常連客

  

そうやって、中へと進んでいくと、肌色の混じった白髪を晒した老人たちがいる。その誰もがこちらに気付いていないフリをして、目の前のことに視線を固めている。


 以前なら、鼻白むような、呆れたような、憐れんでいるような、様々な視線を向けられることがあったのだが、最近はそれさえ向けられることがない。


 重苦しい雰囲気をおぼえていたのだが、いざそれが無くなれば、むしろ寂しいような物足りなさを感じてしまう。自分はマゾなのだろうか。

 否、ヒソヒソと湿った声がなくなっていることに清々している自分もいるのでそうではないのだと思う。


 そんな音も幻聴さえ無くなった頃には、もう誰かのためのお経ぐらいしか聞こえてくることはない。BGMがごとく耳に入ってくる。


 そうして、前方から見えてくるのは、赤みがかったオレンジ色のレンガ造りに似せた建物群。その中から、酷く際立つ白黒の鯨幕が浮き出ているのが見える


 進んでいって、視線だけそちらへと向けてみると、多様性のあるパイプ椅子が整然となんでいるのが見える。奥の方に安っぽい木箱があり、そこにおそらく遺影が写る写真立てが一つ載せられていた。

 おそらく故人だろうが、残念ながらその写真の中に入っている微笑みの老人は面識もなく名も知らない。

 

 その中で唯一何度も見たことがある白髪のお坊さんらしき人は、今日も写真立ての前でしわがれた声と共に薄いお経を唱えている。


 坊さんらしきとつけたのは、相変わらず彼が(同色ではあるが)つぎはぎが当てられて不格好になった袈裟を着ているからである。

 笑えばいいのか悲しめばいいのか分からないような風体であるが、彼らの着ている喪服もまた似たような状態であるので誰も彼も気に留める方がおかしい。


 すすり泣く声は無く、かといって粛々と行っているような雰囲気は無く、ただ平凡ともいえない空気感が漂っている。

 傍から見ていると奇妙な光景には違いないが、何を真面目にやっているのだと冷めたものを感じてしまうのは慣れてきたせいだろうか。それに参加する人たちも目にする度、減ってきている


 遺影よりももっと奥に押し込まれた溶けゆく蝋燭をなんとなしに一時眺めていたものの、結局こちらから見えるのは彼らの曲がった背中ぐらいしかないので、いつものようにお経が聞こえなくなるぐらいの奥へ奥へと進んでいく。


 その場所を過ぎれば、もう人がいない。


 昔は中心部にある観覧車を経由していろいろな場所に移動していたが、今はそこから少しズレた道に行ってショットカートするのがセオリーとなっている。

 進んでいけばどこにでもあったような大きなコーヒーカップの遊具が現れて、そこを通り抜けてしまえば白亜の豪華絢爛な中世ヨーロッパを模した建物が立ち並ぶというちょっとした異世界が見れる。


 だだ、坂道も多く不便なためかここにわざわざ来るような人間はいない。管理されていない道は布きれや紙切れや少なくとも汚いと言えるものが散乱して中世ヨーロッパの町並みというのを皮肉交じりに再現している。


 それでも、奥の方に行くと現代ぐらいまでの清潔感を保った道が出てきて、その一角にネオンの切れた無名の看板が一つ。出窓が備え付けられたレンガ造りの建物がひっそりと佇んでいた。


 管理している人の性格が如実に出ているものだが、埃か何かがこびりついたショーウィンドウからは中の様子は見えない。辛うじて見えるのは割れたウイスキーやワインの瓶で。昔はバーであったことが伺える。


 「おい、いるか?」


 その店のドアを叩いた。

 見た目重厚感を醸し出しているが、不思議なくらいノック音は軽い。


 しかし、すぐに中から「ちょっと待って」と声がしてドアノブの方から鍵を回す音が聞こえた。


 「あっ!やーくも!おかえり!」


 ガチャリとドアが開いて、ジーンズと某スレッドで流れてくるような文字入りTシャツを着崩した一人の美少女がいつもの笑みを晒して姿を現した。


 東台とうだい 鹿野しかの――今のお得意様である。


 以前、月見里が風邪をひいたとき、こちらが代わりに本を売っていた際に知り合った子である。

 具体的に述べるならば、道端で電柱みたいな接客をしているときに案の定気味悪がられ疎まれ閑古鳥が鳴いていた時に、唯一買ってくれた存在と言ったらいいのだろうか。 


 救世主的な存在だとは思うが、そのころにはとっくに嫌われていたし、そもそも挙動不審であったので話しかけてきた彼女の方が気味悪いと思ったのは別の話である。

 


 閑話休題。それからというものの、わざわざこちらを指名して買いに来るようになって、今では家に招かれるぐらいの関係性ではある――。


 だが、一人暮らしにも拘(かかわ)らず見るからに不審な男に平気で笑顔を向けていることに加えて、(冬に会ったこともないので分からないのだが)常に無地を前面に出した半袖Tシャツ一枚と長ズボンだけという色々と変わっている女性であることには間違いない。


 それだけ肌を晒していれば日焼けの一つでもしていそうだが、彼女の肌は白く透き通っている。どうやら、それごときの変なところでは、彼女の魅力は陰らないらしい。


 胸の部分に書かれた文字が見え切らないぐらいには膨らんだ乳房と引き締まったウエスト。

 しかし、彼女の顔はスーパモデルのような西洋的な凛々しさはなく、無垢な少女を表したような童顔というアンバランスさがあった。

 

 それが東台鹿野の魅力であることには間違い無く、この矢小間のしわくちゃな男の大半がそんな彼女に月見里とは似て非なる視線を向けていることには違いなかった。


 「一応だが……俺は毒虫だ」


 自分で名を名乗っておいて、とてつもない違和感を覚えるのが腹正しい。だが、目の前の彼女は月見里と門番の老人とは違い、あっけらかんとした笑みを見せる。


 「ごめんごめん。でもね、私にとっては小泉 八雲だよ!」


 「そうか」


 そういえば、この話をするといつもこの返しになることを思い出した。そして、出てくる結論は結局呼び方なんて好きにしてくれというものになることもようやく思い出した。


 「それに八雲も私の事東大寺で呼んだじゃん」


 「ああ、そうだったな」


 自分のことを棚にあげるつもりはないが、彼女自身人を変なあだ名で呼んでくるような残念な性格である。

 それなのに、悪感情一つ抱くことも無く、一目見れば身じろぎ一つでは済まされないぐらいの容姿が彼女にはあるのがとても嫌なところである。


 「約束のものを持って来たんだが――」

 

 「おっ、ありがとう。じゃあ、そういうのも上がってからお話ししようよ」


 「いや、大丈夫だ」


 どうして、独り身の女性が不審な男を家に誘おうとするのだろうか。世も末である。


 個人的には、そういう開けっぴろげに接されるのは悪くない気分だが、こちらは人を不快にさせやすい人間である。


 だからこそ、客に対しては多少の距離感が必要であると思っている。女性においては、尚更だ。東台に対しては一人の――多少他の人よりも顔を見知っている顧客として接するべきなのだろう。


 しかしながら、敬語で話そうとすると何やら困り果てるような、というよりも寂しそうな表情をしてくるので出来ずにいる。だから、基本的には月見里と接するときの言葉遣いに近い砕けた会話を行っていた。


 「いいじゃん。いいじゃん。久しぶりに帰ってきたんだから、今日もあがってってよ」


 フレンドリーなのか、ただ敬語を使うことに慣れていないのか、どちらかは不明である。


 しかし、どちらにしろ、こちら自身は未だ東台との不可思議な関係性に当惑しているのは確かであった。


 そんなどこに壁を置けばいいのかという下らない考え事している自分に知ってか知らずか、東台はこちらにフレンドリーにはにかんでいた。

 

 近くに寄ってきた彼女からのぼせるぐらいの甘い匂いがして、鼻孔をくすぐられる。

 その時に湧き出る感情が嫌ですぐさま後ずさりをして、彼女の視線から隠れるように横に向いて鼻を擦った。


 「不審な人間を――家に上げるのは良くない、と思う」


 しかし、毅然とした態度をとれるはずも無く、しどろもどろの言葉になってしまう。そんなこちらに東台の話術が負けるはずも無く。


 「それなら、八雲は大丈夫だね。あだ名で呼び合う仲だし。それに、何度も上がってるから、悪くても顔見知りじゃん」


 まだ初対面で東台のことを東台寺と呼んだことを根に持っているのだろうか。いや、彼女においてはそれはない、ただ単純に揶揄われているのだろう。


 そうでなければ、こうもあっけらかんと言わない。不審かどうかを言い出したはこちらなので、そんなことを言われてしまえばもう反論する術がない。口は禍の元である。


 そういえば、いつからこちらのことを八雲と呼んでくるのだろう。さかのぼってみると、確か初めて会った時に呼ばれていたような記憶がある。


 確か、彼女は小泉 八雲という人が書いた耳なし芳一という話に出てくるお坊さんに似ていると言われた時からだっただろうか。その人物はお経が書かれた紙を体中に巻きつけていたそうで、こちらの風体でそれを連想させてしまうのも無理はないだろう。


 失礼と言えるべき話かもしれないが、悪意含有率0パーセントの笑みで言われると負の感情の一つ、やはり生えてはこなかった。


 それに、こちらも東台寺と初対面に呼んでしまったのであまり強く言えなかったりもする。人の事は言えないが彼女も珍しい名前をしているのでどうしても呼び方が頭の中でこんがらがってしまう。


 月見里も東台の名前を聞いた時絶句したので、珍しさは折り紙付きである。個人的には、月が見えるから山が無い小鳥遊的な名前の方が珍しいと思うが――。


 「ん?どうしたの?」


 「ああ、いや、なんでもない。月見里」


 「月見里?いつも話してくれる唯ちゃん?元気してる?」


 「ん、ああ、ぼちぼちな」


 いろいろ考え事をしていたせいで、うっかり月見里の名前で呼んでしまった。


 東台にも彼女の話はしているので問題はないだろうが、何の脈絡もなく自分とは違う名前の人間を出すのは気持ち悪いことである。人が目の前にいても考え事をする癖をやめるべきだ。


 ともかく、いろいろとズレた感性を持ってはいるものの、架空の人物に例えられるほど風体が奇怪で中身もそれと劣らない人間に、顔色一つ態度一つ変えずに接してくる彼女に対して言い知れない温かみを感じている自分がいて、そんな彼女に対して強く言える勇気はない。


 「あっ、ごめんごめん。話が脱線しちゃった。ささっ、上がって上がって」


 「ああ、分かった」


 そうして、またなし崩し的に彼女の家へと上がった。中はショーウィンドウに放置されっぱなしの酒瓶が示す通り、赤みがかった木材が充満したカウンター備え付けのバーの名残を見せている。


 しかしながら、酒が入っているはずの棚にはサツマイモが入っておりバーというには色々失ってしまっていた。


 「ささ、どうぞどうぞ。座ってお客さん」


 「わかった」


 今すぐにでも開店出来そうな雰囲気ではあるが、残念ながら肝心なものが揃っていない。

 だが、東台はこちらはカウンター席に促すと、構いもせずいつものようにカウンターの後ろに立ってマスターとお客の構図を取ってくる。


 今の立場的に、反対ではないだろうか。 


 「約束の品だ」


 こちらはリュックサックから先ほどの本を抜き取って手渡した。


 「うん、しかと受け取りました。ありがと」


 渡したものは、勿論成人向けの本ではあるのだが、うれしそうな顔でそれを受け取るのを見ると本当に脳がバグる。


 豊満な体つきをした美しいエルフに囲まれたイケメンの男性が書かれた表紙を、子供が絵本を見るときのそれに近い表情をしているのだがまた――。

 いや、俺は東台の趣向がどうこう言えるほど価値のある人間ではない。


 「これ結構古いやつだから、見つけるの大変じゃなかった?」


 「いや、いつも通りだった」


 いつも通り。お客相手に年々本が減ってきて、店じまいするのも時間の問題だと言えるものでもない。


 「ふぅーん、そっか。本当ありがとね」


 そう言って、また彼女はまた本を見つめ、いつもの笑顔からまたあの表情がのぞき込んでくる。

 ぼんやりと何か懐かしむような、おそらくどこか別の遠いところを見ているような、そんな表情をしている。時折、見せるその顔がアンバランスに思えて、不思議でならない。


 彼女が言うには、この本は子供のころの思い出の品であったようである。しかし、その程度では別世界の住人のような表情になり得るほどとは思えなかった


 「あっ、ごめんごめん。またボーっとしちゃったよ。ささっ、何がいい?」


 思考の渦から浮き上がってきた彼女が、こちらにいつもの笑みを向ける。


 あまり彼女の素性に突っ込んでいいものではない。

 正直、渡すものは渡した。後は貰うものだけもらって、帰りたいところだ。しかし、どういったところで、東台はただでは返してくれない。彼女にも意外と頑固なところがある。


 「なんでもいい」


 「なんでもいいが一番困るんだよねえ――」


 困ったような声をあげる東台は、仕方なしとカウンターの後ろ側にある冷蔵庫から水が入った容器を取り出して、カウンターのコップを注ぎ、こちらの前に置いてくれた。


 コップの中を見ると並々と注がれた水の中に大きな氷が入っていて美しい。これも彼女が作ったのだろうか。

 こちらは長い距離を歩いてきたせいか喉はカラカラである。東台が持ってきた水をコップへと注いで一気に飲み干し喉を鳴らす。

 酒であったらどれほどのど越しが良いのだろうか。もう飲める年齢にはなったが、飲もうと思ったことがあまりない。

 

 酒の匂いぐらいは、味わっておこう。それぐらいなら、このオレンジ色に輝く部屋の中で存分に味わえる。


 半世紀以上放棄されていたフローリングに埃などのゴミが全く落ちておらず、天井に吊るされた淡く優しい黄色の電球がワックスの光沢に満ちた床を照らす。黒ずんでいるが、

 彼女の几帳面なところが隅から隅まで滲み出ているようだ。


 これで東台がカウンターでカクテルを作っていたら形だけでも古き良き昔に戻れたかもしれないが、棚にあるのが土がこびりつくサツマイモだと、途端そんな幻想はぶっ壊される。

 そのうえ、優しい光と思った電球の光は、工夫も糞も無くただ単に寿命がそろそろ近づいてきただけで嫌と言うほど現状を思い知らされる。


 「って言いたいところだけど、実はね。今日はとっておきのものがあるんだよね」

 

 喉元が潤う感覚に一息ついていると、ウキウキとそんなことを言ってきた。まだ何かあるようである。なんだろうと目を向ければ彼女の尻が目の前にあったので、思わず目を逸らす。

 冷蔵庫から何かを取り出そうと頭を突っ込んでいるようだが、目のやり場に困って気まずい。


 「いや……そこの棚のやつを貰えると助かる」


 目を逸らしたまま、おそらくサツマイモがぎっしりと詰め込まれているはずの棚へと指を向けた。

 

 芋なら腐るほどある。東台には悪いが、小さな缶詰一つであっても貴重品なこの世の中、下手に何かをもらえば、あの時はああしたのだから頼みを聞いてくれるのが筋だろうという面倒くさい話になりかねないことを出来るだけ避けたい。


 とはいっても、彼女からそんな事を言われた経験は一度も無いので、自分の心持ちでしかないのだが――。いや、溜め込まれている分、油断もできない。


 「えー?こんなの駄目だよ!腐るほどある配給品だし。久しぶりのご帰還なんだから」


 しかし、東台は負けじと、冷蔵庫から自分の頭を引っ張りだして、「本当に、すっごいやつがあるんだから」と、オーバーな身振り手振りで言っていた。


 「いや、肉は外で調達できる。だから、あまり必要はない」


 「え?本当に?いいなぁ、豚?牛?鶏?」


 東台は子供の様にカウンターから身を乗り出して目を輝かせる。


 「――選り取り見取りだろうな」


 ちょっと外へ出てしまえば野生動物が闊歩する世界である。だが、狩り方も狩った後の肉の捌き方も知らない自分にとってはその選択は取れない。


 昔、門番の老人は猟師をやっていて狩った猪をよくしし鍋にしていたということを月見里経由で聞いたことがあったが、それを頼めるほどの仲では決してない。


 「へぇー。あっ、じゃあそれなら今度は鹿肉持ってきてよ。一度食べてみたかったんだよねぇ……」


 東台はカウンターに頬杖ついて口から出た涎をそれで受け止めうっとりとした目で天井を見つめる。


 こちらの視線は彼女に吸い込まれた。


 正確に言うなら彼女の胸だ。大きなそれはカウンターの上で豊かに流れる谷間を作っていた。


 「またか、クソ」


 自分の中から生臭い熱が湧き出ていることに舌打ちして、彼女のそれから目を逸らし咳払いをした。


 「どしたの?」


 「ああ、いや、なんでもない。さっきの話だが、肉は腐りやすい」


 「うへぇ、それは嫌だね」


 「いつか本も腐っちゃうのかなぁ」


 「それはまだ大丈夫だろうな――契約は守る」


 「うん、お願いね!最終巻はメロブとかで売ってるやつじゃなくて夏コミで発行された限定物だよ!」


 「ああ、東京に行けたらな」


 「あー、やっぱり厳しいかあ」

 

 そういって、わざとらしく肩を落とす東台。そんなことをされても、残念ながら距離感は変わらない。


 「はい、これ!」

 

 そして、彼女の声が溌溂なものに変わった瞬間。こちらと向かい合うように座ったと思ったら妙に変わった形をした缶詰を2つほどこちらの前へと置いた。


 「いや、だから――」


 「八雲、これ好きでしょ?」


 いや、だから、その妙な形をしている缶詰はこの世に一つしかない。手に掴んだそれに目に留まった瞬間。拒む言葉をつむぐはずの口から涎が垂れた――


 「たまぁに、おじさんたちに貰うんだけど。私あんまり塩気の多いお肉食べられないんだよねぇ」


 「一つ――いや、2つ貸しだ」


 そう言って、こちらは悶える手で片方をリュックサックの奥へと沈みこませ、はやる手でもう一方の缶詰のフタを開いた。


ああ、べっとりとして脂っこい肉の臭い。健康に悪い癖に、これがどうして食欲をそそる。


 「貸しなんていいよ!むしろ、食べてくれてありがとう」

 

 そう東台の言葉を合図にして、待ってましたとばかりに目の前の肉を頬張る。


 台形の形をした外観に「SPAM」という英文字と共に成型肉のイラストがラベリングされている缶詰。さび付いてるはいるものの、特徴的なデザインといい、中身の肉の味が何ともジャンク的で退廃的な味と食感が無性に食欲をそそられてしまう。


 昔は腐るほどあった保存食といっても、保存状態最悪で工場も動いていないとなれば跡形も無くなっていく運命である。


 これを見つけるとなると一体どれくらい苦労するのだろうか。こんな貴重なものを貰える東台の魔性ともいえる魅力には舌を巻くものだ。


 そんな魔性の女、東台は平然とした顔で、本の中の男女の交わりを一般雑誌のように読み進めている。


 そして、こちらは缶詰の壁にこびりついた肉を無心で缶の底に穴が開くほどこそいで舌に擦り付け、東台は昔のアルバムを追憶するかのように持っている全ての本を読み返そうとしている


 つまるところ、何か喋るわけでもなく互いに自分のやりたいことをやっていた。

 こちらとしてもこの沈黙の時が、暖炉の温かい火にあたっているような気分があって居心地悪いと思うことはあまりない。


 しかし、この時間はコップの中の氷が溶けるよりも早く終わってしまう。

 自分と言うのは厄介なもので、手持ち無沙汰感があるとかえって沈黙が気まずくなり、話題も思いつかないと言うのにこちらが東台に対して口を開くのである。


 いろいろときっかけや沈黙の時間にばらつきがあるが、今回の始まり方は、東台が新たな本を読みだす前にスプーンから伝わる味が完全に肉から鉄に変わって手持ち無沙汰になったので耐え切れず口を開くようなものであった。


 「少し構わないか、東台」


 「ん?」と東台の顔がこちらに向く。


 「その本のどこが好きなんだ?」


 世間話と言っても、今日の天気は云々かんぬんの程度のことが多い。だが、こういった成人向け雑誌を取引する関係上、どうしても気になって下世話な話題を触ってしまうことがある


 しかし、こういった直接的な話をするのは初めての事で、言いながら後悔が湧いてきた。


 「え? うーん、なんでだろ……」 


 しかし、初めてのあからさまな質問に対しても東台は多少眉をあげるも、それ以上の特段変わった反応を見せることはなかった。


 そして、睨むように本に目を向け天井を一目するも、それが終わって向けられたのは未だ平然とした表情である。


 「ストーリとかも面白いけど、思い出深いから見てるのかなあ」


 「なるほど」


 何故その本だけを見るのかと尋ねたくなるが、人の事を詮索しすぎて得をしたことがない。こちらは口を閉じた東台にそれ以上何も言わず、再び空になった缶詰を睨み付けた。


 しかし、彼女はこちらの意図を汲み取ったかのように本を閉じると、


 「他のエッチな漫画とかは見ないんだけど。これだけはね。思い出深いから」


 といつもの笑みを見せてそう言った。


 「思い出深い――?」


 昔、と彼女は言うが、童顔ということも相まって、(スタイルは無視するとして)見た目からして一番甘目に見て高校3年か、もしくはまだ高校に入ったばかりの少女のように見える。


 そんな子供が終わりかけるぐらいの子がいつから成人向けの漫画を読んでいるかを突っ込みたくなるが、単純にその漫画が何故思い出深いものになったのかという方に疑問を抱いた。


 「うん、そうだよ」

 

 東台はそう答えた。


 確かにこのような聞き方をすればそのような答えが返ってくるのも無理もない。


 だが、普段饒舌な彼女が淡泊な返答をして話をすっぱりと終わらせたことに、少しなりとも奇妙な感じを覚えた。いや、ただ単にこちらの質問の仕方が悪いせいだけなのかもしれない。


 浮かべる表情はなおも変わらず、花畑の一つや二つで転がってそうな笑みのままで、流石に考えすぎかと空いた口に水を入れて頭を冷やす。


 そんな頭に話題を切り替えるため話題もなく、少しの間沈黙。そして、今度は東台が口火を切った。

 

 「そういえばさ、仕事の方はどうなの?」


 「いつも通りだ」


 「おお、儲かってまんなあ。でも、最近いろいろと痩せてるよね?」


 「……いつも通り、本は売れてる」


 彼女が口にしたのは仕事の話だった。この類の話題がそう珍しくもないのだが、自分がやっている仕事の内容的にあまり口にはしたくない。最近の体たらくを思えば、閉じた口が鋼鉄の扉のようにもなってしまう。


 だが、ここで嘘をついてもいつかはバレるのだ。それに、興味津々に光る彼女の目を見ていると、嘘をつくのもなんだか憚れた。


 「……もうそれしか、残っていない」


 「え?そうなの?昔はチョコレートとかクッキーとかたくさん持って帰って来てたのに?」


 東台のその問いに、在りし日の栄光が見えた。だが、それも昔取った杵柄。これこそ、あまり喋りたくない理由の一つで、一度開いた口は貝のように閉じてしまう。


 しかし、首だけは弱々しく横に振れた。どんな小さい栄光でも、終わるときがくる。 


 賞味期限があるものなら猶更。元々保存食と言われているクッキーであっても、こうも長い年月が過ぎてしまうとほとんどがカビてしまう、運が良くてもふやけたようなものしか見つからない。


 「じゃあ、薬とかは?おじいちゃんたち、もう傷薬も切れそうだって言ってたよ」


 彼女の問いに、また頭を横に振った。


 薬も持ち帰ってきていたが、薬も食料品より持ちが長いというだけで、数年過ぎれば使用期限が過ぎて使い物にならなくなったのである。 


 糖尿病とか心臓病とかの持病の薬を頼まれたこともあったが、そんなものあるわけもない。例えあったとしても、学のない自分では到底取ってこられる代物でもない。


 「あっ、それじゃあ、たばことかお酒とかは?まぁでも、私そういうの飲めないから。貰っても仕方いんだけどね」


 そう言って、東台は舌を出して苦笑いを浮かべた。頭を横に振る。


 こちらも酒はいくらかやったことはあったが、最近の若い者はという言葉の通りたばこ一本吸おうと思ったことは無い。

 

 タバコはともかくとして、酒は長い年月をかけるほど上質な味になるという話を聞くが、保存状態が良ければということで、人の手入れがなされていない環境下ではいとも簡単に飲めるものではなくなってしまう。タバコも同様だった。


 「うーんと、それじゃあ電球とかは?最近街灯が切れちゃったところがあるし、それに私の家の電球も切れそうなんだよね。あっ――ほら、今ちょっと点滅したでしょ?」


 ほんの少しの間、沈黙。何かないかと天井を見上げていた東台が、瞬きするように一瞬消えた電球を見つけて指を差した。


 しかし、そんな閃きも現実の前では首を縦に触れない。


 これも確かに持ち帰ってはいたが、直射日光でも劣化してしまうのと、これまた多湿の環境下では(それでも薬や嗜好品よりは持ったほうだが)そう時間もたたないうちに壊れてしまった。


 家に取り付けられた電球とかはまだ動いているものもあるが、ズカズカと家に入り込んで物を盗んでいくことにどうしても抵抗がある。


 それに『あれ』の住処になっている可能性もあるので、頻繁に変える必要もない電球一つにリスクが見合わない。


 ただ、冷蔵庫などの容器に守られたものならばまだ稼働できるのもあった。

 しかしながら、バイクと徒歩で行動するこちらにとっては流ちょうにそんなものは運べないし、分解する技術もない。それに――。


 「もうどれも、皆必要としてないだろ……」


 「……」


 帰ってくる度に聞こえてくるお経と鼻腔を刺す線香か灰の臭い。そんなものが漂う街を存続させようとする気力はもう誰にもなかった。否、もう元に戻そうにも戻せないと言った方が正しいだろうか。


 「前は、専門書とか……」


 重い沈黙の中、東台が慰めるように言葉をあげるが、どの言葉にも首を縦に振れそうにはない。


 ちょっと前までは誰かの思い出の品やら練炭とかやら、適当な小説を調達していたりしていたのだが、そうもしないうちに売れなくなった。


 「なんでなんだろうな」


 そんな言葉がカウンターに零れて消える。 

 

 どういう数奇な運命の導きか、何故今も本を売っているのだろう。


 ただ一つだけ、成人向けの漫画だけは売れたのだ。あれが下びれてもそういう欲は無くなることはないらしい。


 いや、もう死ぬ前の生存本能と捉えたらよいのだろうか。少なくとも消耗品になれるぐらいの欲はあった。


 しかも、それをそのまま渡すのは憚られるというから文学書を挟み込んで売っているのが、なんだか大人の建前的なものを感じて下らなく思える。ただ、その分の料金も取れるので一石二鳥ではあった。

 


 「なんだか、落ち込むなあ……もうケーキとかドーナツが食べられないんでしょ?」


 「嫌だな」


 東台は頬杖をついてため息をついた。


 こちらも正直ため息を出したくなる。これを考える度に月見里が成人向け雑誌を売っている姿を思い出してしまう。


 依頼者の家に赴きバッグから文学書を渡して、それを苦々しさを残した微妙な表情をして受け取る依頼者。「マッチ売り」ならぬ「花」売りの幼女の姿である。


 そんな不謹慎な言葉も出てくれば、より一層気分が沈み込む。しかし、それをやらせているのもまた自分であって、この感情は偽善のように思えてむしゃくしゃする。


 それに売れるとは言っても、下に行く手間を考えたら雀の涙程度の利益である。当然、こんな下世話な商売。誰からも感謝されることはない。

 可憐な少女に売らせているので、猶更なことだ。昔取った杵柄を切り崩して、どうにかこうにかやっていけている。


 もうここまで来たら東台や他の皆に混じって農作業でもするべきなのだろうが、生憎こちらの風体はあまり好かれるものではない。


 沈黙にやりきれなくなり、荷物からアルコールスプレーを取り出しスプーンと缶詰に振りかけて、「ごちそうさま」と椅子から立ち上がった。


 「あっ!ちょっと待って!今持ってくるから」


 東台はそういうと、小走りでカウンターの奥の方へと走っていった。

 そういえば、まだ金を受け取っていなかった。


 「はい、これ。ゆいちゃんにもよろしくね!」


 帰って来た東台がそう言って渡してきたのは、東台愛用の小鹿がデフォルメされたようなキャラクターが所狭しとあしらわれたピンク色の封筒だった。

 ちょうどお年玉袋に使われていそうな子供っぽいものだが、月見里はあまり喜ばない。


 「ああ。悪いな……そこに置いてくれ」


 そう言ってこちらは玄関にあった机を指差した。


 「普通に手渡した方が早いのに」


 「……そこに置いてくれ」


 「もぉ、闇取引ごっこ好きだよね」


 「私も好きだけどさ」


 東台はそういって、こちらへと近づく。また揺れているのに気づいて、こちらは彼女から机の方へと目を逸らした。


 「わっ」


 その時、東台の驚嘆の声が聞こえた。直後、こちらの腕に柔らかな感触があって、見ると東台が腕もとにいた。


 どうやら彼女が転んでしまったのだと気づくが、それよりもずっと重く熱い感情が身に押し付けられる。

 それには見覚えがある。忘れたくても忘れられない脳を焼印を押されているような――。大声をあげて泣き出す幼女、あの光景が。


 「びっく――『なにしてんだ?このクソアマ!!』」


  その事に頭が圧迫されたような熱を覚えて、彼女の体を乱暴に振りほどき床へと転ばせてしまった。それがまたあの時のことを再現していて、それが余計神経を逆なでされる。

 

 だからか、自分自身の声がこれほど野太かったのかと驚くほどに汚い怒鳴り声を浴びかけた。


 東台は立ち上がらない。点になった彼女の目にはみるみるうちに涙が溜まり、笑みは消えて表情は曇る。

 まるで親に叱られた子供のような顔で――和やかな雰囲気はどこかへと消し飛んだ。


 正当性のなかった怒りを爆発させた自分に羞恥を覚え、気まずさと後悔が胸を刺す。だが、それはもう後の祭り。


 「……その手は――消毒しておけ」


 東台の表情はもう見られなかった。

 捨て台詞のような言葉を吐いて、封筒を握り潰しそそくさと外へと逃げた。


 こちらが勢い余って閉めてしまったドアから酷く嫌な音がした。

 少しばかりの後悔をしても、握ったドアノブからは軋む音が消えることは無い。


 「俺は毒虫なんだ」

 

 毒虫は触れる者を毒で犯し、患部を自分と同じような醜い姿に変える。


 俺もその名に違わない、否、だからこそ、この名前なのだ――。


 頭に乾いた草でも擦り付けたら火が出るほどの短気で、我も忘れて大人げないほどに歪な怒りをぶつける。本当にどうしようもない。


 こんな情けない自分に舌打ちをして、何もか変わらないため息を吐く。泥につかったように重くなった足を引きずり、ゆっくりと帰路についた。



※ ※ ※




「避難所」に行くまでの階段のように急で長い坂道を登りあげ、息を整えようと膝をついた。落とした視線には無数の太陽光パネルが広がり、芋の葉が濫立する畑群が遠くに広がり、より向こうに人の灯が佇んでいる


 疲れ切った頭に東台を罵倒した光景が目に浮かんで、一人後悔というかバツの悪さを感じ、どこともつかないところから視線を逸らした。その先に見えるのは、先ほどいた「中世パリ」の町。


 太陽の明かりは三日月に蓋をされて黒一色。その中で、唯一光るそれはかなり目立つ。しかし、その光は明滅していて、ちらほらと消え始めているところもあった。

 東台も眠っているころだろうか。


 しかし、「中世パリ」から観覧車を挟んだ対角に位置する精巧な赤茶色の煉瓦造りの建物が小奇麗に林立している場所は『中世パリ』よりも少しだけ明るく輝いているように見えた。


 以前は「ボストン街」という名称だったらしいが、今は管理する側のただの居住地である。

 そこだけは当時の豪華絢爛さを未だ――と口上を続けたいものだが格差というものが作れるほど豊かではない。


 芋だけはたらふくあるぐらいの、そんな場所。


 かなりの大昔では至る所にサツマイモが植えられていた事があったと聞いたことがあるが、それは机を枕代わりに出来るような古い古い戦争の話で出てきたことだと記憶に留めている。


 その光景を写真でしか見たことは無いが、サツマイモ畑はどこかそれと似ている。雰囲気も、現代人ながら似ていると思う。

 ならばもう、皆、この時代を生きていないのだろうか――。


 自分は今ある現実に目を向けているかと言われると――頭を縦には触れなかった。

 

 「どうだっていい……ことか」


 難しいこれから先の将来を考えるのはくだらないと言わんばかりに、先ほどの東台の表情が逡巡する。


 勝手に白けて膝を叩いて立ち上がり、後ろを振り返って、目の少し先にある自分の家へと近づいた。


 港にあるコンテナのような構造物にツギハギ状にトタン板が貼られた建造物。以前は、違和感しかなかったが、年数が経ってくると見るとなんだか落ち着く。


 その感触は相変わらず蛇の鱗のような冷たくざらざらとしたものであるが、無骨なそれに妙な安堵感が沸いてくる。


 ある程度放置していたはずだが根無し草などの雑草が生えておらず、ただ所々に点錆があるぐらいで前と変わらず建物としての機能を保ち続けていることが、愛しのマイホームと呼べるほどの愛着を沸かせる所以ともなっていた。


 「家の中は大丈夫だろうか」と次はドアノブに手を伸ばしてみる。ドアノブと言っても取ってつけたような取っ手だ。


 鍵は腐り落ちたので、年中来る人は拒まない。少し引っかかる感触がある程度で、問題なく開いた。


 昔は、管理事務所、というより詰所として使われていたらしい。そういう所だとドアの横の看板に掲げられていたが、今は剥がれ落ちてどこかへと消えてしまった。


 色あせた白い壁には窓というものは一切なく排気口が壁に一つ、丸っこい電球が申し訳程度に天井の真ん中あたりに垂らされているだけの殺風景な空間。その上、そのたった一つの物も断線か、腐食か、明かりはともかくつかない。


 尚更のこと窮屈で閉鎖的な印象を見たものに受けさせるが、この窮屈さが還って真冬の中の布団の中にいるように思えて安らいでしまう。


 そういえば、まだ蝋燭はあっただろうか。

 幸い月明りはあるので、ドアを開けっぱなしにさせて部屋の中を見回してみる。


 すると、見覚えのあるところに蝋燭を見つけた。


 だが、もはや蝋燭の形は成していない。ドロドロとした液体のようになったそれは辛うじて火を灯す芯残っているぐらいで、おそらく後一回点けてしまえばおそらく使い物にならなくなるだろう。


 「また月見里に買ってきてもらうか」


 事前に確認しておくべきだったと後悔はするも、無くなったものは仕方がないと蝋燭に火を灯した。


 鈍く淡い光から映し出されるのは、相変わらず無機質な室内。


 開いたドアのすぐ左に頭を回してみると、小さなコーヒーテーブルがあって、その上にはカップではなくガスコンロやガスボンベが雑多に置かれている。

 

 その雑さに泥棒が入ったのかと勘繰りそうになるが、残念ながらその惨状は出る前と変わらない。

 上に載せられるはずの調理器具はないが、それは地べたにタオルを敷いて適当に転がしている。大抵は湯を沸かしたり、芋を焼いたりとかそんな事でしか使わないので困ることは無い。


 だから、椅子が無く。代わりにその反対側にあるベッドで食事をとっている。

 

 そのベッドは鉄パイプと布だけという粗末なもので、向かう合うようにして並べているが、カーテンを引いて蝋燭を上に置いた箪笥を挟み、互いの視線を遮らせるような位置取りを行わせていた。


 月見里が使っているベッドには、定番のテディベアの姿はなく、彼女の大好きな折れミミちゃんというウサギの縫いぐるみを筆頭とした可愛らしい白ウサギのぬいぐるみが枕元を包むように置かれており自分色を極めている。

 

 ベッドのシートもそれに合わせてデフォルメされた兎が柄として入っているピンクのシーツがかけられて、その枕元のすぐ下に彼女の体がすっぽり入るような溝ができていた。多分、この中に本物の兎を投げ入れても、月見里は気にしなさそうである。


 本数冊といつ使うか分からない地図の束がばらまかれていて、投げ捨てられたように置かれたこちらのベッド。


 端々に女の子らしい、相変わらず可愛げのある趣向が凝らされた月見里のベッド。


 少なくとも、どのベッドが誰の物か瞬時に分かるぐらいには、対照的なものだった。


「まだ帰っては来ないか」


 そう言って、再びドアを開いて、街の方を眺めた。もう一方の持ち主はまだ帰っては来ない。先ほど見た景色が嘘であるかのように電気が消えているが、それでもまだ自分の顔に薄っすらとした光がつくぐらいには明るい。

 

 基本的に、月見里は街灯が完全に消える直前に戻ってくる。彼女曰く消える前に街灯が点滅するので売れようが売れまいがそれを合図に帰るのがちょうどいいぐらいなのだそうだ。

 目を凝らしてみれば、目に見て分かるくらいには所々で点滅しているのが見えた。


 「フゥー……」


 提げていたリュックサックから開封してなかったスパム缶を取り出し彼女のベッドに置くと、鏡を手に取りベッドに座った。

 

 鏡は月見里の私物で、これまたピンクの可愛らしい細工がなされている手鏡、よく月見里が身だしなみを整えるために使っている。


 しかし、その殆どが月見里の尻かこちらの尻に押しつぶされ今ではこの一枚しか残されていない。


 「自分の所に置いておけよ」とこの場にいない月見里に悪態をついて鏡を拾い上げると、


 「っ……」


 不意に自分の顔が鏡に映し出された。


 服とも言えなくなった襤褸切れをターバンのように顔に巻き付け、そこからのぞき込ませた右目は痩せこけたヘビのような狡猾な瞳を光らせる。

 

 耳なし芳一というのは、ここまで酷い姿をしているのだろうか。


 巻いているものが緩み弛んで所々露出した肌は爛れてケロイドとかいう皮に覆われている。少なくとも耳が一つ二つ無くなったところで、これほどまでに酷い姿にはならないだろう。


 この街の老人からはらい病とかなんとか言われた記憶があるが、人間の皮を被った化け物と言ったほうがまだこちらを表せるだろう。


 いつ何時も決して変わらない顔。


 刻み込まれたそれを一瞥して、すぐに月見里のベッドの縫いぐるみの一つに鏡を掴ませて、消毒液を浴びせかけた。


 そして、再びベッドに座り、リュックサックに手を入れ、ゴツゴツとした重みある金属の感触を確かめ引き上げる。


 「弾はそうか……補充しておかないとな」


 引き金傍のボタンを押して、マガジンを手の中に落としてみると驚くほど軽い。


 5年前は引き金さえ引けば弾が出るという認識程度であったが、銃の重みで残弾がどれくらいあるのかということが理解できるようになった。


 しかし、未だにこの銃の名前は分からない。ただ、これが自動拳銃と呼ばれているのは知っている。よく警察のホルスターの中にしまわれている拳銃であったことも記憶に留めている。


 その鋼鉄製のスライダーには何やら英語で刻印が彫られており何を意味しているのかさっぱり見当がつかないが、最後にUSAと印字されていることからアメリカ製の銃であることも分かる。


 そのイメージ通り、握った拳が小さく見えるほどサイズは巨大で人を一発で殺せるほどの重厚感を漂わせていた。


 銃口を覗き込んでみれば、ライフリングは多少摩耗した感じあるものの未だ綺麗だった。スライダーには摩耗も、申し訳程度の木の温かみが混じったグリップさえも削れてはいない。ただ冷えきった一発の銃弾が銃口から覗きこんでいるのみである。


 こちらはその弾頭を凝視した。弾丸を取り除こうとするわけでもなく、逃避するように瞳の焦点が合わなくなるほどただ漫然と見つめる。


 ぼやけた視界に見えてくるのは銃弾ではなく、何度も反芻してきた自分の成れの果てた姿で、それに至るまでの過去。


 光が消えていく左目。顔面を『あれ』に噛み千切られ、自らを火で炙った時に嫌というほど味わった痛み。


 その痛みがどこかへ消えてなくなってしまった今の自分。


 しかし、その与えられるべき痛みを失くそうが、名前を失くそうが、まるで変わらない自分が今ここにいる。


 レバーの位置を変えた。それが安全装置であることはもう理解している。


 溜め息ともつかない長い息を吐いて銃口に額に押し当てた。引き金にかける親指がわずかに震えているのを感じた。


 今もこうして生きている理由は、何なのだろう。自問自答して浮かんでくるのは罪悪感一つまみだけと、後は死んだらどこへ行くか分からない恐怖。


 ほかにもきっと理由はあったが、頭の中でのことであってもあまり言葉で捉えたくなかった。

 それでも、自分が背負うべきそれは段々と重みをなくしているように思えた。そうだ、そうだ、俺には何もない。


 誰も俺を知らない。


 どんな性格をしているのか、どんな生き方をしてきたのか、どんな罪を背負っているのか。多分、些細なことさえ知らない。

 一瞬、月見里の顔が浮かんだが、あの子は『あれ』が発生した後に偶然出会ったただの同行者で、こちらの過去は知らない。


 「本当に、俺は何をしているんだろうな」


 そう言って、自分のベッドを眺めた。正直なところ、この乱雑した光景は昔も同じだった。違うところがあるとすれば、場所と置かれているものぐらいだろうか。


 「結局、変わんねぇな。俺は……」


 ベッドを睨みつけて、吐いた言葉は昔よりも無駄に野太く、やけに重々しくなっていた。


 芋を他の土で育てても生えてくるのは、至極当然芋である。

 そんな単純なことさえ変わらないのに、人の本質が場所で変わるとは決して思えない。 


 きっとベッドに散らばっている異世界に転移しようが転生しようがそれでも変わらなかっただろう。証拠は既に突きつけられている。


 だからこそ、元々腐っていた自分は、ここでも当然のごとく腐り果てるのみ。そんな単純明快な事が、何故今まで分からなかったのだろう。

 

 それでも、自分の歩む道は終わらない。終われない。


 月明かりから閉ざされた部屋は暗い。蝋燭の火もいつの間にか消えて、自分の体がどこにあるのか分からないほどに闇は濃くなっている。


 ただ唯一手につかんで、額に押し当てた者ははっきりと感じられていた。


 「これで――終わらせてくれるのか?」


 その言葉に帰ってくるものはない。

 気づけば、親指にかかる重みが増している。



 耳つんざくほどの破裂音、そして、いとも簡単に静寂へと還った――。






 「あれぇ?開かない」


 しかし、また静寂は終わらされた。


 月見里が困ったような声色と共に、再びバンッと破裂音にも似た音がドアから響いた。


 目が突然覚めたような感覚に、軽くなった頭が揺れる。心なしか、手元が寂しい。足元を探ってみれば、銃のゴツゴツとした感触があった。


 どうやら先ほどのことで落としてしまったらしい。銃を拾い上げリュックサックの中に突っ込み、足でベッドの隅に追いやると、外で暴れている月見里に声をかけた。


 「引いてみろ」


 「ああ、そっか」


 月見里は納得した声色でそういうと、今度は力む声とドアの軋む音が聞こえてくる。しかし、扉は開かない。


 「引き戸という意味でじゃない。ドアノブを手前に引いてみろ」


 「え?そうだったっけ?」と言う言葉の後に「開いた!」という喜びの声とドアが勢いよく壁にぶつかる音と共にパンパンに何かを詰めたリュックサックを持った月見里の姿が現れた。


 「ただいま!」


 月見里は真っ暗になった部屋に意も返さず、底抜けない明るい声を響かせた。


 「ああ……」


 しかし、緊張が緩んで体の力が抜かれてしまった自分は、彼女の異様な様子にも、彼女の体からはみ出すほどパンパンに膨らんだリュックサックの存在に何かそれらしい反応をすることはできなかった。


 こちらの様子にも臆することなく、月見里はかなりの上機嫌だった。背負っていた荷物を意外なほどに軽々と持ち上げて、床にぶちまける。


 「ねぇねぇ!これ見て!これ見て」


 そんな年相応の天真爛漫な声が真っ暗な空間に弾ける。


 それと共に、パラパラと紙をめくる音と、金属が床にぶつかる鈍い音。そんな音が床に混在する。


 「じゃーん!」


 そして、床に落ちるものが無くなると、月見里は手品師が帽子から何かを出したかの如く快活な声を出して落としたものにランタンの光を差し向ける。


 彼女のリュックサックから吐き出されたものは花でもなく、鳩でもなく、チケットの束札束と、大量の缶詰だった。


 先ほどの衝撃のせいか、ドアは強風と共に一人でに開かれた。


 チケットは紙吹雪のごとく舞い踊り、こちらのベッドはおろか月見里のベッドにまで埋め尽くさんばかりに広がる。


 そんな異様な光景を唖然と見つめているこちらに、月見里は「どうだ」と胸を張り、


 「知らない人からもらったの!」


 

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