第36話 琴吹恋夜Ⅱ

「今のお前程度なら私の鎌でも一瞬で浄化できる。消されたくなければ動くな」


 刹那、世良の冷徹な声と共に、大鎌の鋭利な先端が悪霊の脳天に触れるか触れないかの位置に突き立てられる。世良の超人的な動体視力を上回るほどの素早さで逃げることが出来なければ、動くと同時に大鎌を振り下ろされて異世界に引き摺り込まれる距離の近さだ。弱り切った悪霊には逃亡など不可能だろう。

 それを嫌でも理解してしまったらしい悪霊は、自信満々だった顔から余裕の色を雲散霧消させ、大量の冷や汗を流して身体を震わせ怯えている。蛇に睨まれた蛙みたいな悪霊を凍てつく瞳で見下ろし、一瞬で敵の生殺与奪の権を握ることに成功した世良は、双眸の鋭さをフッと和らげ香奈の方へと視線を向けた。


「おい、此奴に話があるんだろ。さっさと用事を済ませてくれ。今まで手加減なんてしたことねぇから、うっかりこのまま鎌を振り下ろしてしまいそうだ」


 いつの間にか目を覚ましてテントから様子を窺っていた香奈は、戸惑いながらもゆっくりと屋上に出てきて涙目の悪霊に歩み寄る。何をされるのかと身構えてビクビクと慄くストーカーの前で止まり、真面目な顔で真っ直ぐに見つめ静かに口を開いた。


「この場で逃がすことで再び悪さを企てるのであれば放って置くわけには行かない。それに、私をストーカーしていた頃、寄ってくる幽霊を追い払ってくれて助かった。以上の点を踏まえてお前に聞きたい。どうだろう、私の守護霊になる気はないか?」


「えっ……」


「悪くない話だろう? 私はお前を近くで見張っておけるうえ、他の幽霊に絡まれる確率が下がる。そして、お前はこんな事件を起こすほど好きな私の近くに居られる」


 厳しく現実を突きつけられ落ち込んでいた悪霊が、香奈の提案に期待と不安を含ませた双眸を丸くする。酷いことをたくさんやらかした自覚があるようで、表情を和らげて優しい青色の瞳を向ける香奈を警戒していた。魅力的な提案にすぐさま飛びつきたそうにうずうずしているが、希望を持たせて絶望に落とす罠じゃないかと疑っているのだろう。

 幼い頃から香奈のことを熟知している為、そんなことをしないと断定できる雪葉と違い、悪霊は一目惚れしてから今日までの少ない期間の彼女しか知らないのだ。無理もない。すると、まごついて言葉を返さない霊を見下ろす香奈の笑顔が、仄淡い焔を彷彿とさせる寂しそうなものになる。困ったように眉尻を下げ、切なげな表情で小さく首を傾けた。


「……――もう私のことは嫌いになってしまったか?」


「我輩が香奈ちゃんのことを嫌いになるなんて、あり得ないみゃ!」


「そうか。それはよかった」


 間髪入れず衝動的に怒鳴るように叫んだ悪霊の告白に、香奈は少しだけ面食らった顔をしてから柔和に綻ばせる。相手はストーカーなうえ、催眠術で操り閉じ込めようとしたのに、何故か安心感を色濃く滲ませた微笑で、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 逃げようとしなくなった故、お役御免だと言わんばかりに、世良が大鎌を異空間に戻して徐に瞼を下ろす。そして、世良と入れ替わった世那が目を開き、元・悪霊を守護霊にする為、香奈の魂に取り憑けた。香奈が守護霊に裏切られて傷付けられないか不安だったが、そんな雪葉の心配を顔色で察した世那に大丈夫だとお墨付きを貰う。


「そういえば、結局このストーカーと一連の流れは、どういう関わりがあったんだ? 全部、此奴が一人でやってたのか?」


「そうだと思います。香奈姉さんに一目惚れした後、まず病院に目をつけて身体を手に入れ、好きな相手を意のままに操る為、力を蓄える手段として呪いの噂を広めたんでしょう」


 世那が言うなら大丈夫だろう。と、肩の力を抜いた雪葉は、ふと気になって解消していない他の疑問を吐露する。きっと応えてくれないだろうと世良には聞けなかったが、普段通り丁寧に教えてくれる世那。そんな彼女の優しさに甘えて質問を続ける。


「その呪いが使われれば使われるほど、ストーカーの力が増幅していくってことか? けど、異界を創るのは巻き込まれた別の幽霊だろ?」


『選ばれた幽霊だけであそこまで大きな空間を創るのは不可能。それを可能にできる分、彼から力を譲渡されていた』


「妖怪や幽霊は存在を多くの人間に認知されればされるほど、大きな力を得ることができます。つまり、彼は校内に噂を広めただけでも、既に十分な力を手に入れていたんです」


 一度、選ばれて力を勝手に使われた結衣の経験談も、世那の説明も非現実的な方へとどんどん進んでいった。今回の事件に巻き込まれることがなければ、雪葉の脳漿に半信半疑の状態で刻まれていたことだろう。

 しかし、既に数えきれないほど異界に足を運び、悪霊や呪いの危険性を目の当たりにしている雪葉の脳は、当然のようにあっさりと二人の説明を受け入れた。出来れば二度と御免蒙りたいあらゆる体験を思い出し、別の疑問を生み出せるほど順応している。


「でも、食べ物に触れた人間を模倣したり、催眠術で涼や香奈姉を操っていたのは、最後の方だけだったよな? 呪いが広まった時点で力を持ってたなら、最初からその技も使えば良かったんじゃ……」


「我輩がこの異界で二人きりになりたいのは香奈ちゃんだけみゃ。呪いの存続の為だけに取り込んだ人間なんて、全くもって興味がないのみゃ。まぁ、偶に面白半分で悪霊側の要件を呑んで、人間を操ったり力を貸したりしたみゃ」


 雪葉の新たな疑問に答えをくれたのは、意外にも香奈の膝に座る元凶だった。色々な無関係の人を巻き込んでおいて、全くもって悪びれのない顔で計画を吐露する。最後に邪悪な笑みを浮かべて余計な一言を付け加えた結果、雪葉はあることに気付いて怒りを顕にした。


「つーことは、涼が悪霊に取り憑かれたのは、テメェが退屈凌ぎに力を貸したからってことだな? よーし、分かった。取り敢えず、帰ったら一発ぶん殴らせろ」


「なんでそうなるみゃ!?」


「そういえば、佐倉先輩に取り憑いた霊も、引き剥がすのが面倒臭いほど力がありましたね。あれも貴方の仕業ですか?」


「何で更に殴られそうなことを今のタイミングで暴露するみゃ!?」


 脱力して指一本動かない代わりに剣を帯びた睥睨をお見舞いする雪葉と、反省の色を見せないことに苛立ったのか尋ねるフリして援護し始める世那。唐突に雪葉から敵意を装填した双眸を突き刺され、素っ頓狂な声でツッコミを披露しながら慌てふためいた霊猫が、世那からの追い打ちを受けて涙目で更にまごつく。


「なんか他にも罪状がありそうだな。調べるのは面倒臭ぇし、大体、十発ぐらいで良いだろ」


「絶対そんなに力は貸してないみゃ! お前、ただ我輩を殴りたいだけだみゃ!?」


 粗いざらつきを含ませた声で適当に殴る回数を決め、雪葉はどれぐらい回復したか手を開いたり閉じたりして確かめた。気を動転させて青ざめた顔をするストーカーは、力をほとんど奪われて成猫の姿なのも相俟って、ラスボスだった時の雰囲気を完全に失っている。すると、何か考え込んでいた香奈が、守護霊に声をかけた。


「そろそろ良いか? 里緒のことが心配だし、この空間を消して脱出しよう。珠樹たまき、力を貸してくれ」


「香奈ちゃんは、今の我輩を見て、何かかける言葉はないのかみゃ!?」


「此処を出る為、私に力を貸して、無事に現実世界に戻してくれたら、私の膝上で頭を撫でて慰めてやる」


「僕の力はぜーんぶ香奈ちゃんのものだみゃ! 骨の髄まで搾り取ってくれて構わないみゃ!」


 頼られて嬉しいというよりも後に待つ甘い展開に胸を躍らせ、強引に雪葉の手から逃れた霊が喜色満面な顔で香奈に飛びつく。香奈は気にせず脱出の準備を始めているが、鼻息荒く彼女の胸に蕩けた顔を擦りつけていて、引っぱたきたくなった。雪葉は頭の中で殴る回数を追加してから、幽霊の名前について世那に問いかける。


「珠樹ってあの猫の名前だよな? 香奈姉はいつ知ったんだ?」


「宿主は魂に憑けると同時に守護霊の名前を知ることが出来るんです」


 世良のぶっきらぼうな説明により新しい知識を得ると同時、香奈と珠樹の身体に帯びた眩い光が異界全体に広がっていき、あっという間に目も開けていられないほどの白さに包まれた。思わずギュッと目を閉じた雪葉が、聞き覚えのある祭囃子にそっと瞼を上げると、見慣れた黒猫商店街の外れに立っていた。


「現実に戻った途端、物凄く小さくなってしまったが、大丈夫か?」


『今まで集めた力は根刮ぎ異界と一緒に消滅しただけみゃ。けど、これで香奈ちゃんとずっと一緒に居られるなら、何の問題もないみゃ』


 香奈の気遣うような声を聞いて顔を向けた雪葉の視界に、何の害悪もなさそうな小さくて可愛らしい黒い子猫が映る。異界の消滅によって力を全て失ったらしい珠樹は、清々しい吹っ切れたような表情で嬉しそうに香奈に擦り寄った。幸せそうな顔は見ていて微笑ましい。

 その後、全ての元凶である珠樹の力がほとんど消えたことで、蔓延していた噂もきれいさっぱり雲散霧消していた。簡略化された呪いを試しに実行しても異界に行かず、好物を利用して苦しめることができなくなっているのも確認済みだ。白子に呪われたあの日から始まり、様々な経験を得た摩訶不思議で非現実的な日々は、ひとまずこれにて終了である。

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世那+世良=パニック 甘夏みかん @Afpm5wm

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