家を呼ぶ孤独たちへ

冬木 紫雨

#000.アンリ

 少女がいた。

母親はいない。父親もいない。帰る場所も、すでにない。

 彼女の胎には微かな灯が二つ、静かに息づいていた。だからこそ、少女は自分の身体がもう長くないことを知っていた。


 暫くして少女は止んだ。何故生まれ、この世で何をすべきだったのか。爽やかな風が吹き、彼女のからだが消えた。その風はまるで朝が来た夢のように暖かく、そして急激に、彼女の痕跡をこの世から消し去っていった。彼女の形を覚えていた草花も夢から覚めるように起き上がり、再び無情に揺れだした。


 果てしないほどの時が流れ、そこは森となった。その森の情報は人間界には数少なく、信頼に足るものは一つを除いて存在しない。

 たった一つ、とある画家の手記を除いて。


「N.45 私は今、戦場画家として戦場に赴いている。 この記録は戦況を記すものではなく、この目の前に広がる瑞々しく美しい森を何としてでも残そうとする私個人の強い意思の結晶だ。 まさにこれこそが私という生に与えられた使命なのだ。


P.05 私は調査のため森の外れに居を構え、何度もその森へ足を踏み入れることにした。 驚くべきことに、その森は訪れる度に決まって違う顔を見せた。 私の一番の目的はこの森にあるという『泉』だ。 未だその片鱗すらも見せないが、絶対にたどり着いてみせる。


P.10 ついに見つけたぞ!これが、これこそがあの『泉』だ!すごい やっとだ

やってやった! 『泉』だ! 私は間違ってなどいなかった! 150年続いた戦争も終わった!そんなことはどうでもいい! 『泉』だ!

なんてことはないただの泉に見えるが、私には分かる。ここには何か、確実に、いる。 特に危険なのはあの泉の中心にある浮島のようだ 今、あの浮島に降りた子鳥が親鳥を殺して食べ始めた! あそこにだけは何人たりとも絶対に近づいてはならないのだろう


P.11 好奇心を抑え、私はすぐにその場から引き上げた。今現在まで、あの『泉』を見ることはなかったが、もしこれを読んでその森へ入ったとしても『泉』の浮島には近づかないこと、いや、『泉』を探す人が現れないことを願っている。 最後に、この手記を親愛なる友人ネマに預けることを誓う」

その画家はそう終えた後、半月も待たず妻とともに姿を消した。

 

 数年後に画家の作業小屋から見つかった羊皮紙には、穴が開き、血がにじんだ筆跡が残っていた。


「君主なきこの大陸に『支配者』を、『泉』に生贄を。母なる『泉』が『支配者』を産み落とすまで」




 「今日はここまで。また来ておくれ」

伸び放題の眉から目を優しく覗かせ、老齢の話し手はそう言った。話始めた頃に二十人近くいた子供たちは、すでに二人を残して遠くで走り回っていた。

「おじいさん」

残ったうちの一人が一歩踏み出して男を見上げ、小さく言った。

「なんだい」

男はできる限り優しく答えたが、得体の知れない化け物にでも見えたのか、子供は少し後退りした。それでもその小さな身体いっぱいに勇気を満たして、

「ふたりはどうなったの?」と聞いた。

「女の子のおなかにいたふたりかい?...そうだねえ、そのふたりはね、それぞれ『まほうぞく』と『にんげんぞく』になったんだよ」

子供が頷くのを見て、少しためてから男はそう言った。子供は分かったとも分かっていないとも取れる返事をして、足早にその場を去ってしまった。

 

 遠くなる二つの背中を目で追いながら、画家は呟いた。

「未来と過去になったとも言われているがね」




 これは、一人の男が、心に縛られたこの大陸で、支配者になる物語。

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