東台と月見里の対面



 普段、矢小間遊園地にいる日は限りなく少ない。そんな中でも、たった一日で再び町へと赴くのは初めてのことであった。


 そして、これほどの大仕事を誰かに任されるのも初めてで、東台以外の依頼主と会って会話をしたのも初めてのことだった。

 

 初めて尽くしの事でいっぱいで、自分の額に若葉マークを張られたような気分だが、頭上の空は相変わらずどこへと行くのか分からない白い雲が悠々と流れている。

 自分はその空の高さがまた元の位置に戻ったのを見て、山を降りたのだと実感した。

 

 詩人的なことを思いつかなくとも、もたれかけた石柱には矢小間山登山口と書かれており、自分の背後には頂上へと続く石階段がある。

 始まりの地とでも名付けてみようと思うが、目の前に広がるのは見慣れたコンクリートとアスファルトの道路でどこにもかしこにも希望は無く日常がだらけている。


 いつも通りの景色。なじみ深いバイクのピストン音。欠伸が出るくらい何度も見てきた光景の中に、場をかき乱すものが一点。


 「ゆいちゃん……よろしくね!」


 「……ですから、私は月見里です」


 つんざくほどの明るい東台の声が響く。


 東台は手に持っていたヘルメットと背中の荷物を地面に降ろしてしゃがみ、月見里の目線に合わせてにこやかに接しているものの、当の月見里は何か訴えかけるような目でこちらを一瞥しただけで東台の方を一切見ようともせず淡白な声を自分の斜め横の地面に発していた。


 「あははぁ、ごめんね、ゆ――月見里ちゃん。これからよろしく、ね?」


 東台はそんな彼女の態度を気にせず、屈託のない笑顔をして握手をしようとしていた。


 しかし、月見里はその手を背にして、こちらもとへとやってくると不機嫌そうに眉を曲げて彼女を指さした。


 「ねぇ、ほんとうに、あの人を連れてかなきゃいけないの?」


 「……」


 「もうっ!話を聞いてよ!なんで、山下りたぐらいでこんな息切れするような人と一緒に行かなくちゃいけないの?」


 こちらも昨日今日のことで理解が追いついていない。東台を連れていくことを選択したのはこちら自身だが、実感を得るにはあまりにも自体が急変し過ぎた。


 そして、今、山を下りて、平面の地面に降り立って、ようやく実感を得つつある。


 いや、一合にも満たないうちに息切れを起こし何度も何度も休憩をせがむ東台の姿と、早朝から降りたのにも関わらずいつもよりも2時間遅くバイクのある麓に到着したという決して良くもない結果に頭が理解を拒否しているように思える。


 そんな彼女の姿を散々見てきた月見里は、今蔑むような苛立っているような目で東台を睨み。

 何も答えようもしないにこちらに業を煮やして、不機嫌そうにつま先で地面を蹴っていた。


 最悪の幕開けとも言うべき光景に、こちらは後悔を覚えていた。


 「何故かっていうとね、この人と約束事をしたからだよ」


 東台はそう言って彼女の頭を撫でる。

 

 だが、月見里は「やめてください」と冷たい声色で東台の手を振りはらい、こちらの後ろに回ると自分の頭を乱暴に振り払う。

 

 月見里が敬語を話す姿は一度だけ、こちらに対して見せたことがあったがそれ以来見たことがなかった。

 彼女が敬語を話す。というより、他人行儀で相手に接するときは大抵初対面かその人間が嫌いである時だ。


 今の今までを見れ見ると、山を下りる前にあいさつを交わし、そして、今も言葉を交わそうとしている彼女に変わらず塩対応。考えるまでもなく後者だ。 


 別に敵愾心を解くのが目的ではない。正直なところ、月見里に何の相談もせずに受けてしまったことに負い目がある。

 それにこちらも東台と共に外へ出るという事に対しては、運動オンチはともかく月見里と同じくあまり喜ばしい事とは思っていなかった。


 言わずもがな、東台は矢小間遊園地で最も有名な美少女である。


 そんな人物を合意とは言え連れ出そうと言うのならどれだけのトラブルがあるか分かったものではない。

 それで、きっと彼らも都市部に降りることを断固反対するだろうと思って、許可が出ない限りは連れて行かないという条件付きで応じて事なきを得ようとしたものの――。


 「……許してくれたとは、寛大というのか……いや、なんというのか」


 「まぁね、粟田さんにはよくしてもらってるし、私の事情話したらすぐ許可してくれたの」


 しかし、その願いは届かず、東台が今ここにいる。


 粟田――昨日話した老紳士も事なかれ主義なのだろうか、いや、個人主義といえばいいのだろうか、彼は『あれ』を災害と呼ぶほどなので危険性は十分に知っているはずである。


 「そうか――しつこいようで悪いが、約束を果たせるかどうかは分からないんだぞ……」


 「うん、でも、大丈夫。八雲は約束を破らない男だからね!」


 東台ははにかんで、昨日見せてきた鍵を人差し指にかけてこちらに見せつけてきた。

 月見里はそんな彼女を怪訝な顔をして睨み付けている。


 何の変哲もない色のくすんだ鍵が責任の重みをひしひしと感じさせてくれる。それこそが、東台が「ネコタチ」がある場所まで連れて行くかわりに一度だけ彼女が行きたい場所へと連れて行くという契約の証で代償でもあった。


 このご時世、建造物は軒並み劣化してドアなんてものはやろうと思えば蹴破ることも出来るし、それこそ中央に行かない限りはピッキングが出来るくらいの簡素なものが殆どなので鍵自体に対しては問題にしたことはない。


 しかし、ネコタチがあるのはその中心部。ど真ん中ではないが、自分たちが本を集めている地域から見て中心部の向こう側と行ったところにあるらしい。

 中心部から逸れたことに胸を撫でおろしはするものの、土地勘が無い場所に行くことに対しては二の足を踏んでしまう。


 だからこそ、ネコタチという本がある場所を知っていて、なおかつ店の構造を知っており鍵も持っている彼女は地獄に仏としか言いようがない。

 

 まさに、何たる幸運か。と言いたいところだが、あまり嬉しいといった感情はなかった。

 

 昨日、月見里にも一連の事を話して、理由も伝えたが、渋い顔をして嫌だ嫌だと嘆いていたのが鮮明に思い出される。

 あっけらかんの体現者である東台と、蛇蝎のように彼女を嫌う月見里。この遠征が一層苦しくなるのは目に見えていた。

 

 だが、どうにもならないので、彼女から背を向けて、いつも通りの荷造りを行う。彼女もいい気分になるはずもなく、地面を踏み潰す音が鮮明に背後から聞こえてきた。

 

 「もう、いいっ!でも、絶対仲良くしないから!」


 「ああ……分かった」


 ここまで感情をさらけ出して、未だに不服だと地団太を踏む彼女に負い目はあるものの辟易したものを感じていた。

 物事を早送りできる機能があったら常々思うがそんなものはない。こちらは淡白に相槌を打ってバイクに跨り、月見里に目配せて跨ることを促した。


 月見里は東台をまた睨み付けるとまた何かぶつぶつと言って、リアシートにある自分のヘルメットを被りリアステップを蹴ってバイクによじ登った。


 「東台も乗ってくれ」


 「オッケー!」


 と意気揚々としていた東台は何かに気づいたかのように目を凝らしてバイク全体を見回すと困った顔をしていた。


 「どうしたんだ?」


 「ん、いや、どこに乗ればいいの?」


 「あっ、ああ……」


 何のことかと思って、仇のようにバイクのステップを蹴りつける月見里と、自分を見て今更ながらに気づいた。

 

 このバイクは3人乗れるような構造になっていない。


 月見里自体はまだ体が小さいためもう一人乗れるぐらいの余裕がリアシートにはあるのだが、足を下ろすだろうところにはパニアケースがあるため東台が乗るスペースがないのである。


 月見里もその事に気づいたらしく困り顔の東台を見て何やら期待の眼差しをこちらに向けていたが、それが良からぬ考えであることは目に見えていた。


 「あれを使うしかないか……ちょっと待ってろ」


 そう言って、一旦エンジンを切ってバイクから降り、ちょうど道路を挟んだ向こう側に一つ佇む倉庫へと向かう。月見里も何か察したらしく、背後からバイクから降りる音が聞こえた。


 しかし、こちらに問いかける声はぶっきらぼうなものであった。


 「あれ?出すの?」


 「ああ、そうだ」


 倉庫と言っても、特段大きなものではなく、バイク2台入らない程度の大きさのコンテナのような作りをした簡素なものである。

 みっちりと閉じられたシャッターは、錆びつきはあるものの穴一つ見当たらないそれは幾ばくかの堅牢さが残っていた。


 シャッターの真ん中あたりに防災倉庫とかすれた赤文字で書かれているのを見るに、昔はそれ相応の役割をしていたのだろうが初めて開けた時にはもぬけの殻だったことを記憶に留めている。


 ガラスを擦ったような、芯の抜けたラッパのような音が響き、耳が痛くなるがどこか懐かしくて昔ほどは不快に思わなかった。


 しかし、いつの間にかついてきていた月見里と東台は耳を抑えて不快そうに顔を歪めているようで、どうやらこちらの耳が劣化してしまっただけであるようだ。


 「うわぁ、手押し車みたいなやつがある」


 そう声をあげたのは東台だった。しかし、部屋の中央に置かれたそれは手押し車ではなく、バイクの側車である。

 見ようによっては手押し車にも見えなくはないが、自分からしてみると人1人が収められるぐらいの車輪がついた超小型ヨットのような風貌に見えた。


 「これはバイクの側車だ」


 「側車?」


 「まぁ、ママチャリの後ろについてる籠みたいなもんだ」


 「ふぅーん、ゆいちゃんも昔はこれに乗ってたの?」


 「……だから、私は月見里です」


 東台が優しい声で月見里に尋ねるも、やはり宣戦布告通りの塩対応。

 ママチャリという表現のとおり、月見里がまだ小さかった頃から使っていたので間違いではない。


 そうはいっても、この矢小間遊園地に住み着いてからはもっぱら食料品やら嗜好品やらを運ぶ荷物入れのようになっているのでどちらかと言えば買い物カゴだろうか。

 最近は道路の劣化と調達品があまり嵩張らない本になったために、もっぱら倉庫の展示品のようになっているが。


 「なんだか、秘密基地みたいだね」


 最後に見た時と内装は変わらない。秘密基地というよりは、過去の遺物のようなものだ。


 残念ながら何かカッコイイ旗は掛かっておらず、マンキースパナやラチェットレンチのような雑多な工具が壁にかけられているのみで、ここに置いているという事はあまり使っていなかった証拠である。


 中央除いた空間には念のためにと貯蓄していた乾パンなどの缶詰が置かれているので、どちらかというと防災倉庫としての役割を踏襲しているのではないだろうか。


 「ちょっと待ってろ」


 そう言って、再びバイクのところへと戻った。側車を持っていこうかと思ったが、流石に山下りたての時に無駄な体力を使いたくはない。


 多少の暖気を終わらせていたバイクはセルスイッチを一押ししただけでエンジンの鼓動が復活する。

 並行車線とか対向車線とか関係なく突き抜けることに未だ残る薄っすらとした違和感がありながらも、倉庫へと戻る。

 

 何故か戻った時に、東台は瞳を輝かせていた。


 「バイクかっこいいね」


 美女にバイクかっこいいと言われてまんざらでもない気がするも、どこか旅行気分な彼女にこれからの事を考えて一抹の不安を感じてしまう。


 とりあえず、今は側車の取り付けに集中しようと、「ああ」とだけ返事して、側車を壁にかかった工具と共に外へと出し、取り付け作業にかかる。


 埃がつくほど放置した側車の取り付け方法など頭の中に残っているはずもなく、すぐにマニュアルで片手を塞いで作業に取り掛かる羽目になった。


 東台にバイクかっこいいと言われた手前、どことなくみっともないように思えてどこか恥ずかしい。そもそもバイクに対して言っただけで、こちらのことは一言も言っていないのだが――。


 「この子はなんていうの?」


 すぐ横から東台の声が耳に入る。


 本来なら月見里が距離をあけて見えるくらいのところに、東台がすぐ近くにいた。

 それなのにも関わらず東台は屈託のない笑みを浮かべ、いつもなら離れろと出てくる言葉が出てこない。いきなりのことにタイミングを逃した。

 


 「さあな。俺も良く分からない」


 東台を突き放すためにそう答えたわけではないが、こちらも知らないのでこうしか答えようがない。しかし、東台はまたふぅーんと声のトーンを少し落として黙り込んでしまい少しばかり後ろ暗さを感じた。


 掴んだマニュアルには、バイクについたアルファベットとR80とかいう文字が載っているがこれではない。

 以前聞いたことあるバイクの名前にニンジャだかサムライだかゲイシャだかがついていたので、きっとこれもそういう名前なのだろう。


 そういえば、昔月見里が横に張り出したエンジンを見て足のでかい兎みたいだと言って、ピョン吉だとかクソデカ兎だとか言ってたことを思い出した。

 おそらく、そういう名前でもないが、個人個人何と呼ぶかは自由である。こちらの名前と同じように。


 「じゃあ、オタマちゃん」

 

 「え?」


 自分と同じ言葉が濁音付きで聞こえてきたような気がした。何の名前をつけるかは勿論人の勝手だが、由来がまるで分からない名前を付けられてしまえば首を傾けるしかなかった。


 東台に向けたその顔は月見里から顰めた眉を抜けば同じくあんぐりと口を開けた驚き顔をしていることだろう、集中砲火を食らう涼しい顔でバイクに指さした。

 

 「ほら、全身黒いし、目みたいなマークついてるから。オタマジャクシみたいでしょ?オタマジャクシじゃ、長すぎるからオタマ――みたいな」


 透き通った声で言われると、なんだかそういう風にも見えてきてしまう。エンブレムも上から傘を見たようなものだが、確かにこんな目の形をした生物がいるかもしれない。


 そうとなれば、横についた側車は丸まった黒ガエルだろうか。親よりもでかいオタマジャクシとは扶養費が嵩張りそうである。


 「全然、そんな風に見えないじゃん」


 しかし、月見里は語気を強めてぴしゃりと東台の言葉を叩き落とす。


 足のでかい兎も大概だろうと言いたくなるが、空気も悪い中昔のことをほじくり返すのはどうかと思って喉の奥にしまい込んだ。


 おそらく、月見里が怒っているのは似ていないからというわけではなく、ただ単純に東台と共にいることに未だ納得がいっていないのだろう。


 後ろめたさがある自分は、そんな状況を意識から外して、側車の取り付けを終わらせた。

 

 「東台、乗ってみてくれ」


 「ん、りょうかーい」


 そう言って東台は乗り込んだ。今度は隣から濁音交じりの驚嘆の声が聞こえる。

 予想に反して、東台はいつも月見里が座っている後部座席に身を置いた。

 

 自分の席を取られたのだから月見里が怒るのも無理はない。訝しむ顔で終わるわけもなく、月見里は怒鳴るような声をあげた。


 「なんで、私のところに座ってるの――ですか!」


 「あっ、ごめん、そっちかー」


 もはや月見里の敬語は取ってつけたようなものに成り果てるが、東台からにこやかな笑顔は外れない。しかし、どこか喋り方が棒読みで、怒っているのではないだろうかと気まずい。


 「ああ、言い方が悪かった。側車に乗ってくれ」


 「ごめんごめん、分かってたんだけど。バイクのシートに乗って見たくて」


 そういって小さく舌を出しておどける東台。「ごめんねぇ、ゆいちゃん」と手を合わせて謝っているが、月見里は視線を外して不機嫌そうに眉をきつく落としたままであった。

 

 しかし、東台はあまり気にする様子も無く、バイクを降りた彼女は月見里の頭を撫でる。驚いた月見里がきゃっと小さく叫び声をあげるのを横目にして、側車へと乗り込んだ。

 

 そうすると、東台は宙を見上げ納得のいかない微妙そうな顔をしていた。

 

 「うーん、なんか靴の中に入ってるみたいで窮屈かな」


 「……走ってる間に外れていなくなっちゃえ」

 

 こちらの後ろで頭をブンブンと振っていた月見里がいつの間にか隣にきてぼそりと呟いた。子供っぽいセリフだが、その声には憤怒が混じっておりあまり微笑ましいものではない。


 これほどまでに月見里が感情を剝き出しにすることはあっただろうか、記憶を辿ってもそんな光景は見えなかった。


 街に降りた後もこんな感じにさせてしまうのだろうかと不安を覚えてしまう。女同士の喧嘩はなかなかにギスギスしたものだと聞き及んでいる。

 その度、仲裁すればいいのだろうか、否、数年間月見里と共にいるというのに、ちっとも女の子のことなんて分からない自分が何か出来るわけもない。

 

 「分かった。じゃあ、そろそろ出発だな」


 「あれ?シャッターは閉めなくてもいいの?」


 東台にそう言われて後ろを振り返ってみれば、シャッターはあんぐりと口を開いたままだった。久しぶりに側車のなくなった倉庫は自分の目に寂しくも映る。どうしようもないほどにスッキリとしたようにも映った。

 

 何故シャッターを閉め忘れたのだろう。その答えは一考せずとも頭の中には答えが出ている。


 シャッターを閉めてしまえば、もういつも通りが終わってしまって新たな何かが始まってしまう。


 そんな重い一歩を踏み切れない。


 こちらは別の覚悟を持って、東台を見やる。相変わらず、何も恐れていないような笑みを浮かべている。

 

 「なぁ、東台。ここで降りてもいいんだぞ」 


 「え?」


 東台のにこやかな笑顔が外れた。


 外したいわけではなかったが、月見里の罵倒で動かなかったものが、たかだが一言で目を見開くほど動揺するのだと少しばかり感心してしまう。


 後ろにいる月見里の姿は目の端にしかとらえられないが、こちらが何か言うのを静観しているようだった。

 

 そして、こちらは昨日何度も何度も話して、決して彼女が首を縦に振らなかった話をもう一度話した。

 

 「なぁ、俺は何度も何度も街へ行って戻ってきているから安心しているのかもしれないが、それは毎回同じ地域に行っているに過ぎないんだ」


 こちらの願いは及ばず、不安げ下げられた眉はみるみるうちに上がり、またにこやかな笑みに戻る。


 「うん、その話は何度も聞いたよ」

 

 「そうだな、何度も話した。俺はその地域でしか安全を確保できていない。どれくらいの広さだと思う?たかだが、一つの町どころか1丁目か2丁目とつくようなところぐらいだ」


 猫の額程度の丁目一つ分とというのはいささか誇張しているが、それでも町の中心部から外れた本当の端っこ当たりでしか探索を行っていないのでどちらにしろ中心部はおろかその周辺地域にも足を踏み入れたことはない。


 しかし、未知の地域に足を踏み入れる危険性は誰よりも知っているつもりではある。

 だからこそ、契約とも言えども緊張感もなく矢小間遊園地の人々と同じく日常の延長線と捉えている東台と共に行ける自信も、やる気もなかった。


 そうでなくとも、3人連れ立って街の中を歩く能力も持ち合わせてはいない。


 「うん、それも多分、昨日聞いた。大丈夫、私もちょっとは土地勘あるから」


 「『あれ』がいるのに、お前よりも土地勘ないやつに頼るのか?」


 「うん、人には得意得意あるじゃん。八雲は探索するのが得意で、私は土地勘とか掃除とか――後料理もちょっと得意だし」


 どんな言葉を放っても東台は熟考するまでもなく、自信の詰まった言葉を放つ。


 昨日どれだけ言っても、決して食い下がらず。またもや首肯せざるえなかったやりとりが飛びかってしまう。 

 

 もうこのまま連れて行けばどうにかなるかもしれない。もはや想像力もなくなった頭からは投げやりそんな言葉が投げかけられる。


 だが、その選択を取ろうとした瞬間、東台の綺麗な四肢が肉塊に成り果てた姿が頭の中に浮かび上がる。 


 だから、ここで重く成り行く口から言葉を紡がなくては、きっとそうなってしまうのだとどうにか説得する言葉を見つけようとした。


 「いや、だから――」


 空っぽな癖に、恰好だけは人から外れただけの存在。そんな人間にお前は約束を交わしたのだ。お前は。


 飄々とした態度に血が登って、それを口にする前に月見里が透き通るような冷たい声で言葉を放った。


 「ねぇ、東台しかのさん。でしたっけ?あなたみたいな人と街に行きたくないんですよ」


 東台の口が止まる。彼女の表情は笑みから不安げなものへと戻っていた。


 しかし、月見里は言葉を続ける。


 「普段、山を降りるのにどれくらいの時間かかると思います?」


 東台は苦笑いを浮かべ、何か言葉にしようするが、月見里はせき止めるように彼女の前に一本の指を向けた。


 「一時間。一時間です。それだけで済むはずのところを、あなた付きだと3時間。3時間かかるんですよ。意気揚々に歩いていたと思ったら、ちょっと疲れた程度でピーピー子供のように喚いて座り込むとか本当ありえません」


 それに言い返す言葉を東台は持っていない。乾いた笑いを虚空にこぼすだけであった。


 月見里は言葉を続ける。


 「街降りたらそんな事許されると思いますか?許されるわけありませんよね?街中で一分でも無駄な行動したらあなた死にますよ。いや、あなたどころじゃありません。私もそれと――もう一人含めて、3人全員死んじゃうんです。あなたのせいで」


 散々な言われようだが、こちらはどれ一つも否定することができなかった。流石に、800mほどある山を一時間で下れたことはないが、かねがね月見里の言い分も正しい。


 それに今回ばかりは仕事のパートナである月見里の言い分に、こちらも耳を傾けなければと思うところもあり、言葉を喉に押し込んだ。


 責め立てらているような形になっているが、東台の表情に憤りも悲しみもなく、じっと月見里の言葉に耳を傾けているように見えた。

 

 月見里は気分を良くしたのか小さく胸を張り、先ほどよりもはっきりとした声で言葉を続けた。


 「だから、鍵と――それと正確な場所を教えていただけますか。そしたら、その約束してたことを果たしますので」


 木槌を叩く音が響いたような気がした。

 

 月見里は有無を言わさずバイクから降り、側車に座り込む東台の右について、目の前へと手を差し出す。


 東台は差し出された手を一目すると彼女に目を向ける。その表情に不安や真剣みのようなものはなく、神妙なものだった。

 

 東台は側車より降りて、月見里と向かい合わせになって笑みを浮かべる。月見里は想像していなかった行動に一瞬後ろへ下がろうとするも、すぐに平静を整えて眼上の東台を見据えた。


 「分かった。ちょっと待っててね」


 東台は諦めたようにそう言葉をこぼし、月見里の手の上に自分の握り拳を置いた。

 

 これで東台を連れて行かずに済む。

 自分の日常が多少なりとも元に戻ることに、こちらは胸を撫でおろした。

 

 勝手に決められた感は否めないが、その道に突き進めるのなら願ったりかなったりだ。

 それに、どんな形になっても約束を守ることに覚悟はある。


 しかし、頭の中にはこちらへと鍵を示す、昨日の東台の姿が見えていた。

 


 「あっ、チョコ――」


 月見里から喜色の声が漏れる。月見里の手に置かれたのは鍵――ではなく、板チョコの切れ端が乗っていた。


 「ほらー、唯衣ちゃん、こちょこちょこちょ」


  呆気に取られたような顔をする月見里に東台は間髪入れず彼女の脇腹を掴んで、くすぐった。


 氷のように張り詰めていたはずの月見里は、脇腹をくすぐる彼女の手を必死に抑え込むも、キャッキャッと子供らしい笑みを見せていた。


 「放して――ください!」と丁寧な言葉で対応していたが、笑声混じりのそれは子猫がニャーニャーと可愛らしい声をあげて威嚇しているようであまりに迫力がない。

 そうとなれば、東台は手を止められるはずもなく、「ほら、参ったか?」と煽ってむしろ追い打ちをかけるようにその手を強めていた。


 「わたしを連れてく気になったかあ?」


 「わかった!わかったから!こうさん!こーさん!するから!やめて!」


 と月見里が言うと、東台は「フフフフ、ありがとうね。ゆいちゃん」と言って今度は彼女の頭を撫でまわした。

 

 「そこまで降参してないから――だから、月見里です!」


 と先ほどと同じように脊髄反射のごとく彼女の手を振り払い吐き捨てるように言った。だが、折れた経緯が東台のくすぐりだと、あまり迫力がない。

 

 もはや、彼女も脅すのを諦めたのか、頭を振り払うと怒りの行先を収めるかのように手に置かれたチョコレートを放り込んで再びリアシートにまたがった。

 先ほどの毅然とした態度の面影もなく、頬を膨らませてむくれている。


 危険性を説明しようが、罵詈雑言をかけようが、東台はまるで動じない。

 彼女を動せる方法はもう無いように思えた。もういっそのこと、鍵を奪ってしまいたい。 


 だが、3時間も泣きべそをかきながら歩いて、自分よりも歳の離れた幼女に正論を吐かれてなおも、未だニコニコ笑っている。

 精強とも言うべき精神力を兼ね備えた彼女に、そんな乱暴なことをする勇気も覚悟もなかった。


  あっという間に、終戦宣言。まだ停戦だろうか、黙りこくりつつも未だ不機嫌そうにして東台を視界の外に追いやっていた。


 こちらも東台から目を逸らすようにバイクのタンクへと目を落とした。しかし、右目の端に未だ東台の姿が映る。


 視線を外すと、目の前にはいつもの道。このまま進んでいけば、山を下る道があって、街へと続く高速道路。

 握り直してみたハンドルから伝わるバイクの重みが、いつにも増して重々しかった。


 「なあ、東台」


 東台は「なぁに?」と気の抜けた声を出してキョトンとした顔でこちらを見つめていた。

 

 「……何度も帰ってきているから安全じゃないかと思うかもしれないが、俺――俺と月見里は同じところを何度も行っているくせに、最近だって見つかりかけたことが何度だってある。もちろん、襲われて応戦したこともある」


 こちらは慎重に言葉を選びそう言ったが、月見里は気まずそうに体を縮める。


 東台からは謙遜の言葉として聞こえているのだろうなと言いながら自覚できた。

 だが、これが紛れもなく事実であることを月見里と俺は知っている。


 「それで、なんで生きていると思う?」


 東台は昨日のような笑みは見せない。

 昨日聞いても無い言葉に、ただ耳を傾けているように思えた。


 「俺のおかげじゃない。もちろん、月見里のおかげでもない」 

 

 弱音を人に向かって吐くのはあまり好きではない。何の解決の糸口も無い癖に、無駄に相手へ負担を押し付けることを好きになれるはずもない。


 だが、言っててスッキリしている自分もいてやるせない。 


 「ただ運がいいだけなんだ……技術とか経験とかクソもない」


 終わりがバットエンドだったとしても、それに行きつくまでは物語は続く。ただ、今はその時じゃないだけ。


 「ああ、くそ。もうこれ以上お前を説得するだけの言葉が思いつかない、俺は頭が悪いんだ」


 もっと言いたいことがあるはずなのに、それが言葉となって出てくる気配がなかった。もっと本とか読んでおけば言葉が紡げたのだろうか、もっとコミュニケーション能力があれば、もっと上手いこと対応が出来たのだろうか。


 自分の口のところにあるのは、もはや昨日の説得の言葉のみだった。


 「今ならここで降ろすことが出来る。そしたら、家に帰って温かい布団に篭れ。そうしてくれたら、月見里の言う通り、鍵をもらって、東台のその約束は必ず果たす。ここを出てしまったらもう長い長い旅の始まりだ。本当にいいのか?」


 ならば、最後にもう一度約束の再交渉をやるしかなかった。


 了承したくせに、これほどまで食い下がるのは何だか卑怯者のような感じがして気が引けてしまう。

 だが、東台の命の保障は出来ない、月見里にもしてはこなかったし、そもそも誰の生命も保証は出来ないのだ。


 だからこそ、依頼を受けてこなかったし、期限というのを設定しなかったのである。

 

 その上、中心部は昔もあまり行ったことがなかった。行ったことがあるとすれば、度胸試し的な感覚で流行りの映画を見に行ったことがあるぐらいだろうか。


 その後、お洒落なカフェでも入ろうかと思ったが、場違い感があって結局店内眺めてるだけの気持ち悪い奴になった記憶がある。

 今はどれだけ見ようが関係ないが、そもそも今もあの店はあるのだろうか。それさえ分からないほどには、どのような状況になっているのかが未知数であった。


 分かる事といえば、今まで以上の危険な仕事になるだろう、これほど脅したとしても東台は首を縦に振らないのは昨日で実証済みではある。


 しかし、ここでもう一度、寸前で東台の覚悟を聞けば何かが変わるかもしれない。ここでもし彼女が即座に首を横に振ってくれればそれに越したことはないが、躊躇してくれるならそれでいい。


 今もなお、月見里は「早くどっか行け」と言わんばかりの期待の眼差しを彼女に向けていた。

 こちらも彼女と同じくらいには東台を睨み付けていることだろう。


 一体どれだけ聞けば俺の気が済むのだろう。

 

 夕方帰ってきてからも根拠のない期待と何度も覚悟を決めようとしていたのにも関わらず、土壇場で躊躇してる自分が情けなくなる。


 「――――」

 

 黙る東台。彼女の少し曇った顔を見て、嘘のように期待をかけている自分に対するやるせなさもあって嫌だ。


 そんな纏まらない感情を抱いていると、東台が側車から降りてこちらの左隣に立った。こちらに見せる表情は朗らかな笑みだったが――。


 「……てぃ!」


 東台が覇気のある声を上げる。途端、こちらの頬に彼女の指が押し付けられた。


 反射的に体を大きく逸らし、反動でバイクが大きく揺れて後ろの月見里が小さな悲鳴をあげて、てんやわんやの大騒ぎ。その原因を作った東台も「わわっ、ごめん」と慌ててバイクを抑えつけて事なきを得る。


 「あはは、ごめんね?バイクって側車ついてても、意外とどっしりしてないんだね」


 「お前――!」


 バイクの体勢を戻して、先ほどよりますます不機嫌になった月見里を横目に、苦笑いを浮かべる東台の方を睨み付けた。

 しかし、東台は笑みを崩さず、こちらに触れたはずの手には鍵が握られていた。


 「大丈夫だよ。身体には触ってないから」


 そう何故だか自信満々に東台は言った。


 そんな彼女の態度にどう怒ればいいのか分からず、頬に当たった感触を反芻してみると確かに指ではなく金属の硬さだったので喉を鳴らし後の言葉を月見里の怒号に任せた。


 すると、東台はその顔を急に神妙なものへと変えた。


 「私なりにいろいろと整理したいことがあるんだ。それにこういう風に八雲から頼まれたのは初めての事だったし……だから、私、これが最後のチャンスだと思うんだよね」


 東台はそこで一旦言葉を溜めた。


 無意識なのか、手に持った鍵を左右に揺らして続きを言うのを躊躇しているかのように思えたが、表情を変えることなく続く言葉を紡いだ。


 「だからね。私、これが最後のチャンスだと思うんだ」


 そう言って、鍵を胸の中へとしまい込んだ。昨日聞かなかった彼女の決意の言葉に、もう何を言っても変わらないのだろうとようやく実感出来たような気がした。

 

 「……そうか、何度も聞いて悪かった」


 「ううん、別にいいよ。これから、2人には迷惑かけるからね」


 そうおどけた態度を取って、再び破顔する。月見里は何か言いたげだったが、それを飲み込んで鼻を鳴らした。 


 「動かすぞ」


 こちらが最後とばかりに念を押しても、東台は「うん」と明るい返事をして意気揚々と側車へ乗り込んだ。


 月見里は「ウゥン」と拗ねた返事をする。


 そして、ゆっくりとクラッチを踏んだ。


 カチンという金属音が鳴り響く、いつも聞いているはずの音だが、切り火を打たれたように耳の中から消えなかった。 


 ここで発進したら本当に戻れなくなる。


 その音がまた昨日の声を呼び覚ます。だが、もう答えは決まっている。


 「今も覚悟を決めたばかりだろ」


 アクセルをあおり、唸り声をあげてバイクは走る。早く終わらせようとはやし立てるかのごとく、速度はいつにもまして上がっていた。


 もうこのまま高速道路に突っ込んでしまえ。ずっと、行けたはずなのに、及び腰で進まなかった中心部への道へと。


 一世一代の賭けに出ることにした。この仕事が終われば、もっとマシな仕事を探そうと心に誓った。


 

 ※ ※ ※



 「うわぁ、すご……」



 能天気な東台の声がこちらの頭上から聞こえてくるが、全て自分よりも下の方へ下の方へと落ちてしまい、繰り広げられる騒音たちに混ざり込んでしまう。


 そんな様子を興味深そうに東台は見降ろしていた。


 「くそぉ、なんでこうなった」

 

 一点差していたはずの光は、穴の中へと無常に堕ちていく。


 そして、自分の嘆く声もまた、下に広がる『あれ』の呻き声へと飲み込まれていった。


 それから目を逸らすように正面へと向けると、標識が自分の後数十歩先にあった。本当に数十歩先にある。

 このまま進んでいくと分岐先に迂回できるルートが確かにあった。

 

 だが、バイクでも人間の足でもそこはおろか、標識の間近にさえたどり着くことが叶わない。

 

 自分の足元に続く道がない。もちろん入り口も出口も無く、自分の目の先にあるのはただの巨大な穴。


 道を形成していたコンクリート片が真下の建物や車を押し潰し、断末魔のような車のビープ音が反響して、『あれ』が猛々しい奇声をあげて纏わりつくように群がる。


 太陽が陰りビル影に覆われた底に、静寂は無く、混沌、混濁そのものだった。


 「ああ、クソ!」


 罵詈雑言を下に吐きかけて小石を思いっきり蹴るが、今度は何の音も無く溶けるように下へ消えていく。残ったのは虚しさのみだった。

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