第2話

 彼が朦朧とする中で、庭の曲がりくねった松の傍らに一人の僧が見えた。


「お久しぶりです。上皇様」


 男の目に生気が蘇った。「私は今は上皇ではないが。なに、お前は西行ではないか。懐かしいな」


 よろめきながら、縁側から立ち上がろうとするが、うまくいかない。


「いや、そのまま、そのままで」三間先に立った西行は、手を挙げて制止するが、動こうとはしない。


「私は覚えている。弟と一緒に、お前が父から、褒美を与えられているところに同席していた。弟と二人でお前の歌の才能に感心したものだ。しかし、そんなお前が、私たちの母を横恋慕していたことも知っている。母は、美しい人だったからな。だから多くの浮名を流してきた。そのいい例が私のことよ。私が誰の子か、噂話はそれはそれ。本当のことを誰が知ろう。私は叔父子と呼ばれても、実のところはわからぬのだ。まさか、私より一歳上のお前が関係しているとは思わぬがな。そうした因果の果てが、穢れた骨肉の争いということになるのか、弟と私は一戦を交えてしまった。おまえがもし、まだ北面の武士として働いていたとしたら、果たしてどちらについたのかな。弟の後白河院か、私か」


「背を速水、岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞおもふ」と、西行が男が詠んだ歌を声にする。


「私の歌だな」


「素晴らしい詞です。岩で別れた川の流れも、いつかは、一緒になると読まれたのですね。さぞ、無念でしょう。兄弟の争いが、朝廷の血脈におぞましい歴史をつくられたことを。私は、事件が起きたことを知って、貴方様がお隠れになったと聞いた仁和寺に伺ったのです。 


かかる世にかげも変わらずすむ月を 見るわが身さへ恨めしきかな


 世が世ならば、私も院に味方して、命を落としたに違いないが、残念ながら生きながらえて今宵の月を見ることが悔やまれる、と詠んだのでございます。しかし、貴方様の本当の敵は、あの方ではなかったのです。それは、あなた自身の運命だったのです。ともあれ、多くの武士の血も流れました。そしてその罪業を背負った貴方様は、自ら罰すべく仏法に深く傾倒され、一生懸命に大部の大乗経の写経をなさった。そうして戦で犠牲になった方たちへの鎮魂を願い弔うべく、その大量の写経を京へお送りになった。ところが、心ない輩のやりそうなこと、それらを怨念のこもった書として、忌み嫌い、すべてを送り返してきましたね」


「そうなのだ。それでも彼らに与えた難儀ゆえ、許そうとも、忘れようともしたが、できなかった。ならばと私は、怨念を持って彼らに応える決意をするにいたったのだ」


「聞いております。写本を送り返してきたことを知って、貴方は、烈火のごとくお怒りになり、舌をかみ切って、その血で、日本国の大魔神となり、皇を取って民とし民を皇となさん、と書かれたと」


「そうか、そう伝えられているのか。それならそれでいい。私は天狗でも鬼にでもなって、龍にまたがり都の空から、あいつらの未来を呪うことだろう」

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