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桃源渓谷は薄靄で覆われていた。久々の雨に喜んだ森が精気を吐き出しているようでもあり、あるいは湯煙と混じっているのかもしれない。
小屋に入ると、くすぶっていた蒸気が多少晴れ、黒湯が出迎えてくれた。裾をめくり上げ、足を浸して腰を落ち着ける。
「相変わらず、熱心だな」
まあね、と対面に座る幸はアメを一瞥して、すぐに視線を手元に戻した。スケッチブックにペンを走らせる。将来に邁進している。
「他の勉強もそれくらい熱心だったらいいのに」
「久々に会ったと思ったら、嫌味を言いにきたの?」
まさか、と否定しながら、アメはくっくと嫌味な笑いを浮かべた。彼女との会話の導入には、これくらいがちょうどいい。
「幸先生のおもしろい話をちゃんと聞きたいなと思ってさ」
今いいか、と尋ねると「しょうがないなあ」とスケッチブックを閉じて居ずまいを正してくれた。満更でもなさそうだ。
「地球ができて降った雨で海ができたっていうのは有名だけどさ、そのあともすごい雨が降ったときがあったって言ってたことあったじゃん? あれなんだっけ?」
「カーニアンのこと?」
「それだ」
――太古、まだ大陸が現在のように分かれていなかった時代、パンゲアという巨大な大陸があった。パンゲアの内陸部は荒涼とした乾燥地帯だった。雨は海が蒸発して降るため、沿岸部にしか届かなかったのだ。そこへ、今から二億三千万年ほど前の〝カーニアン〟という地質時代、地球の変動によって長く雨が降った。その期間は、なんと二百万年にも及んだという。
「二百万年!」
はえー、とアメの口から頓狂な声が洩れる。地球の歴史からすれば大したことないかもしれないが、人間の感覚では途方もない時間だ。
「でもその雨のおかげで、今の人類があるんだよ」
――雨は乾燥していた内陸をも湿らせた。反面、幾度となく洪水を生じさせ、陸地の生態系を押し流した。海も例外ではない。海の生態系は、川などによって陸から流された養分によってもまかなわれている。だが、それがいき過ぎると栄養過多となって微生物が大繁殖する原因となってしまうのだ。その結果、海中の酸素濃度が薄まり酸欠となった生物が次々と息絶えてしまった。大量絶滅が起こった。
一方、地球を支配していたものたちがいなくなると、代わりにそれまで陽の目を見ることのできなかった動植物が躍進した。大陸が潤ったのも功を奏して、爆発的な進化や多様性をもたらしたのだ。
「もちろん、海外にはその雨の痕跡を残した地層もあるよ」
いつか生で観てみたいと幸は目を輝かせた。
「幸ならきっといつか行けるさ」
新たに現れた生き物にとって、その長雨は恵みの雨だった。対して、死に絶えたものたちにとってはまさに〝やまない雨〟だった。
生と死はどこまでも二元的で残酷だ。だが人間には抗う術がないわけじゃない。歴史を伝え継ぎ、過去を解析し、回避する方法を編み出す力がある。幸もまた、その一端を担う存在となってくれたら幸いだ。
「やっぱ雨ってすごいな」
「うわっ、すごい自画自賛してるみたい」
幸は身をよじって引いてみせたが、すぐに「ま、いっか」と鼻を鳴らした。
それに乗じて、ほんのひととき、たわいのない話題や思い出話で盛り上がった。極力、湿っぽくならないように。
実は年上で、一番明るくイエティ倶楽部を支えてくれた存在だった。密かに、社会に出たら彼女のような先輩や上司に恵まれればいいと思っていたほどだ。何度も憎まれ口を叩き合ったが、それもいい張合いだった。
「うし……いい具合にあったまったし、そろそろ上がるわ」
慈しむように湯を手にとりながら、アメが言った。
「うん。じゃあ次会ったら、今度はわたしの研究成果をたっぷり披露してあげるから、楽しみにしときなさい!」
胸を張るその姿が、はじめてちょっとだけお姉さんぽく見えて、おかしかった。
「おう、期待してる」
笑った途端、湯気が目に染みた。手でこすって再び幸のほうを見るも、姿はない。そこには、かすかに波打つ湯があるだけだった。
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