#001.Green Day

 馬車が小石を蹴散らしている。外はもう朝だろうか。頭が締め付けられているように痛い。軽い眩暈を覚えながら、眠い目をこすり冷えて固まった体を起こす。心なしか『家』も揺れているように感じる。

(いや、違う。)

馬車は『ここ』だ。『ここ』が馬車だ。だがいくら記憶を探ってみても、馬車に乗った覚えはない。

(考えても仕方がない、まずは状況を整理しよう)

 見渡したところ、荷台は小さなテントのように白い布で覆われ、後ろ側は余ったものだろうか、所々虫に食われた布がカーテンの代わりに掛けられていた。決して広いとは言えないが積み荷は少なく、頑張ってもらえれば筋肉自慢の男でもあと三人ほどは入れそうだ。

 御者は初老の男だろうか。その弱々しい小さな背中がこの悪路の影響で踊るように跳ねている。


 だがそれ以上に目を奪われたのは、煌々と輝く月に照らされた二頭の馬だった。その馬たちの毛並みは水晶のように月光を幾重にも屈折させてその美しさをより際立たせ、しなやかでたくましい筋肉は規則的に隆起しながらその存在を誇示していた。

 その姿は優雅で、しかし、傲慢で高圧的に見えた。美しさのあまり感嘆の声でも漏らしていたのか

「...起きたのか。」

 小さく、低い男の声がした。男は振り返らずそう聞いたために顔は見えなかったが、短いその言葉には優しさと少しの疲れ、またそれを隠すような大人の力強さを感じた。

「ああ。ありがとう...でいいんだよな?よく眠れたよ。」

 喉はひどく乾燥し声もうまく出なかったが、精いっぱいの感謝を込めてそう答えた。

「...そうか。」

 それ以上は語らない。機嫌が悪いわけではないようで、いくつかの質問には答えてくれた。男の名は《シメオン》、歳は四十三。思ったよりも若かった。

 しかしなぜ僕がここにいるのか、どこへ向かっているのかは何度となく聞いても納得のいく答えは得られなかった。彼が知らないはずはなかったが、どこへ行くにしても乗せてもらっている以上機嫌を損ねるわけにもいかず、問いただすことは憚られた。謝罪の意味も込めて

「いい馬だね。よく手入れされてる。」

と言うと彼は少しだけ振り向き、礼を述べ、すぐに前を向いた。

 そのほんのわずかな時間でも、肩から覗いた彼の翡翠のような瞳と微かに吊り上がった口許が行き場のない心配を溶かしてくれた。そして馬は左から、《ジャン》と《シャルダン》だと教えてくれた。


 まだ聞きたいことがたくさんあった。ほんの一瞬だった。しかしそれは反射的に口を噤むことにおいて、十分すぎる時間だった。

 そして、どんな質問もシメオンの耳に届くことは到頭なかった。

(!!!)

 既に喉元まで来ていた音を押しのけて我先にとせりあがってきたのは、強烈な悪寒がもたらした酸味だった。

「なに...か..ッ!いるッ!」

 複数の蛇が背中を這っているおぞましい光景が頭をよぎった。その蛇たちは冷たい腹を容赦なく押し付け、体温を奪っていく。全身の毛穴が逆立ち、少し遅れて玉のような汗が顔や背中から慌てて飛び出した。動けない。蛙になった気分だった。蛇に睨まれ、足が奇妙なかたちで固まってしまった、あの蛙に。


 ただ一つ、蛙と違ったことがあるとすれば、それは、この時の僕は、ただ恐怖から、死が、あちらから触れてくる瞬間を待つことしかできなかったことだろう。

「う...?ぐガがっ!」シメオンの声。続けて僕の足に伝わってくる衝撃。


 幸か不幸か、僕に触れたのは大きな翡翠が二つあしらわれた人間の頭部だった。

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