第3話

 松の木の傍らに立って、西行は念仏を唱えていた。空はどんよりとして、暗雲から降りてくる風の中に錐のような痛みをもたらす刺激がある。生暖かい空気の中で目に見えない火花が散るのだ。念仏を唱えれば称えるほど、痛みが強くなっていく。怒りの圧に体が応えていることを知る。


 この男は、もともと気性の荒い性格が故か、友人を亡くして知った無常ゆえか、そこそこの北面の武士という地位を捨て、若くして出家に及んだ。しかし、自ら望んだにもかかわらず、仏道修行よりも、歌の世界の魅力にとらえられ、その生半可な己の性格に自己嫌悪を起こしていた。彼の厭世的な歌の本質がそこにあった。


 美形であり、才があり、宮中の多くの女たちを騒がせてきた男だが、彼自身は、生涯で唯一お慕いしたのが、崇徳院の実母、待賢門院環子さまだ。その環子さまもお亡くなりになられ、保元の乱を契機に、西行は、都を離れた。そして全国津々浦々を修行と称して歌を詠みながら歩き回ってきた。とうとう行き着いた先で、もう彼も終を覚悟しなければならない時がきたと理解した。ついては彼の生涯を支えてきた環子さまへの供養にと、崇徳院の魂に声をかけるべく、ゆかりの地を訪ねるに至ったのだ。


 その、かつての尊きお方が、たとえこの地に果てようとも、せめて惨めな終末を送らせてはならないと周りの者は気を病むのだが、本人は、何事にも関心を示さず、せめて写経をもって宮中におのれの存在を知らしめし、一日でも早く都から龍が迎えに来ることだけを願っている。


 もはや彼の脳細胞は硬直化し、一念のみの血流しか通っていないのである。


 下女たちのつくる食事は、粗末なものとはいえ、地元の新鮮な野菜の賄である。にもかかわらず、食への執念は閉じられ、喉が細くなるにしたがって、身体は衰弱の一途、咀嚼する力もなくなっていった。


 男の頭の中で思いおこされるものは、殿上人として、宮中で味わった美酒や愛らしい童女たちの舞。男は、かすむ目を細め、遠く京の方角を望み思うのだった。今や自らは、木陰に身を隠し、ことさらに人々の目から逃れようとしている。


 人というのは、邪心を持った時点で、神仏の裁きを得なければならないのか。この世に生を受けたこと、そのものに恨みを馳せるばかりだ。叔父子と言われ、父からは疎まれてきた。しかし、ちょっとした自己主張を通しても許されていいではないか。


 我が子を跡継ぎにしたいという当たり前の主張を排させられ、ならばとばっかりに軍を起こしたのが唯一の間違いだった。素直に世の流れに身を任せ、ふがいなき一生と、なすが儘の人生を引き受けておけばこのような惨めなことにはならなかったのだ。


 だが、己の欲とはいえ、この世に生を受けたものには、許されてしかるべき意地がある。それがたとえ天下を二分する争いになろうとも、やらざるを得ないときがあるのだ。そして、敗れた。あくまでそれは運命なのだから、勿論その責任は甘んじて受けよう、恥とは思わぬ。世の中には必要な争いはあるのだ。


 だが、私のいるべき場所は都だ。この地ではない。最後は都が待っている。都が呼んでいる。急げ悲しみを翼に変えろ。急げ傷跡を羅針盤に・・・


 ああ、竜が天を舞っているではないか。そうだろう、私を迎えに来たのだな・・・竜の背に乗って、さあ行こう・・・


 下男が、横になって静かに眠っている男の傍に行き、そろりと白刃を振り上げた時、男は、カット目を見開き、竜のような恐ろしい形相を見せると、息絶えた。



その後、都では頻繁に大きな火事が起きたという。龍神の祟りだといい伝えられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すり減った硯の怨念が龍を呼ぶ 寺 円周 @enshu314

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ