すり減った硯の怨念が龍を呼ぶ

寺 円周

第1話

 硯もすり減るほどにすりおろした墨にもかかわらず、枯れるまで流した涙で滲むばかりである。使い古した筆の山は、かまどの薪となって積みあがっている。帆を上げ、風をはらんだ船は、港を出んとするが、積み込んだ写本の重みで、沈みそうな態をなしている。あの蒼ざめた海の彼方へ、今また送る船便には、5巻の仏典の写しが積まれていることだろう。今まで送った写本の返事は未だにない。


病んで伸びきった爪、足にまとわりつく長い髪は、歩くことすら困難にしている。「私をここに連れてきた竜はどこへ行ってしまったのか?」飛んでいきたいが、飛べない雛のように非力を嘆いている。


 ここは、寺の領内に建てられた瀟洒な東屋。殺風景な室内には、高貴な方のお召し物と見える絹の着物が無造作に脱ぎ捨てられ、書きなぐった経典の下書きと思しき書き物が散乱している。


 着流しの単衣を擦り切れた紐帯で結んだだけの男は、ふらふらと縁側から草履をはいて降りると、苔の蒸した石畳を二三歩進んだところで案の定もつれた足が身を押し倒した。


 心配そうに見ていた下男が慌てて駆け寄り、抱き起すのだが、余りに軽く細い体は、粉々に折れるのではないかと力の加減を見誤りそうになる。何とか立ち上がった男は、悔しそうに縁側に戻り、腰を下ろす。


 下男は、「もう少し身体をお作り直されて、少しずつ歩くようにいたしましょう。いずれ、都からお迎えが来られるまでに、ちゃんと歩けるようにしておきましょう」


男は、長い髪を振り分けながら、「そうだな。そうだな」と答えるばかり。生気が感じられない。


 その男は、海を渡り讃岐に流され、着いた当初は、いずれ都に帰れるはずと信じていた。だからその運命を肯定的にとらえ、先ずは、この地の人たちに心を開き、みんなに愛される存在になるよう努めた。しかし、それが災いしたのだろうか?ここで、人々の評価を得ることが、彼らには気に入らないと見えるのだ。この地で人々を扇動し、再び謀反でも起こすとでも思っているのだろう。


 将来を閉ざされた彼の姫や皇子たちがたまに親族として訪ねて来ることがあっても、政権を勝ち得た都の連中は、ほくそ笑んでいるばかりなのだ。一葉の便りすらよこすことがない。


 彼は、そもそもの皇室の乱れ切った権力と腐敗をおぞましく感じていた。というのも、彼自身の出生がそこにあった。


 曾祖父と母との間に何があったのか、殿上人で知らぬものはない。叔父子と父からも言われ、自らの運命を嘆くばかりだった。

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