#001.Kiss
馬が暴れている。犬が吠えている。瞳には炎と、燃え盛る隣人が映る。少しずつ減ってゆく悲鳴を聞きながら、隣人ではないかもしれないな、とハイメは思った。
幼いころに上った厩舎の屋根も、秘密基地にした倉庫も、すべてが燃料となった。
その日、ハイメは帰る場所を失った。暖かい風の吹く初夏の昼下がりだった。
足下にひびが入ったように酷く眩暈がして、ハイメは座り込んだ。もう悲鳴など聞こえなかった。
だがハイメは耳を塞がずにはいられなかった。細胞が、関節が、臓器が、皮膚が、筋肉が、つまりハイメは、生きたいと叫んでいた。吸い込む度に胸を締め付ける高温と、吐き出す度に響く喉の痛みだけが確かなる今と死を予感させた。
周囲を熱に囲まれ、ハイメはうんざりして四肢を投げ出した。最後に見えたのは、『燃料室』と書かれた看板だった。
小石を蹴散らす馬車の音でハイメは目を覚ました。
「いッ!?」
空気の通りが良い荷台で身震いしながら上体を起こすと、背中に痛烈な刺激が走った。そして硬い馬車の荷台に背を打ち付け、またも痛みで身体をよじった。
荒れる呼吸を整えていると、衣服がべったりと張り付いていることに気が付いた。肘をうまく使って静かに寝返りを打ち、揺れる馬車の中でゆっくりと体を起こす。
「うあ゛あ゛っ」
かさぶたになった服を無理やり剝がし脱ぐと、そこでは血と体液が混ざった異臭を放つ液体が滴っていた。
つんと鼻をつく嫌なにおいとその見た目に顔をしかめながら、ハイメは恐る恐る自らの身体に目を向けた。案の定、そこでは火傷や裂傷、擦傷、その他さまざまな傷が縦横無尽に駆け回って、皮膚をずたずたに引き裂いていた。そのほとんどは皮膚が何とか繋がった様子で、身体を少し動かすだけでも固まった皮膚から体液が染み出してきている。
乾燥した唇のようだとハイメは思った。
「ここはどこなんだ...?」できるだけ傷が開かないように周囲を見わたす。
馬車の荷台は小さなテントのように白い布で覆われているが、御者の席とは低い柵で区切られているだけで前方の景色はよく見える。荷台の後ろ側は虫に食われた布がカーテンの代わりに掛けられていた。決して広いとは言えないが積み荷は少なく、頑張ってもらえれば筋肉自慢の男でもあと三人ほどは入れそうだ。
前方では御者の弱々しい小さな背中がこの悪路の影響で踊るように跳ねている。器用にも手綱を握りながら眠っているようだが、それ以上にハイメが目を奪われたのは、馬車を引く二頭の馬だった。
毛並みは水晶のように美しく、しなやかでたくましい筋肉は規則的に隆起しながら秘めたる力を示唆していた。
その姿は優雅で、それでいて傲慢で高圧的に見えた。馬に見惚れていると、目を覚ました御者が振り向いて声をかけてきた。
「おい君、生きていたのか!その身体...安心しろ、もうすぐ治療できる場所につくからな」
溌剌とした老齢の男の声だった。荷台は暗く逆光で顔は見えなかったが、その短い言葉には疲労とそれを隠すような大人の力強さを感じた。
「ああ。ありがとう...でいいんだよね?よく眠れたよ」
ひどく乾燥した喉で精いっぱいの感謝を込めてそう答えた。
「それはよかった。しかし君は不思議な子だ。まさかあんなことがあって生きているとは...」優し気な語り口ではあるが、妙に冷たい言葉だった。
「あんなこと?」
「どこから話せばいいやら...儂は君のいた村、サンタルーズからとある場所に収穫したものを届ける仕事をしていてね。今日がその日だったんじゃが...儂が村に到着した時にはすでに村は壊滅的じゃった。すぐに引き返そうとこの
「そうだったのか...」
「ああ、君を連れていくか迷ったよ。もう死んでいると思った。すぐにでも逃げ出したい状況じゃった。しかしこのシメオン・パインズ、この歳で悩む時間などもう残されていない。だから君を積んですぐに逃げ出したんじゃ」前を向いた御者の顔色は
「...」
正直に言って、今のハイメにとってそんなことはどうでもよかった。ハイメが今知りたいのは、なぜ記憶がないのか。そして、今はどこへ向かっているのかということだった。
「いい馬だぬ。よ~く手入れされてるぬ」
ハイメがシメオンへの質問をまとめていると、再びシメオンが振り向いた。
「ありがとうね。ちなみに左からジャンとシャルダンだよ」と言い、すぐに前を向いた。肩から覗いたシメオンの翡翠のような瞳と、微かに吊り上がった口角が不思議とハイメの目に焼き付いた。
「...え?」
「ん?馬の名前だよ...今、君が褒めてくれた...まさか」
ほんの一瞬だった。しかしそれは反射的に口を噤むことにおいて、十分すぎる時間であった。
そして、どんな質問もシメオンの耳に届くことはなかった。
(!!!)
既にハイメの喉元まで来ていた声を押しのけて我先にとせりあがってきたのは、強烈な悪寒がもたらした酸味だった。
「ウぇ...なに...か..いるッ」
複数の蛇が背中を這っているようなおぞましい光景が頭をよぎった。その蛇たちは冷たい腹でハイメの背中を容赦なく練り歩き、体温を奪っていく。全身の毛穴が逆立ち、少し遅れて玉のような汗が顔と背中から慌てて飛び出した。動けない。ハイメは蛙になった気分だった。蛇に睨まれ、足が奇妙なかたちで固まってしまった、あの蛙に。
ただ一つ、この時のハイメが蛙と違ったことがあるとすれば、それはただ恐怖から、死が、あちらから触れてくる瞬間を待つことしかできなかったことだろう。
幸か不幸か、先に死の手が触れたのはシメオンだった。
シメオンは何かに気づき、両手で必死に頭を押さえた。そして驚いた猫のように不細工に身を投げ出してハイメの許に這ってきた。
「くっ、くそったれぇ...やっぱり追ってきていやがった...!あの時すぐにでも逃げ出していれば...ッ!はぁ、はあ、こうなったらお前も...」言い終える前に、シメオンは白目を剥いて倒れこんだ。
しかし、次の瞬間には勢いよく顔を上げて言葉を投げつけてきた。
「おい貴様!名前を言えッ!」
「え...?」
「名前だッ!今!すぐに!時間が無いのだ!言えぇ!!」その言葉にあるのは純粋な生への渇望だけであった。
「は、ハイメ・セッラ...です」
シメオンからの返答はなく、裂断音を合図にシメオンがハイメの足に口づけをした。大きな翡翠が二つあしらわれた美しい頭部だった。
家を呼ぶ孤独たちへ 冬木 紫雨 @no_name_1224
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