輝かしい笑みは避けられざる仕事と共に


 蝋燭は無く、後は死んだように闇が包み込んでいる。


 ただドアの隙間から漏れ出る月の光が、ぬいぐるみに包まれて小さな寝息を立てる月見里と、床に散らばった札束をちまちま拾い上げているこちらの姿をひっそりと映し出していることだろう。

 

 「どれだけ拾い上げればいいんだ……」


 ふと言葉がこぼれたが、その声に喜びの色は無い。


 この札束を渡した人間のことを当の月見里に問い質してみたものの、彼女自身が興奮しすぎて話に要領を得なかった。

 それで仕方なく収まるのを待ちつつ散らばったものを整理していたのだか、いつの間にか寝てしまっていたという始末である。


 散らばると表現できるぐらいの札束を見れば喜ぶのが常だと思うが、今は誰が月見里に渡したというのが分からないことに対する不安しかなかった。 


 しかし、それでもわずかに喜びが勝っているのは隅に移動させた物資おかげでもある。おそらく、2人であってもおおよそ2週間ぐらいは持つほどの量だ。


 その内容も乾パンにサバの缶詰に、月見里が好きな金平糖や飴玉まである。その上、スパム缶も当たり前のようにゴロゴロ転がっているのを見ると、開いた口から涎が止まらない――。

 

 「――――っ」

 

 いつの間にか食欲に侵されている自分に気づいて、それから目を逸らした。


 どうして、自分はここまで食い意地が張っているのだろう。これほどの物質を簡単に手にすることは出来ないはずなのに、どうして目の前にそれが広がっている異常事態を問題にしないのだろうか。

 

 ならば、頭を整理して、一体誰がこれを渡して来たのか、まずは指を折って数えてみる。


 月見里は知らない人と言っていたため、頭に浮かんでくるものの中にはおそらくいないのだろう。

 部外者かと考えてみるが、人間を見たのはこの矢小間遊園地だけなのでそれはあり得ないと首を横に振った。

 

 そうやって消去法で考えてみると、残ったのは3桁に満たないこの街の人々だったどちらかと言えば村と言った方が正しいかもしれない。

 

 思いおこしてみれば、村社会というものに近かった。ならば村長とか大地主とかそんなものがいるかと言われると、かなり疑問なところである。

 パリ市街とボストン市街だとか、観覧車という名の壁に隔てられているところもあるが、やはりここには寄り合い所程度の何物でもない。


 当たり前といえば当たり前だ。彼らは皆矢小間山の近くにあった集落からここに移動してきたという知り合い同士だ。こちらと月見里と常連客――東台の3人を除けばだが。


 今時、集落で暮らしている人間がいるとは思わなかったが、彼らの年齢を思えばさもありなんといったところである。


 管理者とも言うべき人たちが食料の配給と遊園地のチケットを通貨の代わりにして発行しているが、もはや昔のような貨幣というものではなく商店街の福引でもらえる商品券のようなものであまり効力があるものとは呼び難い。


 そもそもチケットが発行されるようになったのは、こちらが街に降りて物資を調達してからで、それが終わってしまえばもはや紙屑も同然だ。


 嗜好品もだいたいはこちらが調達したもので、他に買えるものといったらサツマイモぐらいだろう。


 「くそ……」


 そんな紙切れ同然の物を除いても、この物資の質と量は見る度身震いが起きるほど貴重なものだ。

 月見里から何を頼まれたのか聞きだそうとしても、「明日詳しいことを話すって!」との一点張りでどうやら何か聞いてきてないらしい。

 

 これほどの物資を見せられれば、全力で首を縦に振りたくもなる。ろくに内容を聞かずにおそらく2つ返事で応じてしまった月見里に怒りはあるが、今だけはにやけ顔の間抜けた表情を晒して眠るのを許してやろう。


 明日、どうせ断ってしまえばいい――。


 そんな考えが床掃除でクタクタになった頭の中でよぎった。


 そうだ。それすればいいのだ。金と物資を丸ごと返せば何事もなく終われる。

 そうすれば、また元の生活に――。


 「それで……何になるんだ」


 元の生活。とはなんなのだろう。


 学生服を身にまとって横並びにさえなれないクラスメイトと共に学校生活を送ることか。いや、それはとっくの昔に終わっている。


 ならば、このままいつ終わるか分からない拠点と街を行き来する生活を続けることなのだろうか。山のようなチケットを見た時、これで焼き芋でも作れそうだと思ってから、もうあまり価値あるものだとも思えなくなってしまった。


 失ってはじめて気づくと言うが、そもそもこの生活がいつまで維持できるかを考えるとほんの少しの腰掛けにしかなってくれないのだろう。

 

 ここは村社会。外来のものは一生よそ者扱いだ。その上、こんなをしている自分はもはや異物だ。

 

 いや、それだけなら地に這いつくばってれば生きていられる。それが自分にとってお似合いの姿だ。

 だが、それでは済まされないのが寿命の話だ。彼らの年齢は一番上は80歳で下は50歳台である。最近まで90歳の老女がいたが、こちらが帰ってくる3ヵ月前に死んでしまったらしい。

 

 そして、今も90にも80にももっと下の歳にならぬうちに死んでいる。そんな有様。


 ちょうど矢小間遊園地無数に敷き詰められている太陽光パネルと同じように徐々に朽ちていく。ただただ電池が切れるまで動くしかないそんな状況。


 ――それでも、どうして自分は危機感を持とうともしないのだろうか。


 自分の置かれている立場をまるで気づかないように振る舞っているから。いや、それもあるが少し違う。

 もう考えない方が気楽でいい。何も解決できない問題、しかし、その問題はいつか皆降りかかるものでなってしまえばもうそれを気にしなくて済む。

 

 だとすれば、もう対岸の火事――皆と同じく心のどこかでこの場所を避難所生活の延長線上にあると思えばいい。そんな幻想に浸れるだけの食い扶持はまだある。


 だけれども、未だ冴えた頭には、ぼやけた不安が日々を通り過ぎていく。

 もうかれこれ数年は住んでいるというのに、彼らの考えていることが見えてこない。


 時たま、彼らが月見里や東台に時折申し訳なさそうにしていたり他所よそしい態度を見せるのは何故なのだろう。


 「ああ、なにやってるんだろうな。俺」


 自分から出たその言葉は何に対してのことだろうか。

 

 なんとかなるかもしれない。そんな漠然とした発破で、身を粉にしてチケットを集めていた。

 ある意味では、どんな時にでも貯蓄する日本人的発想で定石だ。だが、日本という国はもう無くなっている。


 こうして大量のチケットが床に散らばっているのを見ると驚きよりも下らなさが沸き上がってくる。

 今更、現実に気づかされて、それでどうしろというのだろう。どうもでよくなってきた。


 どこかの偉い学者が貨幣の価値は労働力にあるとかどうとか言っていたが、自分の世話をするにやっとの人間の労働力を得てなんになるというのか。


 だが、大量に散らばった食糧がこの部屋から出ていこうとする衝動をぎりぎりで遮る。


 それでも、今抱く感情はやりようのないものだった。


 この四方八方にある壁が散らばった紙束のせいでこのまま狭まってくるのかというほど窮屈な空間になっている。

 しかし、壊れたドアからは淡く青白い月光が差していた。

 

 それでも、自分の旨の中には何か変わってくれるような漠然とした期待と言っていいか分からないが、何か高ぶるようなものがあるのを感じた。

 

 現実曰く、そんな期待をしてもうまくいった試しはない。だが、これ以上にこの状況を打開できるほどの方法はない。

 

 目の前に現れる飴と鞭のような状況が、胸の中で強張り、熱くなり、冷たくなり、巡り巡る――。


 「クソ、もうだっていい」

 

 そう言って、拾い上げていたチケットを宙へ放り投げ、床へと倒れた。ごつんと鈍い音と相応しい痛みが頭に走る。


 黒ずんだ視界で舞い散るチケットはまるで白旗のようだった。


 考えを振り払うように不快な感触の出来た頭を強くなでつけて、チケットを部屋の隅っこに蹴飛ばして、体を倒しこんで瞼をベッドに押しつけた。



※ ※ ※



 翌日。依頼者である老人の家へと赴いた。残念ながら、どのような挨拶をすればいいか何の考えも思いつかなかった。


 実際、顔を合わせた老紳士と月見里は当然かのように顔を輝かせていたが、自分は昨日と同じく頬を強張らせたままであった。

 

 月見里と老紳士と、そしてほんの少しこちらの挨拶を披露してから、有無を言わさない柔和な笑みで家の中へと招かれた。


 そして、今場違いな空間に居る。 


 「うわぁ!これ全部食べていいの?」


 「ああ、構わないとも。是非食べてほしい」

 

 月見里は今では貴重なチョコレートやクッキーが所せましと目の前の机に並べられていることに目を輝かせ、こちらはそんな彼女を穏やかな眼差しで見つめる老紳士を一目して、出されていた紅茶を意味もなくのぞき込んでいた。


 依頼主の家の前でベルを鳴らして名前を述べただけで、この老紳士が堅牢なドアから出てきた。

 

 その後、何かされることもなく、むしろ突然仕事を依頼したことに対して謝られてしまった。

 受けたこともない丁寧な対応に断りの言葉も見つからず、なし崩し的に部屋に通され、こちらと月見里と老紳士で対面して話を交わすような事となってしまった。


 かなりの物腰の柔らかさにそれほど偉い人物ではないのかと錯覚を受けるが、彼を一目するとまさに権力者である。


 ほどよく蓄えられた口ひげと丸い銀縁の眼鏡、英国調のクラシカルな茶褐色のスーツ。


 その気品高い成りに違うことなく、一つ一つの所作が伝統芸能であるかのごとく美しい。そんな素人でも分かるほどの完璧なふるまいに、温和そうな顔立ちではあるものの少々近寄りがたい威厳というのが感じられた。

 

 「狭いところで恐れ入るよ」


 老紳士はそう言って小さな笑みを浮かべ、自らのカップに紅茶とコーヒミルクを入れて雑音一つ立てることなくスプーンでゆっくりと掻きまわす。

 その所作の美麗さに何か高級茶葉でも入っているのかと思いたくもなるが、流石に市販で売られているようなものである。


 だが、狭い所と言われた場所は社交辞令と言われても納得がいかないほど広く作られた部屋だった。


 外装がレンガ造りなので中もそうなのだろうと思えば、そんな形をおくびにも出さず張り巡らされたのは高そうなダークオークの色。

 床には赤みがかったきめ細かい紋様の細工が凝らされた絨毯があった。これは世に聞くペルシャ絨毯なのだろうか。


 周りに取り巻くアンティーク調の家具や装飾品を見れば、その予想も決して下手な鉄砲でもないように思えた。否、そんな予測が無粋だと思えるほどに、品格の高さを鬱陶しいほど醸し出していた。


 「そういえば、おじい――ちゃん?今日は依頼の詳細を話してくれるんだったよね?」


 そんな城のような空間にも、城の王とも言うべき老紳士の風格を物ともせず、月見里は自分の祖父に話しかけるような馴れ馴れしい態度を取っていた。


 権力というのを意に介さず、ずけずけと入り込めるのは子供の特権と言うべきだろうか。


 小心者の自分は、自分の高鳴る心臓を聞くので精一杯だった。


 「おっと、そうだった申し訳ない。忘れかけていたよ。可愛らしいお嬢ちゃんと話をするのは……もう久方ぶりだったからねぇ。いや、失礼」


 老紳士も彼女の態度にも意に介さず、後頭部に手を置いて気品たる老顔を破顔させていた。


 「単刀直入で恐縮な限りだが……毒虫さん、あなた方に」


 誰も呼ぶことは無かったその名前を紳士は何の気も無しに呼んだ。

 しかし、老紳士は咳払いをして、手で口を覆い押し黙った。


 それに伴うように表情が神妙な顔つきへと変わり、場の空気が帆を張るように張りつめる。

 

 こちらの名前を呼んだのはうっかりか何かだったのかと思ったが、その視線がこちらに向いていないところを見るにきっとそうではない。

 

 それほど言い難くなるまでに重要なことなのだろうか。

 そう思うと、自分の中にふつふつと不安が溜まっていくような気分を覚えた。


 「おじいちゃん。任せてよ!どんな本でも取ってこれるもん!」


 月見里はこちらの懸念を知らずか、チョコレートがついた口で自信満々に胸を張って答えた。


 子供の特権とは言え、一度しか会っていないだろう老紳士をおじいちゃん呼ばわりとは、月見里というのは人懐っこいと言えばいいのか、世間知らずというべきなのだろうか。


 だが、こういう時に何か言うべきことも分からず。こちらは大人しく口を噤む。茶を飲む。


 こういう微妙な雰囲気の時に何も考えなしに茶々を入れるのは短慮はよくない。


 老紳士は彼女の態度に少し難色を示すかと思ったが、その整った眉をしかめることは無く、丁度自分の孫を見る老人のような表情をして月見里を見ていた。


 「いや、それに関しては全く心配していないよ。かねがね島岡さんから君たちのことは聞いていたからね。全く心配はしてなんだ」

 

 全く顔色一つ変えない彼の懐の広さに驚かされた。これが金持ち喧嘩せずの風格を見たような気がする。


 もっと驚くのは「島岡」という門番の老人の名前が出たことだ。

 この老紳士と彼とはどんな関係なのだろうか、少なくとも月見里と門番の老人の会話から彼の名前を聞いたことは無い。


 とはいえ、こちらと月見里が本を回収していることは、この避難所の周知の事実ではあるので知られたしても驚きも何もないが。


 そして、多少の時間を置いて、老紳士は「幾度も濁してしまってすまない」と前置きを置いて、再び口を開いた。


 「つまるところ……『ネコタチ』という本を取ってきてもらいたい」


 そう述べると、目の前の老紳士は老人にしてはやけに白い歯を見せながら苦笑いを浮かべていた。


 一瞬、世界が固まったような気がした。ネコたち――頭に思い浮かぶものはあったが、本のタイトルとしてはまるで聞いたことがないものだった。


 しかし、彼が述べた本という見知った単語を頭の中で繰り返すと、多少ながらも気分が落ち着いた。 

 よくよく考えてみれば、要するにいつもの依頼である。

 

 ただ、彼自身の性的な趣向が特殊であるがゆえに既に出回っているモノでは「満たせず」に困り果ててているということだ。おそらく、そうに違いない。

 そう考えると、支払われた大量の物資とチケットは口止めという忖度を含んだものと言われれば合点がいく。


 「いや、言葉足らずで申し訳ない。実は私の――いや、私がこの本が探していてね。それを手に入れようにも街にまで降りていかなければ見つからない。もうあれから月日が流れてしまって戻る勇気もなし……体ももう衰えてしまっている。それで困り果てていたところに君たちの事を思い出してね。それであなた方に今回依頼をお願いしたというわけだよ」


 こちらの予想はいとも簡単に外れる。それに少しばかり安心している自分がいたがどこか気恥ずかしい。


 少しばかり頭に熱気が籠ったのを感じて、紅茶を再び手に付けた。小一時間放置されたそれは少し冷たい。

 捉えていた筈のものがまた未知に戻って、頭の中に一抹の不安が浮かぶ。


 理由を述べ上げていたときの老紳士は時折月見里の方を見てどこか遠い目をさせながら、笑っているのか悲しんでいるのか何か懐かしんでいるような複雑な表情をさせていた。


 そんな彼の表情をあまり見てはいけないような気がして、月見里に目を逸らすと彼女は彼女で困惑した顔つきをして老紳士の目を見つめていた。


 「おじさん、昨日も聞いたんだけど。そのねこたちってなに?りょおじょく?しょくしゅ?せいかん?それともじゅうかんの仲間みたいなやつなの?」


 月見里は平然とこちらも言ったことのない猥雑な言葉を老紳士に吐きかけた。

 まるで鉛筆とクレヨンってどう違うのと聞くような声色であった。 


 月見里がこちら以外の人と話をしているところはあまり見たことがないので想像の範疇でしかなかったが、外見は華凛で純粋無垢そうな幼女から卑猥で猥雑な言葉を口にしているのを目の前で見るとそのアンバランスさが際立つ。


 だが、あまり驚くことでもない。隠していたつもりだが、あれだけ何度も売り子をしていれば気づかない方がおかしいだろう。


 しかし、老紳士は当然のごとく目を丸くして驚きを隠しきれていなかった。


 「いやぁ、なんと……失礼。ああ、そうだった。」


 老紳士は狼狽してうなだれ、何かを訴えかけるかのようにこちらを凝視する。

 こちらは嫌悪と気まずさを感じて目を逸らした。


 「そのねこたちというのはね、ちょうど……そうだね、君ぐらいの子が――いや、君よりもちょっと小さな子が好きな絵がたくさん入った本だよ」


 一時して、老紳士は持ち直したのか「醜態を晒して申し訳ない」と前置きを入れると、淡々と、だがまたどこか遠い目をしてそう言っていた。


 言い終わった後に、老紳士は自分の紅茶に手を付けた。

 そして、また沈黙。彼は紅茶に視線を落とした。その目はそこにあるはずの琥珀色の液体ではなく、どこか遠くのものを見ているようで、おいそれと触れてはいけないようなそんな目をしていた。


 「へぇ……私は絵本は10歳になる前にはとっくに卒業しちゃったけどね――」


 しかしながら、その老紳士の言葉を聞いた月見里はキョトンとした顔で彼を見つめると同じようなことを口にする。


 月見里から再び老紳士の表情が少し曇ったが、咳払いをしてにこやかな表情に戻すとこちらの方を向いて口を開いた。


 「どこにでもある絵本だけれども、発売される前に――あのが起きたからね。今はどこにあるのやら」


 老紳士は紅茶カップの底を見つめるようにまた遠い目をして呟いていた。


 何とも面倒くさそうであるが、金はともかく物資を目の当たりにしてしまうと断りたいという言葉が喉元から上がってこない。

 だが、頭の中に浮かぶのは、いつもの生活風景。


 今まで手を入れたことのないジャンルの本を見つけてくるのは非常に面倒くさいし、まずその「ネコタチ」自体見たことがない。


 それに権力者と関わること自体が厄介だと思える。


 「もしあなた方に余裕が無ければ、また今度お願いしたいが……どうかね?」


 その言葉に目の前で糸を垂らされているような気がした。


 老紳士はこちらが考え込んだのを見て察したのか、少々言葉を詰まらせて遠慮がちにそう答え、「渡したものはもう全部そっちで処理してくれて構わないよ」と続けて、愛想笑いを浮かべていた。


 だが、そんな態度を取りつつも、老紳士は未だにこちらを見続けている。

 こちらのイエスという言葉か首を縦に振る行動を待っているかのようだ。


 正直、今日出会ったばかりの人間に期待の目を向けられるのは、あまり心地の良いものではない。

 人間というのはあまり知らない人間でも、それが最後の綱であれば無責任に期待をかけるのを容易く出来るものだ。 


 とにかく、社交辞令であっても彼の好意に甘んじたいところではある――ところだが、それもバツが悪いので、後で金と物を返してしまおう。


 いや、しかしここで断ると口にすれば老紳士を不快にさせ、バタフライエフェクトよろしくの要らぬトラブルを招くことも容易く想像できてしまう――。


 YESかNO。

 それ以外のものはないというのに、別の回答を探している自分がいる。その結果は既に知っていると言うのに、口を開けても言葉が出てくる気配は一向になかった。


 「大丈夫、私たちはプロ!絶対それ取ってくるから!」


 しかし、代わりに幼女の意気揚々とした声が隣から飛んできた。見れば月見里が、宙に剣を揚げる戦士のごとくソファから立ち上がり胸を張り、「ねっ?」とこちらに念を押してくる。


 高そうなソファに靴底がべっとりと付いていることに不味いと思い座らせようとするも、その前に老親は愉快そうに声を張り上げて笑いあげ、威風堂々たる屹立をした。


 こちらの手に分厚く硬い感触。


 握手をされたのである。


 ブンブンと残影が残りそうなほどに手を上下に振られ、どうしていいのか分からずされるがまま。こちらを覗きこむ彼の顔はかなり鉄を打ったような熱い眼差しだった。 


 勝手に返事をした月見里に怒鳴りたい気分だが、多分彼女が口を出さなくても俺はNoさえ言わずに固まってしまっていただろう。

 自分の考えをはっきりさせない自分に問題があるので何とも言えぬやるせなさを感じた。


 「あっ……いや……クソ」


 自分が選択せぬ間に、自分の運命が決まった。もう今はとにかく、早く帰りたい。


 そのことで頭の中が一杯だった。



 そして――長い長い握手が終わった。その間にお礼の言葉や激励の言葉をかけられたりしたが、それは遠い話のように思える。

 

 今は老紳士が月見里と少しばかりの歓談と抱擁を遠目に見て、満面の笑みで見送る老紳士とお土産を渡されホクホク顔で元気よく手を振る月見里を対岸が燃えているなぁとまた遠目で見て、屋敷を後にした。


 「はぁ……」


 「やっと終わってくれた」と溜め息をもらす。今はそれぐらいしか好材料が無い。


 「あのおじいちゃんいい人だったでしょ?」


 月見里が帰りの際に老紳士が持たせてくれたチョコレートを口の周りに一杯につけて無邪気な笑みをしてそう言った。


 能天気さに怒りたいが、そんな彼女の表情を見ていると何故だか諦観めいた落ち着きが湧いてくる。


 「ああ」


 と曖昧な肯定を少し呟いただけで、おもむろにポケットに左手を突っ込み、利き手で頭を掻き毟った。


 「……さっきの、ネコタチ……だっけ?ホンダのおじさんとか、タナカのおじさんに聞いてみるから大丈夫」


 月見里は微笑みながらこちらにそう元気づけるような声でまた誰とも知らない人の名前を挙げてそう言った。


 心なしか、彼女の笑みが少し無理して作ったような気遣いの笑みに見えた。

 

 それを見ていると、自分は何故こんな幼女相手に露骨に煙たがるような態度をとっているのだろうかと情けなく思えた。


 「その人たち子持ち……なのか」


 「……多分、違うと思う」


 「まぁ、そうだよな……」


 「それなら、図書館に行けば……いや、あそこに行っても仕方ないな」


 その言葉に月見里の同意の言葉は出なかったが、肩をすかめているのを見ると同じ気持ちではあるようだ。


 あそこは本が少なくて小難しい辞書や農業関係やら医療関係やらとにかく持ってきたこちらでさえも解読困難な専門書で殆ど占められているので意味がない。


 やれることとすれば、辞書で絵本という単語を調べるぐらいだろう。


 「まぁ、いい。下に降りた時に考えるしかないな――。悪いが、ちょっとこのあたりを周ってくる」


 「うん、分かった」

 

 「缶詰、あるところは覚えているか?」


 「うん、蝋燭のところの引き出しでしょ。じゃあ、先に準備してくる」


 と代わりにいつも通りの一時解散の挨拶をして、独り言を呟きその場を離れた。

 


 そうして、月見里の声が消えて、どの方向を見ても彼女の姿が見えなると、もう怒りは無く不快ではない感情が胸の中に渦巻く。


 それが何の感情か自分でもよく分からない。例えるならば電車の乗り換えに失敗して学校ではなく、別のところまで行ってしまったような、そんな感覚だった。


 しかし、思い返してみると自分は年中自転車通学だったような気がする。そういえば、自転車が壊れた後はずっと休むことなく徒歩で行っていた。ずっとずっと昔の話、もう戻れない。

 

 だが、もし電車通学に切り替えていて、違う駅で降りていたなら俺は学校に戻ろうとしていただろうか、それともそのままサボっただろうか――。


 そんなことを考えていると、昨日の東台の顔が頭の中に浮かびあがってきた。


 「東台のところに、行くか……」 


 ※ ※ ※


「あっ、八雲!今日も来てくれたんだぁ!」


「……ああ」


 うさぎのような愛くるしい東台の黄色い声。

 

 こちらがドアを叩くと「ちょっと待ってー」と声が聞こえたすぐ後に彼女がドア全開にさせて満面の笑みを咲かせていた。


 頭の中に思い浮かんだものの、その後何をするでも無く。


 しかしながら、家に帰るのも違うような気がして、同じ道を何度も何度もうろうろしていた。

 傍から見ると気持ち悪い行動に見えていただろうが、人通りのない道だったのであまり羞恥心は感じなかった。

 

 だが、焦燥感はふつふつと増していった。出発するのはきっと明日になる。今東台に会っておかなければ何度もこの光景を反芻して後悔と罪悪感を覚え続けることになる。


 こちらはそう考えて、真っ先に彼女のところへ向かおうとしたが――それでも昨日の東台の悲しそうな表情を思い出すたびにまた引き返した。


 しかし、また後ろ髪を引かれて東台の下へ、しかし、また戻り、それを何度も繰り返して上にあった太陽が西に斜めになるぐらいになってやっとのこと東台の家まで来たのであったのだが――。


 「浮かない顔だね。どうしたの?大丈夫?」


 東台はキラキラしたフローリングに目を落とすこちらを心配そうにこちらを見つめてくる。

 まるで昨日のことを忘れたかのような平然とした表情をしていた。


それに少しばかり安堵感を覚えるも、どこかで聞いた喧嘩の後女の子が笑顔でいたならばまだ結構怒っている時だという言葉を思い出して酷く委縮した。


 「その昨日は……悪かった。俺の――責任だ」


  それでも、こちらはこじ開けるように口を開いて、そう言った。

 胸にあったつかえが赦されたわけでもないのに勝手にどこかへと降りていく。


 「……え?昨日って?なにかあったっけ?」

 

 東台はきょとんとした顔であっさりと答える。 


 「いや、だから……」


 あれほどまでに顔をグシャグシャにしていた彼女が、こうもあっけらかんとした態度を取っているのか。


 驚いた自分は昨日のことを口にしようとしたが寸前で留めた。


 昨日のことを事細かに再現して話すことに意味の無さを感じて、それで東台がその時のことを思い出して泣きだしたらこちらはどういう対応を取ればいいのかが分からなかったのだ。


 それに忘れてくれたほうがこちらにとっては気が楽だったのである。

 逃げは勝ち。問題を先延ばしにしているだけなのだが。


 「いや、いい。また明日に出発するから……契約は守る」


 「うん、ありがと!でも、出発の時に挨拶してくれるなんて初めてだね!」


 「ああ――そうだな」


 だが、そんなことを考える昔からの自分の性分に嫌気がさし、しかし、謝罪を述べた後でもどこかの風景を見ているときのような何の含意のない目でこちらを見ている東台にもう一度説明する勇気もなく、「取ってきたらまた来る」とだけ言って後にしようとした――


 「あの、ちょっと、いいか」


 何故か後にはしなかった。いや、なぜ後にしなかったのか。

 

 何か心残りがあるような気がして、どうにも足が重かった。


 「ん?どうしたの?また何か食べてく?流石に、スパム缶はないけどね」


 そう言って、東台は舌を出して苦笑いを浮かべた。


 「いや、いい。なんというか、わ」


 また先ほどと同じ言葉を吐きだそうとしている。戻ってくるものも、多少の苦みの入った笑みと同じ言葉だろう。


 その言葉を口にしたとしても、この足取りが軽くなるようには思えなかった。


 「わ?」


 だが、一度口にした言葉は取り消せない。彼女はこちらの言った一言を繰り返して不思議そうにこちらの目を覗きこんでくる。


 その純真と言える瞳に、自分の胸に残る負い目に、いや、気にするなと言って、はぐらかすような事を言えそうになかった。


 「わ――分からなかったらいいんだが、「ネコタチ」という……絵本を知らないか」


  苦しむものは藁をも掴む。その時、東台が昔例の異世界ハーレムものの漫画を先んじて読むために書店でアルバイトしていたと話していた時のことを思い出して、何も恥も考えず口を開いてしまった。


 「へ?」


 「あっ、あぁーー!見たことある!そういえば、何月何日に発売だって倉庫に保管してた」

 

 藁というのは掴めたようだ。だが、その藁はずっと大きかった。何気なしに開いた棚から牡丹餅とかいう食べたことのない餅が降ってきたような高揚感を覚えた。

 

 「そうなのか!場所を、場所を、教えて――」


 しかし、自分の興奮する声を聴いて、現実に引き戻されて口を噤む。昨日理不尽に怒ったのに、頼みごとをするのがとても気が引けた。


 それに、何かより面倒くさい事態を招くような気がする。


 「ああ、いや、今のは忘れてくれ」


 教えてもらったとしても何か良策があるというわけではないし、変に借りを作ってしまうのもいろいろと不味い。


 「やはり、なんでもない、気にしないでくれ、ただ依頼品は取ってくる、これで最後だから善処するということを伝えに来ただけだ。それじゃあ」


 と言って、こちらは後にしようとした。


 だが、


 「待って!そこの鍵まだ持ってるよ!」


 「……なんだって?」


 思わず立ち止まって振り返ってしまった。

 

 そう言った東台の手には確かに鍵の形をしたものを持っていた


 「教えることは出来るけど、一つお願いを聞いてほしいんだ」


 東台は多少手をいじいじと動かしてからこちらの方を向きなおると、


 「私もネコタチ探しに、連れていって!」


 と瞳を輝かせ、老紳士でも見た輝くような笑みをこちらに見せていた――。


 

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