いつも通りのシセン


 肉欲混じった罪悪感を抱えて、自分の仕事が終わって椅子に腰を落ち着けた頃に、月見里は持ってきた本を次々とこちらの傍へと置いていくのだが――。


「これしかなかったのか?」


 「うん、これが一番きれいだった」


 「そうか――これだと漫画を挟んでも変わらないな……」


 置かれた本は由緒正しき書物なはずなのに、どれ一つとしてどんなものだったのか判別がつかないほど

、虫に食い荒らされたようなボロボロの表紙に包まれていた。そういえば、細長いワラジムシみたいな虫がよく本棚のあたりを這いまっているような気がする。


 どこかの神様が、骨と内蔵というゲテモノな食物を綺麗な脂身を包むことで大変なご馳走だと思わせた話を耳にしたことがあるが、これだと干からびた肉にゴミ袋をかぶせたゲロマズ料理かのような有様である。


 依頼者の人達も、この出来には喜んでくれなさそうだ。


 「そっちはどうだったの?」


 「俺も同じ感じだ」


 「…………」


 やはり、この場所も本を腐らせる場所に成り果ててしまった。

 

 薄い暗闇と天井の割れ目から染み込む雨水。素肌で分かるほどに室内は湿りきって、カビが繁茂するにはうってつけの場所というのに、どこに俺は希望を見出したのだろう。


 状態が良いと言った本も、水分を吸ってふやけたクラッカーを思わせるような有様。

 肝心の中身も破れて話の流れが破綻している。それでも状態がいいと言えるのは、まだイラストが生き残っているからだ。


 しかし、それも酸化したリンゴのように茶色く変色して、腐りかけている。


 「こんなの白黒写真の頃にもないだろ――」


 こちらは後ろを向きやり、ありありと見えてくる陳列棚の有様に肩を落として溜め息をついた。

 

 前はまだマシな状態であった。前といっても、一年も経っていない。


 もはや、急速に形を崩していく。まるで、水に溶けていく角砂糖の様な有様。

 

 「はぁ……ここも潮時か……いや、中心部なら――行けるわけねえだろ。ああ、クソ」


 聳え立つ高いビル群が頭に浮かんだが、すぐに最悪という言葉にすり替わる。だが、誰かに吐きかけるグチなど犬も俺も食いたくない。

 

 また新たな場所を探す必要があるが、ここが比較的新しい建造物だったことを思い出して自身の淡い希望が一蹴される。沈みきった感情が底なし沼のようにますます沈みこんでいく。


 「ねぇ」


 「なんだ?」


 「田中のおじさん、いいよって言ってくれると思う?」


月見里はこちらにそう言って小首を傾げられる。その言葉とは裏腹に、こちらに機嫌を伺っているような態度で居心地の悪さを感じる。

 

 「さぁな、これで諦めてもらうしかない」


 こちらも小首を傾げたくなるが、田中さんとは話したことがないので肩をすくめた。月見里はそんな俺を真顔で見ている。 


 何か気の利いた言葉とか、元気づける言葉がガスの詰まった腹の中にあるわけもなく、ただただ重い沈黙が流れるのがセオリー。

 段々と自分たちの生命線が切れていく、それなのに将来の展望がまるで無く、選択肢も見つからない。


 「ねぇ」


 「なんだ?」

 

 こんなことなら、もういっそのこと足を洗って他の事をすればいいだろうか。


 「もう……本集めやめて、他の事でもやらない?」


 「………」


 先ほど自分の頭の中で思っていた事なのに、何も答えることが出来なかった。

 他のアテが――あるはずもなく、もしあったところで飯が食える猶予が長くなるわけでもない。


 「いっそのことデカい仕事をして、悠々自適な引退生活でも送るか」


 そして、口に出たものは冗談しかなかった。もちろん、大きな報酬を貰えるぐらいの仕事はなく、それを与えられる人間もいるはずがない。


 しかし、月見里から笑い声は出てこない、笑みの欠片も無く呆れた目でこちらを見ているのがなんとも気まずい。


 皮肉にまみれた人生でも、上手いジョークは作れない。ならば、手を叩いて話題を変える。


 「どちらにしろ時間がない。とりあえず、これを片してさっさとガソリンの件も片付けるぞ」


 「うん……」


 気落ちする月見里を横目に、彼女の持ってきた厚い本の隙間に次々と薄っぺらい猥雑な本を挟み込んで荷物の中へと放り込んだ。


 そうして、ぼやくように息を吐いて全部仕舞い込んでみると、月見里の姿が無く焦って周りを見回せば、すでに出口のドアの隣で椅子にちょこんと座っていた。


 足を揺らしてに早く外に出たいとアピールしているが、おいそれと開けることは出来ない。

 

 「そこで待ってろ」


 そう言ってドアノブをゆっくりと回し、音を立てないようにドアを開いた。わずかながらに出来た隙間から見えるのは、相変わらずの錆色と灰色混じりの緑色。


 あれの姿はない。鳴き声も聞こえてはこない。もっと開いてみれば、何か動くものが見えた――いや、違う。


 足首程度に伸びる草むらがかすかに揺れたような気がしたが、それが何であっても『あれ』のようなものでは決してない。おそらく、ネズミか何かだろう。


 「だいじょうぶ?」


 「いいから、待ってろ――」


 しかし、あそこにいた『あれ』はまだいるかもしれないと月見里をその場でしゃがみ込ませた。

 ドアから縫うように出ていって壁から『あれ』のいた方向を目を凝らして見つめた。


 『あれ』に壊されたものがあるぐらいの痕跡があるぐらいで、姿かたちも何の音もなく――。どうやら、どこかへと行ってくれたらしい。


 それが分かると緊張の糸は切られて、安堵と疲労感が自分の体の中に流れ込んでくる。ようやく、こちらは静かに息を吐いた。


 「まずはガソリンだ」


 「なら、今日は干し芋以外がいい」


 「……諦めてくれ」


 「ぶー」


 不貞腐れた月見里を横目に早々と歩き始める。目指すは遠くにある最後のガソリンスタンドだ。



 ※ ※ ※



 腕時計と地図のマーカ。それに従ってガソリンスタンドへと赴く。先ほどのこともあり、大通りの方は先ほどのこともあり危険だと思うので通らないように、外れにある毛細のような道を渡り歩いた。


 そういうところは大抵、瓦礫が落ちていて危険な場所が多くいつ崩れるか分からないので、地図のチェック通りに従って進んでいくが、前はなかった瓦礫に埋まっており、結局また別の道を探してチェックを書き直す。


 そうして、いらぬ試行錯誤をしてようやく道が拓けた先に、視界に映るすべての道路の先に、ひとつの大きな建造物が見えた。 


 先ほど、そこにいなかったはずの『あれ』がいたことはあったが、その後は地図の通りで、『あれ』の姿を見ずに移動出来たのが重畳といったところだ。


 おそらく、高速道路からかなり離れたところというのが関係あるのだろう。まだこのボロいノートは使える。

 


 

 「そっちはどうだ?」


 「まだ、出ない」

 

 月見里が喉を絞ったような声をあげる。彼女は給油機を開けて出てきたパイプにバルブを取り付けて回しているが悪戦苦闘中であるようだった。


 以前は少し回した程度で出てきたが、今はふんだんに回してやらないと出てこない。おそらく、まだ時間がかかる。

 まだ状態が良さそうな携行缶を探すために、こちらはスタンドの周りを取り囲むようにして積まれる車列の中を漁る。


 「そうか、待ってろ」


 「というより、変わってよ。前はやってくれてたじゃん」


 「だめだ。これからはお前にやらせることを増やしていく」


 「ええ、なんで?物売りも私がやってるのに」


 「お前の方が長生きするだろ」


 「そっちが死んだら、私も死んでる」


 「……お前の方が長生きする」


 ガソリンスタンド、もとい最後に残された唯一の給油施設。


 都市部において最も車両が集まった場所であるがゆえに、そこに続く道は車があふれかえっている。

 まるで、土砂崩れのように建物の内外問わずあろうことか歩道にも乗りあがり車溜まりが出来ていた。


 痺れを切らしていたのかスタンドの周りには車の持ち主と思われる無数の骸骨が散らばって携行缶が投げ出されていた。その中にひっそりと「最後尾」というボードが埋もれていたが、それが守られていたかは推して知るべし。


 しかし、無数の穴凹があれど原型を保っている車たちの中で、最も原型をとどめているのは携行缶ではないだろうか。流石、メイドインジャパンというべき皮肉の塊が、車に混じって赤く光っている。


 当時いなかった自分にとってはなんて馬鹿なことをしたのだとせせら笑いが生まれるが、散らばった骨の中に子供らしきものを見るとそんな感情は消えてしまう。


 こちらはその中にある携行缶の一つにを手に取り月見里の側に置いて、再び不満を訴えてくる彼女をいなして、スタンドに併設されている店へと入った。


 「外にもいなければ、こんなガラス張りの中にいるわけもないか」

 

 多くの人が詰め寄った場所である。


 店の中の棚は軒並み倒れて、散らばるはずの棚の商品は煙のようにどこかへと消えて、残された大量の新聞紙と見慣れた肖像画が書かれた日本銀行券が床へとぶちまけられる。


 誰もそれを手にしようとした痕跡はなく、同じように散らばる新聞紙と同じく靴跡がこびりついていた。


「ポーランドで狂犬病と酷似した病気が発見」

「世界中で大流行か 中国 北京でも新型ウイルスの感染者が増加」

「成田空港で日本初の感染者 水際作戦失敗か」

「従来のワクチンでの効果望めず 感染者の爆発的な増加 インフラの停滞か」

「米軍、自衛隊 共同での感染者の隔離を実施」


 新聞紙に浮き上がる文字は昔見たそれと同じ内容だ。だが、似通った文言で『あれ』に対する不安を無駄に煽りたてる文章と写真は、今でも焦燥感を思い起こされる。


 まるで当時の人の心情を閉じ込めているようだと――いや、マスメディアというのは元々そのような役割だったのだから当然とも言うべきだろうか。


 何も見つけられず、何も変わらず、何とも言えぬ感情を抱えて、月見里の所へ戻った。


 「後どれぐらいだ」


 「うーん、分かんない。いつもより――あっ、止まった」


 「……少し。貸せ」


 と月見里を捌けさせバルブを強く握りしめ力の限り回す。


 ガソリンスタンドの地下タンクにはレギュラー、ハイオク、軽油とそれぞれ分けて埋蔵されているらしい。その量もよくは分からないが、これほどの車が来訪しているのだから相当のものなのだろう。


 これだけ多くの車が蔓延っているならもうすっからかんになっていると思ったが、当時の人は礼節が枯渇していたらしい。


 幸か不幸か、こちらにとっては幸なのは間違いないが、散らばった骨にはいくつもの歯型がついている。

 さしずめ、争っている最中に『あれ』に襲われてパニック状態になったのだろう。おかげさまで、数年間ガソリンを抜き取っても、まだ底をつかない程度の量が残っていた。


 「――っ」


 舌打ち。それも今日で終わったらしい。


 ハイオクもレギュラーもどちらも尽きた。軽油がまだ残っているかもしれないが、残念ながらこちらのバイクはそんな悪食ではなく、ハイオク仕様のグルメ志向である。


 「でも、半分もあるよ」


 と言って、月見里は嬉々としてこちらに携行缶を降っていた。 チャンポンチャンポンと中の液体が揺れる音が何とも弱々しい。


それを見て再び溜め息をついた。


 「ああ、そうだな」


 半分しかない。


 携行缶の容量は20リットル、それの半分しか入っていない。

 これでは、拠点からここまで1回、運が良くて2回往復する程度の量だ。

 

 荷物から地図を取り出して開いて、この地点を探してバツ印を書いた。何も無くなった証拠である。

 また溜め息をつく、バツ印で埋め尽くされて何が書かれていたのか分からない有り様である。

 

 「他の所で補充しに行くの?」


 「いや……」


 バツが書かれていないのは中心部とその向こう側。


 かなり外れたところでも物資が残っているので、中心部にはまだありそうな気もするが――。


 「もう諦めるしかないな」


 しかし、すぐにバカなことだと思える。あそこは「あれ」の巣窟である。もう一度あそこに入ったらどうなるだろうか。あそこに入ったとして、いつまで持つのだろう。


 頭の中にいろんな選択肢が浮かんでくるが、そのどれも選べない。自分の体が泥にはまり込んで身動きが取れなくなっていくような、そんな感覚に似ている。ずっと続いている。


 無駄に歳をとって、子供とも言えなくなった自分にできることは、何も知らない月見里から目をそらし、車の残骸を眺めるぐらいだ。


 改めて見ると、何も変わらないと思っていた車たちも錆で黒ずんでいる。一体、何をすればいい。何も分からないのに、どんどんと選択肢が抜け落ちて、結局は無気力に沈んでいくことしか出来ないのか。

 

 「時計鳴ってる」


 月見里の声で思考の海から引き上げられた。腕もとを見ると、腕時計からいつものビープ音。


 「……それを貸してくれ。今日は帰るぞ」


 「うん」


 そう言って、こちらは腕時計のアラーム音を止めて空を見上げた。太陽はまだ登っているが高層ビルに隠れて冷たい影に遮られている。


 もう街から出なければならない、そう指し示すかのようである。

 

 携行缶を月見里からもらい、再び地図を確認した後、中の最後に吐き出されたガソリンの重みを感じながら高速道路へと戻る。

 時折、店のウィンドウから道端に吐き出されたぬいぐるみやおもちゃに目を奪われる月見里を少しばかりあしらったり我関せずを決め込んだりとしながら、行き道を戻った。


 そうして、高速道路へと続く螺旋階段にたどり着いた。歩きっぱなしの足を酷使して、階段を昇った。

 ここを登ってもバイクまで少しばかり距離がある事実を思い出して、気力が出てこない。


 それでも、昇らなければ始まらない。とりあえず、足元だけを見ておけばいい。ひとすら踏みつける階段の段を数えて終わるのを待ちわびる。


 しかし、どうしてか目元に日が差して、まぶしさにふと立ち止まって、日の方へ振り向くと空が見えた。


 「どうしたの?」


 「…………」

 

 いつの間にかスカスカになっていたビルの隙間越しに、太陽が嘘のように朱く焼けて沈んでいるのが見えた。


 不安も焦燥感も抱えたまま、今日が終わる。   


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