『あれ』


 コテージを抜けて国道に乗り上げれば、木々を抜けいつも見る山々に囲まれる。大声を返せば、きっと何かは返ってくるけれど、連なる山の名前はどれも知らない。


 多少見慣れた道だけれども、標識は錆に犯され見れなくなった推定国道400といくつの番線は街へと続く。


 その逆を行けばどこに行くのだろう。木々が伸び、地面に敷かれているものが果たして砂利なのかアスファルトか分からず、そもそも土砂崩れが起きて道が潰れているので、もはや調べようがない。

 

 だけれども、街へと続く道も徐々にそれと見分けがつかなくなっている。地面から踏み外れたアスファルト片を避けつつ、ひび割れから滲み出ている草を踏みつけつつ、どこからか滲み出てくる水を跳ねて、バイクを走らせる。


 しかし、もう避けても仕方がないほどには道が割れていて、踏んでも踏んでも新たな草木が生えつつあって、水も以前と比べて澄んでいる。


 車の影はおろか排気ガスの気配さえなくなった道路には樹木が風に流れるばかりで、猿やらうさぎやらが道を通り過ぎ、時たまに動物園で見るような異国の動物を発見ことだってもう珍しくもない。


 しかし、バイクのエンジン音が近づくとそれら全てが四散していくのは、興奮するようでなんだか寂しく感じる自分もいる。


 後はバイクの左右に突き出たシリンダーから放たれるミシン機のような音を残すだけで、2本の鈍重なタイヤが草木を踏むことぐらいしかない。


 後もう一つ、ガタガタと揺れる車体に呼応するようにヘルメットのシールドを全開にして、三つ編みにした橙色の髪をなびかせ愉悦に浸る月見里の喧騒ぐらいだろうか。

 

 そうした中、時折連なる山脈の隙間から町が見えてくる。白亜の光を湛えたビルの形が海を背にして、浮かび上がってくる。


 しかし、曝け出されたビルの形は昔よりも崩れて、緑の色が広がって濃くなっているような気がした。今走っている道と、今行く街、一体どっちが先にくたばるだろう。


 そんなことを考えるしかなく、白線ともつかない線をなぞるようにハンドルを操り――山を下っていった。


 そうすると、坂が緩やかになり、取り巻く木の密度が薄くなっていくと建物群がパッと現れる。


 山と同じように名前は知らないが、ブリキ板や古い木の感じというか古民家的な印象を覚える家屋が疎らに並べたてられているので、おそらく村とか何とかが付くのだろう。


 簾のような葉っぱに埋没している家屋に、自重に耐え切れずに屋根が潰れて瓦礫を吐き出す建物群――。

 

 どれを取っても普通の風景だが、都市部と拠点を繋ぐ中間地点のようなものでもあるのでそういう意味では印象深い場所であった。


 不法投棄禁止と看板が立てられているが、転がっている年代物の家電品を見ると守られていた様子はない。

 以前、月見里に箱のように分厚いテレビを指さして、どうして箱にテレビがついているのかと聞かれたことがあったが、そんなの分かるわけがない。

 

 そういえば、あのテレビはどこにあったのだろう。アクセルを緩め、なんとなしに探してみるけれどもあったはずのところは草木に覆われ、何がなんだったのか判別が付かなくなっている。


 いつか、ここも森に吞まれるのか。


 また道が潰れていくなと、ため息をこぼした。しかし、諸行無常の響きを聞く暇もなく、ベルトに巻き付けていた紐を月見里に引っ張られた。


 「今日はここで……寝るの?」


 「いいや、まさか、流石にこんなところで寝たくないだろ」


 「だよね。それを聞いて安心した」


 「……今日は拠点に帰る。これ以上顧客を待たせてソッポ向かれては困るだろ。」


 「やったぁ!じゃあ、はやく取るものとって帰ろ!」


 「そうだな……」


 彼女の喜色の声をあげた。もう10日ぐらい拠点へと戻っていないので当たり前の反応ではあった。

 かといって、こちら自身あまり彼女ほど喜ぶ材料があるわけもなく、逃げるように再びアクセルを開けてスピードをあげる。


 山の隙間から見える空は薄い雲に溶けてどこか暗くて、寒々としている。

 

 今は何時ぐらいだろうと自分の腕時計を確認してみると、8時あたりを指していた。


 8時と聞くと何故だか自分の体が気怠く感じてしまう。


 それは昔のルーティンを体が覚えているからで、世界がこんな有様にならなければ今どんなことをしていたのだっただろうか。


 黒装束の集団と身をひしめき合い、定刻通りにくる電車の中にある無数の人の塊に重苦しい息を溢しながら掻き分けていただろうか。


 そして、学校へと向かい、自分は分からなくて他の皆は理解しているあの黒板の幾何学模様をノートに映しとっているのだろうか。そんなことを、延々と繰り返しているのだろうか。


 そんな日常と言えた光景が思い起こされたが、何か葛藤が生まれるわけも無い。それが良かったのか悪かったのか、そんな答えさえ今では分からない。

  

 その名残しかなくなった世界を彷徨っている癖に、昔の思い出は薄れていくばかりで、元に戻ることは無いことに気づかされるばかり。


 しかし、そんな自分の状態とは裏腹に、ボロボロになったアスファルトが再び元の形を取り戻しつつあって、徐々に徐々に建物が増えていき、自分の隣の方に高速道路の白い高架が見えてきた。ひび割れて濁った白色。


 じゃあ、一体自分の中には何が残っているだろう。現実ぐらいだろうかと思えば浪費している自覚はあるけれども、あまりしっくりとこない。ならば、消去法で未来という言葉が出てくるが、考えてて恥ずかしい。自分は一体いつから楽観主義者になったのか。 


 結局、その未来というのも日常の延長線上にあるもので、その先に何があるのだろう――。

 


  「ああ、やっぱり面倒だ」


 下らないことを凡愚が考えても堂々巡りで、目の前に高速道路の入り口が見えた。


 都市へと続く高速道路の出入り口。すっからかんになった道の奥に料金所があって、その前にフェンスが張られ白い看板に赤字で緊急事態宣言により関係者以外と書かれ固く閉ざされた跡がある。


 しかし、張り巡らされた金属製のフェンスは既にカラカラに錆びついて穴があいており、もうその機能は果たせていない。それでも、誰か人が入った様子もなかった。


 カラカラに乾いた道を見てインフラは血液という言葉を思い出したがその意味がやっと分かったような気がする。

 ただ、この状況がこれ以上何か変化したためしはない。昔、丸二日かけて作ったバイク一台程度が通れるかどうかの穴が自分の目の先へと通っているのみ。 


 「月見里、一旦降りろ」


 「えー……またぁー?せっかく、バイク通すために穴拡げたのに、また押して移動させるの?」


 「そうだ」


 「本当に?」


 「そうだ。残念だな。残念だ」


 「……わかった」


 月見里が嫌そうな顔をしつつも、こちらが何も言わないことが分かるとバイクから降りて仕方なしとばかりに気怠そうに地面へと着地する。


 そして、それも無視してハンドルを押せば、彼女は小さく溜め息を吐いて見せて、バイクを後ろから押し出した――。なんとも嫌な共同作業である。


 登り切った後も車の痕跡もなく、料金所に取り付けられた料金案内板と係員の人が使っていたのだろう良く分からないパネル装置ぐらいが当時の名残を留めていた。

 後は、料金所の事務所に寂しく立てかけられたバーだろうか。それに関しては月見里とこちらが穴を広げたついでに作ったものである。


 「月見里。フェンスのビラビラを引っ張ってくれ」


 「ん、りょうかい」


 いろいろと複雑な思いを抱きつつも、月見里にそう頼んでバイクから降ろさせる。


 月見里は若干気怠そうにしながらフェンスに近づき、形ばかりに腕を回してからフェンスを掴み、力いっぱい引っ張り穴を無理やり拡げてみせる。

 それでも若干狭いが、幼女の力ではそれが限界で仕方がない。


 「あけたよ。あんぜんうんてんでね」


 「悪いな」


 月見里は気を遣うようなことを言ってくれたが、手がプルプルと震えているので疑いようもなく軽口である。


 こちらは急ぎつつもアクセルを慎重に調整してフェンス内へと侵入し、彼女はそれを見計らってフェンスから手を離し深い息を吐いた。

 

 これも日常の風景の一つである。


 そうして、ここから街へと向かっていく。比較的滑らかな道路を走りながら起伏のある山々から、凹凸あるビル群へと移り変わっていくのを眺めるのもまた日常の風景である。


 しかし、景色が見えるようになったのは最近の事であり、あまりいい事ともいえない。

 滑らかな道路はひび割れて小さな隆起がそこら中にあって、ガタンガタンとバイクが揺れて運転しづらい。

 

 結局、これから続いていくはずの日常の風景も着々と変わっていくのだろう――。


 それも決して良い方向ではない。道に出来た凸凹という凹凸にタイヤが取られないように慎重に運転しながら、前方の景色が移り変わっていくのを眺めていた。


 錆びた防音壁の上から見える景色は鉄塔がまばらに立つ山々から家屋が密集する郊外へ、木々から草木まとわりつく構造物へと着々と作り替えられていった。


 そして、一時間ちょっとをかけて最後には防音壁を遥かに突き抜ける高いビルが聳え立つ。


 そこで、こちらはようやくバイクを止めることができる。ある意味、終着点であり、なじみ深い場所であり、仕事場でもある。しかし、どうして、いつも寂しげな気持ちを抱かせられる。


 こちらいつものようにバイクを下りて、パニアケースからリュックサックを取り出して、手首を回したり足首を回したりして柔軟体操をしながら降りる場所へと向かう。


 そうして、見えてくるのは街並みである。


 腐っても鯛。鯛を食べたことはないが、きっとセレブな味がするのだろう。 

 

 廃れてもエリート御用達の高級ビル群。高くそびえるガラス張りの建造物が自らの持つ経済力を誇示するように厚ぼったい鉄筋コンクリートをまとわりつかせて、さながら要塞のような威圧感を未だなお放ち、こちらを待ち受けている。

 

 しかし、時は残酷なほどに平等である。自重に耐えられなくなった高層ビル群は互いにもたれかかるように傾いて、玉虫のように輝いていたガラス張りの壁がすっかり抜け落ちて崩れ行く砂の城へと変貌しつつあった。


 それらの建物の隙間を埋めるように埃に白けた車群が軒を連ねている。遠目で見る限り、結構高そうな車である。


 傾いた衝撃なのか高層ビル群の壁の破片がこぼれ落ちて真下の車を押し潰し、道路や他の建物をも圧し潰している。一体どこに行こうとしていたのだろう。

 それさえ分からず、車群の隙間や地面や壁のヒビからいたるところから、緑色が見える。徐々にコンクリートもアスファルトも際限なく剥がしている。


 以前にも増して色が濃くなっているのを見て、改めて植物がコンクリートの都市を溶かしているのだと思わされる。

 ここまで来てしまうと植物に対して畏怖の念を持ちたいところだが、目の前に繰り広げられる光景を見ているとむしろ怒りがこみあげてきた。


 「ああ、クッソ……なんでこんなタイミングで崩れてるんだ」


 ここまではすんなりと行けることが多い。高速道路にはいないからそれは当然のことではあった。


 しかし、大量の車が行きかうことを想定した高速道路も老朽化が進めば、すっかり脆くなってしまうもので、そうなれば真っ先に落ちるのは辛うじて道路端に張り付く防音壁であり、往復するたびに景色が広くなったような気がする要因でもある。最近では完全になくなってしまっているところも、ちらほらと見るようになった。


 しかし、まさか目の前で落ちるところを見るとは思わなかった。轟轟しい音を立てることも無く窓に張り付いた薄氷のようにあっさりと剥がれて、そのまま地面へと真っ逆さまに落下。そのまま車列に激突したらしい。

 

 それが分かったのは一時置いて、甲高いアラーム音が鳴り響いたからである。きっと、バッテリーが生きていたのだろう。聞いていてムカついてくる音だとは思うが、苛立ちの原因はそこではない。


 「……っ」


 時間も経たないうちに、鳴り響くそれを覆わんばかりの獣と人の声が混じった声があちこちから木霊する。


 それこそが自分の身震いの原因でもあるのだが、そんなものに怒りの矛先を向けられるはずもなく、ただただ床へと体をへばりつかせ無くなった壁から下を覗くことしかできず、舌打ちだけが口から洩れた。


 「そこだと見える。少し体を下げろ」


 「ん、分かった」


 10階建てビルの天井が容易く見えるほど高低差があるというのに、果たして気づかれてしまうのだろうか。確かめたことはないが、その答えが分かる前に死んでしまうことは明らかだった。


 木霊していた声は徐々に集まり密度が厚くなり、他の音を圧し潰して近づいてくる――。


 ガラスが割れた音、瓦礫を砕く音、厚い金属が撓む音。様々なものを蹂躙する音がより固まり轟音となる。そんな中、視界に入るのは黒ずんだ不定形な塊。


 見慣れた姿だというのに体中の毛穴が開いたような感覚に襲われながらも、こちらは下を注視し続ける。


 目のピントが合い、ぼやけた輪郭が定まると、見知った黒ずんだ土色の人型があった。

 手足を糸で引っ張られているような狂った動きをして、異様な速さでアラームの鳴る車群の中を這いずり回る姿はもはや人ではない。


 ここに来た理由は、さしずめこの大音量で響き続ける車のセキュリティーアラームだろう。毎度のことだが、ご苦労なことである。


 しかし、向こうは期待したものが無いことが分かったのか、その場所に塊全部が埋まるときには遥か遠いところにいるはずのこちらの耳も震わせるぐらいの呻き声は小さくなり、やがて聞こえなくなった。


 そうして残るのは甲高く響くアラームと、それを囲む人型の塊。どちらも留まり状況が動く気配はない。



 「クソ、律儀に集まりやがって。もう何度も聞いてる音だろうに」


 黒い粒程度にしか見えないそれにはそんな悪態も届かない。そもそも、今でも言葉が理解できるのだろうか


 理性も意識もあるのかさえ分かり得ない彼らは人間のように振る舞うこともなく、木々に溶かされつつある都市に巣食い続けている。

 それでも、確かに人の形はしていて、その面影を十分残しているというのは何故なのだろう。彼らの呼び方にゾンビだとか、アンデッドだとか月並みな言葉が出てくるが、そんな表現さえしたくもない――人の成れの果て。

 

 おそらく、あの一粒一粒に名前はあったはずだが、今では『あれ』という名前だけ付けられて、それさえ僅かな人にしか呼ばれることはない。もし彼らを知っているものがいたとしても、もう彼らの胃袋に収まっているのだろう。


 「これどれくらいかかると思う?」


 「さぁな。まぁ、何時ものことだから、そんなには掛からんだろう」


 そういって、時計を目を向けると、まだ昼時にはなりきれていない、若干眠気の残る中途半端な時間を差し掛かっている。


 「……少し休憩する。流石に、さっきので神経使いすぎた」


 だが、見つからなければどうということはなく、『あれ』を一瞥してから後ずさりをして仰向けになって空を見上げて、ため息混じりの欠伸をあげた。


 どうやら、空は相も変わらず綿菓子のような雲を運び続けている。昔も今も全く変わらないのは空ぐらいではないだろうか。


 「うん、わかった」


 月見里は何の驚嘆も不満もなくその言葉に応じた。見れば彼女も空を見上げて、ひと欠伸をあげていた。


 こちらもつられてまた欠伸をあげてしまう。これもいつも景色と言えるのだろうか。


 「かなりすりりんぐだったね」


 月見里はまた屈託のなさそうな笑みをして軽口を言っているのを見ながら、瞼を閉じた。



 ※ ※ ※


 

 そして、次に目を開けたときには、アラームが止んでいた。おそらく、バッテリーが切れたのだろう。


 隣にいる月見里を見ると、まだ穏やかな寝顔を晒している。


 こちらは彼女を起こさないように、ゆっくりと前へと匍匐して下を覗き込んでみる。あの黒い粒の姿はない。


 しかし、それがいたところは文字通り踏み荒らされ、豪奢だった平べったい車も丸めたティッシュのように歪んで原型を留めていなかった。


 辛うじてラインが引かれていた道路も穴ぼこだらけになって、比較的まともだったインフラが他の場所と同じような光景に様変わり。またあっさりと変わってしまった。


 「……準備だけはしておくか」


 そう呟いても感慨深さがあるわけでもない、こちらは頭に残る眠気を飛ばして道路中央に止めたバイクへと戻る。


 ごちゃごちゃになったパニアケースから自分の荷物を取り出して、地図を広げた。


 「起きろ。そろそろ行くぞ」


 そうして、未だ眠りこける月見里に近づいて、目覚まし代わりの足踏みをしてみる。

 彼女は眠い目を擦りながらなんとも甘やかな香りが漂ってきそうな愛らしい声を上げて起きた。


 「ンん……おはよぉ」


 「ああ。ガムを口に入れとけ」


 「うん」


 大きく欠伸を上げる月見里。アンニュイな顔を浮かべるが、すぐに自分の荷物をつかみ取り背筋を伸ばして立ち上がるところは本当にしっかりとした幼女である。

 

 しかし、未だ眠気を引きずる月見里は「あーん」とこちらに口を開けて、丁度親鳥が餌を運んで来た時のひな鳥の口のように大きく開けるような格好を取った。


 「何をしてる?」


 「ああ、そっか……間違えた――ふぅ、ふうふぅふぅ」


 月見里はそう言うと自分のポケットからガムを取り出して口に入れて、柔らかな笑みを浮かべる。彼女の言うところの「イチゴ味」にご満悦らしい。


 こちらも荷物を背負いなおして、自分の口にもガムを放り込んだ。


 人工的なイチゴの香りが噛むたびに口内に広がる。砂糖の甘みを脳で味わい、多少の安寧を味わうと自分の手がいつの間にか震えていたことに気づいた。


 自分の感性がまだまともな所作なのだろう。人食いの化け物がいる中へと飛び込むというのに、恐怖を感じない要素がどこにあるというのだ。


 自分の手を抑えつけ、ガムをしっかり噛み込みしながら足を非常階段の方へと向けた。

 



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