合成の誤謬
高速道路の底が一つ遠くなって、地面が僅かに近くなってくる度、風に体を揺らされている錯覚を受ける。
実際、高層ビルから吹いてくる風が脅すように風切り音を立ててごうごうと螺旋階段の薄い板を揺らしていた。
生理的な鼓動の高まりをかき消すようにガムの咀嚼音を口の中で響かせ、後ろにいる月見里の足音をひたすらBGMにして下っていく。
錆でガサつく足元。少なくない穴の感触を踏んで、ヒヤリとしたものを感じた。心なしか、穴の数も増えたような気がする。
一度身を構えたいが、階段に纏わりつくように張り巡らされたポール状の壁が穴だらけになっており、一つ体重をかけるだけでも取れてしまうような危うさがあって、結局信じられそうなのは己ぐらい。
それでも、階段が曲がりくねるたびに、そっと壁に手を付けてしまう自分がいる。心なしか、月見里の足音も弱々しい。
「ガムの味はまだ残っているか」
「フゥン」
口ごもっていて彼女が何を言っているか分からなかったが、その声色に震えが見えた。
今日はいつもよりビル風が強い。いや、階段が前にもましてボロボロになっているせいだろうか。いつもよりも階段が揺れているような感じがして、グワングワンと軋むたび死を予感するほど緊張感が強まる。
こういう時は、足元に注意するべきかもしれないが、穴ぼこだらけになった階段の段坂を凝視できるほど肝は据わっていない。
ただ、ひたすらにガムの味を噛みしめながら、降りていくしかない。しかし、イチゴ味はおろか、もはやゴムの味しかしない。
「……っと」
永遠に思えたその時間は、自分の足裏が細く頼りない感触から、広く安心感のある感触に変わることでようやく終わった。おそるおそる、足元を見れば穴ぼこだらけのコンクリート床。
瓦礫と草に埋もれた廃墟のビル群が周りを固める、見慣れた景色の一つがそこにあった。
「――っ」
直後、後ろから押される感触があった。死角からの感触に驚いて体を止めてしまったせいで、同じくおっかなびっくり降りる月見里にぶつかってしまったようである。
当の彼女からは抗議の代わりに「フッー」とネコが威嚇してきたときのような声が飛んでくる。
「悪い」
「フゥフゥフゥン」
その尋常ならざる声に梯子を掴んだまま彼女の方を見上げた。
当の彼女は何を言っているか全く分からないが、「大丈夫」と返答しているようだと頭の中で翻訳されている。
しかし、後ろを振り返って見えた月見里の表情も体は石像と区別がつかないほど固まっており、傍目から見ているこちらからは大丈夫の反対にしか見えてこない。
「あと一歩だ。急ぐな」
「フゥン」
どちらにしろ、彼女も足一つおろせば、地に足つけられる。問題はない。しかし、月見里の返事はなんとも弱々しい。
月見里は固く閉じていた瞼をうっすらと開けて下の様子を確かめると、そのまま意を決して地面に着地。
最後の一段とはいえ、ジャンプをするとは大胆だなと思ったけれど、降りるやいなやそそくさと階段から離れて、固い地面の感触を噛みしめるように何度も何度も地団太を踏んでいるところを見ると子供らしい行動というべきなのだろうか。
こちらは一旦それを横目に置いておいて、腕時計の針を見つつ、自分の荷物から秘伝の巻物みたく巻かれた地図の束から一枚引き抜き、地面へと放り投げる。
そして、広げると呪文の代わりに、赤い丸と文字がびっしり描かれた地図が現れる。
こちらのお手製であるが、虫がのたうち回って絶命したような文字を無計画であちこちに書いてしまったため、すべて解読できるのは昔の自分ぐらいしかいない。
解読の出来る文字を見つつ、腕に巻いていた腕時計を重石の代わりに地図の上に置いた。
もうそろそろ爪楊枝といい勝負をするのではないかというぐらいには擦り切れた針は12時に差し掛かろうとしている。
「この時間だと、このルートになるか……」
波が引いたように静寂に包まれる中、時計のかちりかちりという音が際立つが、すぐにくちゃりくちゃりという音が耳の横で鳴らされる。
横を見れば、未だ強張った表情が残しながらガムを頬張る月見里の姿があった。
「もう味ないだろ。それ」
「フゥン、フゥフゥーフゥ」
「紙が欲しいだって?ガムの包みがあるだろ」
「フゥーフゥン。フゥフゥーフゥーフゥーフゥ?」
「なるほど、エスディシージか。意識が高いな。そこらへんの瓦礫に刻めるぞ」
「フゥーフゥフゥ、フゥフゥフ、フゥーフゥン!」
口の中のガムがふやけすぎたせいか、こちらの寒いジョークに腹を立てたのか、「いいから、はやくちょうだい!」と文句を言われる。
おそらく、後者だろう。自分で言ってて寒気がするのだから、無理もない。
「……わかった。ほら。大事にとっておけ」
賠償金代わりにポケットからガムの包みを取り出して、自分のガムを吐き出して、月見里に差し出した。
それに月見里がガムを吐き出すという共同作業を終えるとそこらへんのポケットに放り投げて、2人地図を眺める。
「もうすぐお昼ごはんの時間だね。今日はなにごはん?」
だが、すぐに月見里から明るい声が飛び出てくる。いつの間にか、彼女は地面に寝転んで頬杖をついて、だらけた顔をしながら今か今かと時計の針が昼を差すのを待ち構えている。
「鯖の缶詰だ」
「お肉がいい」
「それは誕生日まで我慢しろ。エスディジーシーだ」
月見里は肩落として頬を膨らませる。
彼女の年齢的にも体も頭も育ち盛りだ。そのせいか最近食い意地が出てきて食糧の減りが増えたのが困りものであった。
「どちらにしろ、メシは調達が終わってからだ」
「えー……なら、出発する前に食べたらよかったじゃん」
また不機嫌になった月見里に手をひらひらさせて正論を押しやり我関せずのポーズ。再び地図を見やる。正確には、12時付近の時刻を差した、矢印と点々。
「今なら一番高いビルのところだよね」
「いや、それは分からん。さっき集まったのでまだ戻ってる最中だろうな。多分」
「ルートをずらすの?遠回りは疲れるからやだなぁ」
「『あれ』に見つかって逃げ回るよりかは、ずっと楽だろ」
「うん……まぁ、それはそうだけど……さっき階段降りたばっかりだし、疲れて判断力が鈍るのも――」
「……一理あるな」
「それで、結局、どの道でいくの?」
「そうだな……大通り沿いのちょっと離れたところから向かう」
「ふぅん、じゃあ、いつもの道とあんまり変わらないじゃん」
「ああ……そうだ。ガソリンスタンドにも寄るからな……その分慎重に行く」
「――ん、了解」
無邪気に月見里は笑う。
「たかが、気休めだ」
そんな彼女に聞こえない音量で呟いて、こちらは地図をリュックサックにしまった。
『あれ』の習性を逆手に取ろうとして作ったものだが、その行動が変わってしまうことを何度も何度も見せつけられている。自分自身、ただの気休め程度にしかならないと思う。結局は幸運だっただけだ。
うなずく月見里に「バッグは忘れるな」といつも通りの注意をして、気怠そうに背負った。
「行くぞ」
「ん、はい」
※ ※ ※
「うわぁ……」
高架下の不揃いなビル群を抜け、大通り沿いの少し離れた民家に入ると、月見里から感嘆の声が漏れた。
一面の緑。
量産型のレンガ造りみたいな家屋だったのが、灰色に色褪せて、元あった色を埋めるように草が繁茂している。
そんな光景に、彼女は相も変わらず窓から雪を眺めているときのような目の輝きを籠めて辺りを見回している。
しかし、元の状態がどのようなものであったかを無駄に知るこちらにとっては無機質な粘土色の建造物群に青々しい草が溶けこんでいるという矛盾に富んだ景色に思えて不気味に感じる。
そして、大抵最後には以前葉っぱの裏で見つけた、虫の死骸を思い出してしまう。死骸程度、街中で見かけるようなものだが、体中から小さなキノコが突き出ていて酷く印象に残っていた。
確か冬虫夏草というのだっただろうか。菌に犯された虫のごとく、この草木たちは廃れた建造物群を苗床にして豊かに実り、建物は面影を残すこともなく崩落していくのか。
確かに、そう見れば、なんとかの鐘の音とか、ひらひらと自分の一部を落としていく桜のような。破綻していくものが持つ神秘性を孕んでいるような気もする。
とにかく、感受性が鋭敏な年ごろである月見里は幾度見ても綺麗だと言って、少し前を意気揚々と歩んでキョロキョロと周囲の様子を見回しているのである。
見る人が違えば、彼女の整った容姿と相まり、幻想的で美しい光景に映るかもしれない。一つ動くたびに揺れる赤茶けた長い髪が光に反射すると透明な羽のようにも見えて、妖精が荒廃した世界を悠然と揺蕩っているようなそんな光景にも見えるかもしれない。
だが、見慣れたこちらは子供だから仕方がないと目の隅においやって、『あれ』がいないかと建物の隙間や道の曲がり角を見回しているのである。
「ねぇ、帰ったら何するの?」
小旅行を終えた彼女が、こちらへと駆けて寄ってくる。もはや、数十は超える見慣れた流れに、彼女の表情にはもはや感嘆も余韻も無く、こちらに笑みを向ける。
「……ちょっとあそこへ行ってくる」
「また……あの人のところ?」
「……ああ、そうだ」
「……そんなところ行くよりもさ、帰った後に一緒に何かしない?」
「何かって、なんだよ」
「いっしょに、あの本売る……とか?」
「やめてくれ。あの人たちによく思われてないの知ってるだろ」
「……じゃあ、なにをしてもいい。どう? 」
月見里は何やら苦虫を噛み潰したような顔を見せつけるのを終えると、一オクターブ声を高くしてそういって上目遣いでこちらを見てくる。しかし、返す答えはもう決まっている。
「じゃあ、俺はその人の家に行ってくるよ」
「……なんで?」
「忘れたのか、金を稼がないとおまんまの食い上げになるぞ」
結局、荒廃していようが人がいる限り、金は天下の回り物である。
金言にもならない言葉を吐き捨て、不満げな色を浮かべる月見里の瞳から避けるよう目を逸らし、ちょうど分かれ道となっていたので、大通りの方にそのまま視線を向けて、延々と広がる車をわざとらしく食い入るように眺めた。
しかし、面白いものはなく、どれも変わらず錆色の埃で中がこもってるぐらいでたまに一部が欠損した人間の骨が転がっているぐらいだった。
「そんなのいいじゃん。あんなお芋券みたいなやつ――。私と過ごす数少ない時間は?」
タイムイズマネーというのはこちらも賛成ではある。
だが、それを駆使して言い返すところに、「そんな言葉どこで覚えてきた?」と口から出そうになったが、それを聞いたところでどうしようもない。
なので、こちらは腕を広げ、その場でくるりと回り、彼女の要望通り2人っきりの時間を演出してみた。
「どうだ、二人っきりの時間だろ?」
「これは違う。別腹。プライベートの時間のことを言ってるの。仕事だけの関係っていいたいの?」
「いや、そうだろ。俺たちはただの――仕事仲間」
快活に回っていたはずの舌は、目の前に映る月見里を見て止まった。
5年間も共に暮らして共に行動している分、自分たちの関係性が時折分からなくなる。自分で出したはずの仕事仲間というのはあまりしっくりはこなかった、頭の中にも他の言葉があったがそれもしっくりこない。
しかし、口から出てきたものは仕方ないと、再び彼女に背中を向けた。
「……そんな関係なわけないじゃん」
それに腹が立ったのが、月見里が何か苛立ち声をあげてくるが、こちらは無言で手を左右に振って無関心だと態度で示す。
月見里はこちらの耳に入るようにワザとらしく隣で地面にある小石を強く蹴った。
音からして大したことのない石の大きさだが、転がる音がやけに耳についた。
本当に、彼女とはどういう関係性なのだろうか。
よくよく考えてみれば、彼女はどこにいても薄っすらとした笑みを浮かべて、こちらの背中にいるではないか。その様は、まるで親鳥についていくカルガモのヒナのようである。
正直なところ、自分の背中を差してくる彼女の視線が重しのように掛かっているように感じて嬉しいともイラつくともつかない複雑な気分を覚えていた。
しかし、パッと出てきたそんな気分はいつものように歩いていくうちに消えうせてしまう。もうすでに、目的の場所が目の前へと見えてきて、最後の丁字路へと差し掛かろうとしている――。
「――――っ」
突然、後ろから荷物を引っ張られた。
月見里の手だとは分かったものの、驚いて声が漏れそうになったが寸前で息を止めて声を押し殺す。
先ほどの態度がそんなにも怒らせたのかと思ったが、壁へと引きずられる前に一瞬視界に捉えたもので彼女の意図に気づかされる。
空目ではないのかともう一度壁から顔を出してみるが、すぐに壁へと引っ込めて地面に尻を打つことなった。
「……クソ」
自分の目の先、壁の角のほんの少し先に、地図上にはいなかったはずの一匹の『あれ』が佇んでいた。こちらのミスだ。
「っ……」
「また左の目がおかしいの?」
地べたに舌打ちするこちらの、おそらく左目を月見里は心配そうな顔でのぞき込んでくる。頬が固くなったのを感じた。
「――――後で消毒しておけ」
彼女の目をこれ以上見ないように目を逸らし、後ろの壁へと向きなおした。壁にこびりついた葉っぱが頬について、やけにイラつく。
小市民である自分がそこらへんのスーパーヒーローみたいに劇的な行動が出来るわけも無く、壁にへばりついて『あれ』の動向を見守ることしか出来ない。
流れる沈黙が気まずさを孕む。だが、機転の利く幼女、月見里はいろいろ状況を察して身を屈めてこちらの様子を見ようとしている。そうとなれば、こちらはいよいよ口を開くしかない。
「もっと屈め。向こうまで移動するぞ」
空気に溶かすような声量で言って、向こう側の建物を差した。月見里が頷いて身を屈めたのを見計らい、こちらを身を屈める。体格の差はあるけれども、2人ちょうど道路の草木に遮るところまで身を落とせている。
膝と肘が地面に張り付いているので、身を屈めているというよりは匍匐しているような状態なのかと思うが、軍事のことはよく分からないので表現の落としどころを掴めない。
再度『あれ』を視認し、風が流れるタイミングを見計らって彼女を先導しながら歩を進める。
地面が乾いているためか草と砂利が衣服に擦れる音がやけに大きい。
しかし、『あれ』は日常的に聞こえてくるような環境音など見向きもせず、ずっと目の前にある壁を見ているようである。
きっと幸運なことではあるとは思うのだけれども、身じろい一つする様子も無くかといって人間的な猫背の姿勢を取っているのが不自然で気味が悪い。
『あれ』の姿勢一つさえ理解できないこちらは、ただひたすら『あれ』に次の挙動がないかと草の間で視線を合わせ続け、環境音に混じりそのまま向こうの壁伝いまで進む。もはや、生きた心地がしない。
それでも、掌で地面を引き寄せていると、指先に壁の感触をつかんだ。壁を掴み起き上がり、裏に隠れるようにして背中を張り付ける。
周りを様子を確認して、後ろについてきている月見里へと視線を向けた。形だけは様になっている彼女の匍匐前進はまだまだ手足が伸びきっていない弊害で、デパートのおもちゃ売り場で見たおもちゃの仔犬のような
そんな印象から違うことなく、こちらほど距離は稼げておらず壁から一歩及んでいない。月見里がこちらに手を伸ばしてきたので、彼女の手を掴み、引っ張り上げた。
「――――っひ」
刹那、軽い金属が地面で落ちて弾んだ音。それが月見里の小さな悲鳴と共に足元に響いた。
やけに耳の奥まで響くそれを聞いた瞬間、こちらの体は硬直した。
これだけの音量で、『あれ』に聞こえてないはずがない。願わくば、これも環境音の一つだと思ってくれ。
「――――!」
だが、そんな願いはミリコンマも叶うことがなかった。『あれ』の威嚇のような小さなうめき声が壁の向こう側から聞こえてくる。
そして、徐々に声が大きくなり、雑草を踏みつけ草木を折るような乱暴な足音が聞こえてくる。壁越しからでもそれが音のもとに向けられていることは想像に難くなかった。
音が響いたところを見ると柄にアニメキャラクターあしらわれたスプーンが光っていた。先ほどの甲高い音と、どこか見覚えのあるそれを見て、ようやくその正体に気づいた、月見里が愛用しているものだ。
引っ張ったはずみで彼女のリュックサックから落ちたのだろうか。落とした本人は体が硬直して、足の震えのみが彼女に動きをつけていた。
「――あっ」
月見里を自分の背中を回し、恐る恐る即座にスプーンを拾い上げポケットに入れて、無数に転がるレンガ片の一つを拾って壁から離れて、向こう側に辛うじて捉えた窓ガラス目掛けて投げた。
その時、月見里が何か声を上げようとしたので、彼女を腕に抱くようにして口を塞いでそのまま壁に張り付く。
今は一つの声で生死が決まる。
今だけは『あれ』の一挙手一投足を見守るしかない。どうか、どうか、これを不自然な音だと思ってほしい。
直後、窓ガラスの割れる音が聞こえてきた。
『あれ』はその音に先ほどよりも大きな奇声をあげると、草を乱暴に踏みつぶす音が聞こえてきて――やがて遠のいていって、何も聞こえなくなっていた。
どうやら、今回は願いが叶ったようである。
自分の耳に風の音が戻ってきたころに、こちらは月見里の口もとから手を放した。そうして、また日常へと戻っていく。
こちらはそのまま壁を伝い奥の方にある非常用のドアまで行き、ドアノブを掴みゆっくりと回して開けた。ギギギと油が切れて錆びた鉄が擦れる音。以前来た時よりも音は大きくなり、ドアも重くなった気がする。
その音に『あれ』の声は返ってこない。こちらは内の様子を確かめた後、2人中に入りゆっくりとドアを引いて外の世界から遮断した。
そうして、広がるのは薄暗い闇。
目が慣れてくるのを待たぬまま、月見里のランタンの光がぼんやりと辺りを照らし、なじみ深くなった本棚がぼうっと現れた。
端の壁から奥底に見える壁まで断続的に伸びる本棚はさながら学校の図書館を彷彿とさせるが、定番の木製ではなくクリーム色の金属製で、殆どの本棚は倒壊している。
天井にはめ込まれた古臭い蛍光灯は砕けて床に散らばり、今では壁や天井に出来た小さな穴からこぼれるものが光源の代わりをしていた。
あまりにも頼りない光だが、線のように差す光の中には数々の書籍が曝け出されている。
当時のまま聳え立つ本棚は決して少なくない。それらにはめ込まれた本は世界の状況に反して相変わらず不自然にきめ細かく陳列されている。
しかし、綺麗に陳列されていようが壁にかけられた短い針と長い針の前には成す術がない。
卵の殻のようにひびわれた天井からは水滴が絶えず滴り落ちて、濃厚な紙の臭いの中にカビと埃の混じる。それが本棚と本――というより、構造物にとって劣悪な環境であるのは火を見るよりも明らかだった。
一部の本棚は腐食して本を支えていた床が撓み、そこから散乱した本はもはや少なくない。
かろうじて役割を留めている本棚の書籍の表紙をとっても、おそらく輝くほど彩られていたイラストは消しゴムで消されたように霞んで、重力で床に潰された中身は字すら捉えられるものがなくただの紙切れに溶けている。
地面に転がるのも、そして、中身が吐き出されて白紙になっていくそれも、年数が増していく度に増えていく。まるで記憶が消されていくかのように。
しかし、転がるものも陳列されるものもそこまで興味のない自分は、ただ飯の種が消え行くことだけにため息をついた。
「仕事だ」
こちらはドアの隣に適当に据え付けていたパイプ椅子を鍵代わりにドアノブにかけた。
だいぶ錆びついてバリケードにするには心許ないが、見つかればどうせ壊されてしまうので願掛け程度でいいだろう。
それから、隣に佇む月見里に指示を出そうとしたが当の本人は頭を俯かせていた。そういえば、スプーンを返していない。
「……スプーンだ」
こちらはポケットから消毒液を取り出し先ほどのスプーンに塗り込ませ、月見里に手渡した。
「あっ――ありがとう」
月見里はスプーンを受け取ると、表情が少しだけ明るさを取り戻していた。
「さっさと……仕事に取り掛かるぞ」
「うん!」
月見里は元の調子を取り戻して意気揚々と隅っこにある
果たしてウサギかウナギか、どっちだったろうか。そういえば、彼女の描いた落書きの中で五本の指に入る自信作で、ウサギの耳のあたりがポイントだと自慢げに言っていたのを覚えている。
小さな月見里がもっと小さかったころのことを思い出していると、月見里が再びこちらに近づいてきた。
「それで、じゅんぶんがくは何にするの?」
「ああ、そうだったな。ちょっと待ってろ」
そう言って、荷物からメモとペンを取り出し、
「こうだ。こういう難しそうな字を探せ」
丁寧に字を書いた。しかし、生産者が悪ければ、出来上がった字も書き殴られたかのように汚い。
それでも、何度も見てきた消費者である月見里は涼しい顔でこちらの文字を確認していた。
「へぇー……分かった。これ何て読むの?」
「……なんとかのいきもんか。悪い。見よう見まねだから俺も良く分からない。似たようなのを探せ」
純文学なんて固い文字の羅列だと思っている分タイトルの何が書かれているすこぶる興味が湧かない。それに自分もおそらく客も純文学には興味がないのを分かっている分、どんな物語なのかも考える意味も見いだせなかった。
「えーと、ああ、こういうのか」
月見里がメモを見つつ、仕事場へと帰っていくのを横目にして、こちらも仕事場へと戻る。こちらの仕事場も端にあるが、全くの逆側にあって、ちょうど彼女とは対角線上にある。
何故そんなことが分かるのかは、こちらがちょっと本棚から身をはみ出させれば普通に月見里の姿が見れるからである。
本来であれば何重にも重なる分厚い本棚で彼女の姿も声も聞こえないはずだが、本棚が絶妙な位置に倒れているため、物音さえ捉えることができてしまう。
「やっぱり、落ち着かないな」
それでも、プロというのはいついかなる時も仕事をしなければならない。一体何のプロなんだよと自分に呆れつつ、本のタイトルからそれらしいものを抜き出して床に落としていく。
しかし、掴んだ本の一つが、弾かれるように手から滑り落ちて地面に落ちた。ちょう中身が晒されような形で着地して、視界に飛び込んできたのは体中が体液にまみれ瞳の光が消えうせた幼女の絵姿。
「クソ……」
嫌悪感を覚えて咄嗟に本を蹴り飛ばすと、タイミング悪く月見里の姿が視界に映る。
月見里はそれに構わず本棚から本を抜き出し、次々に足元へと追いやりつつ、こちらに隠れて本を盗み読んでいるようであった。横顔から見える彼女の眼はわずかながらに光を蓄えている。
きっとお気に入りの漫画でも読んでいるのだろう。こちらは抱える感情がこれ以上苦々しいものにならないうちに目を逸らし、蹴り飛ばした商売道具を荷物に収め、肉欲が染み出る本棚の方へと再び向きやって仕事に取り掛かるのだ。
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