拭えやしない掌
「――――!」
柔らかく生温かい肉の感触。耳元で囁かれる湿り気を帯びた呻き声。
手足に、顔面に、これでもかと味わわされる。
もっと首を絞める力を強め声をあげるのをやめさせようとすれば、後ろにいるこちらを嚙み砕かんばかりにカチカチと歯を鳴らす。
首をへし折ろうと身をよじらせるも、今度はそれ以上の力で藻掻いて思うようにはいかない。
涎の混じった呻き声、身じろぐたびに感じる息遣い。
不快な感触に絞める手を緩めたくなってしまうが、『あれ』の黄ばんだ臼歯が顔面に近づいてくるたびに、本能が腕の力を強める。
しかし、それ以上何か出来ることがあるわけでもなく、『あれ』が動きを止めるのを今か今かと待つのみだった。
しかし、不幸中の幸いか、それが最後の抵抗だった。
『あれ』は一度体全体をピンと伸ばしたように硬直させると断末魔を――というよりは、老人が寝床で事切れた声に近いものをあげると力が抜け全身をだらりとさせた。
見開いたままの瞳は僅かにあった光を消して、徐々に濁っていく。
その目を見る度、自分は殺したのだという実感が湧いてくる。何度も見てきて、幾ばくか慣れたものだが今も昔もいい気分にならない。
「――――何やってんだ、あぁ……」
壁にもたれ込んで顔を手で覆った。
手についた感触を忘れようと顔を拭うが、閉じた瞼の裏には先ほどの映像がこれでもかというくらい止めどなく流れている。
温かい、人肌に似たものを押しつぶした時の感触、事切れた時に見せる正気に戻ったかのような生々しい表情。
射殺、刺殺、撲殺、作業のように『あれ』を殺した。これで何匹目になるのだろうか。もはや数え切れたものではないことは理解している。
入って来た壁の逆側に扉が備え付けられていることを確認できるぐらいの理性は保てている、いやこれは習慣というものだろうか。
そんなことを考えながら感情を落ち着かせようとするも、一向にこのグアングアンとした胸をゆっくりとかき回されるような気分に慣れる気配はない。
むしろ、そんなものが禍々しいヘドロのような何かになって胸の中の深い深い底に堆積していくようなそんな気持ち悪い感覚。
もういっそのこと自重で胸を破いてくれないだろうか。
「ね、ねぇ」
頭上から幼女の声がする。それは聞き慣れた月見里の声だった。
覆った手を開けば、ちょこんといったばかりに小さく佇む月見里の姿が目の前にあった。
「なぜ、ここにいるんだ」
「えっと、だって、声がしてたから……」
「ああ、そうか――ああ、そうか、もういい……」
「ご、ごめんなさい……」
「……やめろ、その言葉を吐くな」
月見里はとても不安げな表情でこちらを見つめてくるが、どうでもいいとばかりにこちらは声を荒げた。彼女は体をビクリと震わせ、顔を俯かせる。
その様を見ていると怒りも先ほどの感情も、水をかけられたかのように消え失せる。
それでも、こちらは何か弁明をする気にもならず黙り込んだ。
彼女の方もバツの悪さに口を結び、重苦しい雰囲気に包まれる。
「ごめーん……助けて」
そんな重苦しいものの中に、東台の情けない声が足下にあった。
不思議に思いその方向に目を向ければ、涙目の東台が穴にはまっていた。
彼女の表情と状況から察するに冗談ではなく急を要するような危機的な状況であることは確かではある。
だが、壁の向こう側に彼女の尻が突き出ているのかと考えるとかなり間の抜けた感じだ。
東台の必死な形相もどことなく珍妙で、駅の片隅で転がっているような漫画雑誌の一シーンならきっと笑うことは無いだろうが、現実で見るとこうもシュールなのかと思わず笑みをこぼしてしまう。
先ほどまで俯いていた月見里も彼女の姿を見るやいなや一笑吹き出し、これはまずいと青い顔をして瞬時に口を塞いだ。
「月見里」
「あぅ、ごめんなさい」
「向こう側を見張ってろ、身は屈めておけ」
しかし、壁の向こう側に『あれ』がいるということには変わらない。
付近に別の『あれ』がいないか、月見里に家屋の方を見張らせて、こちらは向かう側に佇んでいる『あれ』に気づかれないようにゆっくりと東台に近づいた。
「つっかえて動けなくなっちゃったぁ」
「ああ――そのようだな……」
その東台の言葉でまた吹き出してしまいそうになったが、そんな彼女の姿を間近で見るとそんな感情は吹き飛び、息をのんでしまう。
立ち上がっているこちらと寝転ぶ形になっている東台、位置関係のせいで、視界から幾度となく外してきた彼女の胸が自分の目前に広がる。
彼女のそれと合わずはち切れそうになっているシャツの隙間から薄いピンクの下着がこぼれるほど無防備で―――
「ああ、何考えてんだよ俺は」
「え、どうしたの?」
「いや、何でもない――悪い」
「え?」
「なんでもない」
こちらは自分に対するなんとも言い難い嫌悪感を覚え目を伏すも、悪態を暴発させてしまう。
困惑して聞き返してくる彼女に、ますます気まずさを覚えてはぐらかした。
咳払いで誤魔化しつつ視線を穴の方へとやる。
埋めるように嵌っているのように見えるが、目を凝らせばいくつか小さな隙間が空いていて体を動かせばどうにか抜け出せそうな雰囲気だ。
「身動きは取れるのか?」
「うん……後ろにはなんとか」
「分かった。いったん後ろに戻って横向きになって入ってみてくれ」
「わかった」
彼女は踏ん張りつっかえた体を引っ込めさせ、もう一度ゆっくりと体を突っ込んだ。先ほどよりかは体が入っているが、肝心なところがなかなか抜けない。
彼女自身、自分の細い腕で壁を押してどうにか体を押し上げようと踏ん張るが暖簾に腕押しといったようだった。
「一人じゃ無理そう」
未だ不安そうな表情をして涙ぐむ。だが、彼女が思うほど状況的にはそれほど深刻ではない。
幸いなことに、彼女の豊満な胸が通るぐらいの余裕は出来ており他の人間が引っ張り上げればどうにか抜けられそうではあった。
「向こうに『あれ』はいるか?」
「うん……まだ、あそこでフラフラしてた」
「このまま嵌ったままになったらどうしよう」
だが、状況が状況である。
もしここで下手に動いて『あれ』に気づかれれば一巻の終わり。むしろ、未だ気づかれていないのが幸運と言ってもいい。
ならば、その幸運が尽きる前に迅速でなおかつ慎重な対応が必要である。
「少し待て」
リュックサックからロープを取り出した。
「え、ロープ?」
「ああ、そうだ。これで引っ張るから掴んでいてくれ」
東台はこちらが差し出したロープを見ると静かに頷いてそれを掴んだ。
こちらは少しだけロープを引っ張ってみて手ごたえを一度確かめ、慎重に引っ張った。
東台自身はそれほど重くはないため、最大の
彼女の背中、下腹部が穴からいよいよ出てくると、彼女の強張った表情はいつもの朗らかな笑みに変わった。
「ありがとう、これなら――痛っ!」
そんな彼女の表情を見た時、ふいにロープを強く引っ張られた。
緊張の糸が切れかけていたこちらは予想外の力に成すすべなく、引っ張られた方向へと体勢を崩し咄嗟に壁――ではなく柔らかな地面に手をついた。
「あっ!」
その時、月見里が驚嘆の声をあげる。
すぐにしまったと彼女は顔を青くして慌てて自分の口を塞いだ。
街中で決して大声をあげることのない彼女のその反応に一瞬自制を取り戻し、何か対応を取らなければと思うものの、それ以上に自分の手の先のものに意識がかき消されてしまう。
地面にしてはやけに柔らかい。触ったことのない柔らかい弾力のある感触。
手の感触の方を見ると鳩が豆鉄砲を食らったような東台の顔があって、肝心の掌はこれでもかというぐらいに彼女の胸を掴んでいた。
あまりにも予想外のことに真っ白な思考しか走らない。
何かしなくてはならないはずなのに、脊髄反射のごとく手を放した後は、ぼうっと掌を眺めてしまう。
当然、そんなことをする猶予はなく――
「――――――――!」
『あれ』の声。憤怒の声が、劇場の幕が上がり歓喜するような声が、叫び声となって響いた。
それが壁向こうの一か所ではなく、遠近様々な方向から出ているものだと確信するのにそうは時間がかからなかった。
「クソ」
一瞬の出来事で、まるで目の前の壁が一気に崩落して身を晒されている事態の変わりように、頭が追い付かない。
「どうしよう、体が動かない……」
その声をあげたのは東台だ。彼女は未だに穴から抜けきっておらず、怯えた表情でロープを持ったまま硬直していた。
「月見里。花火だ」
「う、うん」
「引っ張るぞ」
「ああ、うん……」
急いでロープを掴み一気に引っ張った。
その勢いに任せてそこらへんに転がっていた木片で穴を塞ぎ月見里にロープを返す。
彼女はすぐさまロープをぐるぐる巻きにするとリュックサックにねじ込み、爆竹と棒状の手投げ弾を取り出した。
それを彼女から貰い、間髪を入れず手投げ弾のピンを抜いて地面に落とし、爆竹に火を点けて壁の向こう側へと投げた。
月見里はそれに合わせるかのように大きな石を台にして傾けさせた設置式の打ち上げ花火に火をつけ空中へと飛ばしていく。
運動会の時の鉄砲の音のような乾いた爆発音が、空中から、地面から、あちこちに響いて同時に煙幕があたりに広がった。
『あれ』の歓声は先ほどよりも広範囲に酷く大きなものになるが、その分声の向けられた方向は雑多なものになった。
「え?なにしてるの?」
「こっちのロープを持ってくれ」
「え?何するの?」
「持ってくれ」
リュックサックから長いロープを取り出し東台に掴ませ、月見里が掴む。
「わぁっ!」
「しっかり掴んでろ」
「うん」
東台と月見里が縄を掴んでいるのを確認して、走る。
白煙の中から見えてきたのは壁に取り付けられていたドア。
運の良いことに金具は錆びついており、勢いをつけて蹴りあげれば金属の跳ねる音と共にドアはあっさりと倒れ伏した。
それと同じ時に背後から木の板が地面に落ちる音が聞こえる。時間稼ぎには十分だっただろう。
外も煙に包まれ何も見えなかったが、『あれ』の声が先ほどよりも徐々に増して大きくなって一つにまとまって近づいてきているようだった。
「ロケットの方を貸せ」
「分かった」
月見里は1本のロケット花火をこちらに渡した。
導火線に火をつけて、「1、2、3」と唱えるとそれから手を離して、走る方向と逆方向のところへ飛ばした。
空気を切り裂くように螺旋を描いて甲高い音を響き渡らせた花火は小さな爆発音をあげる。
『あれ』の声はその音にかき消されたかのごとく遠く小さくなって再び散漫になった。
だが、それも焼け石に水と言わんばかりに、未だ広がる煙の中で『あれ』の声は先ほどよりも早く落ち着きを取り戻し再び収斂する。
その煙ももはや心もとない。予備の手投げ弾のピンを口で外し地面へと落とす。
こちらは今あるガス弾のピンを抜いていって、全方向に投げた。もう残るは一本のみ。
目の前から『あれ』が出てきたらどうなるだろうか。いつも悪い方に考えてしまうが、こればかりはあり得ることなので予測がつかない。
しかし、どこまでいっても頭のない人間が考えた想像。
どうしようもなく次々と湧き出る焦燥感も恐怖心も黙らせるために胸を叩いた。今は目の前のことだけを考えろと。
まだ一度もはっきりとした姿は見られていない。それは紛れもなくスリーセブンの幸運である。
どこかに身を潜めてやり過ごせば何が何だか分からなくなってどこかへと散り散りとなるだろう。
足場と、目の前に次々と見え来る車や散乱しているブロック塀という障害物を避けさせるように彼女たちを誘導しながら頭の中の地図を思い起こしていた。
このまま突き進めば橋へと続く道へとたどり着く――が、そこまで煙が持つかはたとえ手投げ弾が完全な状態であっても難しい。
『あれ』から姿が見えないということはこちらも『あれ』がどこにいるか分からないということで、前から『あれ』が来ても何の対処もできない。
ならば、昨日のように車の下に隠れる――というのも快晴かつ明るい今の時間なら論外である。
「ペースを上げるぞ」
「え?」
「この先に空き家がある」
「え?空き家。今はどこにでもあるのに?」
「……今は走ることだけ集中してくれ」
東台はこちらが何をやろうとしているのか分からず戸惑いの声を上げていた。月見里は何一つ顔色を変えず黙り込んでこちらの方をじっと見ていた。
至極当然の反応。このまま突き進むと昔からシャッターが閉まった家が多い地域に行くことが出来る。
そのどこかに身をひそめようというニュアンスを含めた言葉だったが、自分でさえもどこまで行くのか、どこに隠れるのかという所までは考えはつかない。
しかし、考えを張り巡らせる時間はどうやら与えてくれない。
自分の鼻先の少し先ぐらいしか見えないぐらい濃かった煙が徐々に――否。拳の中の手投げ弾が発する煙はとうに消えて急速に薄まっていた。
最後の手投げ弾のピンに手を掛けた時、躊躇してしまったが、ここで使わずに死んでしまうえば元も子もないだろう。
意を決して投げたそれがカランカランと地面に転がる音がいつもより際立って自分の耳に流れてくる。
煙が再び濃霧のように濃くなり始めたが、耳に入ってくる『あれ』の声は徐々に徐々にこちらを大きくなっていった。
先ほどよりも鋭い声色で、まるで見つけるのは時間の問題だと言わんばかりの鳴き声。
今落とした手投げ弾がいつまでもつか分からない――歩くスピードも競歩のように早くなっていたが、その分だけ不安は高まるばかりだった。
時折、後ろの彼女たちを確認しながら、ひたすら前方にあるだろう建物を睨み付ける。
彼女たちも特に月見里はそれに文句ひとつ言うことなくただただついてきていた。
ただ、2人の息は少し乱れてきているようで、東台は顔を少し歪ませていた。
「あと、もう少しだ」
手投げ弾から出る煙が途切れた時、幸運なことにも徐々に薄まってきた白い濁りの中から微かに前方の方から建物の影が現れ始めた。
その影が濃くなってくるほど、安堵感が胸にしみてくる。
しかし、
「ごめん、ちょっと――ごめん、もう走れない」
後ろからロープを強く引っ張られ振り返ると、東台は膝をついて胸をおさえひどく息を切らしていた。
「ごめん、昨日は歩いたばっかりだったから、大丈夫だと思っちゃって」
いつの間にか走っているというほど早いペースで――否。月見里がついて来れる程度のペースで、無論月見里は今でも涼しい顔をしていた。
「その、激しく動いちゃうと、揺れちゃって……」
「そう、か」
胸が揺れる。その言葉を聞くと先ほどの事を思い出して気まずくなってしまう。今の自分にとってはあまり耳に入れたくない言葉だ。
その言葉を無視して進み続けたいが、当の彼女は先ほどよりも顔を歪めて、歩くのがやっとと言った感じに苦しそうに見える。
ここで立ち止まるという余裕があればいいのだが、『あれ』の声は止む気配はない。むしろ再び近づいてきているようだった。
途中の適当な建物に入ることも考えられるが、無暗やたらに住宅地入れば『あれ』に取り囲まれてしまうだろう。
手投げ弾はもう尽きた。選択肢は狭まるばかりである。
「月見里、工具を出せ。かぎ状のやつだ」
「ぇ?」
「いいから出せ……ついでにランタンも出しておけ」
こちらの言葉を聞いた月見里は眉を寄せて、リュックサックから小さなバールとランタンを取り出してバールの方をこちらに手渡した。
「悪いが、少し戻る」
「え、八雲、どういう――」
先ほどからこちらと月見里の会話に困惑の表情を浮かべている一度東台を横目に彼女たちの後ろに周り、『あれ』の声が聞こえる方向へと戻り始めた。
『あれ』の声は進むたび鮮明なものになっていく。煙に紛れ込んで耳に入ってくる生々しい息遣いが肌をピリつかせて進む足が重くなる。
そして、その足元にマンホール
「……マンホール?」
東台が困惑めいた声をあげる。こちらはバールの先端でマンホールの穴に詰まっている苔をこそいで引っ掛けた。
蓋は腐食しているがなまじ金属であるだけに多少の力を加えた程度では持ち上がりそうにない。重しとしての役割は果たし続けているようだ。
それでも蓋はジリジリとだがゆっくりとあがる。しかし、それ以上に早く『あれ』の声は近づいてくる。
急げ急げというけれど、力任せにしたらマンホールが壊れるかもしれない。まるで爆弾処理のようだだと我ながら他人事のように思ってしまう。
「――よしっ、開いた!」
だが、ある程度開くと、蓋は一気に軽くなった。冷えた土のような臭いが噴き出てくる。
荷物から懐中電灯を取り出しライトを点けて覗きこんだ。
真っ暗闇の下水道の中。
赤茶けたシミとコンクリートの底面がのっぺりと光る。不幸中の幸いか、梯子は茶色くなって爛れているようには見えるもののまだ使えそうだった。
「――中へ入る。月見里は最後に入れ」
「その中に入るの?やっぱり……」
「非常事態だ。仕方ない」
「花火、もう一回使う?」
「これ以上は―――興奮させるだけだ。中に入ったらバールで蓋を閉めろ。今はそれだけでいい」
そう言うと月見里は一瞬不安げに眉をしかめるが言葉を噛み締めるかのように口をもごもごと動かすと静かに頷いた。
傍から見ても煙の勢いは確実に弱まり、薄れた煙の隙間を喰い広げるようにして太陽の光が差し込まれ、その中から動く影らしきものがちらほらと見えてきた。
嫌そうなのを隠さず露骨な表情を浮かべる東台だが息を思いっきり吸い込み頬を膨らませると意を決して中へと入ってきた。
それに続いて月見里が入り、彼女が急いでマンホールの蓋を閉めた。
外からの光が遮断されて、壁一面に墨をぶちまけられたのかというほどあたりは真っ暗闇に変わる。
しかし、すぐに目が慣れて、マンホールの穴から差し込まれる光を頼りに地面の様子を確認して梯子から飛び降りた。
上を見上げると月見里の腰にぶら下がっているランタンの光が見えた。
東台がその光を頼りに梯子のステップを掴んで、足元を確かめるようにしてステップを何度も踏んでいつにもなく慎重に梯子を降りてくる。
「下から照らすぞ」
「ん……」
そう言うと、月見里が消えるような声で応じる。リュックサックから懐中電灯を取り出し彼女たちの足元を照らした。
東台は「ありがとう」と多少緊張が和らいだようだが、月見里は黙り込み底へと降りていく度にその歩みは遅くなっていた。
「月見里。足元はよく見ろ」
「ゆいちゃ――」
「今はいい。早く降りてこい」
「う、うん」
梯子が短いためそんな紆余曲折を経ながらもそう時間がかからないうちに、東台も月見里も底へと着いた。
地上からそれほど離れていないためか、苔がマンホールの丸い光を頼りに生えている。
だが、下水道という閉鎖的空間にいると、その程度では閉塞感は拭えない。
東台は先ほどいたところを見上げ、月見里は地面に足を降ろした今でもランタンを胸に抱きこんでぼんやりと光る地面を見つめていたり反応はよろしくない。
「ゆいちゃん、本当に大丈――」
「ここに留まるのは危険だ。さっさと行くぞ」
「えっ、でも……うわっ」
マンホールを踏みつける音が聞こえた。つばの粘度も分かるほど『あれ』のうめき声が近い。
「声をあげるな。月見里、ランタンを向けろ」
東台の戸惑う声を無視して月見里が抱きこんでいるランタンの取っ手を掴みとり、辺りを照らさせる。
目の前に突然現れたかのように無機質でのっぺりとしたコンクリート壁の中に人が通れる程度の大きな正四角形の穴が、無味無色の暗闇の中でぽっかりと穿たれていた。
「あ、ああ、うん、持ってきたよ」
「行くぞ」
「う、うん」
穴に入った後も暗闇が続き、むしろ奥に入っていくほど、照らす光が鈍くなっていると錯覚するほど濃くなっていた。
危機的状況を掻い潜った後の高揚感は鳴りを潜め、安堵感も冷めると、月見里を含め3人輪になって梯子を囲んでいた。
月見里も珍しく対面にいるはずなのに、ずっと沈黙の時間が流れている。
そんな中、ごうごうと風のうねる音が流れる。
それを聞いていると何故だか薬が切れたかのように理性が戻る。大声をあげた月見里に対しての怒りは無い。
先ほどの東台の感触が未だに掌に残っていることに気づき、今はバツの悪さが頭の中を支配していた。
謝罪の言葉を掛けたいがどう声をかけて何を言えばいいか分からない。
そんな自分に東台は視線を向けるが平然とした顔をして、不平不満の言葉をあげることはない。
否、誰一人声もあげることはない。
まるで取り巻く闇が質量をもって、込みあがる言葉を下の下へと押し込んでいっているようだった。
心なしか東台の姿がおぼろげにな見える。
ランタンの光にいるはずの月見里の姿でさえも、いつもより小さく見えまるで暗い森で潜む一匹のウサギのように小さくか細い。
「あっ――」
沈黙は重くなり耐えられなくなった月見里が口を開き――
「あのさ――さっき、穴にはまっちゃったり、走れなくなっちゃったり、いろいろ迷惑かけちゃってごめんね」
耐え切れなくなった東台がそう話を切り出した。
気まずそうにする彼女。本来気まずそうにするべきは自分だというのに。
「……いや、あれは俺の責任だ――俺の責任だ。そのいろいろと悪かった」
自分の言葉の中に先ほどの謝罪が入っていることを東台は気づいてくれるだろうか。
いや、もし自分が彼女なら気づくことは無いだろう。そう思っていても、はっきりと謝る事が出来ない。
東台の予想にもしなかった謝罪の言葉に困惑して罪悪感がこれでもかと胸に突き刺さる。
それでも、未だ彼女の豊かなそれに視線を向けてしまっている自分もいて自己嫌悪が突き刺さる。
深々と頭を下げているため彼女の顔は見れずにいない。それに安堵感を覚えていることが嫌になる。
東台と目を合わせる代わりに月見里の方を見た。
彼女は笑みも怒りも表情にたたえていないが、その顔はどこか物悲しげなようで不満げなようで複雑なものだ。
東台は予想外だったのだろうのこちらの言葉に、「ううん、別に気にしないで」と慌てたように口調を早めてそう呟くと、
「あーあ、昔はかけっことか、かくれんぼとか得意だったのになぁ」
こちらの言葉に待つことなく、そう誰にも言うでもなく、頭を抱え独り言を冗談っぽくつぶやいた。
素直に笑っておくべきかもしれないが、彼女のライトが天井に向けられている。
「――ああ、その。悪いが、ライトは下げてくれ。真上の『あれ』に気付かれるかもしれない」
「あっ、あははぁ、ごめんね」
東台は苦笑いを浮かべて、頭を抱えるのをやめ天井に差していたライトを足元へと下げた。
「そういえば……ここって、思ったより臭くないね」
東台の言う通り、足元にも天井にもモノはなく、あるのは地上のものよりも浅黒い緑の苔が紙にマジックを押し当てた時の黒点のように壁に染み込んで、冷えた土と埃の臭いが立ち込めていた。
水は一滴も流れておらず、水垢がこびりついたコンクリートの床が一面に広がっている。先ほど苔だと思ったのはカビだったのだろうか。
「人が消えるのも悪いことだけではない証拠だな」
「え?」
「このあたりの下水道は川に繋がっているから、何も流れてこないのは好都合だ」
「へえー、それならこのまま突き進んだ方が安全ぽいの、かな」
「――そういうわけにもいかない、どこかの出口で上がる」
「どうして?」
東台にそう尋ねられる。
ふいに月見里の方を向いた。すると彼女と目があう、きっとこちらの言葉を聞いていたのだろう。
先ほどよりも身を小さくしているものの、固くなっていた表情は少しだけ緩くなっていた。
「それは……今はいろいろにしておいてくれ」
「いろいろって――あっ、ちょっと明るくなってきてない?」
東台が嬉々として指差した。
実際に目も慣れてきたというのもあるが周りのものの形がくっきりと見えて、若干の光が混って灰色に変わっていた。
「――っ。もっとライトを落とせ」
「どういうこと?」
「いいから、落とせ。ゆっくりと歩いてくれ」
「月見里、ランタンの光を少し弱めろ」
「……うん」
しかし、こちらは喜びようがなかった。
眩しいと思えるほどの明かりはマンホールで密閉されている空間であるはずのないものだ。
しかし、引き返す道もないので、ただただゆっくりと歩を進める。
ランタンとライトの光は最小限に落とされていたが、進むほど段々と明るくなっていった。
同時に、風の通る音に似た奇妙な音が流れてくる。
光量に比例するかのようにその音は徐々に濃密に濃厚になり、そして、獣のように轟き――
「やはりか」
陽が差す空間。
陽の下に砂糖菓子のように粉々になって下水道に落ちたマンホール。
マンホールがあったところには、首がへし折れた『あれ』がぶら下がる。そんなものに目もくれることなく、無数の『あれ』が次々と通過していく。
その方面はまさしくこちらが行こうとしたところで、激しく蠢きながら進む様は生きた嵐のようだった。
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