矢小間遊園地


 山を越え谷は越えず、神社の先を上り、ようやく目的地まであと何十段程度。


 神社からそう遠くないはずなのだが、最近土砂崩れで道が塞がってしまっていることをすっかり忘れていて、獣道を借りつつ迂回をして、ようやくこの階段に足を踏みつけたのである。


 足を振りかざしゆっくりと地面を押しつぶす度に胸の鼓動が高まる中、カラカラとランタンの揺れる音が背中から聞こえてくる。


、振りあがる手が風を切る度に、汗で濡れぼそった頭に風を受けて清涼感を覚えるが、もはや焼け石に水。

 延々と続く階段を上がった後、ふやけた視界の先にようやく光に照らされた野暮ったい観覧車を見つけた。


 「相変わらず、デカいな」


 「うん、だね」


 月見里ぐらいの子供なら多少は喜びそうだが、初めて目にしたとき以外はつまらなさそうな目に固定されている。

 昔も今も遊園地の機能を果たしたことがない。


 矢小間遊園地。

 

 人が溢れていた時代にどこかの浮かれた成金が「農と娯楽の融合を」というスローガンを基に作った遊園地らしいとここまで来るときの看板が示している。

 それを聞くだけなら多少興味を持つところだが、ここでの「看板に偽りなし」というのはクソという意味にしかならない。


 観覧車やコーヒーカップという陳腐な乗り物と欧米の街並みを建物群があるだけで、後は広大な畑がそれらを囲むように敷かれているだけの『娯楽』施設である。

 1つだけ訂正を入れるとするならば、広大な畑は閉鎖後に作られたものではあるが――なるほど、今の方がスローガン的には合っている。


 どうして周囲に家屋が疎らにしかないような辺鄙なところにそんなものを建てたのか理解に苦しむものである。当時は限界集落という概念がなかったのだろうか。

 その当時流行っていたのかはともかく、市が撤去を出来る余裕も無くこの一帯を放棄したとかなんとかをニュースか何かで見た記憶があるので推して知るべしといったところだろう。


 そんな生い立ちを持った遊園地だが、現在はそんな夢の腐った残骸に現役時代とは比べ物にならないほど、多くの人々がひしめき合う人類最後の砦になったのだから皮肉の塊である。


 「夜に帰ってきて大丈夫だったの?」


 「まだ――7時ぐらいだ。少し嫌な顔はされるが、月見里がいるから歓迎はしてくれるだろ」

 

 「こんなことなら、あそこで一泊すればよかったじゃん」


 「いーや、だめだ。もう約束の日ギリギリだろ。タダでさえ、良く思われてないんだ。納期ぐらいは守りたい」


 「……それはそうだけどさ」


 「また今度だ。ほら、やっと見えてきたぞ」

 

 階段を上り切った後も、それほど短くない距離を歩いて、ようやく目の前に巨大な壁が飛び込んできた。


 嵐の後に道路に落ちているようなトタン板を糊付けして貼っ付けたような歪な壁。

 

 衣食住の住を担っているそれは、こちら側にとって文化的で最低限度の安堵感を与えてくれるものである。


 しかしながら、帰ってくる度に地面に落ちているそれの破片が増えているのを見ると、もはや皮肉も無くまあそうなるだろうなと諦観の象徴となりえている。


 「おーい、ゆいちゃん。おかえり!」


 門の方から聞き慣れた老人の嗄れ声が耳に入ってきた。見上げてみると、いつもの腰が曲がりかけた男が門の上から手を振っていた。

 ドアのベルがごとく毎回聞こえてくる歓待の声。おそらく、そんな声を上げてくれるのはあの人ぐらいだろう。


 これがあるからこそ、自分はここに帰られるのだと思う。もちろん、安堵感を覚えるものでもあったが、こちらにとっては気まずさを覚える声の一つでもある。

 

 「あっ!門番のおじさん!」


 月見里はこちらの躊躇は知らず。いつも通り、元気いっぱいに門番の老人に手を振り返した。

 全く、子供というのは壁を知らない。


 門番の老人は「ちょっと待っていてくれよ」とだらしのない猫なで声を月見里に浴びせると、門の傍にあるハシゴを持ち上げ慣れた手つきで地面へと降ろして、軽快なステップで梯子の錆でリズムを取るように下りてくる。

 勢いのまま、月見里の元へと駆け寄りしゃがみ彼女の頭を撫で回し始めた。


 月見里はそれを拒むことはなく、


 「ただいまー!おじさん元気だった?」


 「ああ、元気だったよ。ありがとうね」


 と挨拶を交わし。他愛のないにぎにぎしい会話が続く。


 蚊帳の外。

 だが、彼自身が悪いわけではない、いつも気さくでいい人だ。

 外見も恐ろしいとは程遠い茶色く焦げたクチャクチャの笑顔が何とも穏やかであることが特徴のどこにでもいてほしいような老齢の男性である。

 

 だが、こちらがその顔を見ればいつもバツの悪さを感じてしまう。いや、正確には月見里に対して屈託のない笑みを向けるときと言ったほうが正しいだろうか。


 「いやー、よかった。よかった。もうそろそろ中に戻ろうかと思ってた時に、ちょうど来てくれて。一応、今日帰ってくる予定って聞いてたから、長めに待っておいてよかったよかった」


 「うん、また道が潰れちゃってずっと迂回してたの」


 「あー、そうだったのかあ。それは大変だったね」


 月見里を外へと連れて行くこちらに対して良い感情を持っていないことは、いつも出迎えてくるときに見られる彼の下手な苦笑いでに染みるほど理解させてくれる。


 だから、こちらはただそこにある背景のように振る舞う。そうしてしまえば、彼もこちらに何か口出しをしない。

 そんな落としどころを互いに決めているわけではなかったが、半ば暗黙の了解のようになっていた。


 どうせ、彼も何か出来ることもないのだ。


 「そういえば、おじさん。いつものやつはいいの?」


 「おっと、そうだった、忘れていたよ」


 月見里はそう言うと何かを思い出したらしく、門番の老人は悠々と門の近くに転がっていた机を起こして、くしゃくしゃと音を立てつつ引き抜いたのは、ガラスの棒みたいな体温計。


「体温が37.5度以上だったら、中に入れないからね」


 「わかった」


 そう柔らかな口調で警告されると、月見里に手渡される。


 中が曇っていてちゃんと使えるのか定かではないが、発熱したかどうか見たところで感染したかどうか分かりはしないので別に何かが変わるわけでもない。


 「頭がクラクラしたりとか、咳は出たりしない?」


 「フゥン、ァイホゥフ」


 月見里が脇に体温計を入れたのを確認すると、門番の老人は舌圧子を月見里の口の中に入れライトで照らす。

 それが一通り終わると「ごめんね」と一言入れて、医者らしい手つきで彼女の顔やら首元あたりを触って何かを確認していた。


 月見里によると、彼は本当に医者であるらしい。では、何故今は門番なんかやっているのかと聞きたくなるが、それほど深い仲ではない。


 「うむ、健康体だね……月見里ちゃん。に噛まれたり、引っ掻かれたりしていない?」


 「うん、そんなに見なかったし襲われてないから大丈夫だった」


 「そっか、そっか。本当に気を付けるんだよ。本当にね」


 言い聞かせるように強い口調で門番の老人は言う。当然ながら、見ているのはこちらで、気まずくなるポイントの一つである。


 野犬というのは、ここの専門用語で『あれ』のことである。


 確かに、『あれ』も人に噛みついてくるので犬みたいだと言われれば否定はできない。

 だが、オブラートに包んだものをさらにオブラートに包んだその呼び方には、滑稽さを覚えてしまうのも仕方がないだろう。


 「よかった、よかった。暫く帰ってこなかったからね、心配だったよ」


 「ごめんなさい……でも!最近、本が見つからなくなっちゃったから探すの大変になっちゃってっ――でも、食い上げにならないように頑張ってるの!」


 「そうか……結実ちゃんは頑張り屋さんだね」


 「うん!」


 門番の老人は何とも言えぬ複雑な声色でそう呟いて彼女の頭をまた撫でた。やはり、こちらを見る彼の目は怒っているのか悲しんでいるのか複雑なものである。


 少しはマシになった雰囲気が、居心地の悪いものへと引き戻された感じがした。


 「ああ、そうだった、これも忘れてたよ」


 と門番の老人は空気を一新するように手を叩くと、机からクリップボードが付いた引っ張り出して机と置いた。

 乗っかっているのは、毎度見せられる黄ばんだ書類。


 「わたしが書く!」


 「ありがとう。お願いね」


 書くことはもう決まっている。月見里は意気揚々と書き始めた。


 「あ……」


 だが、すぐにハッとしたような顔を浮かべてその手は止まる。そして、月見里は気まずいような困ったような顔をしてこちらへと書類を渡してきた。


 意気揚々と書こうとした分その落差が激しいが、いつもの流れなので突っ込むことはせず、そのまま受け取って書き上げる。


 毒虫。


 それが自分の名前であった。

 

 否、嘘である。多分。もとより、自分の名前がなんであったのか覚えていない。


 何度書いても違和感は未だ残っているが、これ以外の2文字を書くことは出来なかった。しかし、それでも自分によく似合った名前だと思う。


 だが、これを書いたときに、周りの雰囲気が重くなるのを感じて、これだけは何度経験してもやはり嫌なものである。


 なんとなしに書いていると、腐るほど見た嫌な文言が目についた。 


 感染が発覚したらをとるが文句を言うなという内容である。見た目だけは相変わらず重要そうに見える。


 実際起きたときは、どうなるのだろう。

 本当にその過激な何とやらが出来るのだろうかその事が一層これを書くことに意味があるのかと疑問を持ってしまう。


 それでも、ルーティンに何か抵抗できるわけもなく、苦虫と梅干を同時に嚙み潰したような顔に固定された門番の老人に手渡した。


 「ありがとう――」


 常識的な門番の老人は書類を受け取ると、愛想のある社交辞令で答える。書類に少しだけ目を通して、再び梯子を上り門を開けるためのボタンを押した。


 門は重厚感ある錆の軋み音を響かせるが、ドアの厚みはそれほどないので拍子抜けするほどすぐに開かれる。

 

 しかし、相変わらず門は閉まるのが遅い。その時間差を使って月見里と門番の老人は互いに元気よく手を振るが、こちらは我関せずと中へと飛び込んだ。


 鉄板でツギはいだ門をくぐるとそれとは全くイメージが合わないピンクやら真っ黄色やらを塗りたくられたアミューズメントらしい洋風の建物が飛び込んでくる。

 山の頂上よりも浮いた場所であるが、帰ってきた気分になるのは5年間ここで過ごしてきた賜物である。 


 歓迎するかのように待ち受ける枯れ噴水に腰かけて、荷物の中から水筒を取り出して中身を熱くなった体の中へと入れた。

 汲んでから時間が経ったそれは、ぬるくてどこか物足りない。


 「はぁ……やっと終わった」


 門が閉まり切って手を振るのをやめた月見里は疲労で顔をゆがませるが、飛びつくようにこちらの隣に座った。

 足をぶらぶら揺らしこちらの一挙手一投足を眺めている。

 

 こちらはそんな彼女との間に、調達してきた本で壁を作って、仏頂面を作る。


 どれ一つとってもお堅くお上品な無地色の殻を被ってはいるが、この中にあるのはそれとは真反対のものだとどれくらいの人間が知っているのだろうか。

 

 「あっ、そうそう、今日寄るところあるからまたちょっと遅くなるかも」

 

 「そうか、鍵は持ってるか?」


 「え?ドア直せたの?」

 

 「……そういえば、潰れてたな。紐かなんかを括りつけてドアをロックしてみるか?」


 「別にいいんじゃない。誰か盗ってくるわけでもないし」


 そういう会話をしつつも、次々と中身が正しいか確認していく。確かに本の名前に意味はないが記号としての意味はある。


 なにくらべ?なんとかもん?人間失格?それは俺の事だ。


 題名で分けることはなく、表紙の色んな部分を折り曲げて、どの客に渡すか判別を付けるぐらいである。

 Aはaさんのところに、Bはbさんのところに、Cはcさんのところに、流れ作業のように手際よく――。


 「……」


 しかし、手に取った一冊の本。どうしてか、それを折り曲げることも出来ず目が離せなくなっていた。


 罪と罰。


 今時珍しい革のようなもので包装された表紙に目を引かれるが、それよりも釘付けになったはその題名。

 

 簡潔とした題名なのに見れば見るほど脳の奥底に入っていくような感覚を覚えてさせられてしまうのは文豪の妙とでも言うべきなのだろうか。


 「どうしたの?」


 こちらが黙り込んで本を見つめていたせいか月見里が心配そうにこちらと本を交互に覗きこんでそう言ってきた。


 その視線に気づき慌てて、その本を他のものに混ぜ、


 「ああ、悪かった。これを田中さんに、これを佐藤さんに、これを山口さんに頼む」


 月見里に渡していく、「分かった」と彼女も次々に受け取っていくが、先ほどの本を渡したところで「あっ」と声をあげ気まずそうな顔を浮かべた。


 「山口さんなら……もういないよ」


 「……忘れていた。そうだったな」


 そういえば、今回の街遠征の直前ぐらいにはあまり体調が優れていなさそうだったと聞いたような気がする。


 あまり会話を交わしたことがなかったこともあるが、一度ぐらいしか会っていないので顔を思い出せない。それに、年をとって死ぬと言うのも当たり前のことでもあるためあまり悲壮感を覚えない。


 だが、商売相手として付き合ってきた仲でもある。胸を小さな針で刺されたような、何とも言えない感傷が生まれるも、すぐに消えてしまった。もう珍しくもなんともない。


 「どうする、これ?」


 しかし、もうこうなってしまえば、商品価値のないゴミである。


 人の性癖を見るほど嫌なものはない。それに死んだ人間の性癖を辱めるのは良くない。供養のために、どこかへ埋めておくかと思ったが、覆いかぶせた本の題名からどうしても目が離れなかった。


 「俺が貰っておこう」


 「え?見るの?」


 「俺がそんなことすると思うか」

 

 「いや、それは分かってるけど……」


 少しの間気まずい沈黙が流れる。しかし、それを解消する方法も知らず、口を噤んでその本を荷物の奥底へと封じ込めた。


 「――あとこれももらっていく」


 そして、もう一つ本の山から抜き出した。他の本のように無地のカバーを掛けられておらず、際どいイラスト丸出しで見ているこちらが恥ずかしい気分になる。だが、これは本人希望のものなのでこちらが文句を言えるものでもない。

 

 それに気づいた月見里はその本を見るなり、打って変わって自分の感情を隠すこともなくとてつもなく嫌そうな顔を浮かべた。


 「また、あの人のところに行くの?」


 あまり不快な感情を表に出さないような彼女は、あの人という話題をちょっとでも出すと、露骨に嫌そうな態度を取ってくる。


 会ってもいない人間に何故そこまでの感情が持てるのか不思議でならないが、彼女のそのウンザリとしたような声を聞かされると苛立ちしか生まれてこなかった。


 「――関係ないだろ。鍵は持たせているはずだ。なにか文句があるのか?」


 「…………」


 しかし、月見里はこちらの態度を見るとまた感情を引っ込めて顔を俯かせた。また気まずい沈黙が出来上がる。


 これもある意味、日常というべきなのか。


 「もう行くぞ」


 立ち上がって早々とその場を立ち去り、溜め息をついた。


 

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