初めから前途多難


 仕方なしにバイクを降り、仕方なしに最初に見つけた非常階段を抜けると、そこには歩くのに快適とは言えない気温と太陽熱が取り巻く住宅街。

  

 「なんだか山道を登ってるみたいだね」


  涼しい顔で東台はそう冗談ぽく口にするが、足元を見れば不慣れな地面におぼついているので不満をこぼしているように見えてしまう。


 矢小間遊園地も良い道とは決して言えないが、どちらがマシか言われれば矢小間遊園地と即答できるくらいここの道は酷い。


 地面からは当然のように月見里の腰ぐらいある植物が当然のごとく生え、苗床にされているアスファルトやコンクリートはもう見る影もなく粉々。

 建物の壁にも、カビが生えたかのように草が映える。その殆どが小さなものだというのに殆どが木造建築だった家屋の数々は重みに耐えきれず崩壊しているのも少なくない。


 そのせいで過密だった住宅街は今や見晴らしのいいビュースポットになっているのが清々しく、伸び伸びとしていて、物悲しい。


 ただ、車の行き交いが少なかったこともあって道を占拠する車両があまりないところは美点と呼ぶべきところだが、ひび割れや陥没穴が当然としてあるのでプラマイゼロのマイナス寄りである。


 昔はまだマシだったが、今この道をバイクで通るのは難しいだろう。


 だからこそ、今まで高速道路を使って郊外を迂回し都心部の外れに移動して、高層の建物に降りて物資を確保していたりしていたのだが高速道路が音を立てて崩れてしまった後にそれを言うのは虚しい。


 まして、太陽の色が徐々に赤みを増す中、長い長い郊外の道をダラダラと汗をかきながら歩く羽目になってしまえば猶更その感情は増すと言うものだ。


「クソ、どれだけ遠回りすれば済むんだ」


 代わりに図れるのはそれと変わらない文句だ。


 頼みの綱がぶち切られて、これからの調達どうすればいいのかという未来のこと。これからどうすればいいのかという現在。

 2つの時間軸に挟まれて、頭の中で駆け巡り行き場のないイライラが募っていた。


 頭の中でろ過するように一巡させた結果浄化されない言葉が吐きだされて息がつけるかと思えば、倦怠感が体に取り込まれる。

 

 しかし、月見里だけは、ぜーぜーと汗を口から吐いているような東台の隣で悠々と歩き回って見せ、ドヤ顔をした表情をこちらに見せつけてくるほど元気なようである。


 そんな月見里は東台が「うわぁ、ゆいちゃん。すごいねぇ」とにっこりとした笑みで褒められると、彼女は「ゆいちゃんじゃないです」と不機嫌そうに眉を曲げ、逃げるようにこちらの側に近寄って来た。


 「あまり近くに寄るな」


 「ねぇ、あれ本当にどっかに行かないの?」


 「……何度、言おうが何も変わらん」


 あまり表情に出すタイプでもないのに露骨に顔を歪ませる月見里にそう論するものの自分でもあまりしっくりこない。


 まるで自分に言い聞かせて納得させているような錯覚にさえ陥る。


 その後に続くはずの月見里の「ぶっー」という言葉はなく、石か何かを蹴る音が聞こえてくるのを見るに彼女も当然納得いっていないようだ。


 「ごめん、ちょっと待って! 」


 「悪い――声は抑えてくれ」

 

 月見里とそんな会話していたらいつの間にか東台から離れてしまったようで立ち止まって振り返ればああこれが俗にいう遠近法かというぐらい彼女が小さくなっていた。


 必死そうに声を張り上げる彼女に多少の申し訳なさを感じるもその不用心さに少しばかり不快感を覚えてしまう自分が嫌だ。


 東台は「ごめん、ごめん」とはにかみ膝に手を付いてしゃがみ込み息を切らし、汗まみれになった胸元をハンカチで拭っていた。


 その格好にギョッと宙を見て、その場をぐるりと小さく歩き回って自分の心を落ち着かせる。そんな奇怪な行動をしたこちらを見る月見里の目はきっと痛々しいものだろう。


 「クソ……」


 と宙を見たままつぶやいた。が、それで胸の中にある焦燥感は消えてなくならない。


 「こんな調子で今日中に着くの? 」


 しかし、月見里はそんな行動を取るこちらを見ることなく、東台の有様でかなり冷えた目つきと棘のある声でそうこちらに尋ねてくる。


 だが、こちらはそれに答えられそうにもなく、宙を見上げて時計に目を落とした


 彼女の言う通り心配なところだ。時計の針は未だに15時ごろを差しているが、高速道路の崩壊の都市部へと続く主要道路までも瓦礫と『あれ』で塞き止められ大幅な迂回を余儀なくされている。


 もう一旦矢小間遊園地まで帰ることも過ったが、戻っても何か準備できるわけでもないし、あの老人に何と言われるか分からないので逃げの選択も二の足を踏んでしまう。

 

 だが、立ち止まることも出来ないのでこうして歩いているわけだが、それも良くない考えだと東台の青色吐息を見て思い知らされる。

 いつの間にか、気丈に振る舞っていた月見里の足元もだんだんとおぼつかなくなり、こちらの足も倦怠感で重くなりつつあった。


 「そろそろ家を探すか」


 「分かった」


 こちらもこれ以上歩くのは精神的にもう嫌だ、多少早めに休んでも今日は問題ないことにしよう。


 心なしか応じる月見里の声は一オクターブ高い。


 「家って?」


 いつの間にか息を整えた東台は不思議そうな表情をして月見里と同じように辺りの家屋を見渡していた。

 余裕を取り戻したのかと思ったが、彼女の肩はまだ呼吸するように上下しているので本調子からは遠いようである。


 「車の無い家を探しているんだ」


 「ふーん……どして?」


 東台はひそめた眉をますます強めて月見里の方へ向きやり、その顔つきはますます神妙なものとなった。

 

 普段の東台の話しぶりからして、『あれ』の性質について何も知らないのだろう。きっと、『あれ』自体のことも。おそらく、襲われることなく避難所に行きつけたラッキーガールなのだ。


 後々、教えておいた方がいいのだろうか、しかし、人に教えるのは上手な方ではないむしろ誤解される方だ。

 月見里なら多少勝手が分かるのだが、なかなかどうして自分の言葉を思うように相手に渡せないのか。


 「それって、石の裏にダンゴムシが隠れてるみたく、車の下に隠れてるの?」


 沈黙は金だと言うが、好奇心の強い東台の前では誤解しか生まれない。


 「……車があるところの家屋に『あれ』が潜んでいる可能性が高い」


 家屋を指差した。ただ『あれ』の行動パターンの話ではなく、車があるということは『あれ』からという可能性の話である。


 「へぇ、そうなの?でも――」


 「ああ、それは分かっている」


 彼女が言葉を言いきる前にそう言葉を返した。


 今は『あれ』がいない。


 ヒグラシが鳴く声が反って薄気味悪くなるほどの静寂がそう理解させてくる。

 だからこそ、東台から遠足気分みたいな朗らかな雰囲気が垣間見えるかもしれないが。


 「時間差だ。じきにここも『あれ』に埋め尽くされる」


 「え?じゃあ、ここにいたら不味いんじゃないの?」


 「まだ時間はある」


 それでも東台の返事は軽く、自分が持つ重い緊迫が空っぽな感じがして何か居心地が悪い。


 羞恥心を逸らすように時計を確認しながら空を見上げた。季節の変わり目のせいか、この時間帯では不自然なぐらい太陽がいつもより早く落ちていた。


 「もう夕方だね――それって何時間後ぐらいなの?」

 

 東台も気になったのか、そう言ってこちらの腕にある時計を確認した。


 「だいたい2時間――」


 短い針が3を指している。15時。


 先ほども15時を指してなかっただろうか。

 あれほど歩いてきたのに時間が経ってないというのはありえない。


 「今、何時だ」


 「え?今は――」



 「――――――――」


 東台の方へ向きやった直後、どこかからくぐもった電子音が聞こえてきた。


 その音はどこか聞き覚えのあるもので、朝自分のベッドで聞こえるその音が耳に入るたび手が酷く汗ばむ――


 「目覚まし時計の――音?八雲のところから聞こえてきてない?」 


 否、どこかではなく自分の荷物の中で響いていた。

 もしやと荷物から時計を引き上げ、見ればもう『あれ』がやってくる2時間後を指していた。


 「ああ、やっぱり17時すぎくらいかぁ。ん?どうしたの八雲?」


 「ああ、クッソ!走れ!」


 不思議そうな顔をして時計を覗きこむ東台が目に映るが無視して走り出す。


 自分の頭の中には月見里のという3文字のみでその中に東台の2文字を加えることは出来なかった。

 大声で吐いた悪態を置き去りにして、一目散に少し遠くにいる月見里の方へと駆け寄った。


 「あっ、家をみ――」


 困惑した顔でこちらを追いかけてくる東台も横目にして、ポケットからハンカチを取り出しそれで月見里の口を抑えて持ち上げ、彼女の荷物を壁のように挟みこみ引きずりこむようにして東台のいるところまで戻る。


 当の月見里はもごもごと何かを言っていたが、こちらの腕元で鳴るアラームを確認するとすぐさまに状況を察してちょうど抱きかかえられた兎のように黙り込む。  

 

 音源である時計を止め辺りを見回し、『あれ』の姿が見えないかを確認した。


 まだ姿は見えない。

 

 「八雲、一体どういう――」 


 「あの声は……」


 「今はどうだっていい。あそこまで走れ」


 だが、鳴き声は先ほどよりも近いところからも聞こえ始め、反響しているように響く。


 東台の顔を困惑の表情を強めたが詳しく説明する時間はないと、近くにある赤茶けたバンを指差し一気に走り抜けた。


 しかし、

 

 「苦しいときの神頼みだ」


 そう言って、車のドアノブを引いた。


 が、ビクともしなかった。


 「クソ」


 思わず車のドアを叩きそうになったが、ここで音を出してしまえばまずいと寸前のところで拳を止めて堪えた。


 たいていの車は原型を留めているだけでまだマシという程度で、ドアが開かないことに普段は驚きもしなかったが、進退窮まる今はそれさえも焦燥感を煽るものでしかない。


 「どうするの?」


 「奥の手だ」


 そう東台に伝えると、月見里を降ろしてバンの下を覗きこんだ。


 車高自体それほど高くはないが、地面は目を凝らせば分かるほどの沈下をしており、周りに生えている雑草が丁度それを遮れるようになっていた。


 薄暗いところならばカモフラージュになってくれるだろう。


 それでも隠れるにはうってつけとは言えないが、3人と荷物が入るぐらいのスペースはあるため多少身を隠すには十分である。


 「ここに隠れるぞ。月見里、荷物」


 「分かった。荷物――ください」


 「え?うん、ありがとう」


 東台から月見里とバケツリレーのように荷物を貰い車の中へと滑りこませるように次々に投げ込んだ。


 「時間がない、急いで入れ」


 日中日陰であるそこはオイルかガソリン化学薬品の不快な匂いが立ち込め、思わず顔をしかめた。

 おまけに霜を吸い込んで濡れている藻があって、入った時に服にベットリとついて触覚の具合もあまり良ろしくない。


 こちらに続くように入ってきた月見里も運悪く触れてしまったらしく、「うへぇ」と萎えた声をあげていた。

 東台は最初少し躊躇していたように見えたが、月見里が入った後は涼しい顔で車の下へ潜り込んだ。


 彼女が潜り終わったのを確認すると、入り込んだところと草が少ないところを重点的に埋められるように荷物を配置させた。


「音は立てるな」


 東台は頷いて声を押し殺すように口を塞いだ。


 一方、月見里は彼女に背を向けて萎えた声をあげた時よりも一層不機嫌そうにしてどこか一点を睨み付けている。


 それぞれ違うことをしながらも、徐々に近づき大きくなる『あれ』の音へと注意が向いていく。


 ――直後、『あれ』の大群がのっそりと、しかし道の草木を踏み潰しながら無数の足が塊のようになって動いているのが見えた。

 『あれ』の歩き方は個々違うものの、その様はどれも精気がまるで感じられない無機質な棒人間の行進のようにも見える。


 のっそりとした歩みだが、何か一つでも音を立てると獣のように動きだし襲ってくる――。


 そんな光景を幾度となく見てきたこちらは『あれ』の足が敷き詰めた荷物の間から見える度に恐怖心が身体中に染み込んで強張っていくように思えた。


 月見里はそんな光景から目を逸らすようにして地面を見つめ、ダンゴムシのように丸まりガムを頬張っていた。


 東台の方はどうだろうかとちらりと見やると、『あれ』が過ぎ去っていくのをぼんやりと眺めて居た。

 顔色一つも変えず、何のことも無いように眺める。まるで人の雑踏を見つめているようなそんな様子にも見えた。


 息を殺しつつ、そんな奇妙な光景を眺めていると、月見里の手がこちらの目の前へと伸びた。それは音を立ててはいけないときに何かを伝えるときの合図であった。


 月見里の方へ目を向けると、彼女の指先は勢いママ車の外へと向けられる。


 夜目はある程度良い方である。その方を見ると、ここから数歩先のところにどこにでもあるような量産型の洋風の家があった。


 しかし、他の家とは違い車庫にあるはずの車はなく、また車庫の滑車付きのフェンスが半開きなまま放置されていた。

 おそらく持ち主はパンデミック直後にどこかへと避難したのだろう。月見里は無事発見したようである。


 こくりと頷いた。「了承」の意味である。

 

 月見里は自分の荷物を一度掴んで確認し、いつでも行けるとこちらの言動をうかがっていた。


 しかし、こちらは静かに溜め息をついて再び外の様子を伺った。

 いつ移動すべきだろうか。未だ『あれ』の足は途絶える気配はない。


 この大移動は数時間ほど続く。途切れることもあるがそれがどれほどの間隔なのかは予測がつかず、いなくなったと思えばすぐに新たな『あれ』の大群がやってくる。


 このまま待つのもありかもしれない。しかし、暗くなるほど身動きが取れなくなる。

 いくら日が長い季節であっても電灯はないため、徐々に赤色になっていた光はいつの間にか青黒くなるほどに暗くなるスピードは早い。


 ただ、そんな自然の闇に還りつつあるためか、視界が失われると野生の勘を取り戻したかのように聴覚がいつにも増して鋭敏なものとなっていく。


 草を踏む音しか聞こえてこなかったのに、今や砂利が擦れる音や、どこかにある車か何かにぶつかった音が聞こえてくる。

 その音に集中していると、どうやら足音の音量自体は徐々に遠く小さく控えめになっていっていることが分かった。


 おそらく、途切れる予兆――だと思いたい。

 

 「合図を待て」


 呼吸するような小さな声でしかし伝えるように声色を強めて言った。とにかく、今動くのはまだ得策でないことは事実であった。


 「…………」


 月見里は少し眉をしかめて頷いた。


 しかし、東台は相変わらず無表情でただただ外の様子を眺めているようだった。


 何か声をかけるべきかと思ったが、その時になれば合図をすればいいだろうとこちらも外の様子を伺った。



 ※ ※ ※



 その後も『あれ』の大群は止むことなく、もちろん途切れることもなくただ一定の方向に進みゆく、あたりが真っ暗になったが日の残り火が物体の輪郭だけを照らしてなかでさえも、足元の障害物に気づかず足を崩して転倒しても吊り上げられた人形のように立ち上がり平然と歩きだしていた。


 それが通り過ぎ、近くに『あれ』らしき姿がないことを見計らい。準備を整える。


 こちらは月見里の顔の真上に手を伸ばし合図した。

 

 しかし、彼女はいつものように顔をこちらに向けることはない。返事もないのかと思えば、彼女の呻くような声がかすかに聞きとれた。

 

 「月見里」


 と月見里の顔の真上で手を振った。月見里はぴくりと体を動かし、眠い目を擦りながらも自分の荷物を掴み、準備が出来たとこちらに合図を送っていた。


 「東台」


 東台にも声をかけるが、彼女は呼吸音もなく、うんともすんとも言わなかった。


 同様に東台にも顔の上で手を振ってみるが、眠りが深いようでどれだけ手を強めようが何の反応も返ってこなかった。


「仕方ないか」


 彼女も相当疲れたのだろう。てこを入れても起きるような気配はなかった。

 

 仕方ないかとため息をつき、「しばらく待て」と月見里に伝えようと――


 「うふぇ――」


 刹那、間の抜けた声と、戦慄が走った。 


 月見里が東台の脚を強く蹴り上げ、東台がその痛みで悲鳴を上げたようだった。

 

 東台は事態に気づいてすぐさま両手で口を抑えるが――時すでに遅し。


 「――――――!」


 一匹の『あれ』が、奇声をあげる。


 その声色を察するに彼女の声に気づいたようだった。


 それの出す足音も明瞭にかつ粗々しいものとなり、一歩一歩車の方へと近づいている。


 月見里が睨むこちらの目から顔を逸らし俯く中、東台は涙が残る目でこちらに打開策をと期待をかけるかのような眼差しを向けていた。



※ ※ ※ ※ ※



 聞き慣れない音なのに、どこか懐かしい音、耳にした『あれ』はそう思ったのだろうか。


 理性は街と共に崩れ落ちてしまった『あれ』に理路整然とした言動は取れるはずなく、ただただ鼻息を荒くして、口から出るものは言葉ではなく飢えた獣のそれと同じようなドロドロした涎のみ。


 注視しなければ分からないほどのかすかに漂う温かい肉の臭い。


 それが匂ってくる金属の塊にぶつかり、ガラスにひびが入るほどに何度も頭を打ち付け、車内の様子を嘗め回すように見つめた。


 しかし、何もない。


 じゃあ、臭いはどこだ。


 『あれ』は残った全ての神経を嗅覚に集中させる。


 もっと下の方だ。

 

 車の下を見つめ、ゆっくりと屈んでいく。


 だんだんと臭いが濃くなってくるのが鼻腔から伝わってきて、近づいていくほど興奮が抑えられず過呼吸と見紛うほど息は荒くなっていた。


 ――その時、車の下が見えるか見えないかの時に、金属が砂利で滑る音が車の近くで聞こえた。 


  立ち上がってその方を見ると、銀色の光沢がある小さな物体があった。近寄って拾いあげると半分ちぎれた革ベルトがぶら下がる腕時計。

 

 人間の臭い。とても濃い。


 『あれ』は腕時計を噛んだ。傍から見れば飢えた犬が骨をしゃぶっているように見えるだろう。


 やがて、我に返ったように噛むのをやめて笑みを浮かべた。


 それが理性の残り香というものかもしれないが、皮が両端から引っ張られて出来たようなそれは人間だった頃のそれとは似ても似つかない。


 そして、『あれ』はそれをはめようと腕に乗せる。だが、ベルトがないために滑るように地面に吸い込まれていった。


 『あれ』はすぐさま倒れこむようにして地面へと体を落とした。


 その時、視界の端に車下が映った。


 しかし、そこはぽっかりとした暗闇。それは空になった胃袋のよう。

 『あれ』はそのまま時計を見つけるやいなや立ち上がり、自分の群れの中へと戻っていった――



※ ※ ※ ※ ※



 家屋の塀越しから『あれ』がどこかへ行ったのを見届けると、胸を撫でおろし安堵した。


 「また後続が来る」


 息を吹き返したかのように遠くの方から『あれ』の呻く声が聞こえる。その音の大きさを見るにそう時間も経たないうちにここに来るだろう。


 焦燥感が戻り、隣にいる口を塞いでいる月見里らに待っていろと合図を出して、壁からゆっくりと離れた。


 もう一度車庫に車がないことを一目して、ドアに移動してノブに手をかける。ドアは開かないものの状態はよく解錠さえすればすぐに入れそうな状態だった。


 荷物から棒状にした安全ピンを取り出し、鍵穴につっこんだ。布を被せて極力音を出さないよう細心の注意を払いながら、ピッキング作業を行う。


 年数の経った錠前は劣化しているためか、糸をほどくようにすんなりとカギは開き、待ちわびたとばかりに充満していた湿った土と埃の臭いが鼻に飛び込んでくる。


 カチャリと金属の擦れる音が聞こるとその臭いは濃くなった。後ろを見れば、月見里がランタンに灯をつけて立っていたのでおそらく彼女がドアを閉めたのだろう。


 光は灯されているというのに缶詰のように密閉された屋内は外よりも暗く、辛うじて自分の手先がぼんやりと映るぐらいだ。


 その光を頼りに玄関口を調べると、子供用から大人用まで大小さまざまな靴が乱雑に放り出されていたのが目についた。

 すぐ隣に靴箱はそれとは裏腹にぴっちりと閉められており、開いてみれば当然のように靴が整然と並べられていた。


 ここの住人はよっぽど焦って逃げ出したのだろうか――いや、それは些か都合よく考え過ぎだろう。


 もしかすれば、まだ誰かが家の中に残っていたかもしれない。


 「静かにしてろ」


 と彼女たちに一言伝えると、頷きを返される。


 それを見て少し胸を落ち着かせ、身を屈め耳を澄ませた。


 ただただ、静寂。一番近くでする音といえば後ろにいる彼女たちの息遣いだろうか。


 そのもっと後ろ、扉一枚挟んだ外では無数の『あれ』の息遣いが聞こえる。それなのに、何故だかいつもは気にも留めてない虫の鳴き声も聞こえてくる。


 対比にもならないアンバランスな環境音が流れると言うのに家の中は奇妙なほど何も聞こえなかった。家に魂があるとするならばここはそれの抜け殻だろう。


 後ろにいる月見里と東台が完全に中に入ったことを確認して、外をもう一度くまなく確認した後、音が聞こえないようにゆっくりとドアを閉め、施錠した。

 そのガチャリと響く音が緊張でズタズタにされた頭に酷く染み渡り、ようやく平穏が訪れた。


 だが、それとは別の強い感情がぶり返したかのごとく帰ってきた。


 「月見里、ランタンを貸せ」


 そういうと月見里が頷き、ランタンの持ち手がこちらに伸びあがる。


 「ぇ?」


 その時、こちらはその持ち手を掴んで彼女を強引に引っ張った。  


 「もう二度とするな」


 東台の困惑した声が漏れる。


 それは無視だ。わざとらしいほどの高圧的な態度で彼女の顔に自分の目を近づけ言った。


 月見里の目が自分の瞳に吸い込まれたのかというほど点になって心もとなく、小さな唇がプルプルと震えているのが見えた。

 

 だが、許さない。あんなふざけたことをしたのだ。


 そこから紡がれるはずの言葉はなく、小さくなった瞳をこちらの目から逸らした。その表情は悲しみよりも怒りを湛えているように見える。


 「おい、クソガキ。聞いてるのか」


 それが無性に腹が立ち、持ち手を何度も強く揺すってこちらに顔を向けさせようとした。

 彼女の小さな体躯がこれでもかというぐらいに揺れて、抵抗するような素振りはまるでない。


 月見里は顔を向けるどころか地面の方に顔を俯かせてる、そこでやっと口は開かれるもののその声色は謝罪の言葉よりも不満を漏らすようなものをしていた。


 すると、もう一本の手がランタンの取っ手を掴み、それを止める。東台だ。


 「ね、ねぇ、ゆいちゃんは悪くないよ。びっくりしちゃったけど、私が寝ちゃってたのが悪いんだし……」


 先ほどから沈黙を貫いていた彼女は、苦笑いを浮かべそう言った。


 「ほら、ゆいちゃん泣きそうだよ」


 東台は月見里を横から抱きしめ、庇うようにして月見里を自分の後ろに隠した。


 その影から覗かれる月見里の表情は東台と同じく、否、それ以上に悲痛なものを浮かべていた。


 胸の、奥の、奥底に何かヒビが入ったような気がした。だが、それがどうしたというのか。


 東台は未だ彼女を庇い、本来月見里の口から出るはずの謝罪の言葉が次々と出てくるが、これ以上看過は出来ない。

 対人関係において好き嫌いは起きるものだが、暴力を振るうほど東台に対して感情のまま行動するのは看過できない。


 今だって、月見里は反省の色もなく相変わらず「やめて」と東台の手を振りほどこうと体をよじらせていて、それでどうして冷静になれるものか。


「お前いいかげ――」



 グゥー



 腹の奥底から出てくるはずの怒鳴り声は、お腹の鳴る音となって部屋に響く。


「アハハ、ごめんね。お腹が空いちゃったみたい」


 東台がお腹を擦りながら舌を出してはにかんでいた。


 そんな間の抜けた出来事に怒りが風船から空気が出るように一気に消え失せた。


「もういい。とにかく、今はここで待ってろ」


 抜け切れていない怒りを溜め息として吐き出した。そうして冷静になった頭から今はこの家の状態を見るべきだという結論が導き出される。


 月見里にランタンを持たせて彼女らを玄関に待機させ、こちらは布で覆った懐中電灯を取り出し家の中へと入っていった。


 家の構造自体は突飛なものではなく、鉄筋コンクリート造で一階建てというのだけが珍しい家屋。

 ただ、家具や本棚や、キッチンがきれいに整理されているのが廃墟になって長いこと経つ今となっては違和感を感じるほど印象に焼きつけられる。


 それでも、ピカピカに磨かれていたはずの白い壁は緑色に侵食されて所々ひびが入り、装飾が施されていたはずの窓の硝子は割れて、綺麗な木目調があるはずの床も黒ずみ踏みつけるたびにミシミシと悲鳴をあげていて見る影もなかった。


 諸行無常の響きあり。そんな一節が浮かび上がるほどに人間の無力さというのが感じられてむなしさを覚えるほど酷いものであった。


 だが、


 「それでも、まだましか」


 と自分の中で納得させてみる。

 どれだけヒビが入ろうが生えようが天井と壁と床がある、無いところも今時珍しくも無い。だが、溜め息をついてしまうのは何故だろう。


 とりあえず、安全なことだけは分かったと、彼女らの待つ玄関へと戻った。



※ ※ ※



 「窓に黒い布をつけるのは分かるんだけど……ここにテントを建てるの?」


 「衛生上の問題だ」


 合流した後、広い部屋にテントを設営するこちらの様を見て東台はまた困惑一色であった。


 こちらから見ても居間にテントがあるというのは違和感があるが、埃が漂っている不衛生な場所で過ごすための苦肉の策である。


 「あーね……私も何か手伝ったほうがいい?」


 「いや、必要ない。寝袋は持ってきたか」


 「うん。ほら、見てみて、可愛いでしょ?」


 と言って、東台は寝袋を広げて自慢げにこちらに見せていた。


 シカの模様があしらわれたベージュの寝袋だったが、適当な服をフェイスマスクとして年中巻き付けているこちらである。

 月見里がウサギのデフォルメされた顔の模様があしらわれた寝袋を見せつけられたときと同じように「なるほど」と相槌しか出てこなかった。


 月見里も「かぶった」と言わんばかりに、東台の寝袋を見て嫌そうな顔をしているようだった。


 「貸してくれ」


 東台から寝袋を受け取りテントへとぶち込んだ。


 「月見里、場所は選んでいい」

 

 「ん、分かった」


 月見里は未だにしょげているものの自分の寝袋を真ん中に置いて東台の寝袋を遠ざけているのだからきっちりとしているところは変わらなかった。


 「後はさっさと食べて寝るだけだ。月見里、東台に飯を出してやれ」


 月見里は「はい」と不服そうに干し芋をポトリと彼女の目の前に落とした。


 「ああ、干し芋かぁ……私、カロリーメイト持ってきたからこっち食べない?」


 と微妙そうな声をあげて、自分の荷物から箱入りのお菓子を取り出した。月見里もこちらも甘い物は好きな方だ。

 カロリーメイトというのは甘いお菓子だと認識しているが、自分と彼女の表情を見てもきっと喜色は浮かべてないだろう。


 「……それ、期限切れてるんじゃないのか?」


 「そうだね。うーんと、あーこれちょうど5年前に切れちゃってるね」

 

 「……食べられるのか?」


 「まぁ、いいじゃん。食べよ?」

 

 東台は「まぁ、いいじゃん。食べよ?」と箱を開け、差し出される。


 その自信ぶりにルイヴィトンのマークが入っているか疑いたくなるほどだが、包装は彼女の服装と同じく無地そのものだ。


 「腹壊すんじゃないのか?」


 「大丈夫、大丈夫。チョコレート味だよ?」


 チョコレート味に相当の自信を持っているようだが、こちらとしてはいくら携帯食糧と言おうが賞味期限が切れているものを口にする気はそうそう起きなかった。

 

 しかし、こちらと同じく訝しそうな顔をしていた月見里は「チョコレート味」という言葉を聞いた途端、瞳を輝かせ手のひら返し様は凄まじい。


 2人には特別なワードなのだろう。 


 皆が船を飛び降りたから、自分も船を飛び降りる――というわけではないが、2人を毒見役にするのはバツが悪い。


「一つもらっていいか」


「はい、どうぞ」


 東台から手渡される。包装を開ければ確かにチョコレートの色。一口入れて、恐る恐る飲み込んだ。


 味に苦みとか腐敗した食品独特の味はなく、食感もふやけているということもなく、ただただ小麦と申し訳程度の砂糖とチョコレートフレーバで成型されたのチョコレートクッキーの味が口の中に広がった。


 きっと万全のときならそれぐらいの表現しかできないだろうが、その甘さが体全身に染み込んでいくような気がして酷く心地よかった。


 「問題ない」


 「そう、ありがと。やっぱりチョコレート味だよね」


 「そうだな」


 「ゆいちゃんも、はい、どうぞ」


 「ん……あ、ありがとう……ます」


 月見里も気まずい感じの複雑な顔をしていたが、カロリーメイトを口にすると「おいしい」と嬉々とした表情に変わった。


 「食ったらさっさと寝ておけ、今日はだいぶ体力を消耗している」


 「はぁーい、おやスミス」


 「ン、ヌゥフフフ」


 「ああ、そうだな」


  東台の下らないギャグを無視して、おいしそうにカ〇リーメイトをほおばる月見里を一目すると、テントに入り寝袋にくるまった。


 「カ〇リーメイト、か……」


  そして、今日最後で最大の溜め息をつき、静かに瞼を閉じた。




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