見里はランタンを抱いてぼうっとしたように一点を見つめたと思ったら、いつの間にかこちらに寝顔を晒している。
東台はというと、先ほどと同じように体を少しよじらせて上を見上げ天井に出来た裂け目を覗きこんでいた。
何度かこちらも見上げているが頭上の景色からは『あれ』の姿は見えてこない。見えてくるのは煙のような曇天の空だ。
それでも、小さく響いたと思ったら近くで大きく轟く音はおそらく雷鳴ではない。
「月見里を起こすぞ」
「もう……?もうちょっと寝かせておいたら?」
「ああ」
こちらは荷物を背負いなおしてから、月見里が抱いているランタンの取っ手を掴み揺らした。
彼女はすぐに目を覚まして、目の前に広がるこちらの顔面を見ると目を擦り、「もう終わったの?」と小さく呟いた。
「そうだ、もう終わる時間だ。あまり音は立てるな」
月見里は立ち上がり、おぼついている足を整わせるようにつま先で地面を突いて自分の荷物を背負った。
しかしながら、上を見上げれば『あれ』の声がささやくように裂け目から流れ込んでくる。
終わる時間というのは決して彼女を急かすための建前ではなく本当の事だ。本来ならばという言葉が冠に付くが。
「時間が前より延びたか……人数が増えたことによる影響……いや、『あれ』を殺した影響か?いやそんなことがあるはずは……」
「ん、よいしょっと。え?何か言った?」
ぶつぶつと唱えながら頭上を睨み付けているこちらにそう尋ねてくる東台。上の音はあまり気にしないのに人の囁く声はばっちりと掴んでくる。彼女の耳は人の声専用の地獄耳なのだろうか。
「いや、なんでもない」
開く必要もないのに勝手に開いて声を出す口を掌で覆い先ほどの思案の続きを行ってみる。
『あれ』を音の方へと誘導させたときに留まる時間が伸びているように感じた。
実際に時計で確認したのでこちらは体感ではなく事実ではあるのだが、『あれ』の気まぐれではないかと言われると否定はできない。証明もしていない仮説を口にするのはあまり好きではない。
しかし、明らかに伸びてはいる。『あれ』を一体殺してしまったことによって『あれ』が興奮しているとも考え付いたが、骸を見て何も反応してこなかった『あれ』がそれに限って特に反応してくるとは考えられない……いや、3分間で考え出した程度の仮説に時間を使って何の意味があるのだろうか。
カップラーメンを作るにはちょうどいいが、あいにくカップラーメンはスーパの棚でカビを生やしている。
「……このまま進んでいって音が聞こえなくなったら速やかに外へと出る。暗くなれば身動きはとれない」
「え?……昨日は身動き取れてたのに?」
月見里のランタンの取っ手の片側を掴み体勢を整えるこちらに向かって不思議そうに尋ねる東台。
「ここには退路も進路もない。道があるのかも……よく分からない」
東台が言いたいことは「身動きが取れなくなるのならここで身を潜めていた方が得策」ということなのだろう。
しかし、外に出られない「空間」というのは結局のところ『あれ』に取り囲まれた納屋でしかない。
光もないから常にランタンに頼るしかないというのもなんとも言えないところだ。それにこの先の道がここ以上に崩落していて『あれ』が侵入している可能性も無きにしも非ずなためリスクも高い。
物資の面で考えると食料も3人分の一週間程度を考慮して荷物に詰め込んできているからと問題は少ない言えるが、あくまでも行きと帰りの分だ。
ここからの道のりを考えるとあまり得策でもない。ここで流暢に待っていざ移動しようとすればその途中で暗くなってしまうというオチは是非とも避けたいところである。
東台は「ああ、そっか」と月見里の方を見ると、それ以上は何も言わずに背負った荷物のベルトを調整していた。
「月見里」
月見里は屑紙にペッとガムを吐いて、新しいのを口の中へと放りこんで、ひたすら無心といったように光の映る地面に視線を置いて噛んでいた。
ランタン越しからそんな姿が見えたが、ランタンの光だけでは彼女の表情は朧気にしか見えない。
「外に出たら、ともかく目的地には到達する」
「うん」
東台はそう淡泊に返事するも、彼女の声色からは納得していないという感情がこもっていた。
しかし、今彼女に説明してやれる時間はないと、無視してランタンを引っ張るようにして足元震える月見里を引っ張り歩く。
ずっと歩いても辺りは狭く暗い、かといって冷たいかと言われればそれほどでもなくむしろ生暖かいのが肌に伝わってきてまるで大きな生き物の食道に入っているような気分になる。
『あれ』の声は消え入り、残り火のように差していた陽も今はない。
後ろも先も代わりにあるのは黒一色、3人が出す音以外はもう聞こえない。
時折、電車が通る時の吸い込まれるような音が聞こえてきて何だか脅されているように感じる。
まるでこの空間全体が息を吸って躍動しているような錯覚さえ覚えてしまうほどに。
心なしかそれが耳に入ってくる度、月見里のガムを咀嚼する音も早くなっているような気がする。
「ねぇ――」
東台の声が背後からカンカンと地面を叩く音が文字通り響いた。鳴らした彼女もそれに驚いたらしく、「うわぁ、結構響くんだね」とあっけらかんと笑って見せる。
しかし、横から聞こえてきたのにいつの間にか後ろに行くとは落ち着きのない彼女だ。
今も話そうとしたことそっちのけで子供のように目を丸くさせて辺りを見回しているのが東台印である。
「ああ、ごめんごめん。聞きたかったのは、その、あんなに『あれ』がいたのに隠れられる場所ってあるの?」
東台はそう言って、上の方に指を指した。もちろんのこと、真っ暗闇で天井は見えない。
それでも、不安を煽るようなことを口にする彼女の声色は暗さはなくどこか他人の事を話しているような抜けた明るさだ。
「場所はあるが……確実に安全とは言い難い」
そんな彼女にまるでどこかには確実に安全なところがあるような物言いをしたが、正直なところ全くそんなところは無い。
違うとすればリスクの振れ幅である。穴に落ちるのは確実でその先にあるものが水か千本針かという具合だが。
「そう、なんだ。ほんとに大丈夫、なの?」
「――少なくとも昨日のようにはいかない」
「このあたりは商業施設が多い」
「ああ、そっか、ここらへん結構お年寄りの人多かったもんね」
商業施設と言っても、地方によくあるフォーディズム型大型商業施設に負けて灰色被った商店街のようなもので、橋を越えた先にある中心部よりは燦々としたものではなかったが主婦たちが食料を買いに行くのは丁度良かったらしく昼下がりぐらいには埋め尽くす――とまではいかなかったが、かなりの人間がいたのだ。
そして、今、ちょうどその時間に差し掛かろうとしている。
「タイミングがまずかったのか……」
ああ、道理でだと合点がいく。短時間で木霊のようにあちこちから声が聞こえるほど『あれ』の数が増えたのはちょうどその近くを『あれ』が徘徊していたからだろう。
「え?なんていったの?」
しかし、これも仮説の範疇に留まる。ならば、口に出すことでもないだろうと、彼女の地獄耳に入った言葉を差し替えるように「なんでもない」と前置きを入れ、
「ともかく、商業施設あたりを避けて、川の側まで行く。あの辺りだと民家の方が多い」
「商業施設?ああ、商店街のこと?あそこってかなり広かったと思うけど?」
「……かなりの迂回にはなる。それでも危険がないとは保証できないがな」
それでも『あれ』が全くいないとは限らない。
大分限りなく迂回すれば出ることがむしろ珍しいところまで確率を下げることは出来る。
だが、結局は『あれ』の多い地帯に入るので、食料を余計に消費する羽目になって所謂手段の目的化にしかならない。
つまるところ距離とリスクの折衷が理想だが、そんな理想的な道は殆ど無いのでリスク寄りの迂回路を通るしかない。
「そっか」
了承とも取れる端的な東台の返事は覚悟を決めた者の反応というより、こちらを信頼しきったようなことでもなく、やはりどこかあっさりとしたようなものだ。
東台はそれ以上は何も言わずにコツコツと小気味よいコンクリート床の反響音をワザと鳴らせてみたりとして小さい子供のように遊んでいた
一方、正真正銘の小さい子、月見里の方は黙り込んだままで――
「ね……ごめんなさ――」
月見里は何か言葉を発したが、聞き取れず、振り向いてみると月見里が口を小さくパクパクさせて未だ何か言葉を紡ごうとしていた。
彼女の表情も同様に弱々しく、靴音が響く音が大きく反響していく度険しくなっていっていた。
「……とにかく、前を進め」
こちらはただそれだけを言った。月見里はそれ以上は何も言わなくなかったが、ひそめていた眉が少しだけ柔らかくなっていた。
しかし、その後は文字通りに沈黙である。遊んでいた東台もそれに飽きて普通に歩き出して、今は月見里の持つランタンが揺れる音しか聞こえなくなった。
そうやって音が消えていくと、妙な安堵感を覚える。
押し入れの中に入った時のような自分だけの世界の中に沈んだような気分にもなるが、時折ひび割れた天井を見るとその隙間から湿るような『あれ』の呻き声が聞こえてきているような気がして、ここに緩急極まれり。一気に現実へと引き戻されるのを繰り返す。
しかしながら、東台はその声をあまり気にするそぶりを見せず、月見里は無心といった感じで顎と足を動かしていた。
「八雲たちってさ、いつもこんなところを歩いたりしてるの?」
と一瞬光が差したように東台の声が背後から聞こえた。
「いや、まさか。今回が初めてだ」
「ふーん、匂いとかも酷くないし。結構静かなところだから使ったらいいのに」
東台はあっけらかんとそう言うと、「え」と隣にいる月見里から声が漏れた。
「ん?どうしたの?ゆいちゃん」
「な、なんでもない」
しかし、東台に声を掛けられると慌てて口を塞ぐ月見里。好奇心旺盛な東台だが、「なんでもない」という言葉は鵜呑みにしてくれるらしく、「そっか」というとそれ以上何も追求することはない。
確かに東台の目線に立ってみれば、『あれ』がおらず障害物もないのでスムーズに行けるのではと思うかもしれないが、行ける道がかなり限定されてしまう。それに途中で崩落してしまえば、引き返す道の距離がそのまま自分の進んだ道分加算される。
地上でも同じような事があることは否めないが、やはり状況的に限定されているのと地形的に限定されているのでは訳が違う。
しかしどうだ、歩いてみれば地上にあがる場所以外は今も昔の形を保っておりどこか崩落した様子は見られない。
選択肢として考えられる一つかもしれない。思い出してみれば、何度か地下道に潜って中心地まで行こうと考えたことがあった。
といろいろ思い出してみるが、忌避したい理由とはしてはあまり腑に落ちない。
「こんな暗いところを歩き続けるのはごめんだ」
こういう時はその時頭によぎったものを言葉にするのが一番だったりする。そうだ。多分、これだろう。
ずっと暗闇の中にいると心が鎮まるが、ずっと自分の世界に沈みこんでいると昔の思い出が頭の中に流れ込んでくる。
そうなると途端に閉塞感がどっと押し寄せてくる。あの感覚が嫌いだ。
この理由ならば多少心にはまるものだが、これも違和感があるがそれを埋まるようなものは思いつきそうにない。
「まぁ、確かにね。明るい所に出るときは大変そう」
東台がお道化た笑みを作りそう言った。すると、その言葉に呼応したかのように暗闇に白い色が差す。
ランタンの光があるというのに、光が濃くなると目を細めたくなるほど眩しく感じてしまう。確かに彼女の言う通りである。
徐々に目が慣れてくると、目の前に下りた時のような赤さびた梯子が現れた。
マンホールの穴から外の様子を確認してみようとしたが、暗闇から切り替えきれてない目には光が強烈すぎて何が何だか分からない。目を凝らして覗いてみるもマンホールの小さな穴から見えるのは電線程度で他は何も見えなかった。
しかしながら、『あれ』の声は聞こえてこないのでどうやらこの真上は先ほどよりは幾分安全そうである。
「少し待ってろ」
そう言ってランタンから手を放して梯子に足を掛けた。
前の梯子のようにギシギシと軋むような音はなかったが、体重をかけるたびに前方へと傾いていっているような感覚があって頑強そうには思えない。
支えている部分が多少脆くなっている可能性はあるが、全ての段を踏みつけてみても折れるようなことはなかったため荷物分含めてこちらより体重の軽い月見里や東台なら問題ないだろう。
そうして、マンホールをゆっくりと慎重に押し上げ外を確認した。ひとまずは安全そうである。
梯子をもう一度足で踏んで強度を確認しつつ地上に上がった。周りを見れば先ほどあったような住居群が塀とともに取り囲んでおり自分達があそこからある程度移動できたのだと実感する。
その中に『あれ』の姿もなく、未だに声は聞こえない。まだ自分たちがいたところで彷徨っているのだろうか。
「ひとまずは、安全だ。あがってこい」
月見里たちに手招きをした。
月見里が先に梯子を掴み、東台が続くように梯子を掴んで昇ってきた。
月見里はまるで這い上がるように早々と登り、東台はマイペースといった形でゆっくりと昇ってきていた。
しかしながら、2人とも上がっていた後は膝に手をついて息を切らせていて、正反対の行動をしていたというのに結果が同じというなんとも言えない珍妙な光景が繰り広げられる。
「今日は暗くなるのが早そうだ」
「ふぅ、ふぅ、そうだね。夜ぐらいには雨が降りそう」
東台は息を荒く吐きながらそう言った。
彼女は梯子も苦手なようで。月見里が準備運動をして自身の固まった体を再起動しているなか、未だ膝付きうなだれて額の汗を拭っていた。
「ここには留まれない」
「ごめん、あともうちょっと待って」
「分かった……荷物だけは運んでおく。隅に移動してくれ」
彼女の状態を考えたとしても、道のど真ん中である。2階からこちらが見下ろせるぐらいの塀しかない開けたところで留まるのはリスクが高い。
ロープで彼女の荷物を掛けて引っ張り引きずるようにして移動させ、月見里がこちらについてくるように移動してこちらの隣に座り込んだ。
彼女はこちらに平然とした顔を見せるが老人のような足取りで歩いてくる東台を見て酷く不機嫌な顔へと歪める。
移動せず隅にいるのもリスクはあるが、ど真ん中で愛を叫ぶというように目立つところで身を晒して息を切らせているよりかはだいぶマシではある。
「ごめん、ごめん。最初は簡単って思ってたけど、重い荷物背負いながら登るとこうも大変なんだね。変なところが痛くなっちゃった」
こちらに来た東台はそう言って、鼓舞するように自分の太腿を叩いていた。
が、あまり効果はないようで叩いた足の震えは収まっていない。
「このあたりは……そうか。4キロ、いや6キロ圏内に行けばリスクは抑えられる」
昨日よりかは歩いてはいないが、一日中歩きっぱなしだ。ずっと景色が固定されて距離感掴めない暗闇の中にいたのだから尚更である。
月見里も、彼女自身は隠そうとしているように見えるが、顔色はあまり良くない。
最も東台は今も口を「えー」と言いそうな形にしてだるそうにしていたが――。
「出来うる限りの最短ルートを通る」
「ふぅー、わかったぁ。ああ、それでも4キロぐらいかぁ」
「……準備を整えてくれ」
そう言って落としていた荷物を背負いなおし、瓦礫で少し高くなっているところに立ち遠くに目を凝らしながら東台と月見里の準備を待った。
相変わらずというべきか月見里の行動は早く、少しばかり肩ベルトの調整をすると誇らしげにしてどや顔をしてすぐさまこちらに駆け寄ってくる。
「準備できた」
「月見里。走らなくていい。無駄な体力を使うな」
「……うん」
「……もう少しベルトを絞めろ。揺れすぎだ」
何とも言い知れぬ雰囲気をかき消すように月見里は地面に目を落として何も言うこともなくベルトを調整しなおしていた。
「OK。準備OK。もうだ――あれ?2人ともどうしたの」
「なんでもない。身を屈めろと言ったときは、身を屈んでくれ」
「うん、りょーかい」
その場にある雰囲気さえ気にすることなく、いつものように振舞う東台である。
こちらも少しだけ肩のベルトを締め遠くにある目的地の方向を見て、歩き出した。
※ ※ ※
5、 6キロ先だと言うがそれは単純な「距離」という範疇で、その言葉は駅から徒歩何分という意味合いに過ぎない。
「さすがに時間が経てば元に戻るか」
「八雲。大丈夫なの?」
「身を屈めておけ」
商店街も広いから『あれ』の徘徊範囲もその分広い。先ほどの音で執着心の強い『あれ』は多少いなくなってはいるだろうが、あちこちにいることは間違いないだろう。
「石ころ?『あれ』にぶつけるの?」
「……いや」
石ころを収めたポケットから小さい双眼鏡を取り出したこちらに「本気?」と言わんばかりに眉を上げて不思議そうにこちらを見ていた。
彼女の反応は当然のことだ。車やがれきや草木などの遮蔽物のせいで双眼鏡を使えるほどの見通しはない。
まるで針の穴から物を見ようとするような意味のなさだが、それでも何もしないよりは気分的にはいくらかマシではあった。
物音を立てないよう可能な限り身を屈め、時折双眼鏡を使って『あれ』が潜んでいないか周囲をくまなく見渡していった。
しかし、同時に不安も沸き上がる。これを5,6キロやっていくのかと。それがよく知らない道であればもはやその10倍を普通に歩いていた方がまだ疲れないだろう。
「体を落とせ」
「え?」
運良く目的地に続く道にたどり着いた――などと都合のよいシチュエーションなぞ当然あるわけがなく、進行方向に『あれ』が一匹佇んでいた。
しかし、こちらの存在には気づいてはおらず、直立不動で何かを凝視しているようだった。
こちらはポケットから石を取り出し、
「――――――!」
『あれ』の頭、頭近くの草木めがけて投げつけた。
石は枝や葉を激しく擦り地面へと落ちていき、『あれ』は糸で引っ張られているかのように首を瞬時にその方へ向ける。
しかしながらも、何も見えないことに気づくと、先ほどとは打って変わって人形が歩くようにとぼとぼとそれへと近づいていった。
「行くぞ」
その間に向こう側にある壁の方まで進んでいく。出来るだけ腰を低く、まばらにある雑草に身を隠すように姿勢を低くしていた。
後ろからついてくる彼女もなるべく音を立てないように真剣な面持ちをしていた。特に東台は頭を抑えつけるように手を頭にやって出来るだけ姿勢を落とし、草木に混ざろうとしているのかと思うほどの徹底ぶりである。
軍人のように銃や刀剣で戦うよりも、小市民はそこらの石ころを持って草木に隠れているほうがずっと安全だったりする。むしろ昔より今の方が(その分やはり見通しが悪くなったが)遮蔽物が多くなって安全になっているのは皮肉な限りである。
その先も雑多にある遮蔽物を除けば閑静な住宅街が続いている。しかし、商店街に近くなるほど道は広くなっていった。
道が広くなれば近づいている証拠なので多少は喜ぶべきだろうが、閑散な住宅地からは『あれ』の呻き声が聞こえてくる。
その声はまるで何かしゃべっているようで、日常的に聞こえてくるような声色がどこかから止めどなくふんわりと耳にまとわりついてくる。
声のする方を双眼鏡で覗くが、姿は見えない。東台が「なんか聞こえている?」と不思議そうな表情で小さく呟いていた。
もう一度草木に石を投げて反応を見ようと石を手に取っては見たものの、数も場所も定かではない状態で投げるリスクはいかほどだろうか。
考えてみるとあまり得策でない気がしてし地面に落とした。
「壁側によって、姿勢を低くしろ」
そう言ってこちらは壁に身を屈めて張り付いた。月見里もすぐに壁へとよりこちらの後ろに張り付いた。
東台はまた不思議そうな表情をして見てくるが、これまでの行動で慣れてきたのだろう何も言うこと無く月見里の後ろに張り付く。
結局迷ったら定石を踏むのが無難だったりする、実のところいい選択が思い浮かばない。
張り付いた壁側から見えないように注意を払い、ゆっくりと地面を踏む音が目立つような砂利やガラス破片があるところをなるべく避けて、彼女らに注意を向け誘導する。
そうして、壁の向かいにある家屋を睨みつけるようにして見ていた
窓枠、屋根伝い、穴の開いた家屋の壁、崩れかけの壁にある穴、『あれ』がこちら側を見れる場所。すべてをくまなく一つの見落としもないよう隈なく慎重に。
今のところ、そこから見えるのは倒れた家具やら布団やら外壁と同じように崩れた内壁ぐらいだった。
幸運というべきなのだろうか。しかし、胸の中にはいくらかの安堵感もない。
むしろ、意図的に『あれ』の姿だけがこの見える景色の中から切り取られているように見えて酷く胸が騒いだ。
『あれ』の声はまさか幻聴なのではないだろうか、それほど自分の気が小さいのか。職業病みたいな何かかと自分を馬鹿にしたくなるが、
「まさか」
しかし、再びどこからから漏れ出した『あれ』の声が張り付いた壁の向こうで響いていることに気付くと、胸の振動から出たようなか細い音が口から漏れ、拍子に足元の木の枝を踏んだ。
ポキッと乾いた音が響き反射的に足を引いた。それと入れ替わるようにこちらの足元の壁の隙間から『あれ』の枯れ木のような手が伸びて地面を抉るように手を叩きつけ引っ掻き回しはじめた。
何が起こったのか状況が呑み込めなかったが、本能か経験によるものか肢体の全てが脳を離れてその場から離れようとのけ反ろうとする。
しかし、やっとのこと理性が追いつき、動く膝を抓って静かにさせ、後ろの彼女たちに待てという合図を送った。
その手で口元を塞ぎ息を止めて四肢の全てを停止させるようにして目線のみを辺りの景色に集中させそれが終わるのを待った。
そうしばらくしないうちに『あれ』の手が痙攣したかのように指を大きく開くとそのまま萎れるように手をダラリと萎れるように閉じて、握りつぶすように折れた木の枝を掴み、ゆっくりと壁の中へと引きずっていった。
そうして、小休止。声も消えたのちに、心の中で「10,9,8~」とカウントダウンをした。素数を数えると気分が落ち着くと聞いたことがあるが、あいにく素数は知らない。
0まで数えきった。緊張で青くなった体全身に酸素を行き渡らせるように深呼吸。その穴をゆっくりとのぞき込んだ。
今回は運良く、『あれ』はどこかへと去ってくれたようだった。
ホッと彼女たちから見えないよう今度は小さく息を吐いて胸をなでおろし、元のように壁に張り付きながら再び身を屈め進んでいった。
※ ※ ※
慣れぬ商店街付近の道で何度も似たようなことを繰り返しながらも、やっとのことで目的の橋の付近まで到達した。
しかし、空はもう夕暮れで街灯にも何にも照らされることのなくなった地面は自分がどこに足をつけているのか一目では分からなくなるほど輪郭は青く淡くなっており、おそらく今日はあそこを越えられそうにない。
『あれ』の声も黄昏の中の奇妙な虚空に消えて、今は月見里と特に東台の荒れた呼吸音がしきりに聞こえてくる。
「……今日はこのあたりで休む」
東台の感嘆の声。月見里の疲れ切ったことを主張しているような目も少しだけ輝きを取り戻していた。
こちらは橋のほうを一度見た後、周囲の景色を確認した。
この辺りはブリキの板を張り付けたような工場が混じる住宅街。というより工場がかなり幅を取っているためある意味では工場地帯ではある。
しかし、昔以前に閉鎖した工場も多く、それに合わせた表現をすればジオラマみたいなものだろうか。
今はただ金属製の柵のようなものが風で開いたり閉まったりする音が、熱く吹き上がる機械音の代わりにどこからか物悲しく聞こえてくるのみだ。
「この家なら問題ないか」
そういって見上げたのが、レンガ造りのようなどの場所にもある凡遇の家。「入居者募集中」という看板が張られているので昔から空き家のままだったのだろう。
他に立ち並ぶ少し古くからあるような木造の家よりは比較的新しめなためにあまり破損しているような感じでもなく、ヒビと蔦が壁に絡んでいるぐらいで状態もそれほど他と比べて悪いものでもない。
「月見里、今度はお前の番だ」
そう後ろで東台と同じように家を見つめていた月見里にそう言うと、「分かった」とだけ言って自分の髪につけていたヘアピンを抜いてドアの方へと来た。
「東台。月見里の近くで待っててくれ」
東台の「おっけー」という軽い返事を聞いて、こちらは家の周りを回った。
家の裏手には猫の額程度に押しつぶされている庭があった。空き家であるのに植木鉢が地面に転がっており、そこも入居者募集中のようで何だか全部もぬけの殻になっているようだ。
昔の生活の破片は無く、貼り付けられているはずのガラス窓は木の戸板は置き換えられている。
「……異常なし」
既に見て分っているはずなのに言葉に出すと、状況を実感して安堵感を覚えられるのが不思議なところである。
もう一度辺りを見回してから、月見里のもとへと踵を返した。
そうすると、ガチャガチャと音を立て鍵開けに苦戦する月見里の姿とそれを興味深そうに見つめる東台の姿があった。
「へぇー……そうやって鍵を開けるんだぁ」
「……」
「そのカチャカチャしてるのが、ピッキングなの?すごいね!」
「うるさい、今集中してるの!」
彼女たちの喧騒が聞こえてくる。昨日よりかは月見里が東台にかける言葉の節に幾分棘が無くなったようだが、ヘアピンで錠前を押す音がいつにも増して大きい。
「月見里」
「あっ……ごめ」
「少し待て」
そういって扉の前まで近づくと、こちらはポケットの中にあるジッポライターを取り出しそっと鍵穴へと近づけた。
ぼおっと現れたものはいかにも現代的といえるシリンダーが穿たれており、年数が経っているはずなのに使用感が多少あるぐらいの錆一つない頑強そうな見た目をしていた。
「これはお前には難しそうだな……ちょっと離れていろ」
月見里は「分かった」と言うものの悔しそうにして後ろへと下がり、ランタンの光で錠前を照らしてまじまじとこちらの様子を見つめる彼女。負けず嫌いなところがあるようで、ただでは転びたくないのが利点でもあるが慎重な操作をするときは鬱陶しくなるのが玉にキズである。
その鍵穴へとヘアピンを入れて再びカチャカチャと先ほどよりもかなり軽々しそうな音を立てて、数分も経たないうちに扉は東台の「わぁ、すごーい」という黄色い声と錆色の音を軽く響かせ開いた。
「ピ〇ゴラスイッチみたいだね」
理解できるような理解できないような例えを出す東台。月見里も変なものを見る目で彼女を見ておりどうやら自分が思ったことはおかしくないようだ。
ドアノブを回して開いて見せるとこれまた「おお」と歓声をあげて騒がしい。
「入るぞ」
「あっ、はーい」
そう言って、中へと入っていった。月見里が取り出したランタンで明かりが灯されると、黒と緑で濁ったフローリング。ガチャリと閉まったのは扉かこの空間か。靴箱も家具も何もない生活感皆無の空虚な空間が広がる。
昨日と同じように彼女たちを玄関で待たせ、ライトを取り出して家の中へと入っていった。どこの部屋も同じように濁ったフローリングが広がり、その延長線のごとく壁にも天井にも似たような木目調が貼り付けられているだけだった。
蛇口で水を流すような聞こえるはずのない生活音の残滓が響いてきそうなほどに音はなく、むしろこちらの足音と後ろから聞こえてくる彼女たちの声がまるで異物を排除するかのように酷く響いている。
「異常はなし……」
進んでいってリビングらしき大きさの空間に行き着くと、そう呟いて辺りを見回した。
「階段か……?」
玄関方向を見たときに目の端に階段らしきものが目に入った。
ああ、確かに外で見たときには2階建ての家屋であったなと思い出し、扉前ではなく部屋の奥に階段があるのは珍しいなとおかしな感心を覚えるもあまりテンションは上がらず、溜め息が口から出てくる。
階段、特に木の階段にはいい思い出というものがない。
階段が腐っていたために踏み落とし危うく命を落としかけたり、その音で『あれ』に見つかりそうになったこともある。
それ以外でも様々なことが頭の中に詰まっているが、掘り起こせるほどこちらの気力は強くない。
「ここで立ち往生しても仕方ないか、クソ」
それでも、ここで右往左往していても仕方ないとしぶしぶと言った感じで慎重に階段の一段目に足をつけた。
しかし、木が悲鳴を上げるような音はなく揺り籠を揺らしたときのような静かな音が聞こえた。多少の堅牢さは保たれているようだった。
安堵して登っていくと、また下の洋室とは正反対の畳広がる和室が広がっていた。2階はガラスの窓が取り付けられているようだ。
そこまで大きくない窓だが、そこからは川岸が広がり、向こう岸の遠い先にあるビル群も薄っすらと青暗い影のフィルター越しに見える。右奥の方を見れば明日の目的地でもある橋の影が見えてなるほどこれは景色が良い。
窓から入る日差しのおかげか、かび臭さはなく比較的衛生的な環境が保たれていた。だが、そのせいで畳が日焼けて茶けているので部屋としては一長一短といったところである。
「ここは隠しておくか」
そういって、窓の採寸を手で測り、テントをどのように建てようかと床を計ってみたりしてみた。
「ねぇ!やくm……むぐぅ」
その時、一瞬だけ東台の声が聞こえた。何かあったのだろうか。
東台の呼ぶ声が最後プチリと途絶えたことに、嫌な予感が頭の中をよぎる。
「月見里・・・っ!」
一目散に、階段が歪みそうなほど勢いよく降りる。
一階に降りてきた後、月見里のランタンが酷く揺れているのが見えて、ますます勢いが増した。
「おい、だいじょ――」
「そんなに声上げちゃ、ダメ!」
「ごめん、ごめん」
そうして戻ってみたら、東台に覆い被さろうと必死に彼女のズボンを掴んでいる月見里の姿があった。
「……ああ、戻った」
「あっ、おかえり」
月見里はこちらの姿を見つけるとしまったと言わんばかりに慌てて彼女から手を放し顔を俯かせる。
「中は安全だ」
「そう、よかった」
「そうだ」
酷くあっけらかんとした会話である。いつも通りといえばそれで終わりなのかもしれないが。
「突き当りに行くと階段がある。そこから2階にあがって、そこでテントを設営して今日は終わりだ」
そういって、「一人づつ階段を上がってこい」と付け加えてから、後ろを向いて高ぶった精神を落ち着かせるよう顔のところを手で覆ってぬぐうように落とした。
その時、ポケットに入れていた時計のアラームが聞こえた。
「月見里。今何時だ」
「えっ・・今?18時ぐらい」
「そうか」
「え?もうそんな時間なの?あー、道理で眠いと思ったぁ。脚が棒だし」
「これから『あれ』の声が聞こえると思うがあまり気にするな」
そう言い切って「どうして聞こえてくるのか」という東台の応答を待たず、背負ったままの荷物から寝袋を取り出しつつ再び奥のほうへと小走りで向かった。
※ ※ ※
そうして、2階へと上がった。どうやら雨が降って来たらしい。東台の天気予報は当たったらしい。
外にはパラパラと雨音が聞こえてくるはずなのに聞こえてこない。代わりに聞こえてくるのは不協和音。窓なんてないんじゃないかとはっきりと脳が圧迫されるほど耳に入ってくる。
「ちょうどか、はぁ、あれを渡るんだな」
壁越しに窓を覗きこみ音がする方を覗きこんだ。それは橋の方だった。
鈍いコンクリート色の雨の中、無数の『あれ』が大挙をなして橋を通過していくのが見える。まるで納屋に戻ろうとする羊の群れのように。
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